民間神社参拝:伝統的な民俗神道と靖国神社参拝:明治謹製国家神道の対比
※-1 2014年4月6日「原文」を改訂するにあたりあらためて「前言」を記したい
本日の話題は,古来からこの国の宗教的な伝統として実在してきた「民間神社」(神社神道・教派神道・民俗神道・土着神道など)における庶民の参拝と,
それに対して明治期に入ってから,国家が人為的に創設させた「靖国神社」(明治神道・国家神道・擬作神道)に対する国民の参拝との「対比」をもって,「日本における宗教史」の一端を吟味することで,
神道全体の歴史的な本質・実体を認識しなおそうとする試みである。
※-2『日本経済新聞』に出ていた「初詣用の広告・宣伝」
1) 神社・仏閣の商売繁昌-なんといっても初詣は獲き入れ時-
11年以上も前の日付になるが,2012年12月28日『日本経済新聞』朝刊の30面には,関東地域の主な神社・仏閣によって,2013年正月「初詣」の〈来客〉を期待し,呼びこむための広告・宣伝が出されていた。これ以外にも,関東地方には有名な寺社が数多くあることは,誰もがしっている。ともかく,数日後にいよいよ新年を迎える。
あいかわらず不景気な世の中ではあるけれども,このときこそである,大いに神社・仏閣には初詣に来てもらい,より多いお賽銭の投入と縁起物の売上協力を期待したい,というわけである。なにせ,新年に願いをかける機会であって,縁起にもとてもかかわる初詣である。寺社は手ぐすね引いて参拝客が千客万来になることを願っている。
さて,この寺社の初詣用「広告・宣伝」を観てすぐに気づく〈奇異な宣伝文句〉は,なんといっても靖国神社のものである。明治以来「帝室の護国のために創建された」靖国神社が,21世紀のいまにあっては,あまねく庶民の日常生活もからめたかたちでの「国家安泰・家内安全・厄除祈願等」 に変化している。
1945年の秋あたりまで,この靖国神社のご利益はもっぱら「国家安泰」にのみ向けられ,あとの「家内安全」とか「厄除け」などは, 戦後になって国営神社〔陸海軍の管理するそれ〕から一宗教法人になりかわったのを契機に,そのほかの一般の神社とまったく同じような祭事を真似てとりいれたものである。
靖国神社は敗戦後とくに,7月中旬に執りおこなう《みたままつり》を,まったく新たな行事に仕立てて,「神社としての生き残り」を図ってきたという経緯がある。
ほかの一般神社で観るに,たとえば「笠間稲荷神社」は,「由緒」という案内で「御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」という「生命の根源を司る〈いのち〉の根の神」として農業・工業・商業・水産業など,あらゆる殖産興業の守護神として人々の生活すべてに御神徳を授けて下さる神さまです」と説明しており,
つまり,「家内安全・商売繁昌・交通安全・合格祈願・心願成就・厄除け他」など,とても幅広い分野にまたがりご利益が祈願(期待!)できるのが自社であると,謳っている。
まあ,そのほかの神社・仏閣も,ほぼ同類の範疇のご利益に収まるものをかかげている場合が多いから,この笠間稲荷神社がごくふつうの民間の神社(宗教法人)としては,格別に「変わった御利益」を宣伝しているわけではない。
以上の意味や関係に対比すると,靖国神社の 「国家安泰」は,きわめて異様なご利益であった。「なにが異様か」という点は,この記述全体を通して意識されるべき問題となっている。
さて今日は2023年12月23日で,明日24日はキリスト教のクリスマスイヴ,明後日25日はそのご本尊様であるイエスの誕生日ということで,2024年の新年には,きっとどこかの神社(仏閣もありだが)に参拝にいく人たちであっても,シャンパンを開けたりクリスマスケーキをパクついたりすることは,この国の風俗としては,相当の昔からごくみなれた風景,年中行事になっていた。
そして,さあ,さらにその1週間後には神社(仏閣)に出向いては,新年の願掛け,つまり八百万(やおよろず)の神々が鎮座するそこで,本年こそは本当に御利益がたくさん,しかも自分にだけは舞い降りてくるようにと,祈願するしだいとあいなる。
ところで,毎年の正月ごと初詣に出向く人たちのなかでも,とくに靖国神社に参拝にいく人たちが,はたして「国家安泰(そのもの)」のために,この九段下の元国営神社に参詣しにいっていると,みなしてよいのか?
もちろん,そのことを信念として十分に強く意識していく人たちがいる。
しかし,大部分の靖国参詣者は,もしかすると「国家安泰」がこの靖国神社の,第1に最大にめざすところのご利益だとは気づいていない場合もありうる。靖国がすごく立派そうな神社だし,しかも東京に住んでいて,しかも交通の便もよいところでくらしているからこの神社に参拝にいく,という人たちも大勢いるはずである。
『日本経済新聞』2012年12月29日朝刊にたまたま,「東京・首都圏経済-初詣 明治神宮 また行きたい 首都圏で情報サイト調査」という記事が掲載されていた。これを紹介してみよう。
首都圏のタウン情報サイト「レッツエンジョイ東京」が1都3県の20歳以上の男女1465人に首都圏の「とくに行って良かったと思う初詣スポット」を尋ね たところ,1位は明治神宮(211人)で,2位は鶴岡八幡宮(135人),3位は浅草寺(123人)であった。以下は川崎大師(112人),成田山新勝寺 (109人)がつづいた。
調査は11月にインターネットで実施した。番外編では,「恋愛運をお願いするなら『東京大神宮』」(20代女性)や「『芝大神宮』はそろえてあるお守りがどれもかわいらしい」(30代女性)などの回答があった。「とくに屋台・露店が充実していると思った初詣スポット」は1位が川崎大師だった。次いで浅草寺,成田山新勝寺,明治神宮,大宮氷川神社の順位であった。
【参考資料】-2009年,2009年,2013年正月における初詣集客数「10位」を,つぎの画像資料で観ておきたい。
以上までの記述内容は2012年から2013年「新年」にかかわる情報であったので,ここではさらに「【2024年最新】全国初詣人気スポットランキング」という関連の最新情報を紹介しておこう。
この情報は2023年11月に収集したものだといい, 「新年を迎えるにあたり,多くの人が初詣に出かけます。2024年の初詣人気ランキング TOP10 を,全国のおすすめスポットとともに紹介します」ということで,以下のようにその順位を紹介している。
第1位:明治神宮(東京都)
第2位:浅草寺 浅草観音(東京都)
第3位:西新井大師(東京都)
第4位:大國魂神社 おおくにたまじんじゃ(東京都)
第5位:鶴岡八幡宮 つるがおかはちまんぐう(神奈川県)
第6位:熱田神宮 あつたじんぐう(愛知県)
第7位:川崎大師(神奈川県)
第8位:伏見稲荷大社 ふしみいなり(京都府)
第9位:厳島神社 いつくしまじんじゃ(広島県)
第10位:出雲大社(島根県)
このなかに,本ブログ筆者の実家の近所に位置する仏閣「西新井大師」が3位に入っているには,ビックリしたが,子どものころは正月になると「ともかくこの寺院に出かけた」ものである。ただし「祈願」などはせず,境内を埋め尽くすかのように出店している,各種の食い物屋や土産物(縁起物)屋を,ただ指をくわえて観てまわるだけでも楽しかった,面白かったという「記憶:思い出」だけが残っている。
補注)なお,以前に接することができたこの「初詣スポット」には,本ブログ筆者がしるかぎりこの西新井大師の名称が出てくることはなかった。たとえば前掲の「2009年,2010年,2013年における初詣数の統計」には,この西新井大師は出ていなかった。最新の統計でこの第3位に,多分だと思われるが急に登場したこの仏閣が,どうして,以前は出ていなかったのか不思議に感じるが(さらに調べる余地もありそう),それはさておき本論に戻ろう。
補注:2024年1月7日追記)その後,本記述を終えてから新聞のスクラップ作業をしていたら,つぎの西新井大師が2024年初詣向けの広告が出ていた。いずれも『毎日新聞』からである。
なお明治神宮は,1920(大正9年)11月1日にこの東京市の代々木創建された神社であり,ここに名前の出ている神社のうち,いってみれば新参の神道であり,明治天皇の遺徳をしのんで創建されていた。
東京市民が当時,相当に力を入れて支援し,創建してもいたという経緯があり,また,敗戦後には戦災で焼失した本殿を再建したりっぱな神社であって,敷地も東京都内でみればかなり広く,参拝をしなくとも散策には向いている場所だけに,ともかく新年の参拝には人気ナンバーワン。
しかし,明治神宮は,以上10位に挙がっている9つの神社また仏閣に比較してみると,新参であった。敗戦後,この明治神宮は日本の東京都渋谷区に立地する神社であり,祭神は明治天皇と昭憲皇太后,明治天皇死後の1920年11月1日に創建されていた。旧社格は官幣大社で,勅祭社であった。
また10数年前までは単立の神社であった時期を経験してきたが,現在は神社本庁の組織下に属する「ふつうの宗教法人」である。人気ナンバーワンの神社ということで経営状態は上出来(A級)の部類であるだけに,なにかと鼻息も荒い宗教法人である。
そのあたりの事情経緯に関して,明治神宮の立場はつぎのように描写されていた。小川寛大「富岡八幡宮でも起きていた 神社本庁との間にトラブル続発の原因は?」『AERA dot.』2018/01/10/ 11:30,https://dot.asahi.com/articles/-/125003?page=2 が,語った関連の出来事を聞こう。
2004年には明治神宮(東京都渋谷区)が離脱して神社界を騒然とさせたが(2010年に復帰),これは当時,天皇,皇后 “両陛下” が同神宮を訪問したさいの案内状に “両殿下” というミスプリントがあり,神社本庁側が明治神宮宮司に進退伺の提出を求めたところ,「まるで “逆ギレ” したように離脱していった」(当時をしる関係者)という経緯がある。
あるベテラン神主は,「神道人としてありえない態度の宮司が増えている。一方でそれをきちんと統率し,また話しあっていくという姿勢が神社本庁にも欠けている。いずれにしろ神道界全体のレベル低下が原因で,ここを根本的に改めないと騒動は今後も続発する」と語る。
日本人の宗教離れが叫ばれるなか,神社界の先行きはけっして明るくないという認識は,神社関係筋から明確に表明されるようになっていた。だが,神社といっても千差万別であるゆえ,いちがいに判断しきれる問題ではないという観方もできる。
※-3 皇室神道は皇室のため,教派神道は民衆のため,民俗神道も庶民のためなどに存在する神道各派である。これに対して,靖国神社は「戦争神社:殺人を正当化するための由来・素性を歴史的に抱えている神社」=「war shrine」である
a) ところが靖国神社側は,敗戦を境にいきなり,その「国家安泰」という中身〔黄身というか餡子か?〕を,一般神社であればどこでもかかげているご利益〔白身というか皮!〕でもって,覆いつつんで隠すかのようにしてきた。
この靖国神社は本来,明治以来の旧日帝・国家目的を宗教神事的に合理化させるための「戦争神社」として使命をになわされていた。より厳密にいえば,現在でもその意図:「明治軍事史的な本性」はいくらか和らげた体裁はとってはいるものの,できるならば参拝者たちに対しては,そうした歴史的にこめられていた意図,つまり「敗戦を喫したが大日本帝国はかく戦えり」「けっこう偉大な国家であった」といった具合に,負け惜しみ的にではあっても,いまもなお「大東亜戦争史観」の表相的な気分に固執している。
その執心ぶりは,もしかすると,負け犬の遠吠え的にねじれた旧日帝的な「亡国感情」に過ぎないにしても,正直に自白して〈維持〉するなにかが秘められているのである。
靖国神社に本当の,それも「現世的・世俗的なご利益」があるならば,第2世界大戦〔「満洲事変」から日中戦争,大東亜:太平洋戦争〕の全過程において,自国の犠牲者だけでも310万名もの死者,事後,246万6千余柱まで数えられる〈英霊〉たちを出すことなど,けっしてありえなかったはずである。
しかし,だからというべきが,靖国神社「本来の御利益」というものは,旧臣民ならびに現国民たち向けのものでは全然ありえず,明治維新以来の天皇一族とこの者たちが頂点に居座る旧大日本帝国,これそのもののためだけに発生しうるものであった。
b) 戦争だから勝ってナンボの計算であったところが,旧日帝は1945年8月15日に連合軍に降参した。無条件降伏したが,天皇家だけは日本国憲法を準備する操作と抱き合わせのかっこうで残してくれた。
日本は敗戦後,1951年9月8日に調印し,1952年4月28日に発効した「サンフランシスコ平和条約」の発効のともない,連合国による占領期間を終え主権を回復したものの,
その後も,実質的に,在日米軍という駐留軍の完全撤退はなく,結局,21世紀の現時点までつづている,いわば「在日米軍」と「アメリカ大使館」を併せてみれば『日本総督府』とみなせるごとき「アメリカによる日本統治機関」が,依然,継続して居座っている。
敗戦後,日本国憲法が発布される以前においてすでに,靖国神社はGHQの監視下でその存立を許されるという「僥倖を与えられていた」せいか,その「戦争神社」の基本性格に関してならば,完全に「敗戦神社:賊軍神社」に転落してしまった事実そのものを,なんとか直視しないかたちで済ましてきた。要は,その点にまつわる問題の発生を,完全にごまかしてきたのである。
昭和天皇が敗戦後になってからも靖国神社を親拝した目的は,実際には彼が神主(宮司)みたいであったこの神社に対することとしてだが,またくわえては,「親祭という用語を使っていた」事情にも鑑みて判断するとしたらいったい,どういう宗教的な意味あいをもたされていたのか?
本当のところをいえば,戦前・戦中の日本帝国の「国家安泰」という祈願は,その延長線上において実質,敗戦後における「日本国」の「国家安泰」にすんなり連続しうるものであった。
だから敗戦後になっても,この1945年以前の過去を郷愁し,志向することに関して,わずかの羞恥心すらもちあわせなかったのが,この元国営神社としての「この靖国神社」であった。自社が戦争に敗北した日帝の国営神社であった事実,陸海軍管轄の国家式の神道神社であった事実を,なんら反省することもなく21世紀の今日まで来た。
c) 戦争神社かつ官軍神社としての「靖国の眞の有意義」は,「戦争での勝利」以外にみいだすことはできなかったはずである。それゆえ,敗北にまみれた旧日本帝国のために「尊い命を捧げさせられた」,いいかえればまったくの「犬死に」「無駄な死」の目に遭わされてきたた帝国臣民たち〔しかも日本人だけではない〕が,靖国神社に《英霊》となって 「合祀されている」。
とはいっても,つまり「祭神」としては十把一絡げに,それも霊的にあつかわれるから,実質はひどく粗略に待遇しているにもかかわらじ,しかも246万6千余柱にも及ぶその名だけは「英霊」たちを,ただ「一緒くたに」であっても,いちおうはていねいに「儀式にのっとって」合祀されているのだとはいったところで,
それは口舌だけでもって, 戦場では虫けら同然に殺され死んでいって,しかも,兵士たちはその「6割は餓死者からなる英霊」になっていたにもかかわらず,「この靖国神社にいかにも大事に合祀している」かのように潤色・装飾している。
「死んで花実が咲くものか」「命あっての物種」とはよくいったものである。靖国神社はこれに対抗できるような,すなわち,戦争に伴うほかない「死者の怨霊」の発生を慰霊(本当は圧殺)するための精神装置として,物的施設である国営靖国神社として造成されていた。
つまり,この靖国神社は,戦争犠牲者たちを「英霊として回収する手順」を精神装飾的に国家的次元において虚構することで,その遺族たちの「悲しみ・怒り」を国家側の論理のなかに吸引・拡散・解消させてきた。さらには,臣民の側から起こる可能性が常時排除できるはずもない「厭戦・反戦の気運」までも,事前に封殺しておくための装置としての役目ももたされていた。
靖国神社が国家信仰のあり方を臣民側に強制する宗教施設であったかぎり,結局は「信じるか・信じないか」と臣民が迫られたことがらになっていた。それだけに「イワシの頭もなんとか」の部類である事実を否定できていなかった。とりわけ異教徒にとってみれば,靖国神社の構造物はイスラム教のモスクやキリスト教会のそれとの相違と同じ具合に映るだけではないか。
※-4 靖国神社の祭神は2座,庶民用と皇族用に差別されているのに,天皇制国家の戦争のために死んだ庶民(帝国臣民)が,この神社の祭壇の上でも平民あつかいされている,それも敗戦後の21世紀の現在まで
靖国神社の祭神についてとくに気をつけねばならなのは,皇族の戦没者だけはその246万6千余柱とはべつにされるかたちで,祭られている事実である。本殿での祭神の神座は当初は1座,つまり帝国主義路線を推進していく過程でどんどん増やしいった《英霊》を,一括して放りこんできたその1座がまずあった。
そのところに,1959〔昭和34〕年,靖国神社の創建90年を記念して,旧植民地にあった台湾神宮および台南神社に祀られていた「北白川宮能久親王」と,蒙彊神社 (張家口)に祀られていた「北白川宮永久王」とを遷座合祀して,新たに1座をくわえ設けていたのである。
したがって,現在において靖国神社内の神座は,英霊を祀る1座と能久親王と永久王を祀る1座の「2座がある」という事情になっている。
靖国神社に初詣に出向く人たちは,かつての帝国臣民「無数」と皇族「2名」 とをそれぞれ別置させつつも合祀し,それも1座ずつにして祭神として並べられる神経,いうなれば「これほどまで同じ人間〔ではないのか?〕を差別する」神社であることを,事前にしかと承知しているわけではない。
皇室神道の延長線上ではそうであってもよいのかもしれないが,外部の人びとにはそう簡単には納得のいかない『〈チンプンカンプンの屁理屈:人間差別〉=〈皇族と平民〉に関する区別』が,いまもまかり通らせている。これが靖国神社のひとつの内幕事情といえる。
21世紀の時代になってこの神社に参拝する国民・市民・庶民たちは,そうした旧皇族と旧平民たちの差別的なあつかいを認めているのか(?)などと疑問を提示されたとき,ごく平凡なわれわれ側は,ただ驚いて,鳩が豆鉄砲を食ったかのように反応するだけでいいのか?
すなわち,明治時代に創建された靖国神社の祭神の場合は,大正時代に創建された明治神宮であれば「明治天皇と昭憲皇太后」が祭神〔なぜか夫婦であるはずなのに,子と母という表記が正しいとされる不思議な祭神がいる神社〕であるからまだ分かりやすい(?)のに比べて,
いまもなお,合祀されて英霊になる資格をもつとみなされた死者たちがその1座〔もちろん平民のほう〕のなかに,これからも追加され増えつづけていくかっこうで合祀されていく仕組に,なんら変わりはない。
靖国神社は,かつて帝国臣民で戦死者となっていた庶民出身の兵士たち,たちの英霊だけを,祭神としてともかくも〈合祀〉していたのかと思いきや,いいかえると,「戦死した兵士たちの御霊」を「平民の英霊」としてのみ,ともかくそのすべてを『とりまとめてで祀っている』のかと思いきや,どうやらそういう理解に違和感を生じさせる「皇族出身の将校」に対する,靖国側が採った「合祀の方法」が混ざりこんでいた。
昔,植民地や支配地域にあった「専用の特別な神社」に祭られていた皇族の御霊が,敗戦を境にしてその居所を失っていたが,それも戦後もだいぶ時間が経ってからだったが,靖国神社が祭神としてとりこんでいたのである。しかも,別格のあつかいで受けいれていた。
民間の一宗教法人になっていた靖国神社がそのように皇族の死者を特別に受容した理屈は,いったいどのような中身であったのか。この点を問い詰められたら,靖国側はそれなりにヘリクツを申し立てて説明しようとするが,しょせん,人間平等の基本精神を納得させうるものではない。
靖国神社がご利益としてかかげる「国家安泰」とは,庶民の戦争犠牲者については,面倒だからといって246万6千余柱を,ひっくるめて1座に合祀してある。しかも,こちらは今後にも増える可能性がある。
ところがさらにそこでは,皇族の戦争犠牲者だけはいっしょにその座に入れるわけにはいかない,という理屈が具体的に意味されたかたちをとって,そもそもが,皇族2名のためだけにわざわざもう1座を設けて祭神にしていた。この点にはこれなりに,靖国神社側の「重い意味」がこめられていた。
まともに考えてみれば,靖国神社は「246万余柱の合祀者」を祭るところにこそ,「国家神道的な意義がある」と定められてきたはずである。ところが,敗戦後いつのまにか勝手に,それも一宗教法人になってからだったが,
元皇族2名の《英霊》だけは庶民とは区別してもう1座を創っておき,そのうえで上下に整列させてうえで,まとめて靖国に祭るなどという宗教的な措置は,帝国臣民から英霊になった戦争犠牲者,そして戦後にこの神社にそうした経緯もしらずに参拝する人びとを,いわば「敗戦事情」的に平然とだます詐術的姿勢であった。
※-5 鎮霊社-その他,資格外の,英霊にはなれない戦争犠牲者のためだと説明だけはされていたこの祠-
また靖国神社には,拝殿・本殿の南側に「鎮霊社」という祠も設置してある。これは靖国神社のホームページに写真が出ているが,ほかから適当なものを選んで紹介しておく。
本ブログ筆者は2012年の夏,実際にこの鎮霊社を初めて確認しにいったことがある。しかし,門には鍵がかけられ入れない状態になっており,参拝したいものは社務所に申し出てくれとの注意書きがあった。
それにしても,この鎮霊社は靖国神社の拝殿や本殿のきらびやかさに比較して,ふだんは誰も足を踏み入れていないのか,ホコリをかぶっているかのような風情であって,境内では冷遇されている施設にみえた。
拝殿・本殿と比較してみた鎮霊社は,実にみすぼらしい祠であることは一目瞭然であって,申しわけ程度にオマケに設けた祠にしかみえなかった。
注意したいのは,この鎮霊社は昭和40〔1965〕年に設置されており,靖国神社にいまでは246万6千余柱の《英霊》として合祀されない〔資格外という意味であるから,より正確にいえば合祀するわけにはいかない〕戦争犠牲者たちの《霊》を,まとめてここに祭ってやった(ほうりこんでおいた)という意図が,露骨に示されていたことである。
鎮霊社は,敗戦後,一般神社の体裁をとりながら,それでも継続的に「英霊の名簿」を厚生省から受けとりながら合祀してきたこの靖国神社が,弥縫的に一般神社の物真似をしたつもりで,境内の一角に設けておいた物的証拠のひとつといえる。
「おまけ付きのグリコ・キャラメル」ならまだ楽しみもあったかもしれないが,この鎮霊社は,一般の宗教法人になった靖国神社の全体的な体裁をとりつくろうために,申しわけ程度に置かれていたに過ぎない。
靖国神社が本当に「荒御霊」の真義を知悉しているならば,戦争犠牲者のなかから英霊を選抜するというような,根本から「神道という宗教の歴史的・伝統的な基本精神に反した」「国家的意志」の意図的かつ歪曲的な発揚は,絶対に許されない措置であり始末であり行為である。
靖国神社にとって,鎮霊社は本当のところ置いておかなくてもよい祠である。敗戦後,無理やり一般神社に転換させられた靖国が,戦争神社である本質的性格を少しでもカムフラージュするためだとしても,拝殿・本殿の南側(靖国通りの方位に),かなり探しにくい場所に「嫌々ながらもこの鎮霊社を置いた」ということらしく,靖国側のその本心がよく伝わってくる 配置といえる。
要は,正月用の初詣のために新聞の広告・宣伝を出している神社・仏閣のうちでも,靖国神社は明治時代に創建されたもっとも新しいもののうち1社に過ぎない。
明治神宮も大正時代後期に創建されていて,靖国よりももっと新しい神社であった。こちらはいちおう戦争神社ではない。しかし,明治天皇と戦争のつながりに関するイメージは強い。日本帝国主義史の実績がなによりも,その物語を示唆していた。古式ゆかしきだとか,大昔からあった神社だという説明は,靖国神社には全然なじまず,不自然であった。
※-6 戦争神社としての「靖国の本質」
『靖国神社問題関連資料』というホームページがあり,そのなかに「靖国神社Q&A」という項目が編成されている。以下にこれを全文引用する。
もっとも,本ブログ筆者が指摘した論点に触れられていないのは残念であるが,一般論としては靖国問題を包括的にうまく説明している論述である。なお,文体は文意に支障がない留意のもと変更してある。
見出し・連番なども付し,多少の補註の記述も足した。議論は2000年代初めの時期においてのものである。
註記)この資料集が収載されているホームページの住所は以下のものであるが,現在(2023年12月23日)は削除されている。アマゾンの通販では該当する現物が販売されている。
http://www.geocities.jp/social792/yasukuni/index.html
http://www.geocities.jp/social792/yasukuni/QandA.html
1) 靖国神社とはなにか
1869〔明治2〕年に「明治天皇の深い思召によって」(靖国神社略誌)東京招魂社として建立され,靖国神社と改称されたのは,明治12〔1879〕年のことである。戦前の国家神道体制において靖国神社は陸・海軍省所管であって,天皇と国家のために死んだ戦没者を軍神として奉る軍事的宗教施設であった。
現在は一宗教法人となっているが,国家護持をめざす法案が提出されるなど,戦前体制の復活をもくろむ動きもある。靖国神社の性格も基本的には戦前とかわっておらず,欧米ではその性格から「War shrine(戦争神社)」と呼称されている。
2) 靖国神社はなにを目的としているのか
☆-1 軍国主義普及と戦争推進の精神的支柱。
☆-2 「戦争犠牲者の慰霊」ではなく「『英霊』の鎮魂と礼賛」。
☆-3 「天皇陛下を中心に立派な日本をつくっていこうという大きな使命」をもつ(この項目は靖国神社ホームページを参照)。
現在,靖国神社は「戦争犠牲者を悼むための場所」と誤解している人も多い。
しかし,二義的にそのような目的も存在しうるが,本質としては「国家による戦争で戦死した軍人を,国家の英雄として祭祀すること」が主たる目的となっている。
またそれは「兵士の志気を高め国家による戦争を推進すること」が最終的な目的であるといえ,それは戦前も戦後も一貫してかわっていない。
補註)そうすると,敗戦直後の日本国の空中には「国家の英雄」たちの霊が充満して飛翔していたことになるのか?
この本質を正しく捉えれば「戦争を二度と起こしてはいけないという気持で戦没者に敬意と感謝の誠をささげたい」という小泉純一郎元首相などの発言は,かなり的外れであった。
むしろ,中曽根元首相の「国に殉じた人を国民が感謝するのは当然のこと,さもなくば誰が国に命をささげるか」なる発言が本質を表わしている。今後も,国家が戦争を起こせば無条件で国家に命を捧げて戦う兵士を確保することが「靖国神社の存在意義」なのである。
3) 誰が祀られているのか
☆-1 天皇と国家のために死んだ軍人・軍属。
☆-2 「靖国神社に祀られている神さま方(御祭神)は,すべて天皇陛下の大御心のように,永遠の平和を心から願いながら,日本を守るためにその尊い生命を国にささげられたのです」(靖国神社ホームページより)。
戦前,祭神〔の合祀〕は,軍によって「天皇のための名誉の戦死」とみなされたものが,『天皇の「裁可」』を経て決定されていた。戦後,靖国神社は一宗教法人となり,神社自身で合祀者を決定しているが(ただし名簿作成には政府・厚生省〔現厚生労働省〕などが協力・提供している),上にも示したようにいまだに「天皇」が重要なキーワードになっている。
小泉元首相は参拝前,「(A級戦犯が合祀されているからといって参拝を反対されるが)死者に対してそれほど選別しなければならないのか」と述べていた。しかし実態は,靖国神社こそが死者をきびしく選別しながら祭祀してきた。
祭神は「天皇(国家)に命をささげて戦った」ことが前提となっている。したがって,西南戦争で天皇の軍隊に歯向かったことになる西郷隆盛らは祀られていない。もちろん,空襲などの犠牲になった一般国民も祀られていない。
さらに軍人であっても,戦って死んだのではなく病気で死んだ場合,「特旨をもって合祀」となっていて,本来ならば病気で死んだのは犬死だから,靖国神社の神さまになる資格はない。だが,天皇の特別のお恵みをもって神さまに祀るのだとして〈逆〉差別されている。さらに,被差別部落出身者への差別もある。
戦没者が「平和を願いながら」「日本を守るために」死んでいったという,さきに挙げた靖国神社の説明が,実体とかけ離れていることは明らかである。このような詭弁によって人々を無為の死に追いやり,「英霊」と祭り上げる悲劇を繰り返さないことが,戦後の日本人の努めである。
4) ひめゆり学徒なども祀られているというが
たしかに靖国神社ホームページは「軍人ばかりでなく,女性の神さまが57,000余柱もいらっしゃいます。みなさんと同じくらいの少年少女や生まれて間もない子供たちも神さまとして祀られています」と,誇らしげに書いている。
沖縄の「ひめゆり部隊」「鉄血勤皇隊」,魚雷攻撃で沈没した対馬丸に乗っていた疎開に向かう700人の小学校児童などが祀られているという。
しかし,アジ アの犠牲者はもちろん,空襲で亡くなったり原爆の犠牲になったりした戦争犠牲者の大多数が祀られているわけではない。靖国神社に合祀される人とされない人の選別基準は,それでいながら,あいまいで説明されていない。
ひめゆり学徒隊が祀られたのは,犠牲者の名簿を作成し厚生省に遺族年金を申請したところ,名簿が靖国神社に渡され「陸軍軍属」として合祀されたのである。 しかし,靖国神社の説明とは異なり,生き残ったひめゆり同窓生からは「『国のために潔く散っていった』のとは絶対に違う。本当はみんな最後まで生きたかった」との声が聞かれる。
最近では,石川護国神社に「大東亜聖戦大碑」と刻んだ石碑が建てられたさい(2000年8月4日),「少年鉄血勤皇隊」「少女ひめゆり学徒隊」の名が勝手に刻まれたことに抗議の声が挙がった。ひめゆり同窓会の理事は「まったく聞いていなかった。あの戦争が聖戦などというばかげたことをなぜ主張するのか。腹が立ってしかたがない」と話していた。
補注)靖国神社の戦争理解はその「聖戦」である。昭和天皇が負け戦を認めた判断まで「聖断」だと形容されるのだから,この国の民はどこまでもお人好しでなければ,間違いなくおめでたいというか,ある意味では救いよう「ワレラが民」なのかといわれてもしかたあるまい。
また,日本の植民地支配下にあった朝鮮・台湾出身の軍人・軍属約5万人も合祀されているが,多くは遺族にもしらされず勝手に祀られたもので,合祀とり止めを求める訴訟が起こされている。勝手な基準で,遺族の意志さえも無視し,無断で合祀をおこなう靖国神社の行為は,死者をさらに傷つけるものといえる。
5) 平和を願って参拝するのに問題があるのか〔という絶対矛盾したド・ヘリクツによる反発〕
靖国神社参拝は,本人がいくら平和を願うつもりでも,「結果としてすべての戦争犠牲者を冒涜する行為」となる。戦争犠牲者を悼み,平和を誓うことに異論がある人はいない。しかし,靖国神社がそもそも戦争犠牲者を悼んだり,平和を願う場所としてふさわしくないことは,2) の「靖国神社はなにを目的としているのか」でも述べたとおりである。
靖国神社は現在でも,「避けられない自衛のための戦争だった」「アジア解放の聖戦だった」「アジア全体の繁栄を目的としていた」といった,戦前と同様の歴史認識をもった人たちの拠り所となっている。侵略戦争推進の政治的責任者であるA級戦犯についても,「東京裁判は勝利国側の報復であり,A級戦犯は存在しない」(靖国神社パンフレットより)としている。
このように靖国神社は「侵略戦争を当然視し,美化さえしている」。そこへ参拝しにいって,「第2次世界大戦を美化したり,正当化するつもりはない。非難する心情が分からない」といった小泉純一郎(元)首相の発言は,あまりにも粗雑な理解であった。
補注)それゆえ,正月の初詣に靖国神社に参詣する人びとは,自分たちが意図するとしないとにかかわらず,戦争神社というその基本性格を認めるかのように頭を垂れていることになる。
靖国神社の主張や性格がどうあれ,小泉首相は平和を願って参拝したのだから良いではないか,という意見があるかもしれない。しかし,ただ戦争犠牲者を悼んだり平和を願いたいのならば,無理に靖国参拝というかたちにこだわる必要はないはずである。それでもこだわりたいというのならば,「靖国神社がどういう性格をもつか」というかたちにもこだわるべきである。
補注)歴代の首相たちが靖国神社を参拝したからといっても,この神社の歴史的性格をまともに理解していた人は,1人もいなかったといってよい。その程度の認識で 「歴史問題を惹起させ結果させる」ために靖国にいくのは,愚かどころか,自分自身の無知蒙昧をさらすことにしかなっていない。
もっとも,選挙民の1票でもより多くがほしいがために,政治家のなかには靖国に参拝しようとする者が大勢いる。これはむしろ,庶民(有権者)側の問題でもあることを示唆している。
6) 公式参拝は憲法に違反するのか-司法の判断-
首相・閣僚の靖国公式参拝に関する司法判断は,違憲(ないし違憲の疑い)を出している。そもそも憲法の重要な柱となっている政教分離原則は,戦前の国家神道体制への反省の意味がある。靖国神社は国家神道体制のシンボル的存在であった。
--以下,公式参拝に対する司法判断の流れを以下に整理する。
a)「1985 年の中曽根康弘首相(当時)の公式参拝」に関して福岡と大阪で訴訟が起こされ,1992年の高裁判決でいずれも確定した。1992年2月18日,福岡高裁は,首相が公式参拝を繰り返すならばそれは,靖国神社への「援助,助長,促進」となり違憲となることを指摘した。さらに1992年7月30日,大阪高裁は,中曽根のおこなった公式参拝は一般人に与える効果,影響,社会通念から考えると宗教的活動に該当し,違憲の疑いが強いと判示した。
b) 参拝推進派が司法判断について正反対の結論を導き,そのデマまがいの情報を流布するケースがみられる。一例を挙げる。いわく「中曽根康弘元首相の靖国神社公式参拝(昭和60年8月)を審理した大阪地裁,福岡地裁などでも,公式参拝を違憲とする原告側の訴えが退けられた」「(これらにより)『首相の靖国参拝』が合憲であるという法的な判断は定着している(『産経新聞』2001年8月1日「主張」より)。
だが,不思議なことに上述した上級審(高裁での審理)には触れていない。ちなみに,この一審の判決は公式参拝を合憲としたものではなく,憲法判断には踏みこまないまま,原告が信教上不利益な取扱を受けたことによる損害賠償(慰謝料)の請求を退けたものである(損害賠償請求を退けたのは二審も同じ)。
c) 中曽根公式参拝に関する直接の裁判ではないが,靖国神社に捧げる玉ぐし料の公費支出と,天皇や首相らに靖国神社への公式参拝を求めた県議会の決議の合憲性 を問うた「岩手靖国訴訟」があった。1987年3月の第1審(盛岡地裁)では合憲判決であった。
しかし,1991年1月10日の仙台高裁の判決は「津地鎮祭訴訟」最高裁判決(1977年)が違憲性判断の物差しとして打ち出した「目的・効果基準」を踏まえながら,「天皇,首相の公式参拝は,目的が宗教的意義をもち,特定の宗教への関心を呼び起こす行為。憲法の政教分離原則に照らし,相当とされる限度を超えるものと判断せざるをえない」と明確に違憲と断じた。県の上告を最高裁が却下しているので,この裁判は,この高裁の判決をもって確定した。したがってここで示された憲法判断は,現在も重要な意味をもっている。
d) 「愛媛玉ぐし料訴訟」では,愛媛県知事が靖国神社の例大祭に玉ぐし料を県費から出したことが問われた。この裁判で最高裁は,愛媛県知事の靖国神社への県費支出を違憲と判断した。15裁判官中,合憲としたのは2人だけで,これは政教分離裁判で最高裁の出した初の違憲判決であった。
☆ 愛媛玉ぐし料訴訟 ☆
1989年3月 -第1審(松山地裁) 違憲
1992年5月 -控訴審(高松高裁) 合憲
1997年4月 -上告審(最 高 裁) 違憲
7) 目的効果基準に照らして合憲ではないのか
目的効果基準(あるいは津地鎮祭訴訟最高裁判決)は,公式参拝合憲の根拠として公式参拝推進論者がよく引きあいに出している。本当にそれは根拠になっているのか。
目的効果基準とはなにか。これは国(政治)と宗教のかかわりにおいて,その目的(宗教的か習俗的か)や効果(特定の宗教への助長あるいは圧迫にならないか)を判断して,社会通念上,政教分離の原則を逸脱しないと認められるものについては容認されるという法律論である。現在,政教分離をめぐる裁判の多くはこの考えかたにしたがっている。
政教分離をめぐる裁判では「津地鎮祭訴訟」が現在でも重要な判例として引用されている。これは,地鎮祭に対して自治体が関与した(市体育館起工式への公金支出)ことの憲法上の是非を問われたものである。最終的に最高裁まで争われた。
☆ 津地鎮祭訴訟 ☆
1967年3月 -第1審(津 地 裁)合憲
1971年5月 -控訴審(名古屋高裁)違憲
1977年7月 -上告審(最 高 裁)合憲
この裁判で初めて「目的効果基準」という考えかたが導入され,地鎮祭は「宗教的儀式でなく一般的慣習」と判断されていた。 実際のところ,目的効果基準じたいがまだ明確に定まったものではなく,適用すべきかどうか,適用するならばどこに線引きをするのか判断が分かれている。
とはいえ,いずれにせよ,靖国神社の問題に対して厳密に考えるべきだというのが,司法でも学界でも主流となっている。1991年の仙台高裁判決では「目的効果基準」を踏まえながらも,公式参拝に違憲の判断を下している。
なかでも,体育館建設の地鎮祭と靖国神社参拝を同列にして,後者も合憲であるという参拝推進派の主張は,いかにも論理に飛躍がある。
8) 私的参拝ならばどうか
小泉首相は,2001年の参拝にあたり「総理として,個人として参拝する。総理大臣の肩書は消せない」として,みずからの参拝が公式か私的かには明言を避けていた。
公式といえば問題になるのは分かっているし,かといって公式参拝を求める人たちにもいい顔をしたい,という計算があったのではないかと思われる。しかし,実際に参拝してますます批判の声が大きくなり,全国で訴訟が相次ぐなかで政府は「あれは私的参拝だった」といいわけを始めていた。
それはともかく,首相は24時間首相である,という部分には賛成できる。もちろん,首相にも信教の自由等,個人としての権利はある。しかし,首相や自治体の首長などは公人としての立場が大きな比重を占めている。
社会的影響の大きさを考えれば,公人として十分に慎重な行動をとる義務がある。首相の純粋な私的参拝というのはありえない。「天皇,首相の公式参拝は,憲法の政教分離原則に照らし,相当とされる限度を超えている」(1991年,仙台高裁)との判断と考えあわせると,首相は参拝すべきではない。
補注)旧民主党政権で菅 直人が首相のとき,8月に靖国神社には参拝はいかなかったけれども,正月には伊勢神宮に参拝にいったことがある。これは,伊勢神宮も皇室の「皇祖皇宗」の一隅を構成する最重要な神社のひとつであり,しかも靖国神社においては天皇の親祭を執りおこなってきたという「明治以降の伝統とのかかわり」に無頓着=無知な行為であった。
昭和天皇は,A級戦犯が合祀されなければ死ぬまで靖国神社に「親拝」するつもりであった。いうまでもないが,A級戦犯たちは天皇裕仁の身代わりになって絞首刑に処された。この者たち:臣下の〈御霊〉が合祀されている靖国の祭壇に昭和天皇が参拝(親拝)にいくという構図は,裕仁自身にとっては「冗談にもなりえないほど恐ろしい」その神社との関係を生む。
だから,だから彼はこういって靖国には足を運ばなくなった。元宮内庁長官・富田朝彦が残した,いわゆる『富田メモ 』1988(昭和63)年4月28日には,こう書かれていた。
なお,自衛隊関係で靖国神社との関係が問題になるが,この記述ではとりあげていない。現状における自衛隊関係と「死」の問題については,つぎの説明をとりあえず参照されたい。ひとまず,靖国神社は現状において,自衛隊とのつきあいはない。
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