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自足する心を持つことの意味・読書ノート

最近読んでいるストア哲学の本の読書ノートが一区切りついたので、「自足する心」をテーマに少し書いてみたい。
シノぺ出身のディオゲネスは、キュニコス派の哲学者であった。
彼は、樽の中で暮らし、人々から蔑まれ、乞食哲学者という名で通っていた。
アレクサンドロス大王とのエピソードは有名だ。
アレクサンドロス大王は、当時にして最強の世界征服者であり、成功者だった。
アレクサンドロスは、野望・権力・富・快楽・領土において最大限を我が物にしながら、その欲望は決して尽きることがなかった。
アレクサンドロスが、あるとき、ディオゲネスのもとを訪れた。
大王はディオゲネスに、何か欲しいものはないか?と尋ねた。
俺様の手にかかれば、手に入らないものはないのだ、という自負もあっただろう。
ディオゲネスは答えた。
「日陰になってしまっているので、そこをどいてくれないか」、と。
ディオゲネスにとっては、アレクサンドロスが欲望するものの一切には、全く興味がなかったのだ。
アレクサンドロスは際限のない欲望に囚われていたが、ディオゲネスは己の欲望に打ち克っていたという意味で、アレクサンドロスよりも自由だった。
ディオゲネスは、キュニコス的生き方の人であった。
その哲学は、「持たないことこそ最善」とする考えだ。
生活に必要なものを最小限、いや、極限まで切り詰める。
そして、最後には、樽だけが残った。
キュニコス的生は動物的生を超えないかもしれない。
だが、「自足する心」を考える上で、キュニコス的生を参照(リファイン)するのは、決して無駄ではない。
ディオゲネスは極限のミニマリストだったのではないかと私は思う。
古代においては変わり者だった。
現代においてキュニコス的生を再現するのは現実的ではない。
だが、ディオゲネスにとっての幸福は、現代においても振り返る価値があると私は思っている。
衣食住の基本的なニーズはむろん必要である。
先進国はすでに一定の水準をある程度維持できているのだろうが、今後の課題は世界全体までそれを広げることを模索・推進することである。
ケイト・ラワースのドーナツ経済は、地球環境が問題なく、無理なく維持できる限界の輪を外側に、衣食住をはじめ、人権に即した人々の必要不可欠なニーズを輪の内側にして、世界全体をその輪で挟み、そのドーナツの中に世界のすべての人々とその活動を収めるかたちのニューエコノミーを提案している。
経済活動や資本主義はわかりやすい例だが、
人間の欲望は尽きることを知らない。
ブッダは、欲望はそれを満たしても、満たしたとたんすぐに渇き、さらにもっともっと欲しくなる。そのループが延々と繰り返されることを指摘した。
苦しみとは、そうした尽きることのない欲望から発しているのだと。
われわれは、人生のどこかの段階で、足るを知る心、すなわち、自足する心と共有してこそ楽しい、という真理に気づく必要がある。
それは、ドーナツ経済といった人類の社会全体の設計にかかわることから、個人の行動哲学まで幅のある営みではないかと思ったりする。
現代ミニマリズムについて、私は少し読んだ程度しか知らないが、イエスやブッダやストア派が説いた自足する心のメッセージに源流があるようなことは想像に難くない。
何か欲望がおこったら、いったんキュニコス的生のレベルまで頭の中と心においてだけ下げてみる。
この思考実験をしてからその欲望が向かった対象を批評してみる。
そのような欲望の姿を解体してその欲求がフェアなものかどうかを徹底的に問う批評の習慣があってもいいのではないかと考える。
例を二つ挙げる。
日常では、消費を生活必需品やライフライン以外は、主に7割か8割を教育や書籍の購入にあてる(別に貯金はする)という発想はどうか。
つまり、自分が日常で買うものの性格をはっきりさせ、内なる基準をつくるのである。それ以外は、特例を除き、支出はほとんどしない。
(私にとっては、食品や生活必需品を除き、日常で購入する商品は書籍以外には基本的に興味がない。)
いま述べた例は、家計に疎い、生活感覚がない例だったかもしない。
だが、作家で実業家のロルフ・ドべリ氏が、『Think Clearly』で述べていた、モノに使うお金はうんと少なくして、経験に支出するというスタンスに私は意外に共感するのである。
二つ目の例は、消費以外にも、自分の深い願望の真の性質を確かめ、忘れないでいることが私たちにはできる。
自らの生き方を決める原動力となっている意志の性質や構成に注意を払うのである。名声や富や権力や快楽の願望が裏にないだろうか?
感覚印象と関係していないだろうか?
平和や愛や理解のために行動しているか?
それは健全な願望だろうか?私利私欲からではないか?
つまり、何に欲求を向けるか、その種類の性格を常に問う習慣をつけることが大切である。平凡な答えではあるが、それで締めたい。
知的成長に対する欲求は特段優先したほうがいいのだと思うし、私自身はそうしたいと考えている。終。





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