私は人間で、女で、日本人で、1986年生まれ
私は人間で、女で、日本人で、1986年生まれである。
自分で選んだ訳じゃない。
でも変えられない事実だ。
母親であることも変えられないが、それは自分で選択したことなので、少し性質が違うと思う。
海外で暮らすことも出来るし、年齢より若く見えるように、努力することも出来る。
でも37歳の日本人であることは、絶対変わらない。
他に自分で決められないことと言えば、両親と出生地とか?
逆に言うと、それら以外のことは全部自分で決められるということでもある。
なぜいきなり、こんな分かりきったことを言い出したのかというと、フランスの哲学者サルトルの『実存は本質に先立つ』という実存主義とは、つまるところ、そういうことなのかな?とふと思ったから。
→先に決まった条件で生まれる(強制的にこの世に存在させられている)=『実存』
生まれた後で、自分がやりたいと思う事をやる=『本質』
そして、この人間の本質には抗えない条件はない為、自分で自由に選択することが出来る。
仮に、誰かの言いなりになって自分で選択しなかったとしても、その時点で、誰かの言いなりになって選択しないということを選択している。ということかな。
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ここの部分がサルトルの言う『人間は自由の刑に処されている』かなと...
つまり、先述の文を例にすると、37歳の日本人であることは『実存』で海外で若く見える努力をしながら暮らすことは『本質』と言えるのかもしれない。
結局、私には選択肢が多いのか少ないのか。
どっちだろう?
どう捉えるかは人それぞれだと思うが、選べない条件を嘆いても何も変わらないのは確かだ。
そして、自分で選べることに真剣に向き合うべきなのだとも思う。