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平成天皇明仁が「現役の時期」は「皇室生き残り:弥栄戦略」に熱心にとりくんでいた

 ※-1 本日の論題は,平成天皇明仁が配偶者とともに一生懸命に推進していた「皇室という自家」のための「よりよい生き残り戦略」を回想する

 最初に「平城京遷都記念祝典に出席した〈平成の天皇〉夫婦」の画像をかかげておきたい。

踊り手の衣装が印象的
こちらは見学した別の日程での写真

 つぎに,日本の天皇として天皇明仁が韓国・朝鮮のゆかりを強調したことがあったが,その意味はどこにみいだせたのか,という受けとめ方をしておく必要がある。


 ※-2 平城遷都1300年の記念行事

 1) 朝日新聞の報道-「平城遷都1300年の記念祝典 天皇・皇后両陛下も出席」-

 2010年10月8日,藤原京(現・奈良県橿原市)が平城京(現・奈良市)に遷都され,1300年が経った。これを祝う記念祝典が奈良市の平城宮跡で開かれ,天皇夫妻両陛下や政府代表,同県関係者ら約1700人が出席した。

 祝典は,今春に復元された「大極殿(だいごくでん)」の前庭で開かれ,雅楽演奏などに続き,708(和銅元)年に元明(げんめい)天皇が発した「平城京遷都の詔(みことのり)」を,狂言師の野村万蔵さんらがドラマ仕立てで読みあげた。

 天皇明仁は,百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫が桓武(かんむ)天皇を産んだとする続日本紀(しょくにほんぎ)を引用し,「多くの渡来人が文化や技術の発展に大きく寄与し,遣唐使によってさまざまな分野の発展がもたらされた」と述べた。

【参考資料】

高野新笠が百済王の子孫


 平城京の歴史や文化に焦点を当てたミュージカルのあと,日本と中国,韓国の子どもたちが,1300年の歴史への感謝と未来への友好をうたう宣言を読んだ。

 注記)以上,『朝日新聞』2010年10月8日夕刊。

 2) 日本経済新聞の報道:その1-「平城遷都1300年,奈良で祝典 天皇陛下『深い感慨』」-

 天平文化が花開いた平城京への遷都から今年で1300年となるのを記念する祝典が10月8日,奈良市の平城宮跡で開かれた。色鮮やかな天平衣装を身にまとった雅楽や舞,万葉集を題材にした楽劇が披露され,日本や中国,韓国の児童らが未来に向けた友好と交流のメッセージを宣言。参加者は東アジアとの交流を通じて国づくりが進んだ奈良時代に思いをはせた。

 天皇夫婦をはじめ,47カ国の大使ら内外から約1700人が出席。天皇は「百済をはじめ,多くの国から渡来人が移住し文化や技術の発展に寄与してきました」とあいさつ。「遣唐使の乗った船の遭難は多く,危険を冒して国のために力を尽くした人々によってさまざまな発展がもたらされたことに深い感慨を覚えます」と述べた。

 天皇はまた,平城京について「父祖の地として深いゆかりを感じる」とし,「桓武天皇の生母は続日本紀によれば百済の武寧王(ぶねいおう)を始祖とする渡来人の子孫」と述べ,皇室と古代朝鮮半島との縁にも触れた。

 今春復元された第1次大極殿(だいごくでん)前の特設ステージでは,平城京建都に貢献した藤原不比等に扮した狂言師の野村万蔵さんらが「遷都の詔」を朗読。大阪府の小学校に通う中国や韓国籍の児童と地元奈良の子ども約60人が「友達の輪をアジアに広げたい」と声を合わせ,「私たちの平城遷都1300年宣言」を発表した。

 注記)以上,『日本経済新聞』2010年10月8日夕刊。

 3) 日本経済新聞の報道:その2-「復元大極殿を両陛下が見学,平城遷都1300年を記念」-

 天皇夫婦は10月7日,平城遷都1300年を記念して国特別史跡・平城宮跡(奈良市)に4月に復元された第1次大極殿(だいごくでん)を視察し,二重屋根に朱塗りの柱の重厚な造りが特徴の巨大建築をみてまわった。大極殿は天皇の即位など重要な儀式に使われた施設で,夫妻は再現された高御座(たかみくら)などを見学。

 天皇は案内した奈良文化財研究所の田辺征夫所長に「(柱に使われた木材は)どのへんからとってきましたか」などと尋ね,田辺所長は「吉野の杉を使った」と応じた。

 注記)以上,『日本経済新聞』2010年10月8日朝刊。

 4) 産経新聞の報道-平城京に深いゆかり感じる 両陛下が平城遷都1300年記念祝典にご出席-

 大極殿でおこなわれた平城遷都1300年記念祝典に出席した天皇夫妻は10月8日午前10時59分,奈良市(大塚聡彦撮影)大極殿でおこなわれた平城遷都 1300年記念祝典に参加した。奈良県を訪問中の天皇夫妻は8日午前,奈良市の第1次大極殿前庭でおこなれた「平城遷都1300年記念祝典」に出席した。

 天皇は「第一次大極殿をみるとき,かつての平城京のたたずまいに思いを深くするのであります。平城京について私は父祖の地としての深いゆかりを感じています」と述べた。

 さらに,多くの国からの渡来人や遣唐使の派遣が,日本の文化や技術の発展に大きく寄与したとする考えを示し,「遣唐使の乗った船の遭難は多く,このような危険を冒してわが国のために力を尽くした人々によって,さまざまな分野の発展がもたらされたことに思いをいたすとき,深い感慨を覚えます」と話した。

 祝典は平城遷都1300年祭の中核事業で,遷都のころ,すでに東アジアの国々と交流があったことを踏まえ,諸外国の大使館関係者らも招いて盛大に開かれた。第一次大極殿はもっとも重要な儀式の際に使われたとされる奈良時代最大規模の宮殿である。今年4月の完成記念式典には皇太子が出席した。

 注記)http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/101008/imp1010081225001-n1.htm?utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter
2010年10月8日 12:16 配信。このウェブ上の記事は現在(2024年10月19日)は削除されている。

 5) 読売新聞の報道:その1-「平城遷都1300年祝典,天皇陛下『父祖の地』」-

 平城京に都が移されて1300年の節目を祝う「平城遷都1300年祭」の記念祝典が10月8日,奈良市の平城宮跡で,天皇夫妻を迎えて開かれた。約50か国の政府代表ら約1700人が出席。復元された大極殿(だいごくでん)前の舞台で,天平衣装をまとうなどした約500人が舞や雅楽を披露し,日中韓の子どもたちは「私たちの平城遷都1300年宣言」で,歴史への感謝と未来に向けたメッセージを発信した。

 1300年祭のハイライトとなる祝典は,五色の薄布を着けた女官たちの歓迎の舞で開幕。遷都の主唱者とされる藤原不比等に扮した狂言師・野村万蔵さんらが,元明天皇の「遷都の詔(みことのり)」を読みあげた。

 天皇は「平城京について私は父祖の地として深いゆかりを感じています。遷都1300年をことほぎ,我が国の古くから伝わる文化を守り育ててきた奈良の人々の幸せを祈ります」などと述べた。

 注記)http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101008-OYT1T00525.htm この記事は現在は削除されている。

 6) 読売新聞の報道:その2-「平城遷都1300年祭,入場者250万人突破」-
 
 平城遷都1300年記念事業協会は9月28日,平城遷都1300年祭の主会場・平城宮跡(奈良市)の入場者が,当初目標の250万人を突破したと発表した。4月24日の開幕から158日目で,11月7日までの会期を40日残しての達成となった。同協会は「本物のもつ魅力で,多くの支持をいただいた。成功に向け,最後まで全力を尽くしたい」としている。

注記)http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100928-OYT1T00657.htm 同上。

 7) 読売新聞の報道:その3-「奈良訪問中の両陛下,2天皇陵を参拝」-

 平城遷都1300年記念行事出席のため奈良県を訪問中の天皇夫妻は10月9日午前,奈良市の元明(げんめい)天皇陵を参拝した。元明天皇は710年に藤原京から平城京に遷都した奈良時代最初の天皇。このあと夫妻は,784年に長岡京に都を移した桓武天皇の父で,奈良時代最後の光仁(こうにん)天皇の陵(奈良市)も参拝した。

注記)http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101009-OYT1T00418.htm

出所)つぎの写真は,第43代「元明(げんめい)天皇」(女帝)の墓を参拝する天皇夫婦。http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101009-OYT1T00418.htm より。

『読売新聞』2010年10月9日

 以上の「平城遷都1300年の記念祝典」に天皇・皇后両名が出席した事実に関した報道を聞いてみると,なにやらこの国はすっかり,完全に天皇家のモノであったかのように誤認せざるをえない「錯覚をもたらされそう」にもなる。

 しかし,神武天皇の万世一系の誇れるらしい天皇系の歴史的な系譜は,そもそもその初代の天皇からして「虚構の神話物語」の舞台の上で,つまり空想的に創造されていた「人物」であった。ところが,この歴史においては完全に仮想の人物がいまではまるで「本物の神様」あつかいされている。

 信心の問題は,「鰯の頭も信心から」ともいわれるように,個々人の好き勝手であり,他人がとやかく口出しできる性質のものではない。ところが,日本国憲法で天皇の存在は,

 「第1章 天皇」において〔天皇の地位と主権在民〕のことを,「第1条 天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く。」と規定している。

 このGHQのもしかしたらマッカーサー認定のもとで作成・公布された新憲法のなかで,このように天皇が日本国民を統合するための象徴たりうる存在として決めたはずなのに,つづくこの条文は「この地位は,主権の存する日本国民の総意に基づく」といった具合に,先験的な決めつけもいいところだと評定しなければいけないくらい,きわめて独断的な中身(判定!)になっていた。

 現在の日本国憲法のことを,アメリカ帝国が敗戦した日本に押しつけ憲法だと非難し,排斥したがる人たちは,なぜかこの付近の問題(所与であった難題?)を,真剣に議論する気がない。

 ましてや神武天皇は,架空の想像的な人物であるから,その125代目天皇であった明仁やその126代目天皇となった徳仁は,そもそもが「この代の計算」からして神話的に想像をたくましくした方法を採っており,そのような天皇の代々に関した計算でもって,本当に21世紀になってからも「いまの天皇は何代目であると自称する」ことに対して,なにか変だと感じる者がいておかしいことはない。

 以上のごとき天皇史に向けられて当然であった,なにも古代史に造詣の深い研究者でなければ発想できないような問題提起である以前に,ごく常識的な次元で自分の脳細胞を少しだけでも揺らしてみたら,換言するに若干「沈思黙考」してみたらすぐに浮上してくる疑問が,前段に指摘したごとき「日本国天皇制の歴史問題」をめぐり生じていて当然である。

 しかし,ともかく明仁も徳仁も,自分たちが憲法に規定された「天皇としての立場」を,そのまま甘受させられたままの状態でもって,「オギャーと生まれた以降の長い人生」を歩んできた。ある意味ではまことに気の毒ではあるが,当人たちは自分たちに宿命づけられた立場だとして,ともかくそれなりに一生懸命に生きていこうとしてきた。

 そのなかでとくに,昭和天皇裕仁の息子で1933年に生まれていた明仁は,父親の波瀾万丈であった人生模様を少年期において,それも肉親の立場で眼前において観察させられる体験を経てきただけに,敗戦後史の日本政治社会のなかでは,正田美智子の嫁取り作戦を始め,自分がどのように国民たちに受けがよい天皇として生き抜いていくかを,必死になって考え,そのための善処策を絶えず念頭に置く方途で,自分の人生の経路を切り開いてきた。

 日本国憲法関連の記述をおこなっている途中だが,こうした性質の議論はけっしてミーハー的な関心で語るべき内容ではなくして,日本の政治社会にとって天皇・天皇制という実在の真義は,より客体的な制度とみなされたうえで,より冷静により客観的に分析,観察,批判,討議される必要があったからである。

 マッカーサーの名が前段に登場していたが,この男は第2次大戦が終わったあと,アメリカ本国で当時の大統領選挙に出馬し,当選することを狙うために,戦争で敗北させた大日本帝国を「オレの手腕でもって」「みごとに反封建制国家体制から近代的なそれにまで」変革させえた点を,しかもそれは,占領軍としてのGHQ(イギリス軍も含むが)こそが「日本国への民主主義の導入」実現させえたのだという実績を引っさげて帰国し,当時の大統領選挙に挑むつもりであった。

 もっとも,そのマッカーサーの狙いはうまく進展せず,成就させえなかった。しかしともかく,彼は敗戦した日本に対してとくに「天皇・天皇制」の事後処理を,つぎのように裁断するといった,いわば「大矛盾」を残したままの指図を出していたが,結局,これを達成していた。

 例の「マッカーサーノート(3原則)」という原資料と,その原資料を日本語に訳した文言を紹介しておく。

日本を民主化するためには
封建遺制は除去するのだとⅢでいっていたにもかかわらず
天皇が日本の元首である地位を認めているのが最初のⅠの決めゼリフ
日本の人民が当時,マッカーサーの意思に替わって
このような3原則を提示したわけではない

 以上,だいぶ脇道的な記述となったが,日本国憲法に戻って議論をつづけていきたい。

 〔皇位の世襲〕についてはこう規定されている。

 第2条 皇位は,世襲のものであつて,国会の議決した皇室典範の定めるところにより,これを継承する。

 2024年10月27日に投開票が予定されている衆議院の解散総選挙があるが,最近における日本の政治ついては「世襲政治の悪弊」が問題化していた。最近では4世まで登場する始末。

 自民党議員の4割は世襲,立憲民主党も1割が世襲の議員といった現状における「この国のまつりごと」が,いかほど立ち腐れ状態にあるかという懸念・不安だけでなく,この21世紀のこの先に関しても,なんら夢も希望ももたせない現況にしてしまっている日本の政治現実は,誰もがそろそろいい加減に強く認識しておくべき「日本の政治に特有の病理」であった。

 ということであるが,天皇様の世襲については,政治の世界において問題とされる世襲とは別格であるかのように処遇されてきた。それゆえ,問題なしとはいえない「日本の政治機構・制度」のあり方だの,それも代表例だと理解しておかねばなるまい。

 この指摘・批判は,天皇・天皇制に対して賛否を問うまえに,日本の人びとが一度は,通過儀礼的にであっても根源から再考しなおしておくべき「自身の問題」であった。したがって,無条件に「天皇,マンセー」を叫べる人たちに向けては,以上に議論した実質を突きつけるつもりはない。要は基本的な理解力の問題がかかわっていたからである。


 ※-3 各新聞社の報道姿勢-どうやら皇族の祖先に韓国・朝鮮人がいてはまずいとでも考えているのか?-

 1) 日朝古代史の事実

 以上の記述に昇華してきた各紙の記事引用では,「見出し:文句」以外の引用は,天皇夫妻に対する敬語・敬称を抜く形式にした。それはともかく,各新聞社から引用した以上の記事をよく観察してみると,「朝日新聞と日本経済新聞」とこれに対する「産経新聞と読売新聞」の好対照が浮上していた。

 朝日と日経は「百済からの渡来人」が天皇の祖先にいる事実をはっきりと書いている。これに対して産経と読売は,その歴史的な事実を「東アジアの国々と交流があった」「多くの国からの渡来人や遣唐使」とかいうふうに書くか,あるいはせいぜい単に「桓武天皇の父」とか匂わすだけであって,それ以上には「古代史からの韓国・朝鮮と日本との近い〈国際関係〉」に触れない報道姿勢であった。

 イギリス王室がドイツ王族の系譜を継承していることは,日本でもイギリス事情に多少くわしい人であれば,誰でも承知する歴史の事実である。また,ヨーロッパ各国王室間における入りくんだ婚姻関係となれば,常識的な知識の範疇に属していた。

 それらと同じように,とくに古代における日朝関係史においては,「韓国・朝鮮」と「日本」の相互交流関係が,非常に濃密で親近な中身として実在していた。事実,ちまたに溢れている古代史関連の文献には,専門書でなくとも,あれこれと面白おかしく,大昔における日韓(日朝)関係歴史事情を書いている著作が多くある。

 専門的には分かりきった歴史上の出来事であっても,とくに日本側のマスコミ:大手新聞社,読売新聞やサンケイ新聞の報道姿勢は,古代史における「韓国・朝鮮」と「日本」との近密な国際関係史に関する取材対象については,なるべく簡単に触れるだけにしておき,それ以上はできるかぎりは静観的にみすごそうとしている。

 そこには,なにかよく理解しにくい〈一物の伏在〉が示唆されてもいた。いずれにせよ,当の天皇自身があらためて明言したのが,大昔の出来事であったけれども,「韓国・朝鮮」から日本に渡来してきた人たちのなかに皇族の祖先がいた,という史実であった。

 しかし,日本のマスコミ:新聞社は,〈その種の天皇発言〉を表に出した体裁で,あまりくわしく記事したくはなかった。通常は,天皇家やこの一族の日常については,ベタ記事であっても日誌風に漏れなく追跡・報道している。

 それもずいぶんことこまかに報道する方針が伝わってくるのに比べて,古代朝鮮と天皇家との政治関連史的な話題になると,天皇自身の「お言葉」であっても,とたんに目をそらしたいかのような姿勢が感得できる。

 平成天皇は2001〔平成13〕年12月18日,恒例である天皇誕生日前「記者会見」の場でこう発言した。2002年に日韓で共催予定のサッカーワールドカップについて語ったのである。

 「私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀(しょくにほんぎ)に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招聘されるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことでしられております」と。

 すなわち,現在の天皇はあえて 2002年(前回)と2010年(今回)の2度にわたり,日本と朝鮮・韓国との歴史的な深い因縁について「韓国・朝鮮の王族が自分の祖先にはいる」という点をもちだして述べた。この史実は,とくに秘史でもなんでもない。日朝関係の古代史においてはよくしられている知見である。

 ところがそのあたりの事情を,天皇があらためて「日本の国民」にしらしめることを意図したかのように,記者会見の場を利用する方法で「桓武天皇は韓国・朝鮮人の血を受けつぐわが祖先である」と述べた。

 もっとも,本ブログの筆者は,以上に論及した桓武天皇などに対する平成天皇の発言は,21世紀において天皇一族がよりよくサバイバルしていくための〈皇室戦略〉にしたがった,いわば「日本国の象徴天皇の立場」からする「戦術的な〈おことば〉」の用法・駆使であった,と分析している。

 父親の昭和天皇は,敗戦前後の時期に注目すれば理解できるように「激動の昭和戦前史」を生き抜いてきた。この歴史展開に比較すれば,平成天皇の人生はそれほど苦しい体験はなかった。ただ,明仁の嫁として皇族の仲間入りをした正田美智子は,とくに明仁の母親から尋常ならざる嫁いびりがいつまでも執拗になされつづけた。

 その事実は,美智子が香淳皇后(久邇宮良子)から--これは当人が認知症になってそのように言動できなくなるまでは徹底的に--虐められつづけてきた事実は,こういう理由に支えられていた。その虐めの理由は,自分の「息子の嫁になる女性」が,つまり「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからん」と無条件に思いこんでの「人間差別の感情」であった。

 しかも,皇族関係の女性たちのあいだでもくわえて,その露骨な差別意識共有されていたとなれば,敗戦して民主化したのは「平民の世界における出来事」にかぎられたのであって,「皇室のなかでは無関係だったという事情」が理解できなくはない。

 明仁に望まれてだったが,皇室に嫁として入ったがために,美智子は「人しれない苦労」を味わった。だが,伴侶の明仁は,そうしたたぐいの〈皇室生活上の苦労:話題〉については,はっきり口に出して語ったことはなく,かなりズルイなという印象を受ける。息子の徳仁が雅子をかばって,あえて公的に発言していた事実とは対照的な言動が,記録されている。

 それというのも彼は,皇室戦略を展開させていく自身の要路において「邪魔になりそうな障害」を作ることに関しては,きわめて慎重に回避してきたからである。それどころか,嫁さんになってくれた美智子は,明仁の「皇室生き残り戦略」の策定・実行にとってみれば,最良かつ最強の協力者でありみずから懸命に努力することもいとわなかった。

 2) 敗戦後日本における日本女性と在日朝鮮人との〈国際的な〉結婚

 日本は1945年8月15日,敗戦した(正式にその調印をしたのは9月2日だが)。戦争中の大日本帝国は,朝鮮人・台湾人も含めて「1億火の玉」になって戦いに挑んでいた。しかし,この「火の玉」一億は「大東亜」の戦争に勝利できずに,ただいたずらに「燃えつきてしまった=敗北した」のであった。

 ところで,この大東亜〔≦太平洋〕戦争による〈310万人の日本人死者〉を数えるとき,このなかに朝鮮人・台湾人の戦争犠牲者は含んでいない。この事実は,若干不思議であるというよりも理不尽な計算の方法である。

 「2等国民」と「3等国民である」とみくだされていた「彼ら」であっても,かつてはともに日本帝国臣民の一員であった。だが,帝国日本が植民地の人的資源も投入して遂行した総力戦であったにもかかわらず,戦没者の計算においては内地人関係のみを算出すればでこと足れり,としてきた。

 しかも,その後において旧植民地関係出身者の戦没者は,「日本国」とは無関係な死者群として放逐・追放されていた。

 ともかく戦争のために,日本帝国〔など〕臣民の生命,それもとりわけ男性でも20歳代,だから結婚適齢期である若者年齢層には集中的に多くの犠牲者が出た。戦場に駆り出された彼らの多くは砲弾に当たって生命を落とすよりも,実際は病死・餓死した者のほうが多かった。

 それゆえ,戦後の繁栄は「彼らの尊い犠牲のおかげで実現した」などと《陳腐な決まり文句》を述べるのは,なおさらのこと,その後にまで「生き伸びてきた人間」側からの「いい気な立場での勝手な戯れ言」でしかありえなかった。いうまでもないけれども,靖国神社に参拝にいけるのは「生きている人間」だけである。

 あの神社の祭壇にに合祀されていると,この神社的発想でもって想定されてきた「英霊と頌される死霊たち」は,それもその肉親たちの正直な気持ちとしたら,絶対に「生きてくれていたほうが」「どのくらいよかったか」という点は,敗戦前にはけっして口に出してはおおっぴらには語れなかったにせよ,戦時中からも,心中の奥底では間違いなく,その種の感情そのものはひそかに抱いていたはずである。

 3) 敗戦後史であまり語られなかった「男女関係方式」の事実

 さて昭和20年代は,日本人女性と朝鮮人男性との組合せで結婚する,いわゆる「国際結婚」が--厳密には1952年4月28日までは国際という形容は不要であったはずであるが,ここでの話は実質でおこなっている--増えていった。

 戦争の影響で「元気な男不足(男ひでり)」に追いこまれていた当時の日本社会のなかでは,どうしても日本人女性が人口統計上は必然的・確率的に,そしてかつ人生の出会い的には偶然的・突発的に,朝鮮人男性を配偶者に選んでしまう事例が増えざるをえなかった。

 前段の話を歴史的に受けて,さらに説明したいことがある。

 1959年から1984年まで日本が巧みに当時の国際関係を利用して実施した「北朝鮮への在日朝鮮人帰国事業」という名の,体のいい「在日韓国・朝鮮人国外追放事業」を譬えに出して,話をする。

 北朝鮮に帰国した〔韓国側では〈北送〉といっているが〕在日朝鮮人9万3340人のうちには,日本人配偶者(日本人妻)が 1831人〔この夫婦の子どもたちが 5008人(いずれも日本国籍)〕が含まれていた事実があった。

 当時においての話だから,彼らにおいては「夫婦のばあい平均で子どもが2~3人いた」と想定する。そのうえでこの家族単位の人数「5~6人(→ 5.5人)」をもとに,それにあえて老人や単身者は無視・除外したかたちで,ひとまずひどく単純に計算(※)するが,こうなる。

 北朝鮮に帰国した〔渡った〕「93,340人 ÷ 5.5人」=「16,971 × 2人」→「16,971組の夫婦」のうち,在日朝鮮人の日本人妻は 1,831人いたから,およそ10組に1組の割合で「夫:朝鮮人と妻:日本人」の夫婦がいた。これも(※)と同様に,前述の割り算そのものが相当おおざっぱに進行させてはいるものの,だいたいの推定として許されてよいと思う。

 菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業-「壮大な拉致」か「追放」か-』中央公論新社,2009年11月は,関連してこういう説明を与えている。

 --1954年12月現在,戸籍上の統計では,在日韓国・朝鮮人世帯11万4393人のうち2万1540人(約19%)が日本人女性を妻にしていた。事実婚も含めれば最大で約4万5000(約39%)という推計もある。

 日本人妻世帯の比率の高さは,戦前から在日社会で男性過剰が続いていたこと,戦争の結果として日本人のばあいは女性過剰であったことが原因していた(なお,菊地のこの議論は,朴 在一『在日朝鮮人に関する綜合調査研究』新紀元社, 1957年〔1979年再版〕に依拠していた)(朴,163-165頁)。

 日本人妻のばあい,北朝鮮への「帰国」をためらう夫婦もいた事実を考慮すれば,実際に「帰国」した「在日朝鮮人の日本人妻」が夫婦全体のうち 1,831人:1割〔強〕 を占めていたとする推定は,だいたいのところでその比率をとらえていたと考えてよい。

 4) 激動する時代にこそ起きた相互交流

 激動する時代であればあるほど,いつの時代であっても古今東西,国際交流の動きもまた盛んに巻き起こる。日朝古代史においても,日本と朝鮮の〈両地域〉間における相互交流が盛んであった時期がなんどもあったことは,歴史学の当該専門分野では初歩的な知識である。

 神功皇后が歴史上本当に起きた出来事かどうか確証はまったくないにせよ,そのような歴史が想像〔=創造〕されるほど日朝古代史の交流は濃密であった。

 だから,日本の天皇がその事実〔のうち桓武天皇のところだけ!〕をもちだして,日本と一番近い隣国との善隣友好を図るための材料=たとえ話に使ったのは,外交辞令の範囲を超えた「まことに適切な話題」の提供である。もっとも,ここでは天皇の国事行為いかんにかかわる議論はしないでおくが・・・。

 「豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争」 --文禄・慶長(1592年・1598年)の役は,朝鮮半島を戦場にした侵略戦争であった。日本が明を征服するのだという誇大妄想にとらわれた豊臣秀吉が,その通り道になる朝鮮は協力せよと傲岸にも強要したために起こされた,つまり「日本側が一方的にしかけた侵略戦争」であった。

 韓国では文禄の役を「壬辰倭乱(임진외란 ,イムジンウェラン),慶長の役を丁酉倭乱または丁酉再乱( 정유외란:정유제란,チョンユウェラン:チョンユジェラン)と呼ぶ。この戦争の結果,朝鮮半島からどのくらい多くの朝鮮人が日本に奴隷のように連行されたかを考えてみればよい。

 また,日中戦争から大東亜〔太平洋〕戦争の時代,日本国内では人的資源〔戦場に借り出す将兵および〈産業戦士〉として〕が絶対的に不足したゆえに,最初は日本に移住を余儀なくされたり,のちには強制連行されたりして住むようになった朝鮮人は,総計2百万人を超えていた。

 この子孫たちは,その後において日本国籍を取得した者たちとその家族たちを入れれば,すでにの係累の広がりは控えめに積算したとしても,200万人~300万人くらいにはなると推定されてよい。

 日朝古代史の事実はあまりにも昔のことなので,その実際の姿はなかなかつかみにくい。けれども,縄文時代から弥生時代に日本が歴史の歩を進めていくさい,とくに朝鮮半島からの移住者・渡来者が日本の人口に大きな割合を占めるようになった。

 歴史の理解に関することがらであるから,その解釈についてはあれこれ対立する意見もある。けれども,人間の骨格にすら決定的ともみなせる生物学的・遺伝学的な大きな変容を起こすほど,当時の日本には外部からの人口流入があったことは否定できない事実である。

 その意味でいえば,日本の天皇が自家の関係では「大昔の祖先」に「朝鮮人の血統」が入っていると,外交辞令をも越えたような口調であたかも〈ケーキのトッピング〉であるかのように形容した〔→ケーキは現在の皇室で,上乗せの材料が桓武天皇という朝鮮の祖先から続く血筋〕「日本と朝鮮の関係史」のひとコマは,まだまだ控えめで微弱な教説であって,そうとう遠慮がちな説話でしかなかった。

 ※-4 平成天皇が構想する皇室「生き残り」戦略,その真意は?

 a) ここで以上までの記述や議論をさらに超えて,それよりも平成天皇が自分たち一族の「将来の安寧を考慮し,幸福を模索していく」うえで,東アジア地域にまで目線を投げかける方法で語っていた点に注目しなければならない。

 日本の皇室が末永く繁栄し,彼ら一家の豊かで安定した生活が保証されつづけ,より間違いなく発展していけるようにと,彼は「日朝古代関係史」のうちから「自家にとって非常に都合のよい〈血縁関係〉のみ」を,すなわち,そのなかからだとたとえば,「そのひとつ:桓武天皇の話」だけをとりあげて言及してみた。

 明治史以来の日本全国津々浦々には,いまもなお人しれずに,強制連行される以前の時代から日本に来て激しい肉体労働の諸現場において,命を落としたまま放置されてきた朝鮮人たちは,5万人から10万人はいたと推測せざるをえない。

 b) 戦前・戦中において,日本各地のインフラ施設においてその完成を記念したレリーフのなかには,その工事の事故のため落命した労働者が一覧が刻みこまれることもある。けれども,そのような記録にはいっさいないも残されないで,この地上から消された朝鮮人たちが大勢いた。

丹那トンネルの工事は山中を流れていた水脈からの出水のために
非常な難工事になった

 ここで紹介している丹那トンネル殉職者慰霊碑の場合は,その事実史を記録の留めようとした〈まれな事例〉であった。丹那トンネルのこの工事は,1918年から1934年にかけておこなわれその間,67人が犠牲になった。犠牲者の氏名は,トンネルの東口(熱海側)上にある碑と,西口(函南側)にある慰霊碑に刻まれている。東口の碑には7名,西口の慰霊碑には6名,合計13名の朝鮮人名が記録されている。

 話の角度を変えていうと,戦前・戦中において日本各地の工事現場において肉体労働に従事してきた朝鮮人たちのうち,命を落とすような大事故に遭っていた場合でも,仮にその種の証拠があったとしても,隠蔽されたり焼却されたりしてしまい,闇のなかに葬られてきた。

 しかし,21世紀の現段階になっても関連する資料(史料)がまったく発見されないのではない。ごくたまにであっても,そうした関連の証拠が発掘されることがある。

 c) ここで,話題を日朝古代史に移そう。

 もっとも,日朝古代史における両国地域の入りくんだ緊密な国際的政治関係を,もっとまともに意識して本格的にとりあげることになれば,戦前・戦中において,日本帝国側の官許的な歴史学界から力強く提唱されつづけた「日鮮同祖論」,

 すなわち「日本が朝鮮の兄貴分だ」「だから朝鮮は日本の植民地になって当然だ」という歴史観がそのまま逆立ちしてしまい,つまり,実は「朝鮮が日本の兄貴分だ」という実に〈藪蛇〉なのであるが,「本来の正説」が正面にせり出てしまうことになる。

 平成天皇の話はそれゆえ,隣国である韓国!〔朝鮮?〕との友好・親善に役だつかぎりで,日朝古代史のなかから「ウチには昔,朝鮮のほうの親戚だった人もいたよ」という程度に留め,触れているに過ぎない。

 それにしても,日本のマスコミはとくに報道機関(新聞社)の記事を観察していればよく分かるように,天皇一族のふだんにおける行動は,非常に神経質にも感じられるくらい詳細に報道している。にもかかわらず,桓武天皇の話題になると努めて無視したかのようにな冷淡な態度をみせた。明仁天皇が公に語ったところで,そのように冷たい反応であった。

 21世紀になっておおはやりになっている韓流ブームで,韓国との親近感を深く抱くようになった日本人も多い。しかし,日本社会は,天皇・天皇制という日本政治の肝心な領域の問題になると,

 この存在・制度と韓国・朝鮮との〈歴史的な事実理解のありかた〉に関する話題になると俄然,奥歯になにか大きな異物が挟まってしまったかのような語り口,そして意図されたかのような「無言での否定的な反応」をみせる

 d) 現在の天皇が血筋的に桓武天皇と,絶対本当につながっているか?

 そう問われると実は,天皇家の万世一系〈性〉の問題点にからめて当然,疑問が湧いてくる。平成天皇の立場は,神武天皇以来において実在していなかった「天皇家の連綿たる皇統譜」を信じているらしい〔彼の父親となると完全に本気で信じきっていたが〕立場は,歴史学あるいは考古学の専門的な見地ともって解明されれば,とうてい成立しえない。

 その万世一系という,どこの誰もが「もちあわせている」「遺伝子情報関係の連続性」であるが,しかし,皇室のその血筋はとぎれとぎれになっていた,とみなすほかない代がいくつも途中に紛れこんでいた。

 平成天皇の発言は,「昔の朝鮮には当家の血縁者もいました」という〈口演:韓国向けのパフォーマンス〉である要素が強いが,それとともに自家の「天皇家としての正統性」を,韓国・朝鮮筋からの援軍もえて,さらに証拠固めにしたいという意図も感じないではない。

 e) 三笠宮〔昭和天皇の末弟,平成天皇の叔父〕が,神武天皇は架空の初代天皇(?)であるからと断言して,戦後に「建国記念日」〔もとは紀元節:2月11日(国民の祝日!?)を置くことに反対したのは,有名な話である。オリエント史を専攻した皇族,それも天皇ヒロヒトの実弟がそのように喝破したことの意味を,われわれはどのように受けとればよいのか。

 他方で,その甥がこの時期,日本各地に散在する「どの古墳をどの代の天皇の墓とみなせばよいのか」ほとんど確定不能であるのに,そうしたいわば〈古代史の謎〉的な遺跡から勝手に選んだ「○○天皇の墓」に参拝するという演技は,相当に〈臭い行動・凝った演技だな〉と感じてもよいのである。

 前天皇だった明仁の曾祖父睦仁(明治天皇のことだが)は,先祖の墓参りにはそれほど熱心ではなかったと伝わるが,孫・曾孫の代になると異様なまで墓参りにこだわるようになった。

 天皇家の系譜だから,これは無条件に(!)「りっぱな祖先」でありえ,かつまた「りっぱな子孫」になりうるのか? そうだとしても,これは明治以降に新たに創作された伝説話であった,と受けとるほかあるまい。

 日本の建国記念日〔紀元節〕を,1776年7月4日に起源する「アメリカの独立記念日」(American Independence Day)や,1789年7月14日から1794年7月27日に起源する「フランス革命記念日」(Revolution francaise)と比較考量するには,あまりに歴史の時間に懸隔があった。

 「事実として確認できるわけがない」「建国記念日」=紀元節の架空性の問題は,その起源=由来に関した歴史的な根拠は最初から求められない。このあたりの皇室的な話題は,平成天皇の立場にとっては,禁句同然の〈日本国内の史的争点〉であったのかもしれない。しかし,そこまで詮議する余地の発生は,彼らの立場にあっては最初から封じられていたというか,完全に(あるいは安全を期して)遠ざけられていた。

 三笠宮の発言や行動については,本ブログ内で別の記述何編かが議論していた。参照してほしい。ここではつぎの記述を紹介しておく。


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 ◆ 冒頭の2冊は同じ本の案内だがいまでは古典的な研究本。だいぶ高めの値段が付いている。

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