多様性というきれいな表現
社会に受け入れられる為に必要な要素はなんだろうか
正直なところ自分は昨今のLGBTQに対してそこまでなんとも思っていない。
女が好きでも男が好きでも、誰も好きじゃなくても
そこに差異はないと思う。
誰かを愛せるのであればいいことだし、愛せなくても生きていける世の中だ。
男がカワイイ格好するのも、女がカッコイイ恰好するのも
本人の自由だと思う。
他人がとやかくいう事ではない。
彼ら彼女らの要素は目に見えてわからなくても、社会で”過ごす”に当たっては大した弊害になる要素ではないのだ。
本当に多様性を謳うなら、この”弊害になる者”にこそ多様性という言葉を使ってほしい。
それは、人と関わるのが難しい、社会との関りを保つのが難しい精神障がい者にこの言葉を使い、受け皿を作ってほしいと私は常々思っている。
しかし受け皿を用意してもその受け皿を運営は健常者にはあまりに難しい。
障がい者雇用者を受け入れて逆に仕事が増えたという声も少なくない。
健常者から見たらただの甘えで怠け者にしか見えないのだから。
そう、この精神障がい者というのは社会の運営においては間違いなく”害”とみなされているのだ。
見かけだけの雇用枠や数の足りていない支援、生きていくことを考えていない給料。
上手く生きている人は少数で、多くは苦しんでいるのが現状だろう。
別になりたくて、障がい者になったわけではないのだ。
でも彼らは今の社会の運営に、弊害を及ぼしてしまう。
彼らを社会に上手く取り込める真の受け皿を作る事こそ、多様性なのではないかと言いたい。
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