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昭和天皇裕仁と戦争責任をめぐる議論

 ※-1「天皇陛下と戦争責任(その1)-たこさん、Ddogさんへ」という文章がネット上にあったが,いまはその痕跡(リンク先住所)は削除状態で不詳

 現時点(2024年10月15日)では,そのような仕儀にあいなっていたゆえ,いまから20年以上も前の,2003 年 7 月 06 日 22:54:00 に『阿修羅 掲示版』に掲載(転載)されていた,その住所:http://www.asyura.com/0306/dispute11/msg/872.html の記述「原文」は,あらためて参照できなくなっていた。

 けれども,関心はあくまで内容本位にあったということにしておき,本日のこの話題にとりあげ,討究するための題材に活用してみることにした。以下の記述ではその原文と本ブログ筆者の記述は,基本からわざとからませる構文にしてある。

 なおまた,本日のこの記述においては,修辞の方法で工夫をくわえており,それもなるべく読みやすく,文意がすっきり通り,理解しやすくするための努力をしたつもりである。


 ※-2 はじめに

  多くの日本人は,程度の差こそあれ「昭和天皇には戦争責任はあるが,政治的判断で訴追されなかった」し,「昭和天皇の戦争責任はあいまいにされた」と感じていたのではないか?

 昭和の時代を振り返るとき,なにかすっきりしないものがあるのはそのためである。この稿では昭和天皇と戦争責任について読者とともに考えてみたい〔と前段で言及した原文の筆者は述べはじめていた〕。

 イ) まず,ひとつ気になるのは,「戦争責任」を論ずる場合,実はそれ以前に「天皇制じたい体に対する感情」,「好意の有無」という主観的な問題が,「責任論」といった法的あるいは客観的事実に関する問題を左右しがちではないか,という論点の介在である。

 もっとも「見方によっては責任があるともいえるし,ないともいえる」といっていたら,これは単に「相対的な責任論」に踏みとどまるほかない,しかも逃げ口上のいいぶんにしかなりえなくなる可能性を大きく残した弁説になる。

 ロ) つぎに問題になるのは,一口に「責任」といっても,その定義が曖昧である。通常法的な責任という場合,以下の諸論点が明確にされたうえで特定される必要がある。

  誰が(責任主体),
  どのような行為に基づくいかなる結果について(帰責事由),
  誰に対して(責任の相手方),
  どのような内容の責任を負うか
       (制裁を受けるとか義務を負う等)(責任内容)

法的責任の具体的な内容

 また,この帰責事由があるというには,『ある人の特定の行為の結果として,ある事態が発生した』かどうか『因果関係の立証』が必要である。しかし,法的責任原因としての因果関係は,社会的に相当な(合理的な範囲内の)因果の流れの結果発生した原因結果の間においてだけ認められる手順が,最低限必要不可欠である。

 ハ) 自然界に限らず人間社会のすべての事柄は,無限の因果関係の連鎖のなかにある。ある人の特定の行為とある事態の発生の間に,どんなに細かくとも原因結果の糸が,必らず通じている。

 したがって,それぞれの因果の連鎖におけるきわめて些細な行為であっても,因果関係の連鎖の結果として重大な事態に結びつく可能性を排除できない。その種の因果を軽んじたりしていたら,それこそ正義に反する認知を犯すことになりかねない。


 ※-3 戦争責任の概念

 そして,前項のごときに「それなりに相当な因果関係の範囲内にあるかいなか」の問題は,客観性と合理性を備えた事実認定の結果,認定されなければならず,そこに主観や感情をさしはさむことが許される性質のものではない。

 天皇(明治の睦仁,大正の嘉仁,昭和の裕仁)の立場に限らず,いわゆる戦争責任問題は,一般に「日本が負けたからいわれている」という結果論的な側面があると思われる。

 一部の例外はあるものの,一般に「日露戦争を引き起こした」として明治天皇が非難されることもなく,第1次大戦では,日本は米英とともに連合国の一員として戦ったため,米英からは当然ながら「日本が戦争をしたことに対する非難」はない。

 また,それまでは「戦争犯罪」が問題とされることもなかったにもかかわらず,第2次大戦後「平和に対する罪」(戦争を起こし平和を乱したことじたいに対する罪)などという新しい罪名をつくってまで日本人が起訴されたのは,

 日本が米英と道をたがえ,干戈を交え,その結果敗北したという事実に起因している。敗戦というマイナスの事態からさかのぼって,開戦責任論が構成されていくというのが実状ではないか? 

 本稿〔⇒引照されている原文のこと〕は,詳細な法律論争を意図したものではない。しかし,現在いわれている戦争責任とは,あまりに漠然とした概念であったため,少なくとも「戦争責任」とはなにをさらに具体的に指すのか確実に提示しておく必要がある。

 a) ひとつの考え方として,戦争責任は次のように分類が可能である。

 a)- 帰責事由に基づく分類

  1.開戦責任:  戦争を開始したことにかかわる責任
  2.戦争遂行責任:戦争を遂行した課程にかかわる責任
  3.終戦責任:  戦争を終結したことにかかわる責任
  4.敗戦責任:  戦争に敗北したことに対する責任

 a)- 責任の相手方に基づく分類

  1.国際責任:他国家,他国民に対する責任
  2.国内責任:自国家,自国民に対する責任

 a)- 責任の内容に基づく分類

  1.法律的責任:不法行為をなした場合に課せられる法律的制裁
  2.政治的責任:権力の行使によって生み出された結果に対する政治           行為者の責任
  3.道義的責任:前記の責任を免れたとしても自己の良心において負           担する内的な責任

戦争責任の分類

 以上のとおり,理論上は一人の責任主体に対して上記それぞれによって,24通りの組み合わせが可能になる。これらは明確に区別して論じられるべきである。一般に,昭和天皇の戦争責任について問題にされるとすれば,「開戦責任」に関する主として国際的(戦勝国に対する)な法律的,政治的,道義的責任であった。

 b) 開戦責任を理解するためのいくつかの前提

  b)- 現人神ということ

 いまから四半世紀も前の話題となるが,あの〈サメの脳ミソ〉の持主だと指称された森 善朗総理大臣が「日本は天皇を中心とする神の国」だという失言を,はたしてこの国の神道に関する基礎的な素養があったかどうか基本から疑わせる程度であったが,それでも当人はこの発言を得意になって放っていた。

 しかし,国民の多くが「現人神」というご存在を誤解していると思われる。天皇は,神に対して祭りをおこなう「祭り主」であって「祭りを受けられる神」ではない。ちょうど神社の神主さんが,ご祭神に対して神事を執り行われるように,天皇陛下は祖先神である「皇祖皇宗」の御霊に対し祭りを執りおこなわれる。

 天皇は神に接近し皇祖神の神意に相通じ,精神的に皇祖神と一体たるべく不断の努力をなさっている。すなわち地上において神意を表現なさるお方である。その意味では地上の神とも考えられる。しかし,戦前は天皇が唯一絶対の神であり,超法規的存在であったとするような短絡的な考え方は間違いである。

天皇は神職?

 しかし,以上のごとき解説は後追い的に,戦争中(敗戦時まで)の昭和天皇:裕仁が旧大日本帝国で果たしてきた「生き神的な実在性」を,まっこうから否定し,抹消したがる立場であった。つまり,歴史の事実をありのままに捕捉して表現したり,議論しようとしたものにはなりえなかった。

 つまり,裕仁の戦時体制期における立場を,ただ弁護するためにしかなりえない〈援護射撃〉をおこなっていた。この方法では天皇・天皇制問題はまともにあつかいえない。学問以前というか,それ以外のなにか特定の政治観が予定されている,としか受けとりようがなかった。

 どだい,敗戦以前の旧日帝においては,文字どおりというかあるいは完全に近いかたちで,それも臣民たちに対する顕教的な洗脳の強制が,まさしく「戦前は天皇が唯一絶対の神であり,超法規的存在であったとするような短絡的な考え方」を,それこそ絶対に疑ってはいけない「超絶した普遍的な真理」として,臣民たちの脊髄反応(脳を通さず,考えることなく感情だけで反応する)として刷りこまれていた。

 それゆえ,そのように「事後のいいわけ」を充てておきながらも,敗戦前における日本の政治社会の真相に関してとなれば,当時における時代状況のなかでは「神州日本は神様同然の天皇陛下」,つまり「生き神様」がいたかのように臣民たちは信じるように馴致されていた事実を,けっして根本から批判する見地をボカしておくことにしてきた。

 もちろん,前段のごとき天皇観は信ぜず,否定する人たちが一部にいないわけではない。だが,その点を表明したり主張したりすることを,本気で展開する人びとは少く,あえてそうした事実のもつ本質面を世間に訴えようとする人は,日本社会のなかでは陰湿な弾圧を穏やかに受け排除されることになっている。

 補注)反天皇制運動連絡会(略称は「反天連」)という1984年(昭和59年)に結成された反天皇制をかかげる市民団体がある。機関誌として『反天皇制運動アラート』を発行。

  b)- 祭政一致 

 保守派の論壇の一部に,天皇の戦争責任問題を回避する目的で,「日本は律令制の昔から『政教分離』であり,天皇に政治的実権はなかったため,戦争責任も生じない」とする考え方がある。しかしこの考え方は,いわば苦肉の策ともいうべきで,日本の国体(国柄とか国の本来のありようのこと)を正しく伝えていない。

 日本においては,古来より「祭り事」と「政り事」は一体であった。すなわち天皇の「祭祀大権」と「当地大権」とはもともと一体であり,このような考え方は中国においてもみられる。

 しかし,決定的に違うのは,日本においては祭り主である天皇とご祭神である「皇祖皇宗」は,先祖と子孫の血縁関係であるのに対し,中国皇帝とその主祭神の『天』の関係は,血縁ではなく天命に基づくものである。このため別の者に新たな天命が下れば,易姓革命が起こり王朝は交代する。

 祭政一致ということは,ともすれば「権謀術策」の場となりやすい政治の世界のうえに「神聖感」を置くことを象徴している。あくまでも「祭政一致」が日本古来の正しい「国体」の姿を顕わしている。

 --とはいえ,その「祭政一致」の名目のもとに,日本古来から正しい「国体」の姿が顕わしうるのが,この国だという国家体制のあり方に関した理解は,まずもって手前味噌でしかありえなかった。

 西欧型の民主主義国家体制が唯一無比の政治の方途だとまで思いこむ必要はない。けれども,日本には古来から正しい「国体」の姿があったのだという「提唱:創説」(詭弁的な神話風の調和予定説)は,ほとんど99.99%は独善かつ断定の,いいかえると,思考停止を要求されていたごときの「政治観念」は,一般論としての民主主義政治理念が追求する概念や定義とは無縁であった。

 それほどすばらしかったのが,「祭政一致」の名目⇒「日本古来から正しい〈国体〉」だったとしても,明治⇒大正⇒昭和の時代を通して,東アジア諸国内に日帝が付設させてきた神道神社が,帝国敗戦を機に一気に,あたかも一瞬にして蒸発したかのように,そのすべてが焼き討ちなどにも遭って消滅した事実を,まさか忘れたわけではあるまい。

 以上の記述が分かりにくいという人には,専門家が学術誌に公表したつぎの論稿の1頁を紹介しておく。ここまで紹介している意見の理屈は,あまりにも「自国中心主義に凝り固まった思考回路」しか働いていなかった。

公平・公正にかつ客観的・冷静に歴史を回顧する見地を維持しないで
手前味噌の発言ばかりを押し出すようでは説得は生まれない

上に紹介した論文の中身は植民地の人びとのみならず
自国民まで完全にないがしろにした当時帝国日本の冷酷さと残忍さを
指摘・批判


  b)- 国体と政体

 明治憲法下では天皇が「統治権を総攬(まとめおさめること)」するとされているが,実際に天皇が司法,立法,行政の複雑多端な問題に直接介入なさるわけではない。だからといって統治大権そのものが天皇に帰属するとの意義を失ったわけではない。

 補注)神道関係,天皇・天皇制関連の文献中ではこのような「天皇に対する敬語」を使う者たちが少なからず存在する。

 一見,学術書の体裁を採った本のなかで,しかも立派に神道を研究したうえで専門書を公刊する人たちになかにも,そのように天皇用の敬語を展示して,しかもこれを平然と学術風(!?)に公表している者たちまでいる。

 この種の学術作法は「身内しか通用しない秘儀まがいの限定版」でしかありえず,ほかの表現でいうとしたら,まったくに〈島国根性〉の神道的な表白。

補注

 国体というのは時代の変遷に関わらず普遍のものである。しかし,実際の政治の運用となるとこれは政体の問題であり,その時代に応じた政治形態に変遷を遂げてきた。ゆえに国体と政体,この二つの事は明確に区別を要する。

 c) 立憲君主制

 明治以降の日本の政体は「立憲君主制」である。君主としての天皇は “おられる” が,天皇は中国皇帝のような超法規的権力者ではなく,憲法を尊重し自らも憲法に規定されるご存在であった。

 すなわち,天皇は憲法の規定に従って,帝国議会の協賛を受けて立法権をおこない,国務大臣の輔弼(権能行使による助言)と枢密顧問の答申を受けて国事行為を執りおこななわれた。

 明治憲法〈大日本帝国憲法〉第4条に統治権の総覧がある。それは,「この憲法の条規に依って行う」と規定されている。

 つまり,天皇でさえも,憲法に規定される存在であり,憲法の枠の中で憲法に従って行為をされる御存在であった。また,第55条,56条に,国務大臣が天皇を輔弼し,枢密顧問が審議によって天皇に応えるかたちで重要な国務をおこなうと記されている。

 実際には,輔弼は内閣によっておこなわれ,責任も内閣がこれを負った。輔弼が天皇を法的に拘束するものと解すれば,日本国憲法における,内閣の『助言と承認』とほぼ同じ意味になる。

 --しかし,明治憲法(大日本帝国憲法)と日本国憲法をこのように比較しながら,その間にはいかにも太い基本的な通有性があるかのように語る話法の詭弁性は,完全に「誤導の解説(エセの解釈論)」に一直線に誘導することにしかなりえない。

 旧憲法と新憲法との連続性がまったくないわけではない。だが,ネトウヨ的に感性的な認識にしたがえば,いわく「押しつけられた憲法」が日本国憲法であったがゆえに,これは明治憲法にまで戻したほうがいいのだと,妄想できた亡霊的な御仁がいまだに多数生存している。

 日本国内でのみ妥当した国家神道にもとづいた天皇観や天皇制史観は,国外(海外)に一歩出て,その土地の人びとに向かい,その存在意義を押しつけがましく語りはじめるや否や,ただちにその神道宗教的に普遍性をともなわない本性を暴露させた。

 ましてや敗戦まではとくに,自国民たちに強制してきた国家神道のイデオロギー性,つまり天皇中心史観のその欺瞞性と作意性は,その後になれば必然的に,その架空性を余すところなく露呈せざるをえなくなっていた。

 にもかかわらず,2024年になった現時点においても,「皇室・皇族」がこの国なかにに並存していなければ,なにごとの一事すらうまく動かない国柄なのだと,それも宮内庁を拡声器に使い,性懲りもなく喧伝している。

三土修平・画像1
三土修平・画像2


 上のふたつの図解は,関連して三土修平(明笑)が作成していた「日本の政治社会の模式図」である。

 だいたいにおいて,現在にあってもこのような構図を国民たちの間に浸透させようと,日夜,必死になってそれも密やかにだが,押し売り的にその努力を一生懸命にする宮内庁の基本姿勢は,はたして,この国の民主主義国家体制と問題なく円滑に両立しうるものかどうかについては,もとより基本からして問題含みであった。

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