日本聖公会主教会議長・首座主教八代斌助と原発問題
※-1 日本カトリック司教協議会『今こそ原発の廃止を』編纂委員会『今こそ原発の廃止を-日本のカトリック教会の問いかけ-』カトリック中央協議会,2016年10月
この※-1の標題にかかげた著作は,2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災とこれが惹起させた東電福島第1原発事故を目の当たりにした日本国の構成員たちの,それも宗教界のなかのカトリック教会が公刊した「反原発本」であった。
本記述は2017年3月23日が初出であったが,その後,ブログサイトの移動にともない未公表の状態にあったものを,本日,2024年5月1日に再公表することになった。もちろん,内容面に関しては補正や更新の努力を注入している。
本記述がかかげた論題は,日本のカトリック教会が公刊による「2016年の反原発の提唱」に接したさい,昔,立教大学が研究用原子炉を導入していた事実やキリスト教徒八代斌助という「日本聖公会の代表的人物の存」在を想起させられたのをきっかけに,この人物をとりあげ,一度議論をしてみたいと感じていたところを表現している。
本記述の要点は,つぎの2点に表現してみたい。
要点:1 神をも恐れぬキリスト教指導者,大学に原子炉を導入した過ち
要点:2 ペテロは3度イエスをしらぬとウソをついたが,八代斌助は2度ほど必要になっていたはずの反省を忘れた主教であった
※-2「研究用原子炉,険しい道 来月,新規制基準で初の運転再開 近畿大」『朝日新聞』2017年3月23日朝刊27面「科学」
1) まえおき
この『朝日新聞』2017年3月23日朝刊には,この〔上記の〕ような見出しの記事が科学欄に掲載されていた。
本ブログ筆者は最近(当時),日本カトリック司教協議会『今こそ原発の廃止を』編纂委員会『今こそ原発の廃止を-日本のカトリック教会の問いかけ-』カトリック中央協議会,2016年10月(下にかかげるリンク先住所はアマゾン通販による同書の紹介)を読みおえていたところだったので,この原発問題に関するキリスト教会からの発言とむすびつけるかたちで興味をもって,この科学欄の記事を一読した。
その記事は結局,原発事業に必要な人材育成に触れていたが,要は廃炉問題や安全性の問題にとり組める専門家人材の確保が,これからも不可欠に要請されるほかない事情も指摘していた。
だが,原発事業がはたして「割りがあう」か,それも総合科学的な意味において,もっと端的にいえば「費用-収益」(「経費と便益」 cost-benefit )が経済社会的な意味においても採算がとれるかといえば,基本的には非常にむずかしくなっていた。
ところで,昭和29〔1954〕年5月であったが,読売新聞社編・東京大学助教授・理学博士中村誠太郎校閲『ついに太陽をとらえた-原子力は人を幸福にするか-』という啓蒙書が,読売新聞社から公刊されていた。
日本への原発導入に尽力した正力松太郎読売新聞社主(1958年6月に復帰していた)は,1956年1月,当時の原子力委員会初代委員長に就任し,同月4日,日本に原子力発電所を5年後に建設する構想を発表していた
日本における原発導入事業の現在的な状況を描写するとしたら,いいかえれば,この本の題名『ついに太陽をとらえた-原子力は人を幸福にするか-』を事実に即して,より正確に表現するためには,
『ついに《悪魔の火》は人間をとらえた-原子力は人を不幸にする-』
と名づけるほかなくなった。
原発がそうした基本の性質をもっていた事実は,2011年3月11日に発生した東日本大震災が東電福島第1原発に大事故を惹起させた事実によって再度歴史的に実証された。
しかし,読売新聞社編『ついに太陽をとらえた-原子力は人を幸福にするか-』1954年以降になっての日本社会の動向は,原発事業に突きすすむ方途を選んできた。
いま引用におよんでいる『朝日新聞』2017年3月23日朝刊「科学」欄はとくに,大学と研究機関における実験用原子炉に注目して,解説記事を掲載していた。
1954年に読売新聞社は,「ついに太陽をとらえた」といってのけ,世紀の記録に残る重大な過誤を,それも自信満々に宣言していた。ところが,2011年「3・11」を契機に,2016年になってだが,日本のカトリック界からも「その太陽は捨てろ」という提言がなされていた。
だが,この太陽(正確にいえばミニ太陽)は《悪魔の火》であったから,一度これに捕縛された人間世界のほうは,ほぼ永久的にその悪魔性から解放されることがなくなっていた。この事実を疑える理由は全然ない。現実の原発問題をめぐる情勢を観れば,一目瞭然であった。
事後においてはただ,この悪魔とどのようにうまく付きあい,極力かかわりを減らし,少なくしていくほかに,なんら有効な手だてはない。こうした現状のなかに人間界・人類側からする「対・原発の生活態様」は,追いこまれ,囲いこまれている。
それにしても「いまこそ廃止しなければならない原発」で焚かれる,たかが電気〔だけ〕を入手するために使用される原子炉:原発を「ついにとらえた」などと,のぼせ上がったような理解を示していた読売新聞社・正力松太郎は,
自分自身の政治的野望を達成するための手段・道具として原発の利用をもくろんだにせよ,半世紀以上が経過したいまの日本社会における原子力発電装置・機械は,もはや厄介モノ以外のなにものでもなくなっている。
それが証拠には,2017年当時,一時期は60基(研究用実験炉も含めて)以上もあった日本の原発が3基しか稼働していない状況をもたらしていた。それでも電力に不足,それも絶対的に供給が不足するという事態が生じたことはない。
「3・11」の原発大事故が発生した直後においては電力不足が心配されたが,現在にまで至っては,原発そのものを不要・無駄であるエネルギー供給源に変質したとみなしたところで,人類・人間にとって決定的に困るという事情が発生していない。結局,原発に関して残されその効用は「負的・不適のもの」だとみなすほかない要因ばかりとあいなっていた。
2) 記事本文の引用
近畿大学の研究用原子炉が〔2017年〕来〔4〕月,運転を再開する。東京電力福島第1原発事故を踏まえた新規制基準のもとで運転する初の研究炉となる。一方,原子力業界をめざす学生は事故前より減り,各地で老朽化する施設をどう維持するか,専門知識をもつ学生をどう育成するかが課題となっている。
補注)本日の2024年5月1日時点で近大の研究用原子炉は,つぎのように対外向けに解説されている。
a) 進む老朽化,かさむ費用。 近畿大学の研究炉(大阪府東大阪市,熱出力1ワット)は昨〔2016〕年5月,安全対策が新規制基準を満たすと原子力規制委員会に認められた。使用前検査にも今〔3〕月17日に合格,4月12日に運転再開の予定だ。
大学所有の国内初の原子炉として1961年に臨界。新規制基準に対応するため,防火扉を新品に交換し,電気ケーブルに防火保護を施すなど約1億円かけた。審査に対応する専門的な人員が足りず,メーカーや電力会社のOBに協力を仰いだ。「最初の研究炉の審査で大学側も規制庁側も模索しながら大変な作業だった」と,同大の伊藤哲夫原子力研究所長は振り返る。
大学の研究炉は放射性物質の反応や放射線の医療応用の研究のほか,原子炉の操作を経験させて学生を育成する役割も担ってきた。停止中は近畿大学は京都大学や名古屋大学などと共同で研究炉がある韓国の大学に学生を派遣した。伊藤所長は「実物に触れて運転することが原子力の安全性を学ぶうえでも大切だ」と,研究炉を使う必要性を強調する。
京都大学の研究炉(大阪府熊取町,同100ワット)など2基も昨〔2016〕年,安全対策が新規制基準を満たすと認められた。これまでに約1億円かけ,運転再開をめざす。ただ,国内には大学や研究機関など合わせて14基(廃炉方針含む)の研究炉があるが,老朽化が進む。運転再開に携わる関西圏の大学教授は「人材が限られる大学が原子炉を所有,維持するのは将来的には無理」と打ち明ける。
日本原子力研究開発機構は昨秋,初臨界から49年が経過し,停止中の「材料試験炉」(茨城県)の廃炉方針を明らかにした。原発事故前に約170億円かけて運転再開をめざしたが,新規制基準に対応するためには,さらに約400億円必要なことが分かり,断念した。
原子力施設のずさんな管理が判明し,事業の整理を求められている機構は〔2017年〕1月,文部科学省原子力科学技術委員会の作業部会に,ほかにも「高速炉臨界実験装置」(同)など研究炉4基の廃止の方針(検討中含む)を示した。
補注)当時においてすでに,研究用の原子炉もすでに廃炉の時期を迎えていた事実が,ここでは説明されている。原発は実際に電力をえるために稼働させる原発であるにしても,そして,このように原発の専門家を育成するための訓練用であるにしても,その維持・管理には高い費用が要求される。またとくに安全性の問題もそこに絡んでくるからには,原発は研究炉であっても高々コストの物的な施設である事実が強調されてよい。
b) 長期の原発廃炉,人材育成課題。 文科省の作業部会がまとめた資料によると,原子力関連の学部や大学院に入学した学生は2010年度に317人だったが,福島第1原発事故後の2012年度は269人に減った。2015年度は298人で回復傾向にあるものの事故前の水準には戻っていない。
一方,先進国の原発の新設数は低迷しているが,福島第1原発や老朽原発の廃炉作業は長期にわたる。人材育成が課題だ。今後の研究炉の役割を明治大学の勝田忠広准教授(原子力政策)は「廃炉や廃棄物の減量化,安全性の向上が中心になる」と指摘する。
補注)つまり,原発事業が夢のように語られた時期は,すでに「過去における錯誤の思い出」になりはてている。いまでは,原子力工学などの研究分野は,原発が不可避に発生させつつある諸困難に対応するために,すなわちその「廃炉や廃棄物の減量化」という現実の課題に立ちむかうためには,研究の重点を移動させねばならなくなっている。いうなれば「原発静脈産業」用に役立つ研究が喫緊の課題だと認識されている。
さらには「安全性の向上」の問題も,いまでは「原発安全神話」がまったく通用しない時代になっているからには,現実の問題に実践的に対応できる人材を育成するためにこそ,原子力工学に関する大学教育が要求されている。
つまり,原子力工学はかつての花形の科学・研究分野ではなくなった。どちらというと最近では,いささかならず陰鬱な雰囲気を伴う工学分野にもなっている。その根本的な変化をもたらした歴史的に決定的な原因が「3・11」に求められることは,いうまでもない。
〔記事本文に戻る→〕 研究炉での教育環境を確保するため海外の研究機関と提携する動きも。長岡技術科学大学(新潟県)は昨〔2016〕年8月,オーストラリア原子力科学技術機構と協定を結び,同機構の研究炉で実験や学生の指導ができるようにした。「研究環境を整えることで学生に魅力を感じてもらえる」と末松久幸教授(材料科学)は語る。
また,政府は昨年12月,高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県)の廃炉を決定する一方,福井県への配慮として周辺地域を原子力研究・人材育成などの中核拠点と位置づけ,研究炉を新設する構想を公表した。国内の大学や研究機関が共同運営するとしているが,詳細は今後国の有識者会議で議論する。
原発などが集中する福井県は,長引く原発の運転停止や廃炉が地元経済に影を落とす。県は原子力を中心としたエネルギーの研究開発拠点づくりをかかげ,2015年から研究用炉新設を国に要望してきた。県の担当者は「原子力のノウハウを人材育成に生かしたい」と訴える。(記事引用終わり)
3) 東電福島第1原発事故のその後に関する本日の報道-『日本経済新聞』2017年3月23日朝刊
本日(前掲日付)の『日本経済新聞』朝刊を開くと3面「総合2」に,こういう見出しの記事が出ていた。 “東電,収益向上描けず 賠償・廃炉へ年5000億円捻出 再稼働・再編に難題” がその文句であった。だが,「3・11」という核惨事を惹起させていた東京電力は,企業形態は変態させてはいるものの,会社じたいは倒産することなく,いまもサバイバルできている。
世紀の大事故を発生させても会社じたいは,ともかくそのまま存続できている。この大事故の責任が全体組織面でも最高人事面でもいっさい負わされず,今日まで来ている。最近になってようやくわずかに,事故当時の東電会長や副社長など3名が強制起訴されているに過ぎない。「原発安全神話」の本質が「原発無責任実話」となって具体的に現象していた。
補注)その東電幹部3名が罪に問われることのない裁判の審判がくだされていたが,最終的には株主代表訴訟の判決が唯一,最高幹部4人の責任を認めていた。その賠償金額は13兆円という巨額であった。関連する訴訟については,つぎの『東京新聞』の報道が説明していた。
地域独占で国策民営・総括原価方式を保障されてきた大手電力企業が,途方もなくデタラメな経営体制を,とくにその総括原価方式によって維持され,許されてきたのである。それも日本で一番大きかった電力会社が,その体たらくの見本を繰りひろげてきた。
しかも,儲けているときの当該東電は,自分たちだけでその果実を食いちらかしていても,いざ原発事故という大失敗を起こしたあとは,そのツケ:後始末のための莫大な諸経費を,国民:電力使用者と国家:財政に押しつけ,ツケまわししている。2014年5月1日現在もしかりであって,なにも変わっていない。
※-3 大学における研究用原子炉の導入-立教大学の場合-
ここでは,日本における原発導入史をまで歴史を回顧しながら,この原発問題の本質を理解しておく必要がある。桑田 優・平尾武之・山本祐策編著『八代斌助の思想と行動を考える-日本聖公会神戸教区の成立と活動』ミネルヴァ書房,2006年の巻末に収録されている「八代斌助関係年表」のなかには,こういう1項がある。
1962年5月13日「立教大学原子炉竣工感謝式及び原子力研究所開所式に,米国聖公会総裁主教の代理として列席,奉献の祈りを捧ぐ」(同書,180頁)。
立教大学の歴史において「原子力研究所 Institute for Atomic Energy 」は,どのような目的や役割を果たしてきたのか。関連のホームページがあるので,これを参照しておきたい。
註記)http://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/ifae/ この記述は現在になってだが,つぎのような解説をおこなった文章をかかげていたので,この全文を引用しておきたい。
さきに指摘しておくが「最大熱出力 100 kW の低出力試験研究用原子炉」であってもその後始末,つまり廃炉処分には,たいそうな手間ヒマが必要となる《悪魔の火》のあつかいにくさだけが,残された結末=事実に注目する余地がある。
上述の立教大学原子力研究所の所在地(左側・赤色矢印の地点)を,グーグルマップで確認したところ,電力中央研究所が隣接する場所に位置していたことが分かった。
電力中央研究所については,つぎのリンク先・住所を参照されたい。
立教大学原子力研究所の話題に戻る。この記述が最初なされた当時の「現在(2017年3月23日)」において,閲覧してみた内容は,以下の記述に限定されていた。
事前の註記)前段においても,該当する現時点(2024年5月1日)でしりえた内容を紹介してあったが,前後して若干の異同がうかがえる。とくに,こちらでは「東日本大震災による影響」という見出しもかかげており,しかもそれを「特記する形式」を採っていた。しかし,現時点では東日本大震災という用語は引っこめている。
つまり,立教大学原子力研究所の原子炉は,その後始末が完全にはまだ終わっていない。そのように記述されていた。
さて,以上の記述に関しては,この研究所の年表をもっとくわしく書いてあった「以前の記述(内容は年表など)」が,ネット上から入手できる。これを紹介しておきたい。
それは,『日本経済論2,9 原子力発電の拡張 (2014/11/24)』(♠)というホームページの記述のなかに転載されている解説であった。
以前は,立教大学原子力研究所の当該ページに公開されていたが,現在は削除されており,閲覧できない「関連の年表」部分(文章量としては非常に多い)が,そこには引用・転載されている。
その(♠)から「3.立教大学原子炉の設置と廃止」(大学ホームページでの紹介)を抜き出し,参照する。
註記)http://www.rikkyo.ne.jp/univ/hikita/JapaneseEconomy/2014/209 Atomic Power.htm
まず,「設立経緯」「現在の稼働状況」「東日本大震災による影響」の3項目はその全文は,前述において2回重複して紹介してあった「それら3項目」の内容と同一であった。
以下には,現在においては削除されたと思われるそれ以降の段落を引用しておく。
◆-1 設立と廃炉の経緯
1955年5月 米国聖公会ホノルル総会にて,ワシントン教区会議から,原子炉の建設費を工面しがたい国に必要資金を提供することの提案があった。八代斌助主教が松下正壽総長に連絡。
補注)キリスト教徒がこのように当時において,大学に研究用とはいえ,原子炉を設置させる事業に関して橋渡しをしていた事実に注目したい。くわしい関連の事情はのちにも関連する事項が出ている(◆-3で)。
1955年10月末 ウィリヤム・G・ポラード(オーク・リッジ原子力研究所長)来日 上記提案の合同検討委員に任命。立教大学を訪問。松下正壽総長・中川茂雄教授から実験原子炉設置の要望をうる。
1956年 理学部内で受け入れ意見が多数となる。
1957年1月 立教大学原子炉委員会を設置(総長・総務部長・各学部2名・理学部3名)。
1957年4月 原子力研究所設置 「炉が入らなければ廃止」→「炉がなくとも研究をおこなう」(総長判断変更:第6回連合教授懇談会)。
1957年12月19日 立教大学原子力委員会記録「総長から部長会議での結論として,つぎのような説明があった。本学のような財政の豊かでないところでは維持費を豊かに支出することは困難であり,別に支弁しなければならない」
「以前正力氏と話をしたときに,大ざっぱではあるが,国家が援助することについて言質がとってあるので,もう一度交渉にいこうと考えている。そのほかにもアメリカの援助または日本での後援会費についていろいろ努力している」
1958年 米国聖公会マイアミ・ビーチ総会 立教計画(設置場所,富士電機からの設置費寄贈,富士電機も同じ場所に工場と原子力研究室を設ける,立教大は正式に原子力研究所を設置していた,General Atomics 社のトリガ2型)を承認。
1959年2月18日 原子炉設置許可申請を科学技術庁に提出。
1959年4月 立教大学部長会 (原子力研究所)運営費として人件費を除いて年間2000万円という予算を承認,しばらくは大学の予算とは別会計。
1959年9月 立教大学後援会発足(会長:吉田 茂,副会長:池田勇人,正力松太郎・石川一郎ら)原子炉建設費3億2800万円・校舎関係4億6800万円の募金を計画。
1959年10月28日 立教学院理事会 米国聖公会寄付36万ドル(1億2960万円),第一原子力グループ 註記)より指定寄付5000万円,一般寄付金1億2370万円,合計3億330万円で原子炉,土地,建物の経費支出が承認。
註記)第一銀行系の企業グループに属する古河三水会系企業(古河鉱業・古河電工・富士電機・富士通など)・川崎睦会系企業(川崎重工・川崎製鉄など)や第一銀行頭取だった渋沢栄一縁故の企業(石川島播磨重工業など)などが参加。
1959年12月22日 立教学院原子力研究所地割式。
1959年 米国聖公会の募金,12月に必要資金を確保。General Atomics社と契約。原子力損害賠償責任保険問題・日米政府間のウラニウムの貸借契約問題,原子炉施設建設における問題。
1960年4月 原子炉委員会解散・原子力研究所教授会設置。部長会で原研所長(中川茂雄)から原研運営費の基礎固めが要請されたが,総長から毎年募金が主張され,総長に全面的に委任することが確認された。
1961年11月8日 核燃料の到着(米国原子力委員会から General Dynamics 社が加工,濃縮ウランと水素化ジルコニウムとの合金 1本につき235U が36グラム,全部で62本)。
1961年12月8日 原子炉火入れ式 燃料棒57本で臨界。
1962年5月13日 原子力研究所の開所式。
1972年 佃総長「原研問題に関する方策」提案 規模を1/3に縮小。
1974年 原研の大学への移管。
1982年 追加燃料棒受け入れ。
1983年2月13日 パイプの配管継ぎ目の腐食により,放射物資を含まない二次冷却水が200リットル漏洩。
1985年 研究所アネックス竣工。
1986年 第1回アジア地域研究用原子炉国際シンポジウム。
1993年 浜田総長「原研の今後について(提案)」 土地・施設・設備の売却。
1995年1月 原研に関する諮問委員会「原子力研究所に関する答申」 共同利用売却案を提案。
1998年5月26日 大橋英五経済学部教授が総長に就任,原子炉の廃炉を提案。
2001年12月15日 原子炉の稼働停止。
2002年8月 原子炉等規制法にもとづく廃炉・解体届を提出。
2003年8月 使用済み核燃料を搬出,米国に引き渡し。12月,一次冷却水を抜き取り。
2007年 廃止計画が認可される。
補注)立教大学が原子炉の廃炉を決定したときの総長大橋英五は,従前の路線において既定になっていた点を引きついで廃炉を提案したと,前後の経緯から判断できる。この大橋はマルクス会計学者であった。代表作3著を選ぶと,大月書店からつぎの3作を公刊していた。いずれも資本主義企業批判論を基調とする著作である。
『独占企業と減価償却』大月書店,1985年。
『現代企業と経営分析』大月書店,1994年。
『経営分析』大月書店,2005年。
◆-2 研究用原子炉は,2013年4月16日の原子力規制委員会「試験研究用原子炉施設の規制基準について」(第4回核燃料施設等の新規制基準に関する検討チーム資料)によれば,全部で22炉あるが,すでに8炉が廃止措置をとっている。
大学では,本学〔立教大学〕のほかに,東大(東海)・京大(熊取),東京都市大(旧武蔵工大)(川崎)・近畿大(東大阪)があったが,京大と近畿大以外は廃止。
民間企業では,東芝と日立が所有(いずれも川崎)していたが日立は廃止。あとは日本原子力研究開発機構のもの。東日本大震災後,研究炉の在り方も見直しが進められている。
◆-3 以上の「※-3」をまとめると
以上のように立教大学原子力研究所も,当時のアメリカ・アイゼンハワー政権による核兵器反対運動を抑えるための原子力平和利用政策の一環として,これを日本で推進する読売新聞社の正力松太郎らの支援をえて設立された。
ただし,立教大学原子力研究所は,研究用原子炉として核物理学に関する事実上の大学共同利用機関の役割を果たしてきた。しかし,財政難が続いていた本学の負担が少なくなく,さらに老朽化が進んできて重大な事故を起こした場合には対応しきれないと判断し,廃炉を決定した。
日本の原子力発電は,第1回原子力白書も指摘するように,基礎研究からの積み上げによる安全性を確保しながらの開発ではなく,アメリカの主導と新たなエネルギー技術を導入し速やかに産業化したいという財界の要望とにより,アメリカに依存して推進された。石原慎太郎氏だけでなく,大国となるには核武装が必要だとする一部の勢力も存在している。
この結果,反対意見を抑えこむために過度な安全神話が振りまかれ,また,マスコミ対策も強化され,さらに電源三法交付金などの電気料金に上乗せされる電源開発促進税による資金交付もおこなわれて,プレート境界に位置して多数の断層がある不安定な国土にすでに54基もの原子力発電装置が密集して建設され,さらに15基の増設が計画されるに至った。
この間,1999年9月の東海村臨界事故を初め,PWRの蒸気発生装置の熱交換用細管破断やBWRの再循環ポンプの破損などの事故を繰り返し,リスク管理の不備を露呈してきた。
しかも,1979年3月のアメリカのスリーマイル島原子力発電所事故や1986年4月のチェルノブイリ原子力発電所事故にもかかわらず,また,国会などでの具体的な危険性の指摘を無視し,「日本では過酷事故は起こりえない」と豪語して,アメリカほどの対策も講じてこなかったため,今回の福島第1原発事故を招いたし,シビア・アクシデント対策もなく,放射能汚染水の漏洩など事故処理でも不手際を露呈しているといえる。
原注)『NHKスペシャル(NHK総合)-シリーズ原発危機 安全神話~当事者が語る原発事故の深層~」
※-4 若干の考察-宗教人の戦時体制問題や原発問題-
キリスト教徒も原発の推進に一役勝って出たという「歴史の事実」を,とくに八代斌助という人物(日本聖公会主教)に注目してみたいと考え,本日の記述をおこなった。この八代斌助主教は戦争の時代に『東亜新秩序の建設とキリスト教』を公刊していた。
八代斌助主教は戦争の時代に『東亜新秩序の建設とキリスト教』
なお,同書は,ウィキペディアには「私家版 1940」と書いてあるが,立教大学図書館には,聖公会出版社が昭和15年2月25日に発行した現物が所蔵されている(本ブログ筆者はこの現物を借りて読んだ)。国会図書館は「図書:マイクロ版」で所蔵している。
つぎの画像資料は,八代斌助『東亜新秩序の建設とキリスト教』昭和15年の奥付の複写である。「私家版」もあったのかもしれないが,文献の典拠を示す資料としては,これが確実に信頼できる。
この八代斌助『東亜新秩序の建設とキリスト教』1940年が意味するのは,太平洋(大東亜)戦争を聖戦視する立場を拒否しえなかった「八代自身の宗教的な思想」である。
戦時体制期における日帝の,国家神道以外の異宗教に対する弾圧がいかほど激烈であったかはさておき,そうした日本聖公会の立場をも明示していた八代の関連事情は,いまとなっても抹消できない〈過去の事実〉として記録されている。
さきにウィキペディアに解説にもふれていたので,そのリンク先・住所をつぎにかかげておく。
ところで,「戦時中に記録された事実」の連続線上で観察すべきもうひとつの事実が,ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が1953年12月8日,国際連合総会でおこなった演説での提唱:「平和のための原子力: Atoms for Peace)」に早速応答していた,当時において立教大学側の姿勢であった。
すなわち,「立教大学と原発とを媒介させる役目」を率先して果たしていた「八代斌助のキリスト教徒としての立場」は,いまからでも今日的に真正面から吟味され,詳細かつ厳密に究明されるべき「当時の事情」を,主体的に背負っていた。
永田秀郎『跪く人 八代斌助』春秋社,1994年は,八代斌助が犯したこの2度目の失敗に関連する記述を,つぎのように表現していた。ただし,この永田による八代に対する描写は,完全に過誤だらけであったゆえ,注視して聞いたほうがよい。
「八代斌助の運命を大きく展開したのは日本の敗戦だった。彼は自分の生きた選択の正亜が歴史によって証明されたと神への限りない感謝をささげた。幸運は彼へそそぐようにつづいた」(274頁)。
しかし,八代斌助に対する敗戦後史的なこの種の評価は,戦時体制期において八代が国家体制にいかに対峙していたかに関して,綿密・精細な検討を入念にくわえたものとはいえず,ただひたすら好意的にのみ下した判断であった。すなわち,その観方はあまりにも偏向に過ぎていて,かつまた,断片的かつ一面的な評定でしかありえかった。
永田秀郎は「短い生涯のなかで人間の生き方をコロコロと変えてゆくくらい醜悪きわまりないことはない。彼はまわりでどれほどタクサンの変節をみてきたことか。ペテロは3度ノンといった」(274-275頁)と言及した。
けれども,八代斌助のほうも少なくとも2度は,聖書のなかに登場するペテロと同じに,その「ノン」をいっていたとみなすほかない「人生の行路」をたどってきた。このことは,いまとなってみれば,否定しようのない「歴史の事実」として記録された出来事であった。
補注)以上,聖書に関係する話題であったが,以下のようにも付言しておく必要がある。
聖書は「イエスを3度も否定した男」であるイエスの弟子ペテロのことに触れていた。つまり,ペテロは3度イエスを否定した。彼を誤解し,彼を拒否し,彼から逃げ,いままでイエスに愛されてきたのに,イエスを助けようともしなかったのである。
しかし,そういうペテロであるからこそ,使徒中の使徒に変貌することができた。子は父に背いた分だけ,父に尽くすという。同じように,人はイエスを否定した分だけ,イエスに忠実になることができる。3度否定した分だけ,三度肯定することができる(ヨハネ伝,21-17)。
註記)「イエスを三度否定した男」『キリスト者の慰め-無宗教主義の著者が,人生の苦しみに直面し,キリストによって慰めをえる記録』2007年1月31日 00:54:26,http://blog.goo.ne.jp/eliyah/e/9f5bb602108e34eb8dcb0daaf4f22714 参照。
永田秀郎『跪く人 八代斌助』は,さらにこう語っていた。
「昭和29〔1954〕年,第五福竜丸事件をきっかけとして起こった反核運動には強い関心をもっていた。そういう素地があったから『世界平和に協力するために原子炉』に八代は飛びついたのである。平和利用の原子炉を素朴に信じた。それを強引に誘致することになった。理事長の仕事として強く記憶に残っているのだ」(275頁)。
いまとなっては,ペテロが3度イエスを裏切ったように八代斌助も2度であったが,イエス(神)を裏切るほかない行動をしてきた事実が,手にとるように観察できた。今日側(21世紀の現在)にいるわれわれからの観察とはいえ,八代の経歴に刻みこまれていたその「歴史の事実」は,看過しがたい行跡となっていた。
ここでは理の必然となるべき議論として,つぎのことを断わっておく。
最初に挙げてあった日本カトリック司教協議会『今こそ原発の廃止を』編纂委員会『今こそ原発の廃止を-日本のカトリック教会の問いかけ-』カトリック中央協議会,2016年10月にまで戻って再考しなければならない。
同書について本ブログは,現時点では未公開の記述なので題名だけ書きだしておくが,その「もんじゅは廃炉でモノ入り,東電原発事故も桁違いにモノ入り。原発政策の国家的失策の責任は誰が,どのようにとるのか? 東電幹部だけが強制起訴という奇妙さ」という一文のなかで,つぎのように言及してみた。
日本カトリック司教協議会は『今こそ原発の廃止を』を今〔2016〕年10月に発刊した。300ページ近い書籍の半分余りは核の歴史や問題点に割いている。残りを「脱原発の思想とキリスト教」に費やしたのが特徴だ。
この世界でわたしたちはなんのために生きるのか,地球からなにを望まれているのか。公的書簡での法王の問いかけだ。それをもとに同書は「人間による核エネルギー利用は,神が与えた自然における人間の位置づけからは逸脱している」と断じていた。
八代斌助は戦争の時代,平和の時代を通して「学ばなければならなかったキリスト教精神の基本点」を,どこかに置き忘れていたのではなかったか?
つぎの画像資料が示唆するとおりに,八代斌助も戦時体制期を生きたカトリック教徒として,それも日本のカトリック教会における最高指導者である立場(地位)を与えられて人物であったのだから,西山俊彦『カトリック教会の戦争責任』サン パウロ,2000年がつぎのように問うた疑問から逃げられる立場にはなかった。
西山俊彦は同書のなかで,「日本的なカトリック教」が戦時体制期において占めた宗教的な立場を,つぎのように批判していた。
その「キリスト教カトリックの歴史の実態」「この世の勢力に与するだけでなく,目を背けたくなる事実」は,たとえば,田口芳五郎『満洲帝国とカトリック教』カトリック中央出版部,昭和10〔1935〕年4月が,当該の問題をつぎのように,ありのままに語っていた。
それゆえにという表現を採ることになるが,さらに画像資料で参照してみるつぎの『朝日新聞』の記事のなかで,日本人カトリック大司教・岡田武夫が語ったがごとき「歴史の教訓」に関していうが,それも「宗教的な領域に閉じこもってはいけない」という発言は,「冗語・冗談」のたぐいにしか響かない。
なぜなら,過去においては「そうではなかった歴史」を,日本のカトリック教会史が確かに記録していたからである。事実にもとづかない話法(作り話)に説得力が伴ってくれるわけがない。
歴史は事実であるが,この事実を歪曲した歴史を語り出したら,どだい歴史が歴史にならない。歴史が物語化するなかで,歴史の歪曲や捏造が基本路線になっていたら大問題であるが,この大司教が「宗教的な領域に閉じこもって」などと表現するには,あまりにもその真逆であったのが,「日本カトリックの戦時体制史」における真相であった。
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