見出し画像

【第48話】マザー牧場で生贄について考える

新年度が始まった。
僕たちは3年生になった。
中島ゼミは助手の新谷さんが暫定的に引き継ぐことになった。
大学では1~2年は教養課程で,3年生から正式にゼミの所属になる。
僕達3人は大学入学直後の最初の地理の講義のあと,講師室に質問をしに行ったことがきっかけで中島先生に気に入られ,ゼミ室に出入りしたり飲み会に参加していただけなので,やっと正式にゼミのメンバーになれたというわけだ。
 
僕はナミビア行きの資金(および普通自動車運転免許取得の資金)を貯めるべく,オッキアーリと中島ノートの整理に加え,赤嶺君に紹介された東新宿にある進学塾の非常勤講師を始めることになった。
赤嶺君は既に主力講師の1人になっていて,上位クラスを担当していた。
国立大学合格を目指す文系の高校生に,地理だけでなく日本史や世界史も教えていた。
博識な彼にしかできない仕事だった。
僕は主に中学生の基礎クラスの数学と社会の担当になり,彼ほどの重圧はなかったけれど,教室らしい教室でまとまった人数の中高生を相手に授業をすることになった。
牧歌的な雰囲気のオッキアーリと違って,独立した講師の控室とタイムカードがあり,予習の負担が一気に増えた。
最初の授業の前日に紺のネクタイを買った。
 
新たなルーティンに慣れてきた週末,初心者マークの赤嶺君がクルマの運転練習をしたい,と僕とミドリをドライブへ誘った。
「免許を取ってからが本当の練習なのさ。」という赤嶺君がレンタカーを運転し,助手席にミドリを載せ九十九里※1へ出かけた。日本最大の海岸平野※1だ。
 
ミドリは鼻歌を歌って機嫌が良さそうだった。
「海無し県出身者としては太平洋見るとテンション上がるのよ。水野君,長野県以外の海無し県を全て言いたまえ。」
ぼくは面倒くさそうにゆっくりと
「ぐんま,とちぎ,さいたま,やまなし,ぎふ,しが,なら。」と言った。
「正解。じゃあ,その中で一つだけ仲間外れはどれ?」とさらにミドリは続けた。
「そりゃあ,滋賀県でしょ。琵琶湖※2があるから事実上海に面しているのと同じってことだよね。実際に滋賀県民は海水浴じゃなくて湖水浴してるし,琵琶湖のことを“うみ”って言うよ。」
「ふふ,まあそう答える人が多いわよね。」
「違うの?」と僕が言うと,眉間にシワを寄せ前方を見つめたまま「奈良県。他は全部隣接してる。」と赤嶺君が自動音声のように言った。
 
外房のあたりは100年以上も猛暑日※3が無い,とラジオから聞こえた。
一般的に海岸沿いの街は猛暑になりにくい。
最近毎年のように最高気温が40℃を超えました,とニュースになるけれどそれらは全て内陸の街だ。
沿岸部は比熱の大きい巨大な水の塊がすぐ近くにあるので気温が上がりにくいのだ。
那覇はまさにそれさ,と赤嶺君は海辺の休憩所で炭酸水を飲みながら言う。
「那覇の最高気温は真夏でも32℃くらい。猛暑日はまずないんだ※3。その代わり日差しがヤバいのさ。沖縄の夏は暑いというより〝痛い〟って感じなんだ。日差しじゃなくて“日刺し”なんだ。太陽光線が本当に針みたいに刺してくるんだ。夏の日中にビーチに出ている人はみな観光客ってすぐ分かる。うちなんちゅ(沖縄人)は日中に海に出たりしない。昼間は家でゴロゴロして夕方になってからようやく海辺に出るんだ。」
 
房総に来たので,半島南端の野島埼近くに分布する巨大なブロッコリーの群落のような照葉樹※4の森を見たいと思っていたけれど,マザー牧場※5に行きたいというミドリの提案が採用され,僕らは南下するのを止め房総半島を東岸から西岸へ横断することにした。
 
牧場は休日とあって家族連れで混雑していた。
羊の大行進を眺め,ふれあいコーナーで山羊にえさやりをした。
ミドリが山羊を撫でようとして「ああ。」と大きな溜息をついた。
「どうしたの?」
「私ってね,変なクセがあって,楽しい時のピークに辛いこと思い出しちゃうの。」
「それが今のため息ってこと?」
「うん。生け贄の写真を思い出しちゃった」
赤嶺君が苦笑した。
 
それは,トルコを旅していた時に中島先生が偶然出合ったイスラムの生贄祭り※6の日の一連の写真だった。
― 数十頭の羊が集められごったがえしている田舎のマーケット。
― 3輪バイクの荷台に手足を縛りつけられ買われていく羊たち。
― 民家の庭先で棒に吊される羊。
― 鋭利な刃物で前脚が切断される瞬間。
― 地面に掘られた穴に流れ込む鮮血。
― 血で汚れたシャツを着た農夫が持つ肉塊から立ち上る湯気。
そんなスライドショーの映像がミドリの頭の中でリピートされたのだ。
 
家畜とは天然の貯蔵庫だ,と中島先生は言った。
穀物や野菜が豊作になって食べきれない時があったとする。放っておくと腐ってしまう。
そこで家畜に食べさせて一時的に蓄えさせる。
穀物や野菜が不作で食べものが足りなくなった時はその家畜を殺してその肉を食べればヒトは生き延びることができる。
穀物の生産量は正確に予想できないから,家畜はその調整弁の役割を担っている,と。
 
「理屈では分かるけれど,こうやって鼻の穴フカフカ動かしながら餌を食べてるとこ見るとそう簡単に割り切れないわよね。君たちは貯蔵庫だよ,なんて。」
「その感覚は分かる。」と赤嶺君も同意する。  
彼が和歌山に住んでいた時,近所に鶏を捌くのが上手な老人がいた。
友達に誘われ,鶏が解体されるのを見に行ったことがあるという。
まな板の上に乗った鶏は手足がガッチリ太く,老人は「こいつは手強いな」と言いながら中華包丁を右手に掴んだ。
老人は赤嶺君がアッっと声を上げる暇もなく一瞬でその太い首をスパっと切断した。
その時老人の手が一瞬緩み,首のない鶏が突然動き出し、鮮血をまき散らしながら小学1年生だった赤嶺君の方へスタスタと歩いてきた。
首のない生き物がこちらへ突進してくるというホラー映画のような光景の中で,赤嶺君は大声を上げながら全力で駆け出した。
それ以来その老人の家には寄りつかなくなった,という。
「鶏肉は今も苦手なんだよね。」
――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 九十九里(くじゅうくり)/海岸平野
海岸平野は離水海岸の一つ。離水とは海水面の低下(陸地の隆起)によって海面下であった土地が陸地化すること。浅い海底の場合は広大な砂浜が形成されることが多い。日本最大の海岸平野が千葉県の房総半島北東部に位置する九十九里平野である。南北約60km,東西約10kmにわたる極めて低平な地形で,最高点でも10mほどしかない。海岸線と並行して浜堤と呼ばれる砂丘列が何列も形成されている。同様の地形はアメリカ合衆国南東部フロリダ半島周辺にも広がっている(日本列島がまるごと入ってしまうほどの大きさ)。
 
※2 琵琶湖
滋賀県にある日本最大(669㎢)の湖。滋賀県の面積の6分の1を占める。400万年以上前に形成された古代湖(約100万年以上存続している湖)。一般的に湖は流入する河川からの堆積物で湖が埋め立てられるため寿命が数千年から数万年と言われている。古代湖の多くは,断層によって深い裂け目が生じた結果生まれた構造湖である。琵琶湖には大小400本以上の流入河川があるが,流出するのは瀬田川のみである(その後宇治川・淀川と名前を変えて大阪湾に注ぐ)。1960年代の高度成長期に生活排水の流入で富栄養化と水質汚濁が進み,滋賀県では水質改善のために独自の条例を制定した。また,1993年に水鳥等のための湿地の保全を目的としたラムサール条約の登録湿地となり,環境改善への取り組みが強化された。
 
※3 猛暑日/沖縄・外房に猛暑日はまずない
1日の最高気温が35℃を超える日のこと。近年40℃を超える猛暑や夏の最高気温の更新頻度が高まったことを背景に,2007年気象庁において「生命の危険を呼びかける」目的で予報用語改定の際に新たに誕生した語である。最高気温が30~35℃の時は真夏日と呼ばれる。気象庁のデータによれば,2024年の6~8月に猛暑日の多かった上位の都市,日田(41日)京都・高松(40)名古屋・鹿児島(39)熊谷・岡山(38)甲府(37)に対して,那覇は8日だった。それでも猛暑日8日というのは観測史上最多で,1916年の記録に108年ぶりに並んだとニュースになった。また,外房に位置する千葉県勝浦市では記録が残る1906年以来一度も猛暑日を記録したことがない(過去最高は1924年8月の34.9℃)。勝浦市では沖合の海底が急に深くなっている場所があり,冷たい海水が湧き上がってくる場所にあたるため気温が上がりにくいらしい。
 
※4 照葉樹  
温暖湿潤気候(Cfa)の低緯度側や温暖冬季少雨気候(Cw)に見られる常緑広葉樹のこと。温帯地域に分布する植生のうち,大陸西岸の夏季に乾燥する地中海性気候下に多い硬葉樹林(オリーブなど)に対して,照葉樹林は大陸東岸の冬季乾燥するモンスーンアジア地域に広く分布する植生である。常緑樹なので,高緯度地域には分布しておらず,北海道や東北地方ではみられない。さらに開発等によって自然の状態の照葉樹林はきわめて少なくなっている。西南日本の暖流(黒潮)が流れる太平洋側の沿岸部の一部に分布している。葉が厚く光沢が強いのが特徴。代表的な樹種としてカシ・シイ・クスなど。
 
※5 マザー牧場
千葉県富津市にある観光牧場。1962年開設。牧場以外にも観光農園,花畑,レストラン,遊園地,観覧車,宿泊施設なども整備されており,様々なイベントも開催され,動物とのふれあいや手作り体験などもできる。2022年には年間77万人の入場者があった。
 
※6 イスラムの生け贄祭り 
イスラム教の二大祭日の一つでイード・アル=アドハー(犠牲祭)と呼ばれる。毎年イスラム暦の12月に4日間にわたって世界中のムスリム(イスラム教徒)によって行われる。子供の代わりに羊を差し出したというコーラン(聖典)に書かれた話に基づいている。二大祭典のもう一つは断食(ラマダン)明けに行われるイード・アル=フィトルである。
 

いいなと思ったら応援しよう!