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一番になりたかった

今でこそ競争が嫌いでマイペースに生きているが、昔はそうではなかった。

幼稚園での教育方法により、小学校に上がった頃の私は周りより少し早熟な子供だった。
幼稚園の同級生たちの大半は受験して地元唯一の宗教系私立小学校に行ったが、私は周りと同じなのが嫌なのと黒いランドセルが嫌だという理由で公立の小学校に入学した。(他の学校はあまりに遠いので両親の選択肢になかった)
公立の小学校の授業は私にとっては物足りないものだった。

私は幼稚園で世界地図と世界の国旗を暗記していた。裁縫やパズルゲームもやっていた。読み書きもできた。
というのもこういったことは決して特別なことではなく、やるかやらないかの違いで、子供なら誰でもできるようなことだと思うし特殊なことでも何でもない。ただ、こういう子供からすると小学校の序盤の授業はときどき面白くないものだと思う。

印象に深い出来事として、こくごの授業で「知っている言葉を書きましょう」や「カタカナの言葉を書きましょう」という課題が出た。自分の知識がどれだけあるかを示したくて世界の国の名前なんかを書いていただろうと思われる。そうなれば授業中も休み時間もその次の日の休み時間もずっとやっていた。家に帰ってからもやった。そして定期的に先生に見せて花丸を貰っていた。当然友達はできなかったが、人間関係というものに興味はなかった。それよりも同じことをやっている男の子が面白いことに3、4人いてこの人たちよりも自分が一番書けるということを先生に示したかった。
この時はっきり覚えているのは「一番になりたかった」。
休み時間になるとみんな教室を出て運動場に遊びに行く中、私たちはずっとこくごのノートにカタカナの言葉を書き続けていた。
楽しかった。

小学校入学前に引っ越した私の唯一の友達は近所の一個上の女の子だった。
クラスに友達がいなさ過ぎて先生に心配され、私は気にしていないのに勝手に同情されるのが嫌で、夏前には毎日保健室に行って逃げるように早退を繰り返した。
ある日、保健室に行く私を心配してくれた女の子が話しかけてくれた。
「だいじょうぶ?」
「ともだちいないの?じゃあわたしとともだちになろう」
私にとって、小学校に入って一番最初にできた同級生の友達だった。
ノートとばかり向き合っていた私は人間になった。
私は絵をかくのが好きで、その子も絵をかくのが好きだった。優しい子だった。家が遠いので学校の外では遊ばなかったが、それから小3のクラス替えで離れるまでその子と1年ちょっと過ごした。
その間に、その子のおかげかほかの友達もできた。これ以降友達の大切さ
を知った。

当時私はデリカシーというものがなかったので、気になったことは何でも聞く性質を持っていた。
同級生に、なんであなたはこうなの?と聞いて泣かせたこともあった。その子はもともと周りから陰で悪く言われていた子だったのだが、私はその理由を本人に聞いて判断しようと思っていた。聞き方を間違え、チクられて先生を呼ばれた。
責めているように聞こえたのだろうが、当時の私はそれが本人にとっての欠点などとは思わずに純粋な好奇心だった。
先生はそれを理解したうえで「悪気がないのはわかるけどこういうのは人によっては気にしてることだから人に聞いちゃだめだよ」と教えてくれた。
その時コンプレックスというものの存在を知った。
みんな自分をありのまま受け入れているのだと思っていた。

私はどこに行くにも国語辞典を持ち歩いた。
知らない言葉があるとすぐに調べていたし、適当に開いて読むという遊び方をしていた。勉強というよりは趣味だった。

小学校の頃は1番に登校したい時期があった。
7:50頃に門が開くのだが、それを待つ人の中で一番になりたくて、校区内で最遠に家があるにも関わらず毎朝走って登校し、待っていた。
同じことを考えている子はほかにもいるもので、私が1番に登校したら次の日は負けた。その次の日はもう少し早く家を出た。その繰り返しだった。しかし途中でその意味のなさに気づき、争うのが嫌になって突然やめた。

小6の時、一時的にホームルームで毎日100マス計算をやることになった。
クラスに毎朝100マス計算をやってる子がいたらしく、先生がそれを取り入れてみることになった。当然、毎朝やっている子が一番に終わらせた。
これまでプリントを最速で完璧に出すことにこだわっていた私はこの時初めて「負け」を実感した。計算の速度には自信があったからだ。
家に帰って親に100マス計算の問題をPCで出力してもらって何度もやり、最終的にはその子と同等にできるようになった。時々超した。満足だった。

また、私のような子はあと2人ほどいた。だいたいこの3人で誰が1番に授業のプリントを提出できるか無意識に競っていた。ほかの子はどうか知らないが私はライバルとは思っていなかった。同じ考えなんだろうなあくらい。小6の担任は私たちがあまりにもプリントを早く終わらせるので、プリントを何枚も用意してくれていた。それが尽きると、裏に絵をかいていいよと言われ時間をつぶしていた。

授業中は6年間手を挙げ続けた。
小5のときは担任と馬が合わずあまり手を挙げなかったがそれ以外はずっと発表していた。何も怖いと思ったことはなかった。それよりも自分はわかるということを先生に示したかったのだと思う。
小3と小6のときの担任の先生はその姿勢を良く評価してくれて、特に小3の時の先生は、私が同級生と揉めたとき、私にも少し非があったにも関わらず、私を指導せず相手を指導した。いわゆる「えこひいき」だった。

小学校の授業がつまらなくなって、小5で塾に通い始めた。
塾では自習ノートが配布され、ノートに書いた枚数だけグラフで可視化された。このときも「一番になりたかった」。
私ともう一人の子で毎週争うようにページ数だけ稼いでいた。
私が頑張るとその子も頑張るし、競い合っていた。
しかしこれも私は途中でその意味のなさに気づき、飽きてやめた。
周りが中学受験を見据え始める中、私は受験には興味がなかったので塾もやめた。
またこの頃、両親がこれまで自分に投資してくれたお金の尊さとそれに見合っていない自分に気づき、週5~6でやらせてもらっていた習い事をいくつか整理して、公立中学に進学して少しでも親孝行しようと考えていた。

これがある意味では正解だがある意味では間違いであり、転機だった。

中学以降、順位が可視化された。
同級生の中には努力家で頭のいい子がおり、私は2番になることはあっても1番になることはなかった。
先生のことが嫌いで嫌いで授業すらもまともに聞きたくなかった。
授業も治安が悪いので進度が遅く、うわの空で落書きをしては怒られ、本当につまらなかった。あてつけのように「落書きをしなくて済むような面白い授業をしてください」と傲慢な意見をアンケートに書いては嫌われた。まあ当然である。
それから勉強に対する意欲を失い、競争心を失った。
小学校の時とは逆に、先生に対してあなたのことが嫌いだということを示したくて、最悪の態度で授業を受けていた。
それでも成績だけはそこそこよかった。先生の作る中間期末は微妙だが定期的な実力テストだけ毎回2位だった。面白かった。
ますます先生とは折り合いが悪くなった。
この点に関しては受験させてもらえばよかったと本当に後悔している。

今では競争というものが嫌いである。
今考えると、昔の私の競争心はほかの人と競うなどよりも「1番」であることを先生に認められることに重きを置いていたように思う。
ゆえに、1番の子に嫉妬するというよりは自分が1番でありたいという思いのみで、誰のこともライバル視をしていなかった。
しかし親や先生に褒められたかったわけでもなく、ほかの子に認めてほしいわけでもなく、ただの自己満の世界である。
しかも1番であることに固執するでもなかった。かけっこが1番じゃなくてもよかった。よく考えると、「自分の自信のある分野で1番になりたい」だけだった。何でも1番になりたいわけではなかった。
そして、必ず途中で飽きる。1番になるために誰かと争うのが嫌になり突然競争を降りる。
相反する感情である。






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