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【第39話】病室で都市鉱山を語る
よく晴れて気持ちの良い朝だった。
洗濯物をベランダに干して,岩永さんからもらったフェアトレード※1のコーヒーを淹れ,トーストを焼き,山形で買ったバター※2をたっぷり塗って食べた。
クローゼットの一番奥にあった段ボール箱を引っ張り出し,中学時代のノートを見つけリュックへ入れ,病院へ向かった。
少し早く病室に着くと,カーテンが閉まっていて滴ちゃんと母親の奈緒子さんの声が聞こえた。
「何で持ってきてくれなかったの。」
「ごめんごめん。いろいろ買物あって忘れちゃったの。でもこれも洗い立てだから大丈夫よ。」
「これ,可愛くないんだもん。チェックのやつにしてねって言ったじゃない。あーもうすぐ先生来ちゃう。」
僕はくるりと引き返し談話室まで戻ってしばらく外の景色を眺め,紙コップのお茶を1杯飲んでから再び彼女の病室へ向かった。
カーテンを開けて奈緒子さんが出てくるところだった。
「あ,先生,よろしくお願いします。」とだけ言って奈緒子さんは足早に部屋を出ていった。
滴ちゃんは口をぎゅっと閉じたまま毛布を首のあたりまでたくし上げた状態でベッドの上にいた。
「あれ?どうしたの。お母さんとケンカした?」
滴ちゃんはちょっと間を空けてから小さく頷いた。
「そっか。それくらいのパワーが出てきたってことだよね。良かったじゃない。」
前回より多めにプリントを用意したのにも関わらず,彼女はあっという間に数学の問題を解き終えた。
高卒認定テストのために僕が教えることはほとんど無いような気がした。
でもそれを認めてしまうと僕がここにくる大義名分が無くなってしまう。
それも困ったことだ。
僕はさっそく古いノートを取り出し,手書きの「OS(大城)地球カレンダー」を見せた。
「地質時代でいうと今は新生代。これは6700万年くらい前から現在まで。」
僕は,黒板の前に立つ大城先生を思い浮かべ,同じ口調で淀みなく説明しようと試みたが,記憶が途切れ途切れで,何度も立ち止まってしまった。
それでも彼女は“歴史時代が30秒に満たない”という事実に中学生の時の僕と同じように驚いていた。
「昔の人達はどうやって暮らしていたのかしら。」
彼女の脳内旅行が始まろうとしていた。
僕は地図帳を広げ,カナダにある世界遺産『バファロー狩りの断崖』の話をした。
『バファロー狩りの断崖』Head-Smashed-In Buffalo Jump
カナダ南西部アルバータ州にある世界文化遺産。1981年登録。5000年以上前から先住民ブラックフット族がバファローの追込み猟を行っていた場所。ブラックフット族は高さ10~15mの断崖にバファローの群れを追い込んで飛び込ませ,崖下で槍や石斧を持って待つ者がとどめをさした。バファローは食糧としてはもちろん,皮はテントや衣類,骨や魚は生活用品に加工された。1938年からの発掘調査によって,10m近くにわたって層を成すバッファローの骨や,解体に用いた道具が発掘されている(世界遺産検定公式テキストより)
僕が世界遺産の説明を始めると,彼女は決まって人差し指を唇にあて考え事をしているように視線を窓際のカーテンの方に移しながら僕の声に耳を傾けた。
その仕草が僕はとても好きだった。
彼女の意識は瞬時にして世界のあらゆる場所,あらゆる時代に移動可能だった。
それは生来の資質なのかもしれないけれど,長期間閉塞された空間に居続けることで蓄積されたエネルギーがその能力を加速させたのではないか,と僕は思った。
「バッファローの肉って美味しいのかしら?」
「さあ,食べたことないから分からないけど。究極のジビエ※3だもんね。きっと美味しいよ。中島先生は熊やカンガルーやワニの肉を食べたって言ってたけど,全部美味しかったって。そうだ,忘れてた。これ中尊寺のお土産。」
僕は小さな栞の入った封筒を渡した。
「ありがとうございます。わあ,金色堂って本当に金ピカなんですね。」
絵はがきを見ながら彼女は言った。
「昔は岩手県でも金が採れたんですか?佐渡の金山※4とかは聞いたことありますけど。」
「うん,昔はね。今は鹿児島県の菱刈※5っていうところしか金鉱山はないんだけどね。でも,実は金の埋蔵量が一番多いのは実は東京なんだよ。」
「え?」
「都市鉱山※6て,聞いたことない?」
「言葉だけは聞いたことあります。」
「東京は日本で一番人口が多いよね。23区だけで950万人以上が暮らしている。そして各家庭にパソコンやスマホ,ゲーム機が普及している。こうした電気機器には金,銀,プラチナなどたくさんの金属が使われているんだ。使わなくなって引き出しの中に眠っているスマホやPCを全てリサイクルすれば,日本は海外から一切輸入しなくても十分賄えるだけの金属が既に大都市に貯蔵されている,って言われているんだよ。」
「へえ。知らなかった。」
「まあ,リサイクルにはコストも掛かるし,個人情報の保護とかの問題もあるけどね。でも自然の鉱山から採掘するよりも環境に与える影響も少ないから注目されているんだ。」
「それって大切なことですよね。」
彼女は封筒から栞を取り出して「え,これ本物の金?」と言った。
「まさか。それが純金だったら,僕は破産※6してるね。」
「そっか,確かにちょっと軽いかも。金の比重※7は19.32だし。」
「さすがだね。化学は得意科目なんだよね。」
「先生は?」
「高校の物理化学の授業はまるで先生がドイツ語で話しているみたいに聞こえたよ。」と言うと,この日初めて彼女は白い歯を見せて笑った。
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※1 フェアトレード
フェアなトレード(公正な取引)を通じて,途上国における生産者の経済的自立を助けようという試み。かつて先進国の植民地であった熱帯地域の農作物のうち,特に近年はチョコレート(カカオ)やコーヒー,衣類等の分野で目にする機会が多い。例えば,日本のスーパーで400円のインスタントコーヒーを買ったとする。コーヒーの産地は南米・アフリカ・東南アジアなどの途上国に集中しているが,その末端のコーヒー栽培農家の人々の収入は,400円のうちの5円にも満たない,と言われている。農家には価格を決定する権限が与えられていないからである。こうした状況はフェアではないのではないか,正当な値段で買い取ることで彼らの生活水準を向上させるのに寄与できるのではないか,ということで1970年代ころから欧米を中心に広がりを見せている。ただし,商品が割高になってしまったり,フェアトレード認証を受けた商品の販売に関する規定が曖昧だったりするなどの問題点も指摘されている。
※2 山形で買ったバター
東北は日本の穀倉地帯と呼ばれるほど米の生産が多い地域だが,2022年の出荷額でみると日は畜産品の方が多い(34%。米は26%)。日本全体で見ても1970年代まで1位だった米は,現在は畜産・野菜に次いで第3位である。大きな流れで言うと,日本国内の農作物の生産は“徐々に単価の高い品目にシフト”している。安価な労働集約的な製品を途上国で生産し輸入する,という工業と同じ傾向が見られるのである。ただし日本国内での家畜の飼育頭数は豚・牛・鶏いずれも減少傾向でこれは東北だけでなく全国で進んでいる。背景には後継者不足や輸入畜産物の増加,輸入飼料の高騰などがある。
※3 ジビエ
家畜として人間に飼育されていない野生の鳥や獣の肉のこと。ジビエ(gibier)はフランス語で野生の肉を意味する。フランスの上流階級の間では古くから食材として使用されてきた。現在もフレンチやイタリアンでは秋冬の食材として多用されている。日本でも鹿肉やイノシシ肉は西洋風の食事が普及する明治時代以前から食されてきた。近年,鳥獣被害が拡大していることや高タンパク・低カロリーな肉質が健康志向の強い人々の関心を呼んでいることもあり,2018年には農林水産省で「国産ジビエ認証制度」が制定され,適切に処理された安全なジビエを提供する機会が増えている。
※4 佐渡の金山
新潟県北西部の佐渡島(面積855㎢・東京23区の約1.5倍)の佐渡金山は江戸時代初期に開山された。1603年に徳川幕府の直轄地となり佐渡奉行所が置かれ,小判の製造も行われ江戸幕府の財政を支えた。1989年に資源枯渇のため操業を停止したが,2024年日本で26番目の世界遺産(文化遺産)に登録された。
※5 菱刈鉱山
鹿児島県北部の伊佐市にある金・銀鉱山。現在日本国内で商業的規模の操業が行われている唯一の鉱山であり,埋蔵量,産出量とも日本最大である。菱刈は江戸時代から金が産出されていたが,1981年に新たな鉱脈が発見され1985年より住友金属鉱山により採鉱が行われている。鉱石中に含まれる金の含有量が一般的な鉱山の約8倍もあり,世界的に見ても高品位の金鉱山である。現在推定される金埋蔵量は250tで,今後の調査でさらに埋蔵量が増える可能性があり,現在日本では新たな採掘技術の進歩を背景に,北海道や九州など採掘が終了した鉱山周辺の地域を中心に,外資系企業(カナダ・オーストラリアの5社)による金鉱脈の調査が進められている。
※6 都市鉱山
地下資源がほとんど採れない日本,というのは地理学習の大前提になってしまっているが,実は日本は“世界トップレベルの資源大国”である。国立研究開発法人物質・材料研究機構によると、日本の都市鉱山に眠る金の総量は世界の埋蔵量の16%に相当する約6,800t,銀は22%に相当する約60,000tにもなるという。環境省によると,自然の金鉱山から採れる金鉱石1tに含まれる金は約5グラムなのに対し,1t分の携帯電話からは約280グラムの金が採取できるという。2021年に開催された東京オリンピックでは,メダリストに授与される金・銀・銅メダルの全てが都市鉱山によって賄われたことが話題となった。
※7 僕は破産
金の価格は近年高騰している。2000年には1g1000円程度だったものが,2023年に初めて10000円を突破し2025年には15000円近くまで上昇している。価格高騰にはいくつもの要因が考えられるが,その一つに,紛争などによる世界経済の不安定化がある。2001年ニューヨーク同時多発テロ,2008年リーマンショック,2020年コロナショック,2022年ウクライナショックなど,将来への不安が拡大すると,一般に債権や株ではなく現物のモノに対する需要が高まる傾向がみられる(大地震の後の食料備蓄が増えるのと同じ心理かと思われ・・・)。
※8 金の比重
比重とは水の密度を1とした時のそれぞれの物質の密度を表したもの。単位はない。金は水の19.32倍重いということになる。金は金属の中では比重が重いグループに入る。金より比重が大きい金属はプラチナ(白金)21.45など小数である。ちなみに鉄は7.87,銅8.93,1円玉の原料であるアルミニウムは2.7である。