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自分の性についての暫定稿

外見上、戸籍上、男。
恋愛や性欲の対象は女性。
男性に欲情したり、恋愛感情を抱いたことはない。
性自認もずっと男性で、ずっと男性としての自覚で生きてきた。いくつかのゆらぎはあったが、何十年もの間、自分の男性性に対して疑問も関心もとくにはなかったと思う。

しかし女性が当たり前にするように髪を伸ばしたいとか、スカートを履きたい、日傘を差したい、アームカバーもという願望はずっと以前からあった。
しかし自分で自分を抑圧してきた。
女性であれば不要な説明や、他からの圧迫や攻撃、驚きや好奇心にさらされることがどうしても嫌だったからだ。
順番でいえば、日傘とアームカバー、髪、スカートの順で実現してきた。
いまでは日傘も長髪も、好奇の目にさらされることはまずなくなった。「○○男子」などという言葉のおかげで概念化が定着しているからだろう。
それでもいまも特定の相手のまえでスカートを履くことは避けている。そういうことをイレギュラーやオルタナティブとして驚くような人間のその反応に対応したくないからだ。
もっとも長髪や日傘などは会社員だったころから続けていて、対面する人によって使い分けるということもないので、自分にとっては自然で当然な日常や習慣となった。
会社員のときは、髪を伸ばすことに対して何かしらの質問や攻撃は絶えずあったが、そもそも自分の周囲の人間がどういう反応や行動を示すかを観察することも一つの目的であったので、それなりに興味深くはあった。

もっともそうしたこととは別に、女性用のジーンズは長年愛用している。
これは体型からくる実用上の要求と、他者からの関心を惹きにくいことからくる精神的な容易さが大きい。それでも売り場で試着の可否を問うときにはかなりのプレッシャーで、恥ずかしいというよりも、見た目が完全に男性である自分のそのような要望が受け入れられるのか、やはり自分が試着して買わなかったものは商品価値が下がるのではないかとの思いもあった。
この差はなんなんだろうか。スカートも女性用のジーンズも、主に女性が着用することを想定して市場に出されているはずで、結局のところは他者が気づく気づかない、認識されるされないといったところが、ひとつの線引きとしてあるのだろう。恣意的と言っていい。

以下は自分の性との関係がいまいちつかめていない部分について書いている。
私の身体的特徴をいくつかあげる。
背が高い。肩幅が広い。筋肉質でない。やせ型である。
女性が私を男性として見るときには魅力的に感じるかもしれない。しかし私本人からすれば、肩幅が広いのは大して役に立つことではないし、現在100%受け入れているわけでもない。背が高いのも、便利な反面よくおでこをぶつける。
ほかには頭髪が薄い部分があるが、おそらく女性が感じるほどには苦痛と感じてはいない。私には女性に向けられるほどのステロタイプな女性性やイメージが向けられていないことが大きい。
スカートを履いて、大きなガラスや鏡のまえで颯爽と歩いてみる。横から見る自分の姿に全く不満はない。「すてき」や「かっこいい」は言われても、「きれい」やまして「かわいい」はない。そしてそのことに不満もない。
スカートを履いた私は、ある程度男性的な外見でありながら、自分の女性性をも外面的に示すという微妙なバランスを形成している。

もう長いこと不思議だったことが、さいきん少しずつ解釈できるようになってきたことがいくつかある。
一。
ひとと争い、競争し、他人を打ち負かし自分が勝利する。そのことにまったく理解も関心も喜びもなかったことは、自分自身に押し込めていたことだ。
これは男性性や女性性というよりも、自分の本質の一部なんだろう。
ニ。
誰かに対して暴力を振るうことがない。おそらくできない。
三。
子供特有といわれる残虐性が自分にはなかった。小さい生き物に対してつよく親和的だった。

2024.03.03。初稿公開。

2024.03.17。追記。タグに#性表現を追加。
強い程度の男性性を自らに課すことや求めること、求められることは、現在と過去のいかなる時点においても苦痛であった。
また、私は長男ではあるが、他人からそう呼ばれることには苛立ちを覚える。ただしこれは旧来の慣習によって私を縛ろうとすることに対してなのか、男子であることに対してなのかと問われれば、前者に比重がある。

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