学ぶ喜び・その原点に立ち返る
人間が学習することにはどんな意味があるのだろうか?
私なりに考えるならば、学ぶことは喜びである。
その喜びとは、自己実現とか、目標とか、利益とか、それら付随するものをすべて取り払ってしまえば、学ぶことの真の意味とは、ストア派哲学者のセネカの言う、精神の奥深いところから発する喜びの生命。これに尽きてしまう。
そうした深い喜びとは、自分が日々よくなっていく喜びを感じることである。
そうした喜びのあるのは、最高の生活であり、自由になっていくプロセスである。
人間を自由にするもの。自分が自由になること。人間、そして個人の精神を解放するもの。
それが学ぶという自発的な行為である。
人間は生まれたときは例外なくか弱い存在である。持っているものはなにもない。
だからこそ、無尽蔵の可能性が秘められており、好奇心という母なる自然が授けた、普遍的で自然な欲望に従って、育っていくのである。
学ぶことで、人間は自身を教養していく。それは死ぬ瞬間まで続く長旅だ。
学ぶことで自由になるのは、なにも経済的なものを指しているわけではない。
何から自由になるのか。それは、人間精神を縛る迷妄や無知、好ましくない習慣、世間という夢幻による枷、錆びつつある常識、思考力や精神性の未熟さなどといったものから、自由になるのだ。
人間は学ぶことによって賢くなっていく。
知能は賢さの尺度ではない。賢さとは、先人からのヒントをベースに自身によって学ぶ方法、知の方法を確立し、自身を教養する過程で深まっていく経験と知恵のことであり、自分の人生を生きる力であり、探究する姿勢だ。
人生を楽しむ力。それも大事である。
学ぶという行為は、知的欲求の発露だ。
知的欲求がある限り、人間は瑞々しい活力のある知的生活をおくることができる。
私のNoteでは、「知的生活」をテーマにしたい。