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マルクス的経営学の嚆矢とみなされた中西寅雄「経営経済学説」の吟味,戦時体制期に中西寅雄が創説した個別資本運動説はただしマルクスの思想・主義にあらず(その2)

【断わり】 「本稿(1)」はつぎの住所(リンク先)に記述されている。興味ある人は,この(1)から読んでもらえると好都合である。以下の本文としての記述は,その(1)に目を通してでないと分かりにくいので,できればさきにこちらを読んでほしいと希望する。

 ⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/n441075984af3
 
 付記)冒頭画像は,中西寅雄『経営経済学』日本評論社,昭和6〔1931〕年の中表紙。

 ※-1 技術の本質

 中西寅雄はつづけて,「技術ノ本質トハ何ゾヤ」と問う。まず「技術」,つぎに「経済の原則」について,論述する。

 「技術トハ或ル目的達成ノタメノ手段,方法デアル」

 「合理的技術トハ,一定ノ人間目的ヲ達成スルタメニ費消サレタル最少ノ手段タル行為デアル(最少費用の原理)」

 「経済ノ原則デアル『最大ノ効果ヲ獲得スルニ最少ノ費用ヲ以テス』ニ存スル」

 「コノ原理ハ,『一定量ノ効果ヲ得ルニ最少ノ費消ヲ以テセヨ』,『一定量ノ費消シ以テ最大ノ効果ヲ得ヨ』トイフコトヲ意味スル」

 註記)中西寅雄「プリント『経営経済学』」7頁。

 〔以上を数式的にあらわすと,こうなる〕

   E-効果〔とは〕 E / A= m ヲ 最大ナラシム。

   A-費消〔とは〕 A / E=n ヲ 最少ナラシム。

 「即チ,Wirtschaft[s]prinzip ナルモノハ,一定ノ目的ヲ達成スルニ最少ノ費用ヲ以テス,トノ最少費消ノ原則デアル。コレハ経済ノ原則ニアラズシテ技術ノ原則ニ外ナラナイ」

 「斯クノ如ク,経済ハ生産ト費用トノ調整(Ordnung)デモナケレバ,最少費用ノ原則即チ,節約デモナイ。即チ,収益費用ノ比較考慮トイフ Wollen デアル。節約トハ,技術ノ原理デアル」

「節約トハ,一定ノ目的ニ対スル相対的節約ヲ意味シ,出来ルダケ節約スルトイフコトデハナイ」

 註記)同書,8頁。なお,[ ] 内の s は筆者の補足で,Ordnung の頭文字は原文小文字ゆえ,ドイツ語の表記法に則り,大文字に修正した。

 以上,「技術」「技術ノ原則」「経済ノ原則」に関する議論は,これを「経済そのもの」に対比したとき生じる相違を,強調する説明であった。 

 経済の生産の原則をいうならこれは「本来」,「収益費用ノ比較考慮トイフ Wollen デアル」から,技術の原則では説明しきれない「経済者の意欲“Wollen” 」を前提するものであった。

 こうした説明は,明らかに〔原著1928年〕を意識したものである。前掲の「E-効果」「A-費消」に関する数式の表現は,J・エルマンスキーの著作にしたがっていた。

 補注)『科学的工場経営の実際-合理化の理論と実際ー』J・エルマンスキー/高山洋吉訳 東学社,昭和13〔1938〕年。このエルマンスキーの原著はロシア語版とドイツ語版(下掲の画像)がともに1928年刊行としてある。高山洋吉の日本語訳はドイツ語版からなされている。

エルマンスキー・ドイツ語版の表紙


 エルマンスキーは,資本主義的合理化は「真の完全な合理化」ではなく,またそうした合理化でもありえない。「真の完全な合理化」のために闘うことは,社会主義的変革のために闘うことを意味する,と主張していた。

 エルマンスキーはまた,「最適度の原理は,最良・最合理的な組合せを選び取る可能性が成立するやうな,あらゆる事情の下における比較とあらゆる関係因子の斟酌とだけを許すのである」,と述べている。

 註記)J・エルマンスキー,東城只雄訳『合理化の理論と実際』春陽堂,昭和5年,序言9頁,39頁。

 エルマンスキーの触れた「あらゆる事情の下における比較とあらゆる関係因子の斟酌」とは,戦時日本の経済事情に対しても妥当する「思考の形式と内容」を呈示していた。すなわち,エルマンスキーは「社会主義的変革のために闘うこと」を主張した。

 これに対して戦時日本の統制経済は,「経済の生産」を「最良・最合理的な組合せ」で実現させること,いいかえるならば,戦争遂行のため=「国家全体主義(ファシズム)的変革のために戦うこと」を意欲(Wollen)した。 

 全力を挙げて戦争に挑まねばならなかった旧大日本帝国は,軍事力の最大発揮につながるような「経済の生産」原則の発揮を意欲することを,国民経済に強いた。いうまでもなくそれは,「戦争の時代」の「国家の意思」であった。

 中西のプリント「経営経済学」昭和14:1939年が抱懐していたはずの学問理念は,国家的次元におけるものであり,戦争「勝利」に寄与しうる「意欲(Wollen)」に直結するものだった。

 

 ※-2 技術と経済

 「技術ハ目的自体ヲ目的トセズ,コノ目的ヲ如何ニシテ最少ノ費消ニヨッテスルカト云フ手段方法デアル」

 「技術ノ目的ハ,Das Was ニ非ズシテ,Das Wie ニアル。Das Was ハ政治トカ経済ニ依ッテ与ヘラレル。技術ニ於テハ与ヘラレル目的ハ個々的ナモノデアリ,個別的具体的目的デアル。而テ,包括的人間目的ハ技術ニ対シテ与へラレルモノデハナイ」

 「経営経済学ヲ技術論トシテタテントスルハ誤マリデアル」

 「最大ノ利潤ノ獲得トイフ目的ハ技術ノ目的トナリ得ナイ。コレヲ達スル如キ技術ハ未ダ存在シナイ。技術ノ中立性ハカヽル意味ニ於テ言ハレルモノデアル」

 註記)中西「プリント『経営経済学』」8-9頁。

 「経済ハ一定人間目的ノ内容ヲ与ヘルモノデアッテ,技術ハコレヲ達成スルノデアル」

 「技術ハ経済目的ノ方法ヲ規定スル。又,目的ノ実現可能性ノ説明ヲ与ヘル」

 「技術ハ技術(経済?)ノ基礎デアルガ,ソレ自体トシテ存セズ,経済ニヨリ内容ヅケラレテ初メテ,経済技術,経済行為トナッテ現ハレルノデアル」

 「経済ト技術ノ関係」は,つぎのとおりにまとめられている。

 「第一ニ〔第1に〕,経済ハ技術ニ対シ問題ヲ提出スル〔ことによってこれを基礎づける〕」

 「第二ニ〔第2に〕,技術ハ〔経済に対して〕生産ノ可能性ニツイテ説明ヲ与ヘル」

 「第三ニ〔第3に〕,経済ハ技術ニ対シ,ソノ内容〔指針〕ヲ規定スル」

 「第四ニ,技術ハ経済ニヨリ提出サレタ問題ヲ〔事実上〕解決シ,経済〔の目的〕ヲ実現ス」る。

 註記)同書,10-11頁。「 」内で( )内修正補足は筆者,〔 〕内補足は,後段の注38)宮田喜代蔵の諸著書の参照・援用による。

 中西寅雄『経営経済学』昭和6:1931年は,理論的経営経済学の立場:「相対的独自性」を認めたけれども,経営経済学としての理論的立場:「絶対的独立性」は否定した。当初より,「利潤追求の学」(Profitlehre)あるいは技術論=工芸学としての経営学は認定した。

 この立論は,社会科学として独立した経営学「論」を全面的に否認した。それゆえ,「経営経済学ヲ技術論トシテタテントスルハ誤マリデアル」という一句にこめられた中西の本意は,慎重に判断される余地がある。

 ところが,中西『経営経済学』が第1章「経営経済学の本質」で方法論的に否定したようにみえる理論的経営経済学の展開内容,すなわち「個別資本運動の研究内容」は,

  第2章「個別資本の生産過程」
  第3章「個別資本の流通過程」
  第4章「個別資本の循環とその回転」
  第5章「財産及資本の本質と其構成」
  第6章「株式会社」

となっており,章を追うごとに実質的に論及されていた。

 さてここで,つぎの「表4〔-1〕 中西『経営経済学』と馬場『経営経済学』」という比較対照「表」をみたい。これは,中西寅雄『経営経済学』1931年 と馬場克三場『経営経済学』1966年とを内容編成面で比較し,関連づけた表である。

中西寅雄説と馬場克三説の内的関連

 この表を一言でいえばこうなる。

 中西寅雄「経営経済学説」の発展的な継承を意図した馬場克三は,『経営経済学』(税務経理協会,昭和41)をもって,「中西経営経済学の最終章に据えられていた株式会社を,むしろ冒頭の章にもってくるという構想」を,経営学の理論体系として具体的に表現した。

 註記)馬場克三『経営経済学』税務経理協会,昭和41年,序2頁。

 上掲した表4「中西『経営経済学』と馬場『経営経済学』」は,中西『経営経済学』1931年と馬場『経営経済学』1966年の主要構成を対照させたうえで,その関連を矢印で具体的に指示している。

 馬場『経営経済学』1966年は,いうまでもなく,経営学を概論・基礎論的に体系化した著書である。表4は,中西『経営経済学』第2章「個別資本の生産過程」についてはその細目も紹介した。この中西『経営経済学』第2章に相当するのが,馬場『経営経済学』の第2章から第9章までである。


 ※-3 経営経済学と経営技術学

 中西寅雄は,準戦時体制期(「満州事変」昭和6:1931年9月)から戦時体制期(日中戦争昭和12:1937年7月)に時代が進むと,『経営経済学』昭和6:1931年9月の立場を完全に放棄するかのような学的姿勢を示すにいたった。

 中西自身はすでに,「経営経済学ヲ技術論トシテタテントスルハ誤マリデアル」と論定していた。だが,当時はすでに何人もの論者が,「経営経済学」と組みあわせたかたちで「経営技術学」を立論しはじめていた。

 中西寅雄のプリント「経営経済学」昭和14:1939年が参考文献に挙げていた著作のうち,酒井正三郎『経営技術学と経営経済学』(森山書店,昭和12:1937年)は,経営技術学:「技術論としての経営経済学」を構想するに当たり,相対(あいたい)的に「経営経済学」そのものの位置づけも求めた。つまり,「理論としての経営経済学」を定座させようと試みた。

 戦時体制期においてそもそも,「経営技術学」という発想が登場した背景には,社会科学としての経営学,それもマルクス経済学的な理論志向性が徹底的に妨害・抑圧・排斥されるという事情があった。中西『経営経済学』昭和6:1931年は,「マルクス経済学の方法」を利用した経営学的な理論書であった。しかしながら時代の進行は,マルクス『資本論』〔など〕を蛇蝎視した。

 『日本労働年鑑 別巻/戦時特集版-太平洋戦争下の労働者状態・労働運動-』(労働旬報社,昭和46年)は,第5編「言論統制と文化運動」第1章「言論・出版・学問研究にたいする弾圧」第2節「出版・雑誌統制」の「検閲・削除・発禁」で,こう言及している。

 以下の引用では読みやすくするために,任意に改行箇所を多く入れた。

 〔19〕38年2月に岩波書店は「岩波文庫」の白帯物(社会科学部門),とくにマルクス主義のものを「自発的に」絶版にせよとの命令を受けた。

 そのうち,「今後の増刷を見合わせる分」としては,

 マルクスの「猶太人問題を論ず」「資本論初版抄」「賃銀・価格および利潤」「賃労働と資本」「哲学の貧困」,

 エンゲルスの「住宅問題」「自然辯証法」「反デューリング論」「原始基督教」,

 両者共著の「フォイエルバッハ論」「芸術論」「ドイッチェ・イデオロギー」,

 レーニンの「唯物論と経験批判論」「ロシアに於ける資本主義の発展」,

 カウツキーの「基督教の成立」「資本論解説」,

 ルイゼ・カウツキーの「ローザ・ルクセンブルグの手紙」,

 ローザ・ルクセンブルグの「経済学入門」「資本蓄積論」,

 リヤザノフの「マルクス・エンゲルス伝」等があり,

 また刷本があっても増製本を見合わせる分としては,

 マルクスの「フランスに於ける内乱」,

 エンゲルスの「家族・私有財産及び国家の起源」「空想より科学へ」,
 レーニンの「帝国主義」「何を為すべきか」「カール・マルクス」「ゴオリキーヘの手紙」

等があった。

 この時はまだ発売禁止処分ではなかったが,〔19〕40年9月には発禁を命ぜられ,紙型も押収されて正式に処分を執行された。

 註記)法政大学大原社会問題研究所編『日本労働年鑑 別巻/戦時特集版-太平洋戦争下の労働者状態・労働運動-』労働旬報社,昭和46年,388頁。〔 〕内補足は筆者。 

戦前,発禁処分とされた本

 
 関連する事情に触れておく。東京帝国大学経済学部内では,昭和2:1927年末月ころより,『資本論』を正規の教科書に使ってはならぬという判例ができた。中西は,外国語経済学のテキストに『資本論』を使うか否かに関する票決にさいして,河合栄治郎とともに〈賛成〉票を入れた。

 註記)東京大学経済学部編『東京大学経済学部五十年史』東京大学出版会,昭和51年,673-675頁参照。

 酒井正三郎の「経営技術学」(昭和12:1937年)だけでなく,鍋嶋 達が「経済技術学」を提唱しており(昭和11:1936年),大木秀男が「企業技術学」を提示した(昭和15:1940年)。

 註記)鍋嶋 達「技術及び技術学-経営学の本質に関する一考察-」,東京大学『経済学論集』第6巻第 12号,昭和11年12月。これは,鍋嶋 達『経営と会計の基本問題』千倉書房,昭和61年,第1篇「経営論」1章「技術及び技術学」として所収。

 大木秀男の本は,『企業技術学序説』巖松堂書店,昭和15年。

 酒井,鍋嶋,大木の経営技術学的な理論展開は,中西が否定したつもりの経営学研究の方途:「理論としての経営経済学」を,非マルクス経済学的に打開しようとしていた。それは,社会科学にきびしい抑圧がくわえられた時代のなかで,「経営技術学」を構築しようとする努力を意味した。

 酒井正三郎『経営技術学と経営経済学』(森山書店,昭和12年)は,「経営経済学は経営の形而上学」であり,「経営技術学」は「経営の形而下学」「固有の経営学」であると規定した。つまり,酒井は,「技術的・実践的なる知識を」「歴史的・実践的なもの」に「変へて以て」,「固有の経営技術学を」「理論科学として確立しようといふ試み」たのである。

 註記)酒井正三郎『経営技術学と経営経済学』森山書店,昭和12年,7頁,8頁。

 酒井はまた,「経営にありて経済は技術を支配し,技術は経営を通じて経済に奉仕する」。「経営こそは,技術と経済とがその支配と制約との関係において交渉し合ふところの固有の地盤である」とも,経営技術学の理論的連関を説明した。

 註記)同書,6頁。

  さて,酒井のそうした「経営技術学」に関する構想は,中西のプリント「経営経済学」の言及する「経済ト技術ノ関係」に通底していた。

 中西の場合は先述のとおり,その関係をこう説明していた。

 「経済ハ技術ニ対シ問題ヲ提出スル」,「ソノ内容〔指針〕ヲ規定スル」。

 「技術ハ経済ニヨリ提出サレタ問題ヲ〔事実上〕解決シ,経済〔の目的〕ヲ実現ス」る。「技術ハ〔経済に対して〕生産ノ可能性ニツイテ説明ヲ与ヘル」。

 酒井『経営技術学と経営経済学』は,「経営経済学と並存する経営技術学」をみちびくための根拠として,中西も論及したこの「経済ト技術ノ関係」に関する説明を当てていた。

 中西のプリント「経営経済学」はそのように,「経済ト技術ノ関係」を記述していた。これは多分,ゴットリアーネルの1人,宮田喜代蔵講述『経営と経済との基本関係』(財団法人金融研究会,昭和13:1938年3月)の「第4 経営と企業との基本的関係」〔など〕を,中西が直接引照したものである。

 註記)宮田喜代蔵講述『経営と経済との基本関係』財団法人金融研究会,昭和13年,112-114頁参照。さらには,宮田喜代蔵『経営原理』春陽堂,昭和6年,28-32頁参照。くわえて,宮田喜代蔵『生活経済学』日本評論社,昭和13年〔10月〕,101-104頁参照。

 なかんずく,ゴットル的思惟:生活経済学にしたがい「経済ト技術ノ関係」の議論をもちだし,「経営経済学と経営技術学」を理論的に両立させようとした酒井正三郎や宮田喜代蔵は,中西寅雄が以前,「誤マリデアル」と排除した「経営経済学ヲ技術論トシテタテントスル」方途を,あえて示したといえる。そう断言していたにもかかわらず中西は,プリント「経営経済学」のなかでは事実,「経済ト技術ノ関係」を講述していた。

 酒井正三郎『経済的経営の基礎構造』(敞文館,昭和18:1943年)は,こう主張した。以下,あくまで戦時中における論及であり,以下で「現代」とはもちろん当時の,昭和18:1943年のことである。

 「現代における企業経営の根本問題」は,「企業者が,いかに企業に対して態度をとるべきか」ということであり,そして,「企業が国民経済の在内構成体として正しくその環境に適応せんがためには,その構成体としてとる形態がいかに革新せらるべきか」ということである。こうした「企業経営の根本問題」を解決するために経営学者は,ゴットル的な「存在論的価値判断」にもとづき,「規範的経営経済学の実質がいかなるものであるか」について議論する。

 註記)酒井正三郎『経済的経営の基礎構造』敞文館,昭和18年,15-17頁参照。

 中西は,「利潤追求の学(Profitlehre)」もしくは「技術論=工芸学としての経営学」以外は否定していたはずである。しかしながら,プリント「経営経済学」は実は,その立場に反する記述を与えていた。すなわち,ゴットル論者の著作を引照するかたちで,「技術論としての経営経済学」の立論を認知する講述をおこなっていた。

 

 ※-4 経営経済

 本項は,前項(※-3)を踏まえ,記述する。経営経済という用語が詮議される。

 「経営経済,略シテ経営ト呼ブ」

 「普通ノ経営経済ト云フノハ生産経済ノミデコレノミガ学問ノ対照ト(ママ)ナッテヰル」

 「消費経済ヲモ含メタ,ソノ概念ヲ個別経済ト名ヅケルナラ,生産経済ト消費経済トニ分カレ生産経済ガ狭義ノ経営経済デアル」

 「経済ハ意欲,技術ハ手段,方法デアル」

 「経営経済ナル概念ハ,経済的概念ニシテ,経済ヨリ分離シタ技術的概念デハナイ」

 註記) 中西「プリント『経営経済学』」12頁。

 「経営経済学ハ技術ノ学問デナク,経済ノ学問デアル」

 「労働組織ニ於テモ然リ。労働科学研究所ニ於テ研究セル労働ハ技術デアル」

 「経営経済ノ単位ナルモノハ,技術ヲ費用ト収益ノ比較考慮ナル点デ統括スル意思(=即経済ノ単位)。コレヲ単位ヅケルモノハ所有又ハ,支配ナリ」

 「企業者ヲ基礎ヅケルモノハ諸々ノ生産要素ヲ支配スルトイフコトデアル。支配ノ単位即チ,所有単位ガ経営体ヲ基礎ヅケル」

 「経済ハ,費用,収益ノ比較考慮ノ観点カラ何ヲドレダケ生産スルカ,トイフ包括的目的ヲ定スル。最後ニ個々ノ技術ニソレガ達成シ得ル具体的目的ヲ与ヘル」

 「技術ハ経済カラ与へラレタ意味ニヨリ包括サレ,経営経済ナル組織体ニ統合サレル」

 「経営ハ技術ノ組織体デアル。従ッテ両者ノ単位ハ一致シナイ」

 註記)同書,13-15頁。

 「個々ノ技術ハ全体ノ経済ヨリ派生シタ部分目的ニヨリ統括サレルコトニヨリ部分経営ガ組織サレ,之ガ個々ノ技術ニマデ解消サレテヰル」

 註記)同書,16頁。

 「経済ハ資本ノ問題デ,価値ノ問題デアル。之ニ反シ,個々ノ活動ハ経済ノ活動ニアラズシテ技術ノ活動デアルト云フ考ヘ,工場ヲ企業ノ観点カラ見レバ,価値ノ存在デ,技術的ニ見レバ生産ノ活動デ,両者ハ別個ノ存在デアルト見ル考ヘカラ如上ノ誤リガ出ル」

 註記)同書,17頁。

 

 ※-5 経営経済学

 a) ゴットル生活経済学との妥協

 「之〔経営経済学〕ハ,経営経済ノ目的タル剰余ノ獲得ナル観点ニテラシテ,諸活動ノ結合ノ意味ヲ理解スル」

 「組織体ガ,ソノ目的ニ対シ,如何ナル程度ニマデ組織化サレテヰルカ,ト云フ組織体ノ生活力(構成 質度),組織ノヨサヲ知ルニアル」

 「コノ目的『最大ノ剰余』ニ対シ,個々ノ現象ノ目的適合性ヲ判断シ,コノ意味デ,コノ判断ハ客観性ヲ有シ,経験的ナルモノデアル。コノ意味デ経験的ナルモノデアル」

 「経営経済学ハ,理論的カラ経験的科学デアル」

 つづいて中西は,戦前期のドイツ経営経済学に関して有名な,F・シェーンプルークの3学派の分類方法,「技術論的傾向-理論的傾向-規範論的傾向」に言及する。

 註記)同書,19-20頁。〔 〕内補足は筆者。

 ここにおいて中西は,「組織体ノ生活力」という表現を出している。この生活力ということばは,ゴットル流の概念規定をそのまま受容するものであった。「経営経済ノ目的」観には,既述のとおり「利潤-利益」ではなく「剰余」を当てていた。

 ゴットル,福井孝治校閲,西川清治・藤原光治郎訳『経済の本質と根本概念』(岩波書店,昭和17年12月)は,こう語っていた。

 すべての在内構成体の生活力は,民族経済がその正しい構成によって生活力を増進する限りにおいてのみ意味をもつ。

 註記)ゴットル,福井孝治校閲,西川清治・藤原光治郎訳『経済の本質と根本概念』岩波書店,昭和17年,155頁。この引用と同一の文章が既出であった。

 中西は,以前においては言及さえしなかったゴットル流の概念,「生活力」(Lebenswucht)をもちだした。この事実は,自身が強く否定してきた「技術論としての経営経済学」を認容したことを意味するだけでなく,戦争協力をする「社会科学としての経営経済学」の立場をも受認したことを裏づけた。

 戦時体制期における日本の社会科学,経済学・経営経済学〔経営学〕の領域においては,ゴットル経済学が流行した。それは,a) 戦時統制経済のもとで総力戦に備える日本の資本主義体制を再構成し,b) この資本主義体制を再解釈するに当たり,日本企業に戦争協力させるための理論を創成すること念頭に置いていた。

 戦時日本経済における「民族経済」は,「正しい構成によってその生活力を増進」させるために,「日本企業に戦争協力させる」態勢の確立を強要した。この時代的要請に即して中西は,ゴットル生活経済学との妥協を図り,「技術論としての経営経済学」に対する解釈を改変させた。

 中西『経営経済学』昭和6:1931年は,「技術論としての経営経済学」を,「金儲けの術」より「共同経済の福祉増進の学」〔「共同経済的生産力」〕に転換させるに当たり,その目標としての「超歴史的な普遍性を有するもの」を措定しなければならない,と議論してもいた。

 註記)中西寅雄『経営経済学』55頁参照。

 この主張を逆にみよう。生活経済学の「正しい社会構成体論」に譲歩・追従・平伏した中西「理論的経営経済学」は,本当のところ,「超歴史的な普遍性を有する」「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」が,「歴史的な限定性しか有しない」「戦争経済の生産増進の学」に席をゆずったことになる。

 b) ゴットル生活経済学との齟齬および混濁

 中西はさらに,こうも記述する。これは,「経営費用論」を前提にした説明である。

 「経営技術論ハ部分経営ノ合理性ノ判断ニソノ本質ガアル」

 「技術的判断ノ場合ハ手段ノ合理性(費用ノ節減ト云フ観点)ノミ,経済カラ見レバ,部分的ナ経営ニ於ケル収益性ノ考察デ」ある。

 「ソレハ組織ノ目的適合性ノ判断トハ異ル」

 「経営経済学ノ判断ハ費用ト収益ノ比較考察ト云フ目的ニ対シテ,如何ニコノ組織ガ統合サレテヰルカヲ目的トセルモノデアル」

 「最適操業度……ヲ実現スルコトガ経営技術論ノ課題ナリ(部分経営ノ課題,如何ナル生産量ガ最モ費用ヲ節減スルカ,経営合理性)」

 「経営ノ究極目的ハ,最大ノ利潤獲得ニアリ,単ニ費用ノ側ノミカラ判断スベキデナイ」

 註記)中西「プリント『経営経済学』」23-24頁。

 以上,経営費用論に跨がる議論は,「単位当たりの生産原価」を最小にする「最適操業度」と,「収益に対する費用との差額 × 生産量の全体」を最大にする「最有利操業度」との相違を考慮し,企業全体では経済的な収益性,部分経営では技術的な合理性をそれぞれめざす点を強調している。

 そのうえで中西は,こうも述べる。

 「収益性ナル言葉ヲ以テ示シ,ソノ特殊的形態ヲ利潤性ナル言葉ヲ以テ示ス。利潤性ハ一ツノ経営経済ガ統合サレル究極目的ナリ」

 「経営合理性ハヨリ包括的ナル目的ナル収益性ニヨリ与ヘラレルモノデ,ソレニヨリ制約サレル」

 「部分経済ノ合理化ハ収益性ヲ増進スルニ必要ナル限リニ於テ実現サル」

 註記) 同書,25頁。

 さらにつづく議論は,重要である。

 「技術論ハ存在シ得ル」

 「経営合理性ノ判断ハ規範科学デハナイ」

 「経営経済ナル諸活動ハ,自己規制ニ於ケル国民経済ノ場合ト異ナル。国民経済ガ,無意識ナル立場ヲトル場合ニハ経済統括者ニ依リ,目的意識的ニ統括サレテヰナイカラ,市場価格ハ無意識的ニ生ズ」

 「故ニソノ構成体タル企業ノ諸活動ハ目的意識的ナ活動ニヨリ統合サレル組織ナル故ニ,コヽニ存スル価値価格ハ最大ノ剰余獲得ト云フ目的ニヨッテ目的意識的ニ附加サレル価値価格デアル」

 「コレハ経営経済学ノ内部ニ於テ論ズル評価論(価値論)ト国民経済ニ於ケル価値トハ根本的ニ異ル」

 「単独経済ニ於テハ費用収益ナル目的ニヨリ,附加サレル財貨ノ価値デアル」

 「国民経済ニ於テ,財貨ノ価格ガ如何ニシテ定マルカト云フ問題トハ異ル」

 「購入販売トイフ点ガ,国民経済的価格ヲ基礎トシテ評価スルハ勿論ナレド,ソノ中デ,如何ナル価格ヲ撰ブカト云フコトハ経営経済ガ達セントスル目的ニヨリ決定サレ,市場価格ソノモノデハナク,経営者ニヨリ目的意識的ニ構成サレル」

 註記)同書,25-26頁。

 中西は,「理論的経営経済学〔私経済学・企業経済学〕」と別立てのかたちで,「利潤追求の学(Profitlehre)」,「技術論=工芸学としての経営学」を肯定していた。だから,「経営経済ガ達セントスル目的ニヨリ決定サレ」る,あるいは「経営者ニヨリ目的意識的ニ構成サレル」「技術論ハ存在シ得ル」し,「経営合理性ノ判断ハ規範科学デハナイ」と説明した。

 中西のそうした説明は,同じようにゴットル「生活経済学」を祖述していても,ゴットル的な「存在論的価値判断」にもとづき,「規範的経営経済学の実質がいかなるものであるか」について議論をしていた,酒井正三郎や宮田喜代蔵のようなゴットリアーネルの志向性とは異なって,「経営合理性ノ判断ハ規範科学デハナイ」と判断するものであった。

 ゴットリアーネルと中西とでは,いわれていた「経営合理性」を判断する次元が異なっていた。前者は,全体-国民経済における企業経営・諸活動のそれであり,後者は,企業-経営経済における部分経営・諸機能のそれであった。

 したがって,「経営合理性ノ判断」を「規範科学デハナイ」と論定した中西の立場と,それを「規範的経営経済学の実質」にとりこもうとするゴットリアーネルの立場とは,議論が噛みあっていなかった。

 ところが中西は,「技術論としての経営経済学」を認めない立場である「理論的経営経済学」〔しかも経営経済学の絶対的独立性を認めないもの〕に,のちになってだが,ゴットル流「生活経済学」を不自然に導入・結合した。そのために,前述まで分析したような理論的な不整合を自説内にきたしていた。

 つぎの記述は,混淆的なものであり,不可解である。

 「費用収益ノ比較考慮ト云フコトハ最大ノ利潤獲得ナル形態ヲ取ッテアラワル。統制経済ノ強度ニ発達シタ所ニ於テ,費用補償ノ原則ニ於テハ,単独経済ハ,収益-費用=剰余デハアルガ,収益ハ制限サレル故,剰余ハ通常ノ場合,費用ヲ通常以上ニ節減シタ場合ハ,剰余ハ多クナル」

 「剰余ガ企業ノ創意ニモトヅク限リ,ソレハ刺戟トナリ得ル」

 「単独経済ノ立場カラ見レバ,何レモ収益ト費用ノ関係デアル」

 註記)中西「プリント『経営経済学』」30-31頁。

 戦時体制期における産業経営史の事情・背景は,いまでは十分闡明されている。戦時統制経済体制が構えられていたときでも,資本主義はその基本的な底面においては,平時経済の構造と同じ原理で機能していた。

 それゆえ,戦争の時代であっても,「費用補償ノ原則」と「最大ノ利潤獲得」との差異をとりたてて強調するのは,戦時経済的な経理・会計理念としての存在意義はさておき,明らかに誤導的である。

 というのは,「費用補償ノ原則」が「最大ノ利潤獲得」を超越できないことは,資本主義の〈通常・平時〉においてのみならず,その〈異常・戦時〉においても妥当するからである。

 ましてやゴットリアーネルは,「生活経済学」志向の「規範的経営経済学」を構想し,それも戦争経済への役だちを全面的に意識する理論の営為にたずさわった。ところが,その「生活経済学」に依拠した「経営の理論」の根底に控えていたはずの戦時思想がなんら内省されることもなしに,敗戦後の理論展開においても転用・流用された。

 酒井正三郎はその代表者であり,池内信行(*1)や藻利重隆(*2)も同じ系譜・仲間に属していた。

 註記*1) 池内信行『経営経済学序説』森山書店,昭和15年。同『経営経済学の基本問題』理想社,昭和17年。

 註記*2)藻利重隆『経営学の基礎』森山書店,昭和31年。同書「新訂版」1973年。

 むろん,ゴットリアーネルの「日本の経営学者」の理論体質に染みこんでいた戦時的性格は,一見したところ,戦後になっては漂白させられていた。しかし,彼らは,自説の戦時的性格を深く反省することはおろか,それをまともに回顧することすら皆無・無縁であった。

 同学の士は,その学問的な蹉跌を,しかと記憶に止めたい。

 中西は戦時中,心ならずも〔と推察されるが〕プリント「経営経済学」の講述において,ゴットリアーネルのほうへ擦りよった内容を呈示した。その結果,プリント「経営経済学」は,理論面で混濁・錯綜した諸主張を収納することになった。

 以上,中西寅雄の講義を聴講し,ノートをとった学生たちが,その文字興しをしたプリント資料によってであったが,つまり,大学の講義録の次元における議論から汲みとれた思想を介して指摘する問題点となっていたが,これはこれなりに問題となりうる論点を提供していた。

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