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益軒の『養生訓』に見る静かな生活の描写に心が魅かれる。(夜日記)

最近、貝原益軒の『養生訓』と哲学者のベーコン卿の養生思想に共通した部分があり、益軒の、自分なりの楽しみをもって静かに日々をおくろうとのアドバイスに共感するという趣旨の記事を書いた。

今日、『養生訓』をあらためて読んでいて、その益軒の「心の楽しみ」を説いた箇所がとてもすばらしいので、引用して、共有してみたい。

心を楽しませる
ひとり家にいて、静かに日をおくり、古書を読み、古人の詩を吟じ、香をたき、古い名筆をうつした折本をもてあそび、山水を眺め、月花を観賞し、草花を愛し、四季のうつりかわりを楽しみ、酒はほろ酔い加減に飲み、庭の畑にできた野菜を膳にのぼすのも、みな心を楽しませ気を養う手段である。貧賤の人もこの楽しみならいつでも手に入れやすい。もしよくこの楽しみを知っていれば、富貴ではあるが楽しみを知らない人にまさるといえる。

貝原益軒著『養生訓』松田道雄訳・中央公論新社より

この益軒の「心を楽しませる」というアドバイスがなぜぼくの心に響くのか。
一言で言えば、穏やかな静けさを感じられ、派手さや華やかさ(虚飾も)が全くない。
それに、心を楽しませるのに、お金があるかないかは関係ないことを優し気に諭しているのもいい。
きっと、益軒自身の楽しみも、ささやかで、単純かつ静かなものだったんだろう。
引用した益軒の記述は、益軒自身の心の楽しみをよくあらわしていそうだ。

現代では、益軒先生が説くような楽しみはどうだろう。
むしろしやすくなっているようにも思う。
例えば、ぼくは園芸ショップで300円のポトスを買った。
それがぼくが育てている唯一の植物だ。
眺め、育てる喜びがある。園芸ショップはあちこちにある。
公園に行けば、樹々や草花、野鳥を見られる。ぼくは東京に住んでいるけど、東京は交通網が発達しているので、それなりに低コストで各地の公園に行けそうだ(最近はめったに行かないが)。
図書館に行けば、益軒の時代だったらありえないほど多くの本を無料で、容易に貸し出しして読める。益軒のいう古典ももちろん読める。
古本屋に行けば、100円で良書が手に入ることもある。
ぼくは100円で古典を買ったことがある。
夕焼けや月は、誰もが見られる。

何を言いたいかというと、益軒先生の語るような心の楽しみは、日本に限って言えば、現代では、誰もがもつことができるということだ。
そして、『養生訓』で益軒が言っていたことで、なるほどと思ったことがある。

それは、何事にも100パーセントを求めないほうが、心の負担が少なく、不幸にならないという知恵だ。
益軒先生の見識はここでも光る。
これは幅広く適用できるけれど、今日書いたことの文脈で言うなら、「心の楽しみ」についても、100パーセントを求めないということである(『養生訓』の「完璧を望むな」による)。

楽しみに完璧を求めると、高いお金を出さないとできない楽しみになる。
それを避け、そこそこの楽しみで満足するということ。
例えば、図書館で本を読む場合や古本屋で買う場合はそこそこの楽しみである。
書店でも、文庫や新書なら、一冊の値段はそこまで高くはない。毎日買わなければ、そこそこの楽しみになる。
益軒の『養生訓』には、いい意味で庶民的な感覚をぼくは感じる。

まだまだ書くことはあるかもしれないけれど、今日はこのへんで。


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