暇と退屈の違いってなに?退屈せずに1年を過ごすための3ステップ #10
当文章では、「退屈せずに1年を過ごすための3ステップ」を導き出した思考の過程を書き出しています。まず、3ステップは下記の通りです。
①弱い自立をする
②自分印の仕事(制作)をする
③世界に関与している手触りを実感する
【引用・参考文献】
國分功一郎 暇と退屈の倫理学 朝日出版社、宇野常寛 庭の話 講談社
皆さんは、暇と退屈の違いをご存知ですか?「暇=退屈では?」とか「暇だから結果として退屈になるのでは?」という声が聞こえて来そうですが、下記の通り定義されています。
例えば、電車の乗り合わせが悪く、次の電車が来るまで1時間ほど駅で待ちぼうけをくらうのは客観的に見て暇な時間です。(=退屈になるかどうかは本人次第)一方、パーティーに出かけ、食事をしたり友人と会話している最中も、なんとなく退屈に感じることもあります。(≠暇ではありません。やることがあり、それをこなしているからです)
ハイデガーは、退屈を3つの形式に分けています。
第1形式:何かによって退屈させられること
特徴: 何らかの外的要因、例えば退屈な会議や待ち時間などによって、不本意に退屈させられる状態です。
第2形式:何かに際して退屈すること
特徴: ある活動や状況に積極的に関わっているにも関わらず、その中に退屈を感じてしまう状態です。
第3形式:なんとなく退屈であること
特徴: 特定の何かによって引き起こされるのではなく、漠然と、あるいは根源的に感じられる退屈感です。
年末年始、一年を通して公私ともに積極的に活動していたにも関わらず、振り返ってみるとどこか物足りなさを感じ、このようなことを考え始めました。それは、まさにハイデガーが言う「第2形式の退屈」に当てはまる状況だったからです。参考文献を読み進める中で、「退屈は主観的な状態である」という新たな気づきを得ました。つまり、自分の気持ち次第で、退屈な状態から抜け出すことができるということです。この考えは私にとって大きな希望となりました。
退屈から抜け出す上で、退屈の構造について理解をする必要があります。ポイントを2点おさえてみます。
1.「浪費」と「消費」について
浪費は、必要以上のモノやサービスを得ることによって一時的な満足感を得ようとする行為です。モノには量的な限界があるため、浪費はどこかで終わりを迎えます。一方、消費は、モノそのものだけでなく、その背後にあるブランドイメージや社会的なステータスなど、無形の価値を求める行為です。消費の対象は、モノから概念へと広がり、常に新しいものが求められるため、満足感が得られにくく、終わりがないと言えるでしょう。どちらも退屈から一時的に逃避できる手段として機能しますが、問題は消費行動にあります。SNSや最新型のスマートフォンなど、常に新しいものが求められる消費社会においては、「何かをしている」という感覚は得られるものの、真の満足感を得ることが難しく、結果的にさらなる消費を促し、新たな退屈を生み出す悪循環に陥りがちです。私を含め、多くの人がこの消費の罠にはまり、退屈から抜け出すことができない状況にあるのではないでしょうか。
2.「動物」と「人間」について
動物って退屈するのかな?という問いを立ててみます。 その前提として捉えておくべき概念として「環世界」があります。
例えば、昆虫が木の上でじっとしているからといって、「あれは退屈している」と断定することはできません。なぜなら、昆虫には人間とは異なる、独自の環世界があるからです。人間は、様々な経験を通して、複数の環世界を行き来することができます。しかし、動物は、生きるために必要な行動に集中し、一つの環世界に深く関わっていることが基本です。これは、人間が経験を体系化し、習慣として身につけることができるのに対し、動物は本能的な行動に駆られることが多いからです。よって、動物は退屈していないと考えられるとのことです。
その構造をふまえ、どのような振る舞いが退屈を解消しえるのか。結論としては、〈人間であること〉を楽しみながら、〈動物になること〉を待ち構えることができる状態、とされています。様々な経験をしながらも、それを習慣化し惰性で過ごすのではなく、ふと訪れる「不法侵入(=本能的な行動に駆られる事象)」を受け取ることができる余裕を持つこと、そしてそれに対して思考を巡らせることが重要ということです。
冒頭で「退屈は主観的な状態」だと説明しました。世界の出来事を受け取るか受け取らないかも自分次第ということ。訓練は必要ですが、退屈の悪循環から抜け出し、楽しめるようになりましょう!
「暇と退屈の倫理学」での考察を踏まえ、「庭の話」へと議論を進めます。両書は共通するテーマを持ちながらも、2011年という消費社会が隆盛を極めていた時代に書かれた前者と、2023年という情報化社会が高度に発達した現代社会を背景に書かれた後者では、それぞれ異なる視点から問題意識が提示されています。
情報化社会において、人間は「Anywhere」の人々と「Somewhere」の人々に分かれています。どちらもプレーしているゲームが自己目的化している点は共通ですが、そのジャンルは異なります。「Anywhere」の人々は資本主義をベースにした市場というゲームを「評価」をインセンティブにプレーしており、そのフィールドは境界なくグローバルに広がっています。一方で、「Somewhere」の人々はSNSプラットフォームをベースにしたゲームを「承認」をインセンティブにプレーしており、そのフィールドは境界があり広がりを見せません。
「Anywhere」な人々は「する」人々であり、その評価をもってビジネスや権力を通じて世界を動かせるような全人口の数%の割合です。その他大半の「Somewhere」な人々は「である」人々であり、SNSプラットフォーム上の承認を潮目を見ながら追っている人々です(私はこっち)。問題は、それぞれのゲームが自己目的化していて、終わりなき消費を続けているということ、そして「Anywhere」な人々には大半の人々はなれず、結果として終わりなき退屈を過ごす「Somewhere」な人々が量産されることです。
これらの代替案として提示されているのが、場としての「庭」となります。その要件は「共同体の場所であることを否定することなく、孤独【でもある】場所として機能していること」「自己と無関係に世界が変化することを実感できる」です。具体的な例としては、銭湯などが挙げられています。一人っきりではなくだれかいる、顔見知りの人と会釈程度はするけど文脈を共有した会話はしない、孤独でもあり孤独でなくもあるといった場、手触りはあるけれど刻々と移り変わっていく場が「庭」です。その他にも「ムジナの家」「喫茶ランドリー」が例として紹介されています。
「庭」はその場があるだけでは機能せず、訪れる人にも要件があります。それは「弱い自立」ができていること。言い換えると、なにかの奴隷になっていない状態であることが求められます。前述したような、評価や承認のゲームの奴隷になっておらず、自らの環世界において不法侵入に開かれている状態ということです。
ハンナ・アーレントは、人間の諸活動を「労働(個人として経済的に自立すること=評価)」「制作(何かを創り出すこと)」「行為(役割の実現=共同体からの承認)」と表現しました。どれかを欠くことはできませんが、その比重は再考すべきです。「Anywhere」な人々は労働の、「Somewhere」な人々は行為の比重が大きくなっています。
ここから話を進める上で、「制作」に着目します。それは、承認や評価も存在するが、「0から1を生むこと」「自分がつくらなかれば世界に発生しないものを生み出す快楽があること」です。そこには、ゲームルールに支配された単一の環世界にいては味わうことができない人間だからこその快楽であり、「庭」という場においてはそれを通じて世界との接続を実感できるものです。
なにかの奴隷となっていない「弱い自立」状態で制作をし、それを労働を通して世の中に出していくことで、それは「自分の仕事」となり、世界を変えている「手触り」を実感することにつながります。もちろん仕事ではなく、DIYや絵画その他何でも制作をすることでこの実感は得られるはずです。
あらためて、「退屈とは主観的な状態である」に戻って来たと私は思います。退屈している自分をメタ認知すること、そして今回の思考から学んだ「制作を通じて世界を変えている実感を得ること」が、退屈な日々から抜け出す重要なポイントです。ここまでの流れをもって、あらためて下記を記します。
「退屈せずに1年を過ごすための3ステップ」
①弱い自立をする
自己目的化しているゲームの奴隷状態から抜け出す
※仕事においては、会社の評価軸だけに縛られないなど
②自分印の仕事(制作)をする
自分にしかできない0→1を生み出す仕事(制作)をする
※オリジナリティの出し方は様々
③世界に関与している手触りを実感する
0→1を生み出した時点で、ほんのわずかでも世界を変えることができる
※仕事においては、PCにかじりつくのではなくお客さんを見に行くなど
年末年始、時間をかけてゆったりとしているからこそ、ここまでたどり着くことができました。また慌ただしい日々が始まると、忘れてしまうかもしれません。またここへ立ち戻れるよう、必死に書きました。どなたかの変化に少しでも貢献できていると嬉しいです。今年もはりきっていきましょう!