差別とは/言わないまでも/ドラマでは/ホステスの名は/決まってアケミ◆「私」と「母」についての私的な覚え書き。①
私の母の名前は『アケミ』である。
この短歌を見つけたとき、本屋で「ッ、ブッ、フォ!」と我慢できず、噴き出した。
「暁」に「美しい」で『暁美』。
令和5年5月6日に76歳で亡くなった、私の母の名前である。
「私」を覚え書きしようとすると、必ず「母」は登場するし、いつか「私」が「私」でなくなってしまったときのためにも、書き残しておきたいと思う。
ちなみに、うちの母も、大阪から上京してきた当初、多分、時は昭和40年代だとは思うが、新宿・歌舞伎町のクラブのホステスやってたからな。
そら、噴き出すわ…
上記の引用については、出典がツイッターになっていて、結構前に投稿されたものらしいけれど、最近またヤフトピに挙がっていて、認識した次第。
それな…という感覚は、たしかにあって、自分自身が人生の半分以上を腐ったオタク活動に費やしてる人間なんで、そら、二次創作で自己発電する側からしたら、受け取り手というのは、同ジャンル同担のピンポイント同癖くらいじゃないと、それこそ100人中の1人みたいな反応をされかねないと、本気で思う。
それに、こういう「他人の感情の機微」みたいな、目には見えない、非常に不確かなモノを、画一的に仕分ける国語のテストなんかについて、自分の異常性(あきらかに、まわりの常の人とは感覚が異なる)みたいなモノが最近、やけに気になりはじめたので、ここに覚え書きとして、残しておく。
多分、コレは「私」という個をつくりあげていったなかの「母」という存在を抜きにしては考えられないので、その前フリ的な覚え書き。
◆自分の軽い「異常性」の話。
「母」については、映カ!の覚え書きのほうでも度々、殴り書きのようにエピソードをちらほらメモしているが、趣味は読書と料理という、こう、趣味だけを並べて書くと、非常に普通な母親像としてうつるのが、すごい。
けれど、現実は小説より奇なり、という言葉そのものの人生をおくっていた人でもあって、あまりにも一般的なモノからハズレすぎていて、逆に全く真実味がなくて、私的には笑えてしまうような人であった。
料理が趣味とか言っておいて、じゃがいも料理は実質、私ひとりしか食べないのに、毎回毎回なんでか、じゃがいも一袋(5〜6個入り)を1回の料理で使い切るのか、その神経が、いつもよくわからんかった…
あ、私が全部、食べるから、か?
えー…
私にとっては、彼女の人生自体があまりにも現実離れしすぎていたし、彼女の子育て方法をここまで育ててもらっておいて、今更とやかく言うつもりも毛頭ないが、私の「自分の無さ」というか「自分のことが、あまり好きじゃない。なんなら、自分のことが結構苦手な人間の部類にはいる」と、自分で感じてしまうのは、自我が確立するまでの人間形成の合間、やはり育った環境的なモノ、幼少期にずっと一緒に過ごしていた人の影響を少なからず受けているからだと、まぁまぁ理解しているし、感じてはいる。
はっきりと異常性と書いてしまうと、語弊があるかもしれないし、ちょっと微妙なところだが、前述の「893あるある的な死ネタ」について、笑いは相互の共通認識があってこそ、成り立つ場合が多いと思う、というような事を書いた記憶があるが、まさに、その「笑い」の感覚が多分、私は、他人と比べて少人数派、いわゆる100人の1人になっている場合があって、それを俯瞰して考えると、やはり自分は、まわりの大多数の人たちとは感覚が異なるんだろうなと、それなりに思うのだ。
◆「父親」は九分九厘「クズ」だと思う。
私が大学を卒業するという頃、タイミングよく?自営をしていた父親の会社が倒産し、ヤツは自己破産した。
で、銀行なんかの事後処理を、全て連帯保証人だった母に任せて、自分はひとり、さっさと蒸発したので、アイツ、逃げたな…やることが無責任すぎるやろ…と、呆れ返った記憶はある。
同時期か?
酔っぱらったヤツは、ハニトラ100%のホステスのフィリピンのかたに「強姦された!」って、訴えられてたことがあり、兄嫁に何故か、私がキレられた記憶が、ちょっとあるな…
ものすごい言いがかりやな、今思うと…
まぁ、そんなこんなしていたら、私自身、大学卒業時にきちんと就職する気も起きなくて、でも、母親は絶対にパートとか出来るような、世の中にあわせられる神経の持ち主ではなく、身体も虚弱体質な人だったんで、このままじゃ生きてけないし、自分がなんとかするしかないわな…と、もともとバイトで入っていた漫画喫茶→今はインターネットカフェの当時マネージャーだった人に、自分の家庭の事情を洗いざらい話して、正規雇用にしてもらったら、そこがまさかの雇用保険+社会保険にも入れてくれない、サービス残業&休日出勤&遠距離出張(手当て等は一切なし)モリモリのブラック企業だったので、人生そう甘くはないよなーと、悟った次第。
でも、私には母との生活があるので、そこでバイトからアシスタントマネージャーになり、真面目に2年くらい働いていたとき、私と同じようにうまいこと言われて、バイトから社員になった同僚がいて、同い年だったこともあり、めちゃくちゃ仲良くなって、何度か2人でご飯や遊びに行ったり、互いの家庭環境とかも深く話すようになったりした数年後。
彼女も私も、そのブラック企業をほとんど同時期くらいにバックれて辞めており、別々に新しく派遣として働き出して、私自身は1年就業した派遣先から正規雇用の話をもらえ、正社員登用となり、彼女も派遣先から直接雇用の契約社員の話がもらえて、お互いの生活もようやく安定してきた頃だったと思う。
彼女の職場が某老舗デパートに入っているアパレルのテナントだったので、その日は、仕事が休みの私は、デパ地下で買い物したいと言う母親と一緒にそのデパートへ行き、彼女が勤務しているテナントで、彼女の売上貢献のためにと、季節の服を買い、ちょうど昼休みに入るという彼女と母親を含め、三人でランチをすることにした。
その時、なんの話から、そんな話題になったのかは覚えてはいないが、彼女の歴代の男運の悪さを、彼女自身が笑って話していて、彼女が「彼氏に殴られたとき、前歯が折れちゃって」というようなフレーズを口にした瞬間、私は、店内に響き渡るくらいに、爆笑してしまったのだ。
(失礼すぎるわ…)
今思えば、何がそんなに面白かったのかはよくわからないけれど、笑いを引き起こす要因、ツボみたいなモノは何箇所かあって、例えば言い方だったり、互いの共通認識だったり、予想外に突拍子もないことをやられたりしたときに、スイッチを押されたみたいに笑いのツボに入ることがあるので、多分あの時は、私の中のそういうスイッチが押された瞬間だったのだけれど、私と感性が似ていると、私が勝手に思っていた母は、ひどく気まずそうにしていて、私は、笑いをおさめてから、あれ?っとなった。
その同僚自体、やはり自分と感覚が似てなければ、そこまで深く仲良くはならなかったと思っていたし、その当事者的には悲惨なDVな話にしても、彼女的に「え、かわいそー!ひどい彼氏だねー」という憐れみを含んだ共感よりも、ネタ的な笑い話でこちらに話しているんだと思ったからこそ、私は笑ったのだが、どうやら、その対応は間違っていたのではないかと、彼女が突然、音信不通になってから、たまに、妙に気になって考えてしまうことがある。
多分、あそこで、笑うことは、きっと100人中のなかの1人の感覚だったのだろうなと、今になって薄々わかるけれど、私自身、別にソレ=笑った事を後悔しているワケではないから、自分の感性はやはり異常なんだろうなーと、普通に思うワケだ。
人の価値観、感覚、感性なんかは、千差万別が当たり前で、自分と同じ感覚の人が、そこらへんに偶然存在しているなんて、端から期待もしていないし、最初から思ってもいない。
だからこその「常とは異なる」なんだろうし、言い方を変えれば、こういう100人に1人みたいな感覚は、個性的である、とプラス的に言えるのかもしれないけれど、その個性を丸出しにした結果で「他人を傷つけてもいい」とは、私は思わない。
それに、私的には「常とは異なる」言動を自分がした際に、色々と人間関係の摩擦が起こり、自分が後々面倒くさいことになるマイナス的な状況予測が粗方つくので、それならば、常なモノに擬態していたほうが、この社会枠のなかでは、スムーズに「生きやすい」と学び、結果として「自分→個を無くす」という側面があらわれているような気がしてならない。
上記の同僚の話っぷりから推測して、もし仮に彼女が本当に、なんらかの同情を誘うような雰囲気だったならば、私は、そういった擬態する自分の性格上、爆笑はしていなかった気がするしな…
もう、笑ってしまったし、彼女とも縁が切れてしまっているので、今さら感は否めないが、最近たまに思い返すことがある。
私が、そんなふうに100人の中の1人の対応をした結果、もしかしたら、彼女は傷ついたのかもしれない、と。
彼女が、私に対して、音信不通になった理由は、本当は違うかもしれないけれども、時たま、やはり考えてしまうのだ。
擬態して、世の中を「生きやすく」するか、本来の「100人のなかの1人」で、ひとり生きるか…
まぁ、まだ働くならば、協調性や社会性は大事やからな、自分丸出しではいられないわな。(-_-)
そんなふうに、世の中に合わせて、自分を「生きやすく」しようと、常なモノに擬態する生き方、本当の自分が無くなっていく生き方は、母親が私の世界の全てだった頃、母親に合わせて「生きやすく」しようとした幼少期からの学習結果と結びついていて、因果応報的なモノを感じてしまうワケである。
◆「かわいそう」な子どもの話。
*かわい‐そう【可愛そう・可哀想】
あわれで、人の同情をさそうようなさま。ふびんなさま。かわゆそう。かあいそう。
みんなが各々、自分は幸せだと感じていれば、こっちから見て、不幸せそうでも、別に本人的にはそれでいいんだろうなーと、個人的に思うし、みんな、自分の価値観で、勝手に幸せになればいいとも思う。
私の幸せが「何」かは、他人にはわからないだろうし、個人的には、共感や理解をしてもらわなくても、自分が本当に心の底から幸せならば、仮に「あの人、かわいそうやなー」と誰に、何を思われていたとしても、全く関係はないのである。
いつだったか、母に「かわいそう」と、面と向かって、言われたことがある。
一瞬、なんなん?と、ぽかんとした。
彼女のなかでは【将来、ひとりで年老いた自分の面倒をみさせる。お金の苦労もかける。精神的な苦労もかける。好きなこともやらせてあげられない。】といったマイナス的な感情からの「かわいそう」という言葉なのだろうと、今も、当時の私も理解できているし、彼女が、私のことを、そんなふうに思うのは、彼女の勝手なので、別にいい。
けどさ、それ、本人に言う必要ある?とも、思う。
個人的には、勝手にそう思っていてほしかった。
だって、私自身は、私の「そうなるだろう」的な未来の境遇や、その時点での境遇を「自分がかわいそう」だなんて、これっぽっちも考えていなかったのだから。
失礼な話だよなーとも、思う。
非常に、個人的な見解を言わせてもらうならば、何かに対して「かわいそう」と、憐憫や同情の感情を持つならば「そう思う、お前が何とかしてやれよ」という思考に、私はなる。
例えば、捨て猫を見つけたけど、私のアパートは動物の飼育禁止だから、飼いたくとも無理だし、アパートを引っ越してまで、その命を救ってあげようとはしていない時点で、私が、その捨て猫に思う感情は、自分自身の不甲斐なさを責める「申し訳ない、ごめん」なだけで「かわいそう」では、決してない。
母から「かわいそう」と言われた時、一番に思ったのが「そう思うなら、お前が何とかしてくれや」だったし、現実的に生活費全般を担っており、それに対して、マイナス的なことは当時、何ひとつ、彼女には言っていない自分に対して、大概失礼じゃね?という、呆れた気分になった。
なので、その時の私の返答は、彼女の情緒を不安定にさせないためにも「そうかなー(半笑)」一択である。
あなたが、私のことを「そう思う」なら、思っていればいい。
私は、私のことを、そんなふうには思ってはいないのだから。
自分で、自分のことを「かわいそう」と思ってしまうのは、あまりにも惨めな気持ちになるし、たとえ、本当に「かわいそう」という境遇になったとしても、自分だけは、自分のことを、そんなふうには思いたくない。
そんなふうに、自分のことを思ってしまったら、きっと自分が生きた人生を振り返って、笑って、死ねないではないか。
最期の最後は、笑って、死にたい。
自分は自分、人は人。
逆に「母」に対して「かわいそう」なんて思ったことないしな。
あなたはいいよなー、頼れる「私」がいて、とは思ったけど。
正社員だった頃、なんの話をしていたかは、大概記憶にないが、拠点の店長に「しがらみがなくていいよね」というような軽口を言われたことだけは、はっきりと覚えている。
そのときも「そうですねー(半笑)」って返したけど、心の中は『アホか。こちとら、一人で母親養っとんじゃい。しがらみだらけやわ』って、ものすごくムカついた記憶がある。
多分、一生、忘れない気がするわ。(どんだけ)