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生活中心に生きたら、人生のバランスを保てる。
紀元前6世紀の哲学者タレスにこんなエピソードがあります。
ある夜、タレスは天体観測に夢中になり、我を忘れていた。
そして、足を踏み外して溝に落っこちてしまった。
溝から這い上がろうともがいている時に、老婆が上から「あなたは天上のことには目が向いているけれど、自分の足元のことについてはなんにも見えていない」と言い放った。
このエピソードから私が思うのは、
天上の世界に目が向くのは悪いことではないけれど、自分の生活を中心に生きてこそ、私たちは本当に大切なことがわかる、ということ。
我を忘れて天体観測に夢中になる。
なんだかいいなあと思う。
少年時代に宇宙や天体に夢中だった自分としては決して悪い気はしない。
ただ、天上を見上げすぎて足元が見えない。
その点についてはバランスが大事かな、と思います。
タレスの場合は天体観測でしたが、現代人にとってはスマートフォンなどが相当するのではないだろうか、と思います。
タレスのエピソードを天体観測からスマートフォンにすり替えてみましょう。
タレスはスマートフォンの操作に夢中になり過ぎて溝に落っこちてしまった。
老婆が上から言う。
「あなたはスマートフォンに夢中になり過ぎて、自分の足元のことはなんにもわかっていない。」
自分の足元のこととは、生きること、すなわち生活や人生、今のこと。
哲学者タレスが現代に生きていたとしても、スマートフォンには興味がないかもしれません。
スマートフォンで見える景色よりも、天体観測で見える景色のほうが、ずっと美しい。スマートフォンは、満天の星空の美しさには到底及びません。
だから、天体観測に夢中になり過ぎるのと、スマートフォンに夢中になり過ぎることは全然違います。
タレスは自分から望んで天体観測に夢中になりました。
現代に生きる私たちは、本当に望んで自分の生活の中心を決めているでしょうか。
自分の注意資源が本当に自分が望むかたちからかけ離れて、脳の報酬系によって不当に分捕られていることが現代人にはあるのではないだろうか、と思います。
生活の中心をなににおきたいか。
それを問い、決めるのは、他でもない私たち自身です。
ニュースダイエットも、同じことです。
世界の情勢や世間の騒動に目が向きすぎて、生活や人生中心ではなくなる。
そうなると、いつのまにか、本当に大事なものを見失う。
これを読んでくださっている方は、今日誰と会ってどんな会話をされましたか?それは心に残りましたか?
それとも、スマートフォンの操作に夢中で、上の空でしたか?
私たちが普段する会話の内容は、もしかしたら本の内容よりもずっと気づきや発見が詰まっているかもしれないですよね。
読書や勉強も同じことだと思っています。
寝食や運動、散歩、時々の交流を忘れてまで本を読んだり、勉強をするのは、知識偏重だとも捉えられると考えています。
知的生活とは、本来、生きることのすべて、生活のすべてから学ぶこと。
家に閉じこもって誰にも会わず、楽しみもなく、ひたすら机上の勉強。
それでは、生活のバランスも崩れます。
生活の中心をなににおきたいか。
自分の注意資源を何に優先し、全体のバランスをどうとるか。
それを問う習慣を私は大事にしたい。
この本は「生活」の復権を問うています。
生活第一の思想に共感しました。
今回の記事は、自分への自戒を込めて書きました。
自分自身の問題でもあるし。決して他人事ではない。
ご清聴ありがとうございました。