【体罰指針問題】いやいや。私、もし子供が人の物を盗んだら絶対、体罰する自信あるよ。
今日、子供の体罰に関する記事を見かけました。
うちの子は7歳と4歳、はてさてどう教育していったらいいやら・・・と毎日のように考えている私にとっては、少々気になる記事です。
なになに・・・
・・・
はぁあああ~~~~?(゚Д゚)
これ、なんなの? 何なんですか?
体罰が問題になってるのは分かります。時代的にも「叩いてしつけるなんて前時代的」という考えの方が多くいらっしゃるのも分かります。
でも、これを見て「躾、しつけ、しつけとは。。。」と考え込んでしまいました。
◆「人としてあるまじき行為」より、「お尻を叩く」方が悪いのか。
特に気になったのが、④に書かれていた
「④他人の物を盗んだ罰で尻を叩く」
です。
要素に分けると『他人の物』を『盗んだ』→『罰』で→『尻を』『叩く』ということ。
「体罰」を問題視しているので、体に対する罰、つまり身体的な危害を加えることを注視しているのでしょう。
でもね、待って待って。
「他人の物を盗んだ」という窃盗行為と、「尻を叩く」という危害と、どっちが与える被害が重いかという話です。
盗んだ物が鉛筆一本だから「ダメよ」の一言でいいのか?
盗んだ物がダイヤモンドだったら、本当にそんなこと言えるのか?
そもそも、盗むという行為自体、金額の大小では推し量れない、相手の気持ちも価値観もすべてを無視した非道な行為であるということを全く理解していないということではないか?
「子供を育てる」という上で、我が家で大切にしていることのひとつは「相手を思いやる」です。
でも、それを掲げている家はきっと多いことでしょう。
それでも、他人の物を、出来心で盗んでしまう子が出てくることもあるでしょう。
そんなとき、「相手の人生にとって、今、何が一番必要なのか」と考えたとき、万が一人の道を踏み外したなら、尻を叩くという選択肢を取る親はいるんじゃないかと思います。
(しかも『尻』ですよ『尻』!おしりぺんぺんですよ!平手打ちや背負い投げより、よっぽど思いやりのある罰だと思います!)
それと、教育にとって、ものすごく大事なのはタイミングだと思うんです。
相手にとって「大変なことをしてしまった」と感じる、ホットな瞬間にホットな伝え方で気持ちをぶつけないと、相手の深いところに響かないと感じます。
私が「おしりぺんぺん」の手段をとるかはわかりませんが、少なくとも長時間正座で説教は十分あり得ます。
(でも「長時間正座」も体罰の一種だというんでしょう。どうすりゃええねん)
ただ、おそらくそのとき、私も一緒に正座をして、ひたすら話し続けるとは思います。
1時間でも、3時間でも、1日中でも。
子供が、本当に理解するまで。それで相手の気持ちや重大さを知れる子供になるんだったら、正座ぐらい、いくらでも一緒にします。
“叩いた親の手は、もっと痛いんだ!”
なんて言葉が陳腐化する時代かもしれませんが、私は「人としてあるまじき行為」を子供がしたならば、どれだけ体罰だと言われてもいいから、責任をもって子供に罪を意識してもらい、共に罪を被るつもりでいます。
それが、子供を一人の人間として送り出すまでの、親としての責任だと思うから。
ひどい体罰やネグレクトに追いやられている子は何が何でも救うべきだと思いますが、本当に信念と愛情を持って、一人の人間と向き合うために強い行動に出た勇気ある相手を、ひとくくりに体罰だと言ってしまうのは違うと思います。
しつけって、本っっっっっ当に難しいです。
子供も、親も、百人百様の考え方があり、またそれ以上の組み合わせがあります。
そのうえで何が最善なのかは誰にもわかりませんし、体罰はダメだ!というのも社会として良い方向なんでしょうけど、、、、
どうにもこうにも、考えさせられてしまうのです。。。