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たましいの救済を求めて第四章第一話
第四章 僕じゃない
第四章第一話 いつのまに
一般的には『多重人格』として広く知られる解離性人格障害の患者は、主人格の他に複数いる人格が入れ替わろうという時に、ほんの数秒、夢見るように半眼になる。
その虚ろな目つきが覚醒した時、さっきまで話をしていたAという人格は陰を潜め、Bという人格が出現する。
かつて、アメリカで解離性人格障害のクライアントの面談に携わっていた時も、その一瞬の空白を察知して、Aという人格からBという人格に入れ替わったことを認知した。
しかし、今回は若木が同席していた。
羽藤への注意が散漫になっていたことは否めない。だから、羽藤がいつ邪悪ともいえる第三の人格に交代したのか見落とした。
その後、何度か受付のカウンター越しに待合室を覗いたのだが、羽藤はトイレに行ったきり、なかなか戻って来なかった。
麻子も予約されたカウンセリングの開始時間になってしまい、今日の面談はそれきりだ。
安易に断定できないが、麻子は羽藤が解離性人格障害である可能性は、限りなく高いと考えた。
それから一週間経った夕方近くに、麻子は駒井クリニックの事務室、自分が書いた羽藤の面談記録を読み返す。
午後十九時から二十時までの六十分間、羽藤の二回目の予約が入っている。
腕時計で確認すると、あと二十分で面談時間だ。
みぞおちがぎゅっと萎縮する。
麻子は立ち上がって事務机の前を離れ、スタッフルームの隅にある、キッチンの棚から自分のマグカップを取り出した。
カウンセリングに臨む際、緊張しないことはない。慣れを感じることもない。
クライアントの問題行動の根底に、少しずつ触れるということは、広大な海に素潜りで海底に辿り着こうとする感覚に近かった。心拍数が上がるのは当然だ。
けれども羽藤に会うというだけで、緊張というより恐怖に近い動揺で、心をかき乱されている。
麻子がキッチンに常置されたコーヒーメーカーのポットからカップに注ぎ、こみ上げる不安をコーヒーごと、飲み下そうとしていると、机に置いた携帯にメッセージの着信がある。
咄嗟に手にして画面を見ると、送信者名は『圭吾』になっている。
『今から夕飯作るけど。今日は昼飯なに食った?』
という、恋人からの絵文字入りのメッセージに、一気に緊張をほぐされる。
今日は整体院が定休日なので、家にいる圭吾が用意してくれるのだ。
『ありがとう。今日のランチは豚肉の生姜焼き定食』と、返事をすると、『ガッツリだなあ~』などと、からかうような絵文字付きで返された。
圭吾のマンションに転がり込んで三週間弱。
早く新居を探さなければと思いつつ、圭吾の優しさに甘えきってしまっている。帰宅も圭吾の方が早ければ、食事の支度までしてくれる。
『じゃあ、夜はアッサリ?』
『でも、今日は夜もガッツリがいいな』
これから羽藤の面接だ。
極限まで神経を張りつめさせて臨んだ後は、使い物にならないほど疲労困憊しているはずだ。
たとえ六十分間座り続けているだけの『仕事』でも、クライアントの一挙手一投足に目を配り、集中し続けて傾聴するのはブドウ糖の大量消費を伴う重労働だ。
『了解』
圭吾からの返答を最後に携帯を切り、麻子は残りのコーヒーも呑み干した。