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漂白への抵抗〜障害者がいかがわしく在る権利について〜

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この社会では障害者の性は常に「障害者の性」であり「性」たりえない。このことが私を絶望させる。性という言葉の頭に「障害者の」とつけるとき、人々はある期待をしていると思う。私は期待にこたえられないし、こたえたくない。これは私の世界を漂白しようとする者たちへの宣戦布告だ。



私の存在はあなたがたの不安をかきたてる

私は23歳の発達障害者。数年前に調べたときのIQは119だった。とくに低くはないし、ずば抜けて高いわけでもない。母方の祖父母から月14万円の仕送りを受けながらワンルームのマンションで一人暮らしをしている。不必要に人と関わるのが嫌で、アルバイトはしていない。通信制大学で心理学を学んでいる。学費は仕送りとは別に払ってもらっている。離婚歴あり。平凡な容姿に特徴のない服装。同世代の女友達がいて、たまにカラオケやファミレスで遊ぶ。私はそんな若者だ。
私は自身が発達障害者であることも両親が早くに離婚していることも自身の離婚歴や服薬も訊ねられたら隠さない。簡単に人に話せない部分があるとすれば、それは私が元被虐待児で、過去に精神科病院への入退院を繰り返しており、性的には主に中年〜高齢の男性を対象とするサドマゾヒストだということだろう。
私が自身の嗜好に気づいたのは12歳のときだった。周囲の女の子たちが10代20代の男性アイドルを応援するなか、私は年配の男性たちの独特の体臭や手や腕に散らばるしみや柔らかそうな白髪に奇妙なときめきをおぼえた。それは憧れや純粋に大人に甘えたい気持ちとははっきりちがっていて、性的な興奮をともなうものだった。私は自身の独特な嗜好を発見してはじめのうちはただ驚いたが、成長するにつれこのことで世界との間に厚く高い壁を感じるようになった。
中年男性と年下の成人女性との年の差婚に嫌悪感をあらわにする若い女性たちを見て、私は自身のことをひどく迷惑な存在だと考えた。「枯れ専女子」を性的に取り扱うだけのいいかげんな男性週刊誌や好色な読者のゆがんだファンタジーにいらぬ説得力を与えてしまい(たとえ私がそうしようとしなくても被愛妄想に取り憑かれた者はどんな事象も利用するだろう)、他の女性たちに間接的に迷惑をかけてしまうかもしれない。私の存在は人々の不安をかきたて社会を混乱させる、と。

「あなたは正気ではない」と微笑みながら告げる親切な人々

女性たちに対する罪悪感を抱えたまま、それでも好奇心に抗えなかった私は16歳で50代半ばの男性と、翌年40代の男性と性的関係をもった。私はそれを強く望んでいたし、どちらの男性にも私からはたらきかけた。客観的な事実はちがうかもしれない。また、条例に照らせば彼らのしたことはおそらくアウトだといえるだろう。
私は彼らと関係をもったあと深刻な精神的ダメージを経験した。しかしそれは、性的関係自体ではなく、あきらかに私の行動に対する周囲の反応からくるものだった。
インターネット上で自身の行動を「楽しめた」「興奮するものだった」と振り返る私を、良識ある大人たちは「手懐けられて食い物にされている」「いつか後悔するときがくる」と評した。それは私にとって「あなたは正気ではない」というメッセージにほかならなかった。
「おかしい」「正気ではない」というのは、8歳のときにアスペルガーと診断されて以降繰り返し与えられてきたメッセージだった。私に診断がおりたとき母は「あなたが普通にできない変な子なのが私の育て方のせいではないってわかってママはすごく嬉しい」というようなことを言い、はしゃいで、二人きりのときには名前ではなく障害ちゃんと呼んだ。
良識ある大人たちの反応は、私の精神的な傷を生々しくよみがえらせ、結果的に私の自己信頼を損なわせた。
自分を信じられなくなった私は性癖のカモフラージュと実家からの脱出を主な目的に、自分が一切の恋愛感情も積極的な性的関心も抱いていない同世代の男友達と若くして結婚し、数年で結婚生活を破綻させた。婚姻中には64歳の既婚男性と俗に言うW不倫の関係になり、夫を悲しませたこともあった。元夫とは、今では友達に戻っているが、あの結婚はお互いにとってとても不幸なものだったし、私の消極的な選択が彼を傷つけたことはけっして忘れない。

少女時代を延長される「脆弱な」女性たち

2010年代の終わりごろから、性暴力問題についてフェミニズム的な視点で議論されることが増えた印象がある。それ自体は進歩だ。間違いない。
一方で、性的同意とはなにかをめぐってさまざまな意見が飛び交うなかで「"極端な"年齢差のある二人の間では成人同士であっても同意が成立するはずがない」とか「"極端に"年上の男性に惹かれるのは彼女に父親がいないためであり、それは"真の"欲望ではない」とか「発達障害女性と健常者男性との性的関係は障害者の脆弱性を利用した搾取だ」とか「マゾヒストの女性は過去の性被害や虐待などのトラウマをアクティングアウトしているだけで、彼女の表明する欲望は彼女の"本当の"欲望ではない」といった、私をふくめ障害のある女性やマイノリティな性的欲望をもつ女性たちの自己決定権を不当におびやかすようなものも見られた。

「正気」の恣意性と「真の欲望」幻想

欲望や感情の"原因"を探られるということ。それ自体がすでに「正気」の否定だ。

年上の男を好むのは父親がいないからではないか
女性が女性を好きになるのは男性にトラウマがあるからだ
SMを愛好しているということは過去に虐待を受けていたにちがいないしそれは"真の"欲望ではない
障害をもっている彼女がセックスワークにやりがいを見出しているのは寂しさゆえであり実際にはこの仕事は彼女にふさわしくない

こういった意見をぶつけてくる人々はおそらくはたいてい善意であり、自身の暴力性には無自覚だろうと思う。しかし、これらはあきらかに発言者を教え導く者とし言われた側をそれに従う者としようとする、示威行為だ。
(ところで私は九州にルーツをもちそこに暮らす女性として常々腹立たしく思ってきたことがある。それは他の地域出身の人がまるで気軽な世間話をするかのように「九州って男尊女卑がスゴいらしいですね」と口にする現象。都市部からやってきたフェミニストの女性がそういった発言をすることもあるが、地元の女性たちに寄り添いともに問題を解決しようとする姿勢というよりはレイシストの口から発せられる「おたくの国では犬を食べるんですってね」と同レベルの、世間話をよそおった見下しや他地域への差別意識がふくまれていると感じられることのほうが多い。絶対悪である性差別と何を食べるかというテーマを同じに扱うことはできないが、たとえば東京などの都市部出身者が親しくもない九州人に「九州の男尊女卑」の話題をふることに見下しや植民地主義的発想が内包されていることは間違いないと思う)
さて、欲望や感情の"原因"を探ろうとし相手の「正気」を否定する形をとる示威行為は、「真の欲望」という幻想に支えられている。それはつまり「何か原因がなければ、"普通"からはずれた欲望を持つことはありえない。原因があるものは真の欲望ではない」という論理だ。

私はもうこれ以上あなたがたの幻想にはつきあわない

これを宣言することをもって、このnoteの結びとしようと思う。私は「それはあなたの本当の欲望ではない。あなたの"真の"欲望はもっと別のものなのだから、私たちがそこまで導いてあげる」という囁きにはもう耳を貸さない。仮にそれが巧妙にフェミニズムの姿を装っていたとしても、本質は母による家父長制の代行だからだ。飲み込もうとするその渦に私は抗い、たたかいつづける。私の欲望は私だけが知っている。


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