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母なる文字の話

道を歩いててふと思った。
よくもまあ世の中にはこんなに多くの看板があるものだと。店の看板に道路標識、宣伝看板などなど。数えだすときりが無い。そして、たいてい何かしらの文字が様々なフォントで書いてある。

そこで気付いた。どんな看板の文字にも、この世界のどこかで誰かがそれを打ち込んだ瞬間があったのだ。ここで言う「打ち込んだ」は、「製造工程で文字が塗装されたこと」を指しておらず、「何らかのかたちで人間の手によって文字が生成されたこと」を意味している。

例えば、一時停止の標識には「止まれ」と印字されている。標識が製造されるまでには、デザインや文字など仕様を決めて、業者に発注する工程が発生する。その際に、キーボードで「止まれ」と入力した誰かが、または、発注書に手書きで「止まれ」と書き記した誰かがいたことになる。当たり前だが、町中に在る「止まれ」はけして元から在ったものではないし、自然に形を成したものでもない。人間の営為のアウトプットとしてそこに在るのだ。
さらに言えば、その人が仮にローマ字入力を使っていたならば、T、O、M、A、R、Eとキーボードを叩いたはずだ。もしかしたら途中で打ち間違えてバックスペースで削除して打ち直したりしたかもしれない。そして何度も見直してから発注を出したに違いない。そうやって生み出された「止まれ」は、大量生産され、全国津々浦々の道端に立っている。いわばその「止まれ」こそ文字の母であり、工業的に生産され散らばった文字の子らがいる。

そんなことを考えて町中の文字たちを見渡すと、無機質に見えていたそれらに、急に人間味を感じるようになった。

(おわり)


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