たましいの救済を求めて 第六章第五話
第六章第五話 シナリオ運び
それなのに、たったひとつの亀裂ですらも埋まらない。
麻子は圭吾から自分の親に頭を下げてお願いしろと、通告されたような気になった。
けれども何の赦しを請えばいのか、わからない。
たとえば心療内科の受付や事務職ならば、圭吾も必死になったりしない。
患者との距離が近ければ近いほど、社会的地位の高い富裕層は嫌悪する。
それが、もし精神科医だとするのなら、反対する理由にならなかったかもしれない。
臨床心理士。
それは、クライアントと長期に渡り面談を行う現場の人間。職人だ。
エリートだとは、みなされない。
「お先に失礼致します。お疲れ様です」
事務室に戻った麻子は手早く自分の机を整え、ロッカーからコートとバッグを取り出した。
「今日は早いんですね。お疲れ様です」
受付業務の畑中陽子に屈託のない言葉をかけられ、苦笑した。
彼女は二十代で彼氏募集中。年齢的に、結婚が前提の付き合いがしたいらしい。何かといえば、誰かいい人いませんかと、じゃれてくる。
肩につく長さの茶色の髪を、仕事中はクリップで挟み、顔にかからないよう配慮する。ネイルも桜貝のようなピンク色。
飛びぬけて美人だとは言えないが、一般的な男性が好む顔立ちだ。
テレビ局では天然キャラを売りにする、女子アナといった印象だ。決して報道系には回されない。
「失礼します」
精一杯の笑顔を返すと、麻子は関係者専用ドアから廊下に出た。エレベーターで一階まで下り、共有玄関の自動ドアを開けた途端、寒々しい夜気に晒される。
竦みあがって足元にバッグを置き、麻子はカシミヤのマフラーを巻く。
再びバッグを持ち上げて、ヒールの音を響かせながら地下鉄の最寄り駅へと直行する。
圭吾の自宅マンションではなく、自分の家に帰るため、駅の階段を下り行く。
帰省の話で揉めて以来、麻子は圭吾と連絡を絶っている。
圭吾からはラインも電話も届いている。返信しないからといって、マンションまで押しかけてくるような強引さはない。それが育ちの良さとも言うべきか。
地下鉄ホームに滑り込んだ車両に乗る頃に、携帯がバイブする。見なくても圭吾だろうと、わかっている。だから電話もメールも無視している。
ちゃんと話すと別れ話になるようで、逃げ回る。
地下鉄を下りた麻子は改札口を通り抜け、階段を上り、歩道に出た。吹きすさぶ寒風に背中を丸め、帰路につく。カフェやコンビニに寄り道はしなかった。思いも寄らず、圭吾との関係にヒビが入り、結局戻らざるを得なくなり、ここにいる。
まるで誰かが書いたシナリオだ。
忌まわしいマンションに着いた麻子はエレベーターで共同廊下まで昇り、自宅のドアの前に立つ。交換済みの鍵穴に鍵を差し込み、施錠を解く。
圭吾に対して卑怯すぎると分かっている。
面と向かって話さえしなければ、このままでいられると、無駄に圭吾を引き止める。
玄関のドアを開けて中に入り、鍵をかける。
勢いに任せ、圭吾のマンションから戻ったばかりの頃はまだ、抵抗感が残っていた。ゴキブリを見つけた時の衝撃よりも、退治しきれず逃したあとの気色の悪さに似ている気がした。
だからといって、生活できない訳じゃない。
リビングの天井灯を点けると、コートを脱いで二人掛け用のソファーに投げる。リモコンを取り、テレビも点ける。
「あー……、もう、疲れた」
あえて声に出して言う。
思うだけより声に出して言う方が、ストレスが軽減する。ソファの背面に設置したベッドにダイブする。そして、そのまま動かない。
羽藤柚希のカウンセリングは、心身ともに消耗感を抱かせる。
アメリカでは何人もの多重人格障害のクライアントを同時に引き受け、カウンセリングを同時進行させていた。それだけの余力があったのに。
その時、麻子は余力があったと自負した自分を即座に否定し、枕にうずめた頬を歪める。余力があると奢ったが故に、失くした人がいるからだ。
麻子はむくりと起き出した。
デリバリーで夕食を注文しようとした刹那、帰り道で携帯が鳴ったことを思い出す。着信履歴を確認しようと、スクロールする親指が、直近まで来て凍りつく。
履歴の液晶画面に、羽藤柚希の名があった。
圭吾の名前は、そこにはない。
麻子は奇天烈な悲鳴をあげると、携帯をかなぐり捨てて縮こまる。
羽藤に個人の番号を教えるなんて、あり得ない。
なのに着信履歴が存在する。
腹の底から湧き出す怒りと焦燥、混乱と、恐れと苛立たしさで、頭が変になりそうだ。誰かに説明して欲しい。床に落とした携帯が視界の隅に入るたび、怖気がさした。居ても立っても居られない。
麻子の脳裏に受付担当の畑中の、可憐な笑顔が歪んだ形で蘇る。
脳内では、畑中陽子が憐みではなく、充足感に満ちた口調で言い放つ。
安全圏に私はいるから、恐いと思うことはない。
今は彼氏募集中だけど、そんなの今だけだし。彼なんてすぐできる。もう、二十六で歳も歳だし。次の彼は本命かな。
私を幸せにしてくれて、友達にも自慢できるイケメンセレブを見つけるの。
まるで麻子を蔑むように、憐れむように彼女が嗤う。普段は口には出さないけれど、自重された嘲りが聞こえる気がした。
女として、女性として、幸せなのはどっちなの? 長澤先生? 長澤さんは先生だけど。
勝手に受付女性を引き合いに出し、勝ち負けを競っても、嫉妬以外の何ものでもない。床に落とした携帯は、画面が下になっている。麻子はローテーブルに置かれたティッシュを抜き取って、涙を拭いたり洟をかむ。
私は臨床心理士であり、科学者だ。
真相真理を追及するのが生業だ。
麻子はおもむろに立ち上がり、携帯に向かい、手を伸ばしたり引っ込めたりをくり返したのち、持ち上げた。すると、今度は「えっ?」という、驚愕の声が喉を突く。
携帯が熱い。
恐怖ではなく、熱さで思わず手を離し、携帯はソファに転がった。しかし麻子は、ひったくる。発火したら火事になる。
反射的に取り上げたそれを、ソファの背もたれに掛けた服で包み込む。熱で穴が空いたとしても、普段着のスウェットだ。
冬物のスウェット越しにも熱が伝わる。麻子は腰が抜けたようになり、すとんとソファに座り込む。携帯の熱が冷めていくのを肌で感じる。
こんなにヒートしたなら、内部の破損は免れない。
テレビのバラエティ番組内の爆笑や、若手芸人のボケや突っ込み、そんなものが苛立たしくなり、リモコンで電源を切ったあと、ローテーブルに投げつける。わざとのように、乱暴に。
そうしてソファーに身をゆだね、放心している間に素手で触れても可能になっていた。
背もたれから体を起こし、麻子は真っ黒な液晶画面の携帯の電源を押すなど、無駄な抵抗を試みる。
羽藤柚季の着信履歴を何としてでも証明したい。だが、それは初めから無駄な抵抗。
抵抗しても、無駄なのだ。
私は勝てない。
麻子は携帯をソファの傍らに力なく置く。
私がこんな目にまで合うのは、臨床心理士なんてするからか。
羽藤は私の手には負えない。解離性多重人格障害のカウンセリングの経験が通用しない。こんな事例は過去にない。