自分で歩く

明るい話ではないかもしれないけど、とても大事なことだと思ったから、書き残しておこうと思った。 
 私は、日本のセーフティネットの制度を利用したり、支援を受けたりして、毎日生活している。最低限度だけど、しっかり安定していて、居場所もあって、話し相手もいて、安心できている。
 それは、生活保護制度と障害年金収入と障がい者グループホームと障がい者就労支援事業所の利用と支援だ。堅苦しい言葉だけど、中身はほっこりしている。人と人とが直に支え合って、前向きに努力している現場だ。「あんしん」が大事で、イベントが大事で、話し合いや声かけの大切さを身に染みて感じている。
 私は、子供の頃から『心の底からの安心と安定』が無かった。未熟児で生まれたからなのか、身体もそう強くはなかったのだろう、ずっと家の中にいたくて外が嫌いだった。刺激に弱くてすぐに不安になったりしていた。9歳で死にたくなり、精神的にも弱く不安定だった。「私には、安心がない。」ばっかり思っていた。 生きることに悩み、友達と私は違うなぁ、どうして周りのみんなはあんなに元気なんだろう、いいなぁ、と思っていた。悩み、戸惑い、苦しみながら、大学を卒業し、就職した。仕事は、学校の先生を選んだ。想像より遙かにおぼこい生徒達に驚いたことを今でも鮮明に思い出す。「子供って、こんなに子供なの!?」という印象だった。そして、生徒みんなが先生の言うとおりに行動するのだ。先生は、私。大人の責任とは、こういうものなんだなと社会に出てすぐ子供から教わった。子供はとても可愛くて素直で生き生きして、元気をもらった。なぜ先生を選んだのかというのは、安心と安定のためだった。公務員だからだ。公務員は安定していると世間で言われているし、職場が学校なので、どんな現場か分かっているというのも自分にとって安心材料だからだった。
 しかし、仕事の責任の大きさの不安なのか、体力の無さなのか、原因は判らないが、私は、社会に出て3年で鬱病になり仕事を辞めた。
 大人になったからといって、私が幼少から持っている「不安」がとれる訳では無かった。常に漠然とある不安が私にはつきまとった。私は、鬱病発症で、身体も動きにくくなり、全く仕事も出来なくなり、両親がいる実家に引きこもりになった。仕事が出来なくなった不安。両親におんぶに抱っこで実家しかない不安。周りの友達が次々結婚していき、自分だけ病気で独身で置いてけぼりにされているような不安。私は、どうやって生きていけば良いのだろうばかりだった。そんな年月が15年ほど続いた。
 私の場合、一歩ずつゆっくりと良い方向へだった。ちゃんと精神科の病院に行き、診察を受けて自分の病気を受け止めて主治医に診断書を書いてもらい、市役所に行き相談して、精神疾患だから障害者手帳を発行してもらい、日本年金機構に障害年金受給できるように申請し、その障害者手帳を利用して障がい者が受けられるサービスを紹介してもらい、支援者と繋がり、支援事業所とも繋げてもらい、社会的な安心と安定を築いていくことだった。支援の方々は、温かくて事情をよく分かってくれる。生まれてはじめての理解者だなと思った。私は、46歳この歳で、理解者や見方と言う人は本当に必要で大切な人だと思う。
キラキラ輝くような嬉しい楽しい未来とまではいかないけど、一人で自立ということが、支援を受けながら出来ている。想像なんて出来なかった『心の底から安心』という今を人生から頂いている。日本のセーフティネットは、そこまで冷たくない。子供の頃からずっと不安にかられていた私からは想像もしていなかった未来の図である。
日本の国のセーフティネットにお世話になるとは思っていなかったけど、このセーフティネットが、さらに手厚く良くなって、私たちの暮らしがあたたかくもっと前向きになるようになればいいと思っている。

 

#想像していなかった未来
#セーフティネット


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