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【第35話】日本にも地中海性気候があった
まだ3月だというのに,GW並みの陽気になった日の午後,図書館で調べ物をして赤嶺君とミドリと合流した。
明日から春休みなのでキャンパス内の人影は疎らだった。
「もうすぐ春ね。いい風。やっぱり春が一番いいわね。」とミドリが言う。
「春ね。一番憂鬱な季節だなあ。」と僕が答える。
「どういうこと?」
「言葉の通りだよ。春は好きじゃない。」
「花粉症?」
「いいや,全然。」
「花粉症じゃないのに春が嫌いっていう人まずいないと思うけどな。」
「そうかなあ。けっこういると思うよ。世の中がフワフワ浮っついた感じになるのが嫌だって。やり残している課題がいっぱいあるはずなのにそれを有耶無耶にして,さあ新しい一年だぞって無理矢理リスタートしようとする世の中の圧を感じて息苦しくなるんだよ。」
ブルゾンを小脇に抱えた赤塚君がプッと吹き出した。
ミドリはため息をついて、
「あーあ,また水野ッチのネガティブキャンペーン始まっちゃったのね。春が嫌いなんて言ってたらね,日本海側の人とは一生分かり合えないよ。雪の降らない所で暮らしてる人って,豪雪の辛さを知らないのよ。」と言った。
それは確かにそうかもしれない。
「僕は雪を触ったことがない※1からむしろ憧れる。」と沖縄出身の赤嶺君はいつもより声のトーンが高かった。
「実は,明日から普通免許の合宿で山形に行くんだ。雪を初めて触れそうでワクワクしているわけさ。」
「そうなんだ,あたしも早く免許取りたいなあ。私はしばらく里帰りしてきます。」
「長野はまだ雪積もっているんだろうね。」
「うん。ウチは長野のさらに北の方だしね。ねえ,二人とも〝克雪″って言葉知らないでしょ。除雪作業ってね,めちゃくちゃ時間もお金も掛かるの。あのお金を他に使うことができればもっとすごいことになっていると思うのよね。日本海側に大工業地帯が形成されなかったのはきっと雪のせいだわ。私,子供の頃父と車で新潟の十日町※2へ行った時に『克雪こそわれらが願い』っていう看板を見かけたのを鮮明に覚えているわ。」
「十日町って,むかし地中海性気候だったところだよね?」と赤嶺君が言った。
「え,そうなの? 全然地中海と違うじゃない。」
僕はビックリして聞いた。
「地中海性気候(Cs)のsはサマードライ,夏乾燥っていう意味だよね。ケッペン※3の定義覚えてる?」
「えーと,夏の降水量より冬の方が3倍以上,だっけ?」
「正解。十日町は,夏に乾燥しているわけじゃないのに,冬にドッカン雪が降ってしまうので,結果として冬が夏の3倍以上になってしまう※4んだよね。ケッペンの定義ではs(夏乾燥型)に分類されてしまうんだ。」
「なるほど。」
「本来,地中海性気候っていうのは,南ヨーロッパのように,普段サハラ砂漠辺りを覆っている中緯度高圧帯が,夏にヨーロッパまで北上することで乾燥するっていうメカニズムなわけだよね。言ってみれば〝夏だけサハラ”っていう感じ。ところが〝冬の降水量が夏の3倍以上”という定義だけだと,夏もしっかり雨が降っている十日町のような場所が地中海性気候に認定されてしまうことになる。そこで,1936年に〝最少月の降水量30mm未満”という条件が加わったんだ。すると夏でも100mmくらい降る十日町は,条件を満たさなくなって,日本の他の地域と同じ温暖湿潤気候に分類されることになった,というわけさ。」
「へえ,そうだったんだ。さすが地理マイスター。」とミドリが感心して言う。
赤嶺君は少し渋い顔をしながら,
「日本海側の豪雪は確かに大きなハンディキャップかもしれないけど,雪は白いダム※5でもある。」と指摘する。
「そうなのよ。春先の黒部川※6とかすごいわよ。よく晴れた日に堤防の上を歩くと不思議な気分になるわよ。なんでこんなにいい天気なのに川から水が溢れそうなの?って。ホント,ハラハラするくらい水量が増すのよ。」
「沖縄では絶対にありえない光景だねえ。沖縄には川らしい川がないからね。」
「ああそっか。」
「沖縄の台風のニュースは見たことあっても,川が氾濫しましたっていうのは見たことないでしょ。沖縄産の米ってあんまり聞いたことないでしょ?」
赤嶺君のいう通り,沖縄県は全国で最も米の生産量が少ない県※7の1つである。
米は基本的に「高温多雨」が栽培に適している。その条件だけで考えれば,沖縄は米作りが盛んになってもよいはずだ。
しかし,米の栽培には「気候条件」だけでなく「地形条件」も重要なのだ。
まず水の集まりやすい沖積低地が何といっても栽培に有利である。
ところが沖縄県は,サンゴ礁が元になった石灰岩質の土壌が広がっているため保水性に乏しく,大河川がないために流域に低地がほとんど形成されていない。
要するに,地形的な条件に恵まれていないのだ。
結局,僕らはその日も地理っ子らしい会話に終始しながら,ショッキングな出来事が最後に待ち受けていた大学2年の全過程を終了した。
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※1 僕は雪を触ったことがない
大人になるまで雪を見たことがないという沖縄県民は多い。何しろ観測史上沖縄本島で雪が降ったのは2016年1月24日名護市(沖縄本島北部)で少しのみぞれ(=雪に含まれる)が観測された1度だけだからである。この日は西日本各地で大雪が観測された日であったが,さすがに沖縄では積雪がみられるほどではなかった。県庁所在地の那覇の緯度は約26度であり,真冬であっても最高気温が10℃を下回ることはない。そのため那覇市民は寒さに対する耐性が低く,少し気温が下がっただけでも異常に寒く感じる人もいて,最高気温が20℃を下回る程度でもダウンを着ている人を見かけることがある。
※2 新潟県十日町市
新潟県南部の中越地方に位置する市(面積590㎢/人口5万人)。中央部を信濃川が流れ,周辺には河岸段丘が発達している。日本有数の豪雪地帯として知られ,山間部だけでなく市街地でも2mを超す積雪が見られることがあり,特別豪雪地帯に指定されている。豊富な雪解け水が灌漑に利用され魚沼産コシヒカリの生産がさかんである。近年は,世界最大の野外アートの祭典として知られる「越後妻有アートトリエンナーレ」(2000年~。3年に1度開催)の開催地として人気を呼んでいる。
※3 ケッペン(の気候区分)
ケッペン(1846-1940年)は,ドイツとロシアの気象/植物学者。彼の考案した気候区分は、改良を加えられながら現在も広く使われており,大学入試の自然地理の分野において,受験生諸君を悩ませる分野の1つである。気候区分は,他にもアリソフなどの例があるが,大学入試においてケッペンの気候区分が多用されるのは,「気温」と「降水量」という誰でも容易に入手できるデータを用いて比較的簡単に気候区分の判定ができるからである。ケッペンの気候区分の最も重要な特徴は「植生」と「気候」を結びつけた点にある。植物は移動しにくく「景観」に与える影響がきわめて大きい。動物や人類も食糧生産の多くを植物に依存しており,農業・人口分布をはじめとして,さまざまな人文科学の分野でケッペンの気候区分はその基本的背景を理解するのに役立つのである。ちなみに大陸移動説を唱えたアルフレート・ヴェーゲナーはケッペンの義理の息子である。
※4 結果として冬が夏の3倍以上になってしまう
十日町の気象データ(1991-2020年の平均)によれば,最も降水量の多い12月は397.8mm,最も少ない5月が100.5mmで,冬が夏の4倍近く降っている。
※5 白いダム
冬に降った雪が山頂付近に蓄えられ,春先になると融け出して河川の水量が増し,ちょうど田植えの季節を迎えた平野に豊富な灌漑用水を供給する様子を,天然のダムに例えて表現している。
※6 黒部川
富山県と長野県の県境である北アルプス(飛騨山脈)を水源とし,富山県東部を流れ日本海に注ぐ。全長わずか85kmでありながら源流から河口まで標高差は3000mもある日本有数の急流河川。上流・中流には切り立った深さ1000mを越えるV字谷を形成する。中流の黒部ダム(黒部第4ダム)は日本で最も堤高の高いダムで,立山黒部観光ルートのハイライトとして大人気である。下流域では宇奈月温泉を扇頂とする広大な扇状地を形成している。山地が海のすぐ近くまでせまっていることから,この扇状地は扇端の部分が日本海に達している。そのため,海岸付近だけでなく海中からも地下水が湧出する珍しい現象が見られる。雪解け水が豊富な5月に毎年開催される「黒部名水マラソン」(1984~)では42.195kmの間に20ヶ所以上も給水ポイントが設置されランナー達においしい水が提供される。
※7 沖縄の米
沖縄県の米の生産量(2021年)は最小の東京都(500t)に次いで少なく(2000t),1位の新潟県(62万t)のわずか300分の1である。石垣島などの離島が生産の中心で,台風などの襲来で大きな被害を受けることもあり,生産量は減少傾向である。