豊かな生活を取り戻すことの意味・News DietのすすめⅡ
はじめに
ついこの間、News Dietについての記事を書きました。
その記事では、ニュースの代わりに自然観察や新書を読むことなどを提案し、スロー・ライフの可能性について考えました。
今回の記事ではさらに視点を拡げて、前回の記事とはまた違ったNews Dietの可能性を考えます。
一人時間を充実させるのに必要なこと
現代では「孤独」にいかに向き合うかということが大きな課題となっているのは周知のとおりである。「孤独」は現代の伝染病とも言われ、いまや社会の根に巣食い、あちこちにその影を見せている。
誰にでもやむを得ず訪れる、孤独な時間にいかに過ごすかが現代では問われているとも言える。
私自身は、「孤独」の問題には明らかに門外漢であり、深く考えたこともなければ、何か知見や答えと思しきものも全くもってない。
ただ、自分の実感でいうけれど、孤独を和らげるのにスマホやSNS、テレビはあまり適さないのではないだろうか、と思う。
それはあくまで個人的な実感だが、脳科学者でコメディアンの茂木健一郎先生のこの動画を見て、私はやはり読書こそが一人の時間にする行為として最も適しているとの感を改めてもった。
ただ、当たり前だけれど、これは人と関わらずに孤独を深めることを積極的に推奨しようとの意見では全くない。
誰にもどうしても訪れる孤独だと感じる時間にどうすればその負の影響を最大限に緩和し、むしろ豊かな時間をいかに過ごすかという問いに対する、一つの答えだと言える。
「読書には、自分の内側を深く掘り下げ、自分自身を充実させ、楽しめる効能がある。それが孤独に感じる時間に行われることに意味がある。」
要約すると、そのようなメッセージだった。
だとしたら、ニュースを全く見ずに、書物や長文記事を積極的に読もうとしたり、ニュースの代わりに充実できることを探る「News Diet」は、一人で過ごす時間をいかに豊かにするかという問いにも、大いに相関があると捉えられる。
つまり、一人で過ごす時間にこそ、News Dietが必要である。
では、そうした時間にニュースの代わりに何をすることがよいのかを次の章から考えていく。
ニュースの代わりに睡眠ファーストを貫く
睡眠ファースト。この標語的な言葉を私は最初にとある睡眠本で目にした。
とてもいい言葉だと思うが、載っていた本のタイトルは全く覚えていない。
ニュースの代わりに何を大切にしたらいいか。
それは「睡眠」しかない。いや、自分の生死にかかわる特別な場合を除き、何よりも、どんなことよりも、睡眠を優先したいと私は考えている。
なぜなら、睡眠を削ることは、自分の命を削ることだからだ。
ニュースの代わりに睡眠を優先しようなんて、何を言っているんだ、と思われるかもしれない。
しかし、ニュースを得るのがテレビやスマホなどの電子機器である場合、寝る直前に見てしまったら、ブルーライトの影響で睡眠の質が大きく低下したり、ネガティブなニュースを就床直前に見て眠れず一夜を明かすことは十分に考えられる。
ショーン・スティーブンソン著『SLEEP 最高の脳と身体をつくる睡眠の技術』(ダイヤモンド社)には、就床時刻のせめて一時間半前には、あらゆる電子機器のスイッチを切り、画面を一切見ないようにしようとのアドバイスが書かれている。このアドバイスを私はいつも守るようにしている。
また、社会や世界で起きた出来事を報じるニュースを寝る前だけでなく、朝にテレビやスマホで見たりするのも、さわやかな朝を台無しにしかねないという意味で、私は避けている。
だから、寝る前に一人で過ごす時間には、目に優しく神経を落ち着かせる、読書が相応しい。
生産性至上主義や知識信仰と対極にある「睡眠ファースト」は、新時代の哲学思想ともなりうるものだと私は考えており、別の機会にさらに綴ってみたいと考えている。
ニュースの代わりに日記を書く
一日の終わりの時間や寝る直前には、日記を書くと、リラックス効果があり、記憶力を向上させることが研究でわかっている。
だから、就寝前や一日の終わりにはニュースの代わりに日記をつけることを私は提案したい。
たいていの社会人にとって、ニュースを見るのは、早朝や仕事終わりの帰宅後や帰途の最中だと想像できる。
その時間にニュースを見たりスマホで読んだりする代わりに日記をつけたり、一日を振り返ることにあてることもできる。
日記をつけるという行為は、世界や社会で起きたニュースではなく、今日一日を振り返ることによって、変化する世界を中心にするのではなく、自分の内側を掘り下げるという意味がある。
それは、ハーバード大学の認知科学者、スティーブン・ピンカーがいうように、自分が今日という日を無事に平穏に過ごせたことをその日の最大のニュースとし、穏やかに祝福するささやかな行為である。
日記というと、ノート一ページ分書くことを想像し、そんな時間取れないよ、と思うかもしれない。
けれど、日記だからと言って何ページも書くことを当たり前だと思う必要はない。この記事では、一行日記や三行日記の付け方が紹介されており、自分がしやすいように続ける楽しみが感じられる。
日記をつけると、今を生きることができる。一日一日を大切に生き、改善点や目標をみつけることにつながるので、これほど有意義な習慣は多くはないのではないかと思っている。
ニュースの代わりに自分の内側を見つめる
古今東西の哲学者は、内省を日課としていた。
仏教の開祖ブッダやピタゴラス、ストア派の哲学者たちなど、枢軸の時代に生きた哲学者やその哲学者を源流とする哲学は、「自己の内側を見つめよ」というメッセージを発しているという点で共通している。
これは、現代だからこそ、意義深いと私は思う。
それは、膨大な情報が氾濫し、不特定多数の意見が溢れかえる中で、自分を見失わないための聖域的な習慣であり、羅針盤となる大事な人生戦略でさえある。
テレビを始めとする電子機器には、ありとあらゆるニュースが入ってくる。
戦争や紛争、災害、事件、事故、不祥事、芸能人のあらゆる話題、株価、政治の動き、経済状況などなど。
私に言わせれば、これらすべては自分の外側にあるコントロール不能の「情報騒音」である。
すべてに付き合っていたら、人生(の貴重な時間)が終わってしまう気さえするのだ。
そして、心が大きくかき乱され、自分を見失ってしまうだろう。
だからこそ、News Dietが必要であり、あえてニュースを無視することが必要なのだ。
さらに言えば、そうした日々報道される大量のニュースのなかで、自分の人生や生活に直接関わるのは、たぶん一割未満だろう。
その一割未満でさえ、ほとんど知らなくても、何ら困らないかもしれない。
世界は動かせない。ならば、自身の心をつねに観察し、自分を見つめる内省の習慣をつくろう。それが、真に豊かな人生と生活への道であり、自分を人生の主人公にする方法である。
ニュースの代わりに趣味や独学を大事にする
「最高の生活とは、自分が日々よくなっていく喜びを感じることである。」
古代ギリシアの歴史家、クセノフォンの言葉だ。
どんな生活も、自分が成長する喜びを感じられないのなら、空虚で、無機質なものになる。
成長する喜びが欠けた生活は、たとえどんなに他の物が揃っており、物質的に豊かでも、決して最高の生活にはならない。
クセノフォンの言葉からはそんな意味を読み取れる。
だからこそ、生活に学びを取り入れたい。
それには、趣味や独学の時間をつくるのがいいのだろう。
昨今の独学ブームは、それに拍車をかけている。
書店に行けば、独学をテーマにした本がずらりと並ぶ。
私はこうした光景を好意的に受けとめているし、自分自身も参加していると考えている。
貝原益軒は、江戸時代の健康バイブル、『養生訓』において、どんなに貧しくとも、日々の生活で楽しみの時間を持つことをアドバイスしている。
ならば、その楽しみの時間には、自分の心を耕し、精神的に豊かになれる、成長する喜びを感じられるものとしたい。
それは、必ずしも収入につながったり、将来に役立つものでなくともいい。
結果や報酬ではなく、それ自体を楽しむことを目的とするコンサマトリーな趣味や独学をあえて私は選びたいと思う。
ニュースの代わりに「100分de名著」を読む
「100分de名著」とは、古今東西の名著を毎回取り上げ、第一人者をゲストに迎え、読み方の幅を広げることを目的にしたNHKのテレビ番組で、番組と併用する、ムック本のテキストも、書店で売られている。
私も何冊か購入したが、過去回のテキストもすべて売られており、テキストだけでも、十分に学べ、活用できるつくりになっている。
一生のうちに読んでおきたい名著への入り口となっており、現代世界を本質から理解したり、知への愛を沸き立たせるには、うってつけのシリーズである。
前回の記事で、日々報道される世界のニュースは、その歴史的背景が掴めなければ、理解が一段と難しいと書いたが、「100分de名著」はニュースを理解する補助というよりは、最初からニュースを見ずに「100分de名著」を中心に世界を理解したり、教養を深めることもできる。
もちろん、ニュースの背景となるものを考えるヒントにもなるだろう。
ニュースの代わりに有名人の定義を変える
この記事を読んでいる方は有名人と聞いて誰を思い浮かべるだろうか。
私自身は、読書が趣味なので、自分にとっての有名人は自分が読む本の著者の作家である。ということは、テレビに出てくる人は私にとっては必ずしも有名人ではない。
つまり、音楽が好きな人には、自分の好きな音楽家やミュージシャンが自分にとっての有名人であり、文学を読むのが趣味の人は、その作品の作家が有名人だし、自分の専攻がある人は、その専門領域にパラダイムシフトをおこした学者が有名人だろう。
哲学が好きな人には、ソクラテスやプラトンは外せない有名人である。
考えてみれば、有名人とは、現代だけでなく、歴史上の有史以来から多くいることになる。
つまり、これだけ世界が多極化した今日には、「有名人」も多極化しており、必ずしもテレビ文化に登場する人物を有名人だと考える必要はないと言える。
脳科学者の茂木健一郎先生は、「世界線が分裂している」という考えを話していた。
つまり、多極化した世界には、大なり小なりそれぞれの世界に支持を集め、共有される文化やスターがいるが、そうしたカルチャーは、それぞれの世界の境界内だけで通用し、一歩外を出れば、知らない人々も数多くいる。
例えば、私たち日本人は、中国やインドの有名人をほとんど知らない。
その外国の有名人でさえ、その国の中には知らない人が数多くいて、普遍的に共有される有名人ではないかもしれない。
逆に日本のテレビ文化の有名人は、海外ではほとんど知られていないだろう。テレビ文化だけでなく、他の文化にもそれは言える。
だからこそ、私たちは自分が日々消費する文化に盲目的になってはならないのだと考える。
ニュースの代わりに友人や家族の話を傾聴する
スマートフォンが広く普及してから、真正面から向き合うような会話や談笑がしづらくなったと思わないだろうか。
カフェでも、家でも、移動中にも、いたるところで、ほとんどの人が下を向き、スマートフォンをじっと見ている。
親密な会話というものが、電子機器を介して行われるようになった。
それは、コミュニケーションのあり方にも少なからず影響を及ぼすとも想像できる。
私が心がけたいと思うのが、スマートフォンから顔を上げ、身近な人や周りの人々の話に耳を傾けるということである。
スマートフォンでニュースを読む代わりにスマートフォンの電源を切り、周りにいる人の話に傾聴する。
家にいるときは、テレビやスマホのスイッチを消し、最近、家族に起きた出来事に耳を傾ける。
電子機器の内側に自分が乗っ取られる代わりに、友人や知人や家族から世界や社会がどのように見えているのかを知ることがもっと大切にされていい。
テレビはそれを見る人や周りにいる人を黙らせる。テレビを見ながらの会話はしづらい。
だから、私たちがテレビに沈黙させられる代わりに、テレビの方を黙らせよう。電子機器から運ばれてくるニュースではなく、友人や家族との直接のリアルの対面の会話で交わされるニュースに耳を傾ける。
一番いいのは、哲学者の話に耳を傾けることだ。
けれど、自分の周りにいる身近な人たちの話も、それに劣らず興味深いことは十分に考えられる。
好奇心をもって傾聴したい。
ニュースの代わりに文庫本を読む
前回の記事では、ニュースの代わりに新書を読むことを提案した。
今回の記事では、ニュースの代わりに文庫本を読むことを提案したい。
文庫本は千円があれば買えるものが多い。その点は、新書と同じだ。
文庫本はコンパクトサイズなので、持ち運びもでき、移動中に取り出して読むこともできる。
文庫本は小説もいいけれど、世界を理解するための文庫本も愉しい。
例えば、岩波文庫や講談社学術文庫、中公文庫など、学術をポケットに入れられるような文庫が私は好きだ。
自分の知的水準を遥かに上回るものももちろんあるけれど、そこにはちゃんと時間の作用というものが働き、その本さえ手元にあれば、時がしばらくたって、いつか読み直した時に成長した自分がそれなりにしっかり読めるような場合がある。その繰り返しが、読書という行為である。
つまり、読書というのは、時に長期的な再読の蓄積が必要だということである。
そこはニュースのように細切れの一瞬一瞬を切り取るものではなく、スローメディアゆえの特徴がある。
文庫本にもそれは言えるけれど、書物全般に言える。
きっと書物には、人間の身体性とマッチし、深く結びついたつくりがあるのだろう。スマホの場合は、読書と同じ時間だけいじっていたら、比較にならないほど疲れてしまう。スマートフォンは身体性と矛盾している何かがあるのかもしれないと思ったりする。
おわりに
今回は、前回の記事からさらに思索を拡げ、一人で過ごす時間にどうすれば充実した豊かな時間を過ごせるのかという視点からNews Dietについて自分の考えを整理しました。
長文記事になりました。パソコンの方が読みやすいと思います。
ご清聴ありがとうございました。随時、加筆修正するかもしれません。