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やりたいことがなくなった今
子どもの頃から、「やりたいことをやりなさい」と言われながら育った。とても有り難いことだと思う。
私自身も、「やりたいことをやることこそ人生」だと疑ったことがなかった。「夢がない」と言う友人や兄弟の気持ちが、半分理解出来て、半分出来なかった。
社会人になって、初めての転職をした。
「正社員」という肩書きが、社会にとってほぼ絶対的な立場を持っていることを初めて知った。
転職活動が、こんなにあらゆる所にぺこぺこしながらやらなきゃいけないのだと、初めて知った。
私は「やってみたかったこと」と称して、書店員に挑戦してみた。
転職活動を通して色々刷り込まれた後で、非正規になることが正直怖かったけど、「やってみたいこと」という大義名分を掲げて飛び込んだ。
「やってみたいこと」が、四大に進ませてくれた親や、転職に対して背中を押してくれた前職の先輩方への「免罪符」になると思っていた。
やってみた感じ、「仕事だな」と思った。
それは事実であり当たり前なんだけど、物心付いてから、すっかり夢見がちな人間になり切っていた自分は、こんなものかと思ってしまった。
それは業務を馬鹿にしている訳ではなく、学生時代からずっとやりたかったことに手を出せば、もしかしたらうきうき感や、充実感を感じながら仕事が出来るのではないかと思っていた。
前職の先輩が、その仕事が大好きで、キラキラしながら仕事をしているのに憧れていた。自分もその第一歩を踏み出せるかと思っていた。
親にも、ずっと「好きなことをやりなさい」と言ってもらえて来た。私も、そんな風に生きたい。
「好き」ってどういうことなのか。
分からなくなった自分は、仕事や人生に関するあらゆる動画や本を、半分趣味としても見るようになった。
ある動画は、「仕事の好きは、遊んでいる時のような楽しい感じとは違う」と言っていた。
じゃあ自分も、今の仕事をちゃんと好きかもしれないのか。
ある本は、「将来の夢=仕事や職業だけではない」と書いてあった。
それはそうだよな。ただ、自分は仕事も好きなものじゃないとやっていけないタチだと思うんだよな。
気がつけば、「やりたいこと」が分からなくなっていた。いや、無くなっていた。
「書店員」という自分の中のビッグな夢に足を踏み入れたことで、目的を見失ってしまった。自分は、この職業に多大な期待を抱き、執着していたことを痛感した。
この職業の中身に対する向上心を失っている訳ではないが、自分の中では8割型、「夢」が単なる「仕事」に変わってしまった。というよりは、自分が鉱物を勝手に光り輝く宝石だと思っていただけで、その鉱物自体はずっと鉱物なのだ。私がそういうレッテルや妄想を貼り付けていただけ。
転職と同時に初めての一人暮らしをし、お金もない。収入も多くはない。やりたいことも思い浮かばない。こんな姿、周りの人に話せない。
そんな時、好きなYouTuberの動画をきっかけに、ひろさちやさんを知った。
図書館で何冊か読むようになって、びっくりした。
「夢や目標なんていらない」
「「夢や希望を持つのが人生というものじゃないか」したり顔で大人はそう説教しますが、「じゃあ、あなたはそれで幸せになったのですか?」」
夢や目標を掲げて、幸せになった人もきっといるんだと思う。ただ、それはずっと向上し続けて、即ち現状を否定しながら前へ前へと進む、「ストイックな幸せ」。
私の成りたい幸せの形とは違うことに気付いた。
ずっと自分が嫌いだった。嫌いだったから、苦手を克服したり、何かになったりすることで、幸せになろうとしていた。
でも本当は、安らぎたかった。色んなことに敏感で、ネガティブなので、大きな幸せとかいらないから、安穏の日々が欲しかった(と昔友人に話したら、吉良吉影と言われた)。
安らぐためには、「自分が嫌い」という執着を捨てる必要があることを知った。
夢や目標を見失い、立ち尽くしてたら、今の自分を認め、楽しみたいという夢が出来た。
正確には、「私」もずっと変わりつづけているけれど、その都度の「私」を認めたい。
「引きこもりは、引きこもりのままで良い。病人は、病人としての今を楽しめば良い」
心の支えになっている本の言葉。
絶対に試練や困難はこの先も待っているだろうけど、私はただ私として、死ぬまでゆったりと生きていきたい。