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慈愛と平和とスポーツと

今回も後進の体育系の学生に向けて、参考になるかならないかは不明だが、「スポーツについて深く考えてみる」1つのきっかけとして、私の経験談を書いてみる。

昨年、非常に短い期間だったが、長崎で仕事をさせていただく機会に恵まれた。その長崎には、体育大学サッカー部の後輩がいる。その彼が「ちょっと時間ありますか?ぜひ見てもらいたい場所があるんです」といって、最初に案内してくれた場所が「日本二十六聖人殉教地(西坂公園)」だった。

JR長崎駅からも近い丘の上に史跡「日本二十六聖人殉教地」がある。豊臣秀吉のキリシタン禁止令により、宣教師6人と日本人キリスト教信徒20人が、京都・大阪から歩いて長崎に来て、殉教(処刑された)場所だ。その中には、子供も含まれている。なぜキリスト教を信仰しているという理由だけで、処刑されなければならなかったのか。資料館を見学し終えて、言葉が見つからなかった。彼らはキリスト教への信仰心を捨てずに、貫き、殉教を選んだ。こんな歴史、事実、こんな世界があったのか。衝撃だった。それからは、長崎(日本)へのキリスト教の伝来の歴史、思想、街や人々とキリスト教の関係を理解しようと、沢山の史跡や資料館、教会に足を運んだ。

さて、もう1つ。長崎・広島といえば被爆地である。広島の子供たちは教育の一環で平和記念公園、原爆ドームや資料館で、戦争の悲惨さ、平和の尊さを学ぶ。だからこそ広島の人たちは「平和」に対する意識・感覚が他の都市と比較して高いと思っている。私は、長崎に来て平和公園、資料館、山王神社の被爆クスノキ、一本柱鳥居など、自然に足が向き、長崎における被爆の歴史を学んだ。

あらためて思うのは、私たちは、争う世の中ではなく、平和な世の中であるからこそスポーツを享受できる。また、逆にスポーツを通じて、フェアプレーの精神だったり、相手を思いやるリスペクトの精神だったり、人種を超えた連帯の素晴らしさだったり、平和の尊さといった社会に対してポジティブなメッセージを発信することができる。

加えて、長崎の高田明社長は「スポーツを通じて愛と平和のメッセージを長崎から発信したい」と、いつもおっしゃっていた。「愛とは慈愛です」とも言われていた。長崎だからこそ「平和」というキーワードに加えて、「愛(慈愛)」が大切なキーワードになるのだろう。慈愛という言葉の背景にはキリスト教の思想が強く影響しているのだろうと私自身は解釈している。

最後に、毎度毎度のnoteに書いているが、物事の本質を見極める・考えるためには、歴史、気候、風土、文化、食文化、風習、価値観、宗教、社会構造などの背景を理解することが重要であり、必要だと思っている。学校の教科書で表面的に学ぶだけではなく、可能な限り実際に現地に足を運んで、見識を深めたいものだ。学びがあれば新しい発見につながり、自分自身の成長につながると思う。長崎で、キリスト教について考えるきっかけを与えてくれた、キリスト教徒の後輩にはいつも感謝している。

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