経営学者山本安次郎の経営哲学論としての「学説の研究と理論の提唱」は,戦争の時代に対峙する学問として満洲国「建国大学」で発想
※-1 2023年7月19日の「前文」
経営の哲学「論」から観た「学説・理論の研究」を吟味するとしたら,社会科学論としていかなる方途を展望できていたのか,という論点が付きものであった。本日のこの記述は,経営学の領域で登場していたその種の問題意識をとりあげ,その具体的な展開を分析し論評する。
戦中から敗戦をはさみ戦後にまで活躍していくなかで独自の経営理論を提唱した山本安次郎の経営理論は,日本独自の学説提唱として検討されてよい価値があった。しかし,その真価の継承は,若干名は存在した「山本安次郎の本当の継承者」であっても,理論的に芳しい成果を挙げえなかった。
本日のこの記述は,そのあたりにかかわった論点となるが,山本学説が学問の展開途上で体験してきた「戦争と体験」,そしてその過程のなかで新たに蓄積してきた「理論の特性」は,旧・満洲国(中国では偽満洲国と呼称)とのかかわりを配慮に入れて解明されるべき課題であった。
ところがそのもっとも肝心であったはずの山本安次郎の経営学における歴史的な背景ないしは基盤を,弟子筋に位置していた学究はほとんど触れることがなかった。つまり,その種の問題意識を示すことがなかった。
付記1)冒頭の画像資料は,文眞堂から1997年に公刊された。
付記2)本稿の初出は「旧々ブログ」の2012年1月30日であったが,2014年3月27日に更新されたのち,本日の三訂版となっている。
※-2 経営哲学学会編『経営哲学の授業』2012年1月
1) 経営学者の経営哲学しらず
先日(当時),経営学史学会創立20周年記念として企画・刊行されはじめた,その第1冊めの「経営学史叢書」Ⅳ,経営学史学会監修・藤井一弘編著『バーナード』 (文眞堂,2011年12月30日)が,著者より献本されてきた(感謝!)。
実は,その数日前に,経営哲学学会編『経営哲学の授業』(PHP研究 所,2012年1月12日)も,こちらはこの学会に所属する全員に配本(配達)されていた。
本ブログの筆者は,最近(当時)たいそう評判になっている〈サンデル教授の特別授業〉風をまねたかのような題名を付けた後著,経営哲学学会編『経営哲学の授業』2012年の中身のうちでも,とくに関心のある箇所のみさきに目を通してみた。そのまえに本書の「詳細」と「主要目次」を紹介しておきたい。
この経営哲学学会編『経営哲学の授業』のうち,本当に読む価値があるとみなせるのは,率直にいって厚東偉介の執筆した「経営哲学の未来に向けて-経営哲学の諸部門と基礎的課題-」(285-304頁)だけだと感じた。
厚東偉介のその論稿の特長は,本書に収録されている他稿とは顕著に異なっており,純粋理論志向の筆致に徹底している。ただし,その点:特徴について苦言を呈するならば,いったいなにを核心において主張したいのか分かりにくかった。
補註)その後,厚東偉介『経営哲学からの責任の研究』文眞堂,2014年が献本された。この本は福島第1原発事故を問題にとりあげていた。本ブログの記述もこの世紀に記録される大事故になんどか言及してきた。
厚東のその論稿「経営哲学の未来に向けて-経営哲学の諸部門と基礎的課題-」は,末尾において「『信頼』と『多様性』の保持にその基礎を求め,社会生活全体の安全・安心を確保しなければならない」(303頁下段)と主張している。
けれども「経営哲学」なる学域が,社会科学の他分野および人文科学の諸領域における研究成果を,どのように摂取・消化しているのか,とりとめのない衒学的な議論に聞こえてならなかった。
同稿は「経営哲学-経営思想-経営理念」という一連の基本用語に関する説明に関して独自性ある言及がなされていたものの(289頁中段-291頁下段),そこに定座させておきたい基軸はなんであったのか,これを据えるための吟味にまで至っていなかった。
また,論旨の構成をもう少し整理し,読みやすい体裁で説明してほしかった。研究者=大学の先生によくある自己満足・自説内充足的な論述になっていなかったか(?),という印象を抱いた。
補註)この感想は必然的に,前掲した厚東の単著『経営哲学からみた責任の研究』にも当てはまる。もっとも同一著者の書いた文章だから,そういわざるをえないが……。
2) 野中郁次郎の無知,非学問的な感想にもとづく「問題発言」
経営哲学学会編『経営哲学の授業』2012年に戻る。
もう1点気になる発言を「特別インタビュー」「野中郁次郎が語る-いま哲学に何ができるのか-」が残していた。野中がどれほど偉大な経営学者かはしらないが,2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災とこれに誘発されて起きた東電福島第1原発事故について,こう論断していた。
「今回の大震災は,実際のところ『想定外』だったと思います」(経営哲学学会編『経営哲学の授業』3頁)
地震学や地質学の研究はすでに,東日本大震災級の災害が,この日本という国土を,数百年ごとに襲ってきた歴史的事実を解明している。そのなかで,門外漢の野中がどれほど災害研究をしていたかはともかく,暴論に近い感想的なこのような論評を「3・11」にくわえたとなると,これは醜態にも近い,かなりうかつな発言と指弾されてよい。以下にその問題性を説明しておく。
話は,NHKが2011年12月25日22時から放映した『ETV特集「大震災発掘」を見た』に言及することになる。この番組は「▽巨大津波新たなる脅威徹底分析 ▽密着! 池と崖の発掘 ▽2千年前の巨大津波 ▽魔のサイクルとは?」と題し,
いまでも地質に残る過去の大津波跡の研究をつづけてきた2人の研究者による地道な研究を紹介している。2011年3月11日に発生した東北から関東にかけての大地震・大津波を受けて,研究はさらに加速されているという。
註記)NHK番組表では当時の番組内容に関する解説が掲載されていないので,ここではつぎのブログによる紹介がある点を註記しておきたい。今日の時点(2023年7月19日)でも閲覧できるので,「NHK ETV特集 『大震災発掘』を見た」『上小30山のブログ』2011年12月26日の住所・リンクをつぎに挙げておく。
〔記事に戻る→〕 その1人は,南海・東南海・東海の3連動地震による津波跡を研究している高知大学理学部教授の岡村 真である。もう1人は,十勝・根室沖の連動地震による津波跡を研究している,地理学者の北海道大学名誉教授の平川一臣である。
a)「岡村 真教授の研究」は,こう紹介されていた。
イ) 三連動地震津波には周期があり,しかもこれがこの300年間起きておらず,いつ起きても不思議ではない。
ロ) 2000年前の古墳時代における超巨大津波の痕跡も発見されている。これと同規模の津波が現在に起こったら,太平洋岸の壊滅的大災害が予想される。
b)「平川一臣名誉教授の研究」は,こう紹介されている。
イ) 歴史的記録がないためにまったく分かっていなかった北海道の十勝,根室沖連動地震の周期の解明や,400年前の慶長の三陸津波の震源域が,いままで考えられていた東北沖でなく,北海道十勝,根室沖であったらしいことである。
ロ) 2011年の震災後の三陸海岸を調査して証明したのは,今回の津波があったからといって,三陸ではもう1000年間は津波が来ないなどとはいえない。というのは,その北海道沖の連動地震による大津波の周期も近づいていることを警告していた。
c) 平川一臣(現在,北海道大特任教授:自然地理学専攻)は「M9級の超巨大地震」が北海道から三陸沖の過去3500年間に7回以上発生しており,大津波が沿岸を繰り返し襲っていたことを地質調査で突きとめている。
これに「東海・東南海・南海連動型地震の震源域」による大地震・大津波の発生可能性をからめても想定する確率は,1世紀かあるいは半世紀単位でもって,その襲来があることを覚悟しなければならない。
2教授とも,こういった事実が科学的に明らかになっているのだから,もう「想定外」などということばを使ってはいけない,と語っていた。とくに岡村教授はつぎのように語っている。私たちは自然のすばらしさとともに,こういった大災害を引き起こす大地の上に住んでいる。そういった両方のことを理解しないといけない。そうでないとこの日本列島には住めないと。
「3・11:東日本大震災」をとらえて,なにを根拠にいったつもりか不鮮明であるが,野中郁次郎が「想定外」など理解したのは,門外漢の勇み足どころか,最近では危機管理の問題が経営学入門書のなかにも記述される時代であるゆえ,経営学者としての資質さえ疑わせるものになりかねない。
【参考記事】-千年の視野で認識すべき大地震・大津波の発生-
以下に指示した住所・リンクの記述,題名:「先人の教え①『ここより下に住むな』~千年の昔から,千年後の子孫へ~」『危機管理ブログ』2019年02月25日,https://www2.dpsol.co.jp/archives/51951825.html は,つぎの2項目を立てて解説している。そのなかの文章からそれぞれ一部を抜き書的に紹介しておきたい。
以上の全文は,つぎをクリックしてもらえれば読める。
※-3 戦争の時代と現代の経営理論
1) 歴史の制約,学問の性格
ところで,本ブログの筆者が経営哲学学会編『経営哲学の授業』のなかでとくに関心を惹かれたのは,第2部「経営哲学をめぐる議論-いまなぜ経営哲学が必要なのか-」に収録された,藤井一弘「山本安次郎と経営哲学」である(経営哲学学会編『経営哲学の授業』179-185頁)。
限られた字数のなかで論及するのであるから,山本安次郎経営「学説の思想と理論」を全体的にくまなく解説するのは,とうてい無理であったかもしれないという感想ももったが,ともかく,この経営哲学学会編『経営哲学の授業』で読んだなりに,その藤井の論稿を批評しておく。
藤井一弘は,以下のように述べる。1940年から1945年の日本帝国敗戦まで「満洲〔帝〕国」の建国大学に経営学者として勤務・奉職した山本安次郎,この「山本の一生は,まさに近現代日本の興亡と軌を一にしている」。山本がその「建国大学で任にあたっていた」ことじたいに「批判もある」と指摘するさい, 惜しいことに,完全に誤導的な解釈をほどこしている。
というのは,実際に自分の父が満洲国帝立「建国大学」の出身であった人物は,自分のブログのなかで,つぎのように書いている。任意に2箇所から引用する。
本ブログの筆者は,山本安次郎の学問内容を批判的に検討してきた。それも時代のなかで「彼が提唱した学説・理論の中身や実質」じたいについて,徹底的に吟味するかたちでとりあげてみた。
前段の引用の関係でいえば,後段の記述にくわしく説明されているが,山本も建国大学の教員として当時,ソ連が参戦してきたさい急遽,兵員として動員された。その結果,敗戦後はシベリア抑留という非常に辛い目に遭わされたあべく,なんとか生きのびてきた人生を体験している。
話が少し分かりにくくなるが,「建国大学に勤務した事実」そのものが「批判の対象」であると,山本安次郎のように即自的に理解するのは,方向違いの受けとめかたである。前段に引用されたが,父が建国大学の学生であった弁護士は,満洲国の建国大学のなかでこの学生たちを教える側に立っていた山本の存在意義をも,間違いなく問うていたのである
「満洲国」帝立建国大学の教官であれば,くわえて,戦時体制期から被るほかない絶対的な制約のなかに放りこまれていた経営学者の立場であれば,歴史必然的に,いいかえれば,否応なしにつまり被強制的に「国家全体主義の立場」に立たざるをえなかった。
当時において,そのような研究環境に置かれていた山本安次郎という経営学者が保持していたはずの「価値判断:社会科学としての志向性」それじたいが,どのような事情・動機で選択され展開されたにせよ,まずさきに問題にされて当然である。
2) 戦時体制期の経営学
満洲国建国大学の関係者が,敗戦後の日本〔帝〕国において,一律に白色パージされた事実はさておいても,太平洋〔大東亜〕戦争が始まる1年ほどまえの昭和15年10月22日,山本安次郎が,日本経営学会で「公社問題と経営学」という論題をかかげて研究報告した学問の成果は,その大戦争が開始される寸前の昭和16年11月20日であったが,日本経営学会『利潤統制』(同文館出版)に掲載・公表されてもいた。
山本は当時「公社経営論の歴史的意義」を「存在を媒介にしない当為は全くの抽象にすぎない」し,その「主体は常に個の性格をもつと同時に種の性格をもち,種の性格と同時に類の性格をももたねばならない」(山本安次郎「公社問題と経営学」,日本経営学会『利潤統制』同文館出版,昭和16年,248頁,245頁,251頁)。
すなわち,経営の「主体は個人,家族,民族,国家の性格ともつと同時に世界史の性格をもち,従って一面『閉ざされた世界』に属すると同時に『開かれた世界』に連るのでなければならない」と喝破した。さらに要言するならば,経営の「『行為の立場』は国家的『行為の立場』,国家的『主体の立場』でなければならない」。「公社経営論はかゝる意味にて『行為の立場』に立つのである」(251-252頁)という確信をこめた論決を下してもいた。
戦時体制期におけるこうした山本「学説・理論」の基本的な観点は,「その後における彼の経営学の骨格となる『主体の論理』も,その時代に獲得されたものである」。
それゆえ,当時における
「いわゆる内地とは異なる新たな経済体制--批判的な視点を欠いてはならないが--のなかでの経営学を考えるにあたっては,いまの言葉でいえば『ビジネスそのものの性格』を新たに問いおなすことに迫られたもした」
「彼の経営学体系のユニークさの一端を形づくっている」(経営哲学学会編『経営哲学の授業』180頁)
というふうに,藤井一弘が解釈するさいは慎重な注意が要求されていた。
3)「満洲国」体験と学問の本質
いわゆる「1940年体制」問題--この問題を切開したのは野口悠紀雄『1940年体制』東洋経済新報社,1995年--を,今日的に論じるときは,当然の要件として「満洲国体験」の反映・活用が強調されている。
だから,これと同種のあつかいが山本「学説・理論」にも要請されている,と並列的に解釈もできる。しかしながら,そうだと解釈できたとしても,この点が「彼の経営学体系のユニークさの一端」などという生やさしい次元・程度で観察すべき問題の対象ではなかった。
敗戦後, シベリア抑留を経て復員できた山本安次郎は,その後のだいぶ長い期間,満洲国経営論の目玉として理論提唱した「公社経営論」を前面にもちだすことは,あえてだったのかそれほど強くはしなかった。
なぜか? 山本自身が事後的に回顧するに,「満洲国」の時代的性格,中華人民共和国風の言辞でいえば「偽満(偽満洲国)」の歴史的な本質を,最低限は認識していたからではなかったか。
民俗学者の宮本常一は,満洲国建国大学から助手での採用話が出たとき,あいだに入った渋沢敬三に独断で断わられてしまった。というのも,渋沢は「日中戦争の泥沼化と太平洋〔大東亜〕戦争の開戦,さらには日本の敗戦まで予見し,そうなれば『満洲』は手放さなくてはならないといって」,宮本に対して「建国大を諦めるように諭したという」のである。
註記)井上 俊・伊藤公雄編『日本の社会と文化』世界思想社,2010年,143頁。
山本は経営学者として,戦時体制期の「満洲国経営問題」に骨がらみでかかわってきた体験を有する。ところが,自分自身にとっては過去における深刻な経験=問題要因であったはずの『歴史的要因』〔E・グーテンベルクが体制関連的要因として概念規定した対象〕を,あえて1945年8月以前に置き去りにしていた。
そうではあっても,敗戦後になって山本が「公社経営論」の骨格(脱け殻?)だけは,再度もちだすという事実経過が記録されていた。ところが,藤井一弘は,その論点をただちに「理論上の虚脱的な操作」とはみなさずに,山本=「彼の経営学体系のユニークさの一端」が継続されているかのようにもちあげた。
この種になる山本「学説・理論」の歴史的な筋道に即さない理論解釈は,「経営学史学会」にも所属する経営学者としてはもの足りなかった観察・分析だといわざるをえない。
山本「学説・理論」は「非常にアカデミックな性格なものであ」るし,「決して衒学的ではなく」「経営学の『実践性』を強調することにおいて」,この「山本が人後に落ちなかった」。というのは,山本が「自己の学問の社会的役割をいかに真剣に考え」ていた(180頁)からであると,藤井は山本を評価した。
だが,そのように山本の「学説・理論」を定めて評価するさい,格別に気を付けなければいけないことがあった。山本は,まさしく「満洲国建国大学の教官」時代においては,自身の立場から奉仕する精神をもって真剣に,国家のための「公社」論=「経営行為的主体存在論」を「企業理論的な立場において,しかも戦時思想論的に実践する視点」を定座させた。
確かに「山本安次郎は自分自身の生きた時代における経営学の役割というものに真正面から向き合った」し,「それが,彼をして『経営』を『哲学した』人たらしめたといえる」(181頁)かもしれない。
だが,そのように高く評価してみたところで,これと同時に,満洲国建国大学教官時代における山本が果たすつもりであった「学問の社会的役割を〔も〕いかに真剣に考え」ておかないことには,21世紀の時点から回顧する山本「学説・理論」のまっとうな学的評価はおぼつかない。
日本帝国主義時代において国許的な学説・理論を発想し,高らかに宣言しつつ構築した山本「学説・理論」の,敗戦後史的な棚卸作業を学問的な次元における基本作業としておろそかにしたまま,高度経済成長時代においてもまたもや高らか に「再」提唱された「経営行為的主体存在論」を,後進の経営学者がそのまま復唱した作法は,先達の学問成果を克服すべき任務を有する立場にあるはずの者としては,ひどくもの足りない。いくらかは不注意だというそしりを受けざるをえない「理論の解釈」であった。
4) 体制無関連的に変身していった山本「学説・理論」の問題性
最後に,参考にまで断わっておくが,山本はこういっていた。
「私見によれば,むしろ社会主義経済こそ経営学の沃野であり,その将来性を期待せしめるものというべきであ」って,「そのときは経営学方法研究論も新たな構想をもって始められるべきである」し,「経営学はこれからの学問である」と。
註記)山本安次郎『経営学研究方法論』丸善,昭和50年,341頁。この引用箇所は同書,本文,最末尾からである。
また念のためにも断わっておくが,山本安次郎流の経営学思念は,戦時体制期においても,さらに敗戦後から高度経済成長時代においても,実質的に変身しえた内容はなにもなかった。
かといって,この事実が山本の理論の一貫性を意味しているわけではなかったし,同時にまた,各格時代への適合性において問題がなにもなかったことも意味しない。
そもそも,「満洲国」時代の要求する実践に裏切られていた山本「学説・理論」は,さらにくわえて「社会主義経済体制」からも再び裏切られていたのではなかったか? すると,資本主義経済体制のなかでのその学説・理論じたいからして,もともと問題がなかったのか?
しかも「社会主義経済体制」は,1945年以前にも存在したではないか? 山本はその時期,それにはいっさい触れず,ただ,戦時体制期の「国家全体主義」に依拠する「経営行為的主体存在論」を高揚させるための「経営学の思想と理論」を,それも旧・大日本帝国に隷属していた「カイライ国家:満洲国」のための「公社経営論」としてこそ,具体的に提唱していた。
山本「学説・理論」は,一見「摩訶不思議」な,換言すれば,時代ごとにそのご都合によって,いかようにでも理論研究の対象を交換していく〔すり替えていく!〕だけの様相を,顕著に現出させてきた。
譬えていえば,それはどこまでも「自説の理論」を中心に,「経営の世界というもの」が動いている様相をえがこうとしていた。いってみれば,もっとも判りやすい天動説的な創見であった。
西田幾多郎の哲学,それも『哲学論文集第一,第二』(本書は主に1936~1937年に『思想』に公表された論文からなる。筆者の手元には『哲学論文集 第8巻-哲学論文集第一 哲学論文集第二-』岩波書店,昭和40年版がある)を,
満洲国建国大学の教官のとき読みこみ,「経営学の基本構想」に開眼したという山本安次郎は,戦争中の 「国家全体主義」に従順な「経営学の立場」を,敗戦とともに「満洲国」の建国大学に置き去りにした。
山本安次郎は,1945年8月8日ソ連が参戦してきたのを受けて根こそぎ動員され(そのとき41歳だった),敗戦後はシベリアに抑留された。なんとか生き延びて日本に帰れたのちは,こんどは「平和の国」になった日本経済のなかで「経営行為的主体存在論」にのみもっぱら依拠する経営「学説・理論」を提唱することになった。
いずれにせよ,1945年以降,「国家の立場」はすっかり忘れられたかのように,ひとまずの他者の目線に映っていた。
ところが,1975〔昭和50〕年の著作『経営学方法研究論』では,「国家の立場」を当然視する社会主義経済〔体制〕こそが「経営学の沃野」であるとも再言していた。山本は自作の他著のなかでも,「国家の立場」をちらほらと啓示することを止めてはいなかった。
建国大学時代,日本帝国の属国であった満洲国的全体主義の全面的な影響下においてこそ誕生したのが,「山本経営学流」に構築された『経営行為的主体存在論』」であった。
この源泉(原点)は,敗戦後における山本の理論展開との関連で考察されねばならなかった論点であった。にもかかわらず,まともに解明することが忘れられ,いっさい無関心の圏域に置かれてきた。その意味でいえば,藤井一弘の山本「学説・理論」に関する議論は,一歩前進していなかったとはいえない。
とはいえ,現時点:21世紀における「『企業志向経営』から『事業志向経営』へという〔山本の〕『提言』は,どのように活かすことができる」かと問うたところで,この設問形式だけではまだ,画竜点睛を欠いた提言にならないか?
ちまたの経営学界では「環境経営論」だとか「社会経営学」だとか「市民経営学」だとか,もしくは「社会共生学」だとかが,あたかもきわめて斬新な提唱として登場してきているけれども,これら経営学の新展開を試図していた学者たちのほとんどが〔ただし高齢者に限るが〕,実は,脱マルクス主義経営学者から輩出(排出?)されていたという事実は観過できない。
ただし,山本「学説・理論」のばあい「脱理論の段階・契機」は,2段階もしくは2種類を経てきたはずである。そのひとつは敗戦を契機にして,もうひとつは社会主義経済体制の崩壊を契機にして,であった。
※-4 要 約
要は,本ブログの筆者は,山本学説・理論に学ぶことはもちろんかまわないし,他者がそのことをとやかく筋合いも全然ないと考える。だが,学問・理論の歴史を研究している,それも経営学史学会にも所属している研究者が,学史的な研究視点に特定の曇りがあるのではないかと疑わせるような論究はいただけない。この点は率直に忌憚なく批判する。
藤井一弘は「戦時統制経済」という用語ではなく「統制経済」という用語しか,戦争の時代の日本経済体制に関して使用していない。また,戦争中の日本「国家が間違った意図〔なにをもって間違っていたというべきかは,それじたいが大問題であるが〕とすれば,それを志向する『経営』は,私的な金儲けのかわりに,間違った国家意思の奴隷になってしまうにすぎない」(経営哲学学会編『経営哲学の授業』〔藤井一弘〕182-183頁)と指摘していた。
多分,そのような国家経済の現象は,たとえば安倍晋三の第2次政権時においても,ひどく顕著に日本の社会経済のなかに浸透していたはずである。それはさておき,戦争の時代にあった山本「学説・理論」が,いったい,どのような「思想と価値観と立場」に立って経営学研究に従事していたのか,もっと真正面からとりくんで解明しておくべきではなかったか?
いまさらのように「歴史に学ばない者は歴史を繰りかえす」などといいたくはない。しかし,ドイツの哲学者ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel:1770-1831年)が「歴史から学ばない人間」に対する警句を放っていたことに,ここであえて触れておきたい。
☆「歴史から学ぶことができるただひとつのことは, 人間は歴史からなにも学ばないということだ」☆
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