ドイツ・ナチス期「戦時・ゴットル経済生活論」から敗戦後「平時・経営生活論」へと隠密なる解脱を図った「経営哲学論の構想」はひそかに「ゴットルの名」を消していた(7)
※-1 戦時体制とともに学問した経営学者たち
戦時体制期における「経営学の基本問題」はなんであったのか。
a)「村本福松」は,日本が準戦時体制から戦時体制に移行する以前,昭和9〔1934〕年4月に公刊した『経営学原論』(千倉書房)においてすでに,ゴットル的見地を摂取し,こう論述した。
村本は経営学者としてこのように,「あることである」ということの「倫理的な善=宗教的であること」について語るさい,池内信行「経営経済学」の提示した「規範科学としての経営学」に向けて共感を表わし,こうもいっていた。註記2)。
「経営学は,産業経営の建て直し又は発展を志向する実践的意識を指導原理として新しく生れ出でたるものであって,……この建て直し志向の実践的意識が経営学の理念となる故に,経営学が人間の生活の内に生成し,これに堅く結び付くべきものである」。
すなわち,「経営学の真に正しき姿が何であるかを闡明し,且つかゝる経営学に於ける規範科学的意識の重視は,技術論としての経営学の為めにも,根源的に欠くべからざるものである」。註記3)
そこで村本は,「営利なる目的として存在するところのものを,あるがまゝに究明しようとする」に当たり,「その目的としての営利の真の姿を把握し,これの実現の手段の適合性の考察を意味する」としていた。そのさい,「あるところのものに就き語るのであって,あるべきものに就て説くのではない」,「そのあるところのものを語ることが,経営学に於て不可欠ものである」とも断わっていた。註記4)
以上村本の議論は,いささかならず衒学的な傾向があり,非常にわかりづらかった。だが,「経営学の対象の存在論的考察から,経営学なるものが,所謂,人間(企業経営者)の生活地盤の実践的要求に促されて生成した歴史的所産であ」るという主旨は 註記5),その後における村本学説変転への伏線を敷くものとなった。この論点は,すでに「国家社会主義と経営経済学」という論点を充てて言及したものである。
b) 村本福松は,戦時体制期がすすみ大東亜(太平洋)戦争に突入した段階に至るや,日本がこの戦争に勝利するための書物,『経営経済の道理-翼賛経営体制の確立-』(文雅堂書店,昭和17〔1942〕年7月)を公刊した。
本書は,村本という経営学者が戦争協力路線を最終的にしあげた「国家翼賛の経営学」である。村本が以前より,ゴットル経済科学の思考を採用していたがゆえに,「戦争体制に積極翼賛する立場」に向かい円滑に移行しえ,また当然に,戦争協力の価値観も迅速に表明しえたのである。
村本は結局,そもそも「あるところのもの」を語るといいながら,実際においては,それよりも「あるべきもの」を最優先し,強調する戦争協力の経営学を造りあげていた。
昭和10年代後半(1935年以降)となって大東亜戦争期における村本の論旨は,国家が「あるべきもの」と垂範した目標を「あるところのもの」に読み替えた節がある。というよりも,その違いにほとんど意味をみいだせなくなってしまい,両概念を混濁させた。そのため,〈戦争の規範〉と〈学問の目標〉を合体した「自説の迷妄」さえ,気にならなくなっていた。あるいは意図してその方途を採った。
戦時体制期における村本の主張は,戦争に高度に協力する「自説の立場」を必然視し,これに少しも疑問を抱かなかった。
もっとも,そうした方向性は村本だけが採ったものではなかった。経営学者のばあい先行する本稿の各編でも言及したように,平井泰太郎も同じような経路をたどった。
さらに山本安次郎は,満州国事業経営の国家的使命・世界史的課題を説くかたちで,戦争遂行に協力する経営学の立場を昂揚した。山本についてはすでに詳論してきたので,以下では,平井の主張を議論し,批判することにしたい。
c) 「平井泰太郎」は,昭和7〔1932〕年4月に『経営学の常識』(千倉書房),同年8月に『経営学入門』(千倉書房)を公刊していた。後著『経営学入門』は,戦前期に発想・展開された平井学説を概説している。
イ)「定 義」 「経営学或は経営経済学……の成立する所以」は,「経営若くは経営経済の機構を通じて人間経済生活を明かにせんとする事」にみいだせる。「経済生活を観察するのに,組織としての経営を通じて之を考察すると言ふ事は,便宜にも適ひ,必要にも適ふと言ふ事に考へられ」,その「機構を通じて人間経済生活を明かにせんとする事こそ,経営学又は経営経済学と呼ばるるもの」である。註記6)
ロ)「対象と方法」 「経営学の対象は」,「私経済的側面」「商業経営」「企業経済」「等」の「単なる歴史的発展の過程を示すもの」ではなく,「一般的なる個別経済であると考へる」。
「経済単位一般を言ふ」とき意味するのは,「経済の単位,若しくは経済活動の単位が経営せらるゝことの総体として眺めらるゝ限りに於て」の「『経営』又は『経営経済』と呼ばるべきもの」である。
「かくして個別経済の研究に即して,全経済生活を明〔か〕にする事こそ経営学的考察を生む所以であると思ふ」。そして,「夫々の経営経済が存立する所の条件,秩序,技術,而して之を指導する経済主義によって,各個の経営経済が互に相異って来る所以は,特に経営学に於ては其の個別性,若くは特殊性として注意せられるのである」。
結局,経営学は「『部分』を全体として観察するのである。即ち『全一体としての個別』が問題となる」。「斯くして,経営学的考察による全経済生活の再検討が,矛盾なく一貫せる研究を為し挙ぐるに至った」。註記7)
ハ)「認識の規準」 「経営学は個別経済を対象とする。但し個別経済を対象とする学問は経営学のみではない」。「経営学の対象とする経営経済は,等しく経済的合理主義の観点より眺めらる」。「経営学に於て問題となるのは,単純なる主観性に非ず,単純なる客観性に非ず,所謂,『客観化せられたる主観性』である。学者の所謂『特殊主観性』」である。註記8)
ニ)「企業と家政」 「経営経済を把握するに当って,所謂家政経済を除外すべからざるは明かである」。なぜならば,「企業と家政とは極限に於て一致する。之をしも経営経済と言ふのである」からである。
したがって,「営利経済を営利経済として観察をし,企業を企業としてのみ分離して見んとするのは目的に適はないのみでなく,経済的考慮自体を無意味にするものである。今日の経営学の研究に於て,企業経済を研究せんが為めに家政経済を度外視せず,相結んで考慮せんとする」ことになる。註記9)。
--以上に引用した平井学説は,「株式会社制度の如きものを取って,最も『純粋なる』経営経済と考へ,或は,『代表的』『典型的』なるものと論ずるのは,之亦思索の方向を誤って居るものである」,とも断言していた。註記10)。
d) 平井の唱えた経営学は「一般的個別経済学」であって 註記11),営利的企業の経営問題を捕捉しようとする立場を弛緩させるものであった。それゆえ,「人の経済生活を眺めて見ると,其の経済が営まるゝ為には,凡ゆる側面に於て人と人との用意ある意識的結合が行はれて個々の経営が構成せられ,之を基調として経済活動が行はれて居る」註記12)という観点に立っていた。
既述のように,戦時体制期の日本統制経済に直面した平井は,太平洋〔大東亜〕戦争に入る1941年の9月に,こう主張していた。
戦前から戦中にかけて平井学説は,少しも突飛な論理の展開をみせていない。「一般個別経済学としての経営学」を提唱したその理論的な立場は必然的に,時代の変遷に対応するなかで,「戦争への積極的な協力」という結論に到達した。
当初よりゴットル流の「経済生活論」に支持された平井理論は,自説の構想における「企業の本然の姿」の端的な具現化を,「戦時企業体制論」のなかにみいだしたといえる。
「一般的個別経済学」の視点・立場であった平井の経営学はもともと,戦争の時代に遭遇してこれに学問的に適応できる特性を具備していた。すなわち,その理論的な特性をもって戦時期的な要請によく対応,合理化しうる性格も備えていた。
昭和19〔1944〕年1月,平井泰太郎がその構想を披露した「経営国家学」(神戸商大新聞部編『経済及経済学の再出発』日本評論社所収)は,戦争事態を大前提にした「有事体制的な経営組織」間の横断的な関係論であって,つまり,戦時体制に応えるための「一般的個別経済学」による「経営的国家」の概念の垂範であった。
しかし,実際のところ,そうした「戦争経営学」的な企業体制・経営編成論は,敗戦にまみれて惨めな理論的破綻を経験した。
平井『経営学の常識』昭和7年は,「経営学は各種業務の経営に関する包括的な知識と深い見識とを与へ,正当にして,完全なる判断を為さしむる為めの学問であるとも云はれる所以」に触れ,「多くの経営に通ずる理法を明かにし,夫々の経営を廻る条件を探り,その経営方策を教へ,産業社会の合目的にして,合理的なる推移の為めの指針を与ふる事は切実なる要求であらう。これこそ経営学に課せられたる任務の主なものであらうと思はれる」,といっていた。註記13)
e) 平井はまた,「南満州鉄道株式会社の本体は何処に在るのか」と議論したとき,作田荘一『自然経済と意思経済-経済学の根本問題-』(弘文堂書房,昭和4年)にも言及した。
平井は,「経営学は経済目的達成の為めの組織体を中心とする考察を行ふ」と述べる同時に,会社企業における「公私経済無差別化の傾向は,素朴なる対象論以上の実在となって居る」とも述べていた。註記14)
この論及は,作田の満州国「公社」企業論に連なる議論であった。
ちなみに,昭和7:1932年は,平井が『経営学の常識』(4月)と『経営学入門』(8月)を公表し,この年の3月1日には,中国東北地域に「満州国が建国」されていた。この新国家は大日本帝国の属国であった。
日本の産業経済はその後,戦争の時代に突きすすんでいった。「戦時体制」に時代が移った。この段階にいたり,「一般個別経済学」の経営学は,戦時「産業社会の合目的にして,合理的なる推移の為めの指針を与ふる」任務に従事することになった,と平井は説明した。
平井が「経営の合理化と相並んで,経営の社会化が注目せられ,その彼岸に経営の倫理化が唱導せられ,社会理想への進展が,云ふと云はざるとに拘らず,潜在して意識せられて居る」註記15) ,ととらえた時代は,過ぎさったかのように議論されるようになった。
そのとき,此方において舞台前面に出現したのは,戦時体制期を迎えた経営学も強く意識すべき「戦争の目的」であった。そして,それを真正面より受容した平井の経営学は,当時の「社会理想への進展」,すなわち「国家目標:戦勝」に対しては「経営の倫理化」をもって具体的に応えた。
ゴットルは,「国民経済は今日の経済生活にとってはその全部分を,即ち要素的構成体並びに自己によって包括せられてゐるその他の構成体を担ふ,全体とみることができる」といっていた。いわば,戦時体制期における日本帝国は政治的支配者として,「国民経済者」という地位を意識し,強く関与した。
換言すれば,国家が「総ての要素的構成体を自己の内構成体として構成的に包括する」「より高次の経済構成体」であることを再認し,「包括構成体に関する全構成作業」を「出発する〔させる〕といふやうな地位」を占めたのである。註記16)
結局,平井が構想した「経営学の理論的と政策論的な構想」=「一般的個別経済学」は,大東亜共栄圏における「日本帝国の覇権を正当化する」ための足場をえて,戦時企業体制的な「組織経済への転向」註記17)を果たしたのである。換言すれば,そのときほぼ完全に「経営国家学」に飛躍しえたことになる。
※-2 過去と現在における国家体制の状態と経営学者の立場
戦時体制期における満州国経済政策の一斑。
筆者は,本稿じたいに関する「問題意識」としては,21世紀になってからの日本が有事法制を施行したこの国の政治的事情に,まえもって言及しておくことにする。
ところで,経営学という学問は,1931〔昭和6〕年9月「満州事変」,1937〔昭和12〕年7月日中戦争,1941〔昭和16〕年12月「大東亜戦争」という「アジア・太平洋戦争:15年戦争」の時代に,どのように対峙してきたのか。そしてその間,どのような変貌をみせてきたのか。
21世紀に入って,日本の政治事情が1930年代の時代状況に似てきた,という指摘がなされている。歴史へのそのような回顧を踏まえ,昨今における日本の経営学に関して危険な予兆を感じても,けっして過敏な予望にはならない。
本稿が主にとりあげ,議論してみた小笠原『経営哲学研究序説』(文眞堂,2004年)は,以上に指摘したような,最近の時代における危機的状況を寸毫も意識していなった著作である。
そこでまず,小笠原英司が尊敬してやまない経営学者山本安次郎が,「公社企業」概念を戦時体制期の満州国において提唱した歴史的背景を,その「満州国の成立」と「満鉄(南満州鉄道株式会社)の調査部」との関連事情に触れながら,説明することにしたい。
小林英夫・福井紳一『満鉄調査部事件の真相』(小学館,2004年)を,以下にしばらく参照する。
「満州事変」以後,短期間で中国東北を占領した関東軍が着手した課題は,この地に彼らのいいなりになるカイライ国家を建設することであった。そうした国家の建設のためには,それを企画する専門集団が必要となる。
手近でこの課題に応えられる集団となれば,満鉄調査部をおいてほかになかった。1932〔昭和7〕年2月,満鉄調査部から分離し,関東軍の政策立案機関として新たにつくられたのが,経済調査会(経調)であった。
関東軍の要請をうけて成立したこの経済調査会は,満鉄の一機関でありながら,事実上は満鉄とは独立し,経済面において,関東軍の調査・立案をになう役割をもった。満鉄経済調査会は関東軍の「経済参謀本部」だ,といわれるようになった所以である。
経済調査会は,その根本目標として,つぎの4点の方針をかかげていた。
1. 日満経済を単一に融合し,両者のあいだに自給自足経済を確立する。
2. 国防経済の確立〔国防資源の開発〕。
3. 人口勢力の扶植
4. 満州経済を自由に委せしめず国家統制の下のおくこと。
とくに,第4の方針は「満州経済統制策」として具体化されていった。
経済調査会が最初に手がけた国策案「満州経済統制策」は,同会第1部会の責任者宮崎正義が主導した。この案は,1932年6月開催の関東軍と経済調査会合同の委員会でその趣旨説明がなされ,満鉄の重役会議も社議として承認した。
同年8月関東軍は「満州経済統制策」を要約した「満州経済統制根本方策案」を正式の軍決定案とし,関東軍の企画指導はすべて,この案にもとづいて実施されることとなった。
そして,この「満州経済統制根本方策案」は,1933〔昭和8〕年3月満州国建国1周年の記念日に,「満州国経済建設綱要」へ引きつがれた。
「満州国経済建設綱要」は,満州国は産業を国家の統制のもとにおくという方針を示した。しかし,それは,産業全体を国家統制するものではなく,重要産業は国家統制下におくものの,それに準じるものは法律や株主派遣で支配し,それ以外は自由競争に任せるというものであり,全体的に官僚統制の強い資本主義をつくっていこうとするものであった。
宮崎正義は,経済調査会の指導者として,満州国建国直後の経済統制政策立案に重要な役割を演じた。宮崎の発想は,のちに満州国産業政策の主流となり,戦後の「日本株式会社」論の原型にもなった。
やがて,満州国における経済政策立案の主流は,同国官僚の手に委ねられるようになり,満鉄経済調査会はしだいに傍流へと追いやられていった。1933年,宮崎が東京で日満財政経済調査会を組織し,日満挙げての統制経済を具体化すると,総合的な経済政策立案の中心はそちらのほうへ移動していった。
同年以降はまた,関東軍参謀部と満州国政府との関係が緊密になり,関東軍と経済調査会の関係にも変化が生じてきた。関東軍は従来,満州国政府の立案した政策案を,経済調査会の検討・答申を基礎に,いわゆる「内面指導」をおこなっていた。このやりかたが,経済調査会と満州国政府機関とのあいだの軋轢・確執を増幅させていった。
補注)ここでの「内面指導」は,要するに旧大日本帝国の属国であった満洲国を,関東軍が実質的に支配・統制をするための内部指導的な仕組を意味した。
その内面指導の別版が敗戦後,アメリカ(米軍)に実質統治されているかのごとき「日本国の実体」にも,基本的に通底する「対米服属関係」の特性として,実際には効力を発揮しつづけている。
〔記事本文に戻る→〕 そこで関東軍参謀部は,経済調査会が機構として満鉄に帰属することを了解し,政策立案の主体からはずすことにした。1934〔昭和9〕年10月満鉄理事会の決定後,翌1935〔昭和10〕年2月から経済調査会は,名実ともに満鉄の組織の一部となり,ソ連調査や華北資源調査などの関東軍や天津軍からの依頼による調査なども,業務の一部としておこなうことになった。註記18)
※-3 満州国建国大学と山本安次郎
さて,満州建国大学が「満洲国」の首都新京(現在の長春市)に開学するのは,昭和13〔1938〕年5月であった。すでに日中戦争の時期である。
この国立〔官立〕大学は,日本が属国のなかに国策的に創設し,満州国の政治経済や産業経営の諸問題を,理論・政策的に研究する高等教育機関であった。
建国大学の教員たちは,カイライ満州国という存在を所与の枠組に据えられ,日本帝国の国家的価値観を大前提に踏まえる研究を総合政策的に推進することになった。
そうした建国大学創立の経緯でみれば,山本安次郎が『公社企業と現代経営学』(建国大学研究院,昭和16年9月)に披露した立論は,「満洲国」〔のちに「満洲帝国」〕の方針,およびこの国を創った日本帝国の「戦争遂行という全体主義的な政策」に,忠実にしたがうものであった。
山本安次郎『経営学本質論』(昭和36年初版)は,敗戦後もなお,「経営学が実践理論として仮言的判断を含み」,「理論,歴史,政策は認識の3方向」に関する「国家を主体とする経営政策を問題とする」「経営政策学は成立し得る」註記19)と,戦時体制期に発祥した自説の立場の〈正しさ〉を重ねて強調していた。
ただし,この発言の含意は,注意深く解釈されねばならない。
戦争の時代,満州国の歴史全般に関して山本理論は,「世界史的使命・課題」を誇大に高唱し,アジア侵略を正当化する思想を支持した。ところが,山本は,戦時体制期の主唱だった「公社理論が歴史に裏切られ」,戦争の「歴史がその経営政策を否定した事実」を,大日本帝国が敗戦したあとも依然,直視できる感性をもちあわせなかった。
要するに山本は,持論の宿命でもあった “虚偽意識のイデオロギー” を認識できないまま,学者生命をまっとうした。とはいえ彼はまた,敗戦後「シベリア抑留」の体験を経てきたけれども,この残酷な人生を生き抜いてきた過程もまた,学者としての自身の経歴になんら具体的な作用が生じることもなかった。
シベリア抑留の問題についてはこれまで日本の立場からいくつもの専門書が公刊されてる。社会科学者でありかつまたその実際の被害者としての体験を生き抜いてきた山本が,経営学者の立場を意識してもだが,この問題に一度でも本格的に言及したことはなかった。
彼は「シベリア体験」の事実=記憶を「ただ残酷であった記憶」と語るのみで,それ以上,学識者としての分析を提示したり知見をさぐって考察することは皆無であった。
あまた存在する「シベリア抑留組」の人びとの体験談が,われわれには与えられてきた事実に照らして思うに,山本が「満洲国体験⇒シベリア抑留事件」の歴史的な因果の渦流のなかに自分も巻きこまれた記憶を,事後,研究者の立場からいっさい吟味することがなかった事実は,
敗戦前において,社会科学者である経営学者の立場から「満洲国企業経営」論を語ってきた「経営学者の問題意識そのもの」に即しても,歴史認識に関してその欠落があったとしか捕捉のしようがない。
前段までに指摘した内容は,けっして絵空事ではなく20世紀半ばにおける「戦争史にからむ1人の経営学者」の歴史体験であったのであり,しかも,以下に紹介するこの1941年9月に山本が公刊した専門書としての経営学「論」の敗北をも意味した理論体験でもあった。
だからここでは,山本『公社企業と現代経営学』昭和16年9月の記述内容を復習しておくことにしたい。
イ)「歴史の認識」 満州国における「歴史的現実に於ける危機を国家的根源的危機と自覚し,かゝる危機を媒介に,近代的企業の公社企業への現代的転換を根拠づけ,同時に近代経営学の現代的転換を試みんとする」。
ロ)「理論の立場」 当時における「吾々の現代的課題……作田〔荘一〕先生の主張せられる『国民科学』乃至『現代的学問』の確立」は,「国家の立場,国家的存在の論理の立場,謂はゆる『行為的主体存在論の立場』即ち『行為の立場』に於てのみ真に根柢的に具体的に把握せられる」。
「経営学が真に経営学であるためには,それは歴史的現実に於ける……経営行為の原理の学でなければならない」。
ハ)「政策の目標」 「かゝる問題を一気に解決に導いたものは作田先生の『公社問題』であ」る。「『公社』の問題は吾々の経営学にとって正に一の試金石たるを思はしめるものがある」。
山本に再度,問わねばなるまい。
当時の満州国において「かゝる立場に於てのみ現代的転換を意味」したことは,1945年8月まで実現されたのか? 以上の3点 イ) ロ) ハ) はみな「試金石」を当てられ,すでにその素性:結末:限界:問題が確かめられてはいなかったのか?
1945年8月8日ソ連が日本に宣戦布告する。満州国は自国内に根こそぎ動員をかけ,建国大学教授だった山本安次郎もそれに応召した。そのため彼は,敗戦後シベリアに抑留され,悲惨な収容所生活を強制された。
※-4 補 述:その1
立花 隆『シベリア鎮魂歌-香月泰男の世界-』(文藝春秋,2004年8月)は,旧日本兵たちが生死の淵に追いつめられた過酷な体験:「シベリア強制抑留」を,画家香月泰男の作品をとおして語っている。香月自身の表白に聞こう。
★「私にとってシベリアとは一体何だったのだろうか」。
★「シベリア抑留者の数だけ多くのシベリアがある。私は全シベリア抑留者の気持を代弁してやろうなどというような大それた望みは持ったこともない。これからも持とうとは思わない。私には,香月泰男のシベリアしかない。ごく個人的な体験を語る気持ちで,それを画布に表現していた」。
★「私はいつも必ず生きのびてやろうと思っていた。兵隊とときは死ぬこともあろうかという覚悟はあった。しかし,よし死ぬことがあろうとも最後には銃を握っては死なず,鉛筆を握って死ぬつもりだった。帝国軍人としては死にたくないと思った。出征するとき持ってでた絵具箱は,帰国するまでかたときも手放したことがない。
★ シベリアを描きながら,私はもう一度シベリアを体験している。私にとってシベリアとは一体何であったのか。私に襲いかかり,私を呑みこみ,私を押し流していったシベリアを今度は私が画布の中にとりこみ,ねじふせることによってそれをとらえようとする。
★ もしシベリアと戦争がなければ今日の私はなかっただろう。今のような絵を描くことはできなかったろう。私もルドンのようにはっきりいうことができる。 “戦争は私のヴィジョンがいわば十倍にもなった時期です” 。註記21)
--社会科学者である山本安次郎のことだから,「シベリアとは一体何だった」のかとか「全シベリア抑留者の気持を代弁してやろう」とかいいながら,事後において学問の発展に役だたしめうる方途で,戦後に「もう一度シベリアを〔精神的に反芻し,追〕体験している」のかと思いきや,まったくそうではなかった。
第2次大戦後,約60万の日本の軍人と民間人がシベリアをはじめ,ソ連各地から外モンゴルにまで連れていかれて,強制労働に従事させられ,そのうちの約1割が異境で斃れた。
ソ連当局の彼らのあつかいかたは,何千人という「ゼック〔収容所の囚人〕」をあつかったやりかたとまったく同じで,労働力としてのモノ以外のなにものでもなかった。
彼らシベリア被抑留者が味わった飢えと寒さと労働の辛さは,ソ連の農民をはじめとする……囚人となんらかわるところはなかった。註記22)
画家の香月が表白した,「戦争という体験」の知覚,「シベリア強制収容‐労働という死の瀬戸際に立たされた歴史回顧」の仕方などに比較して,経営学者の山本による「シベリア体験の認識」は,きわめて朦朧・希薄なものだっただけでなく,単なる被害者意識に極限され矮小化したものだった。
もっとも,山本学説における政策理論上の具体的目標「公社企業論」は,当時,彼の研究環境を囲繞していた「満洲国」,そのなかに創設された建国大学においてだからこそ,発想され獲得された,貴重なものであった。山本がその点を強調することにかぎっていえば,無上無比であった。
あの「大東亜戦争」のために用立てられていたはずの「公社企業論」は,その戦争の結果にしたがい,建国大学とともにその運命をともにせざるをえなず,結局消滅した。
幸いにも山本安次郎は,シベリアから生還できた。「満洲国」とこの「建国大学」および「シベリア抑留」の「なにが死に,そのなにが遺り,そのなにが活かされた」のか。問われてしかるべき論点であった。
※-5 補 述:その2
富永健一『戦後日本の社会学-一つの同時代学史-』(東京大学出版会,2004年12月)は,マルクスのはやっていた時代に研究者となった富永健一が,なぜ,自身がマルクス主義の立場を採らなくなったかを,こう説明している。
私がマルクス主義から離れる決意をした大きな理由は,父から5年間の「ラーゲル」抑留生活について聞き,ソ連について暗いイメージをもったことにあった。
父が抑留中に転々と配属されたシベリアとカザフスタンとウラルの体験を折りにふれて語ってくれたことから,私はソ連の共産主義が近代化から非常に遠い遅れた状況にあることを学んだ。
中央アジアから東ヨーロッパにかけての言語と文化の多様な諸国を含む「多民族国家」ソ連は,武力によってはじめて統合を維持しているということを,遅ればせながら私は認知した。
ソ連抑留は,日本人とドイツ人の兵隊(私の父は兵隊ではなく旧満州国政府の外郭団体の職員として連行された)を極寒のなかでの苛酷な建設労働に使用することを目的としたもので,兵士の復員が条項の一つにあげられていたポツダム宣言に違反していた,シベリアが父の墓場にならなかったのは,まったく彼の驚異的な体力によるものであった。註記23)
1945年8月上旬,満州国官立建国大学教授の経営学者山本安次郎は,満41歳になっていた。満州国は,ソ連の参戦に対抗するため「根こそぎ動員」をかけた。大学教員の山本も駆り出され,わか仕立ての老兵となったが,1週間後には日本の敗戦を迎えた。この短かった経過は,山本みずからの表現によれば,彼もまた「戦争の犠牲者」になったことになる。
富永健一は,シベリア抑留を体験した父の話を聞き,ソ連という国の本質を認識したという。
山本安次郎の息子有造(3男,1940年9月生まれ)は,学究となった。京都大学人文科学研究所教授を経て,中部大学人文学部教授(その後特任教授)。
有造は京大時代に,単著『日本植民地経済史研究』(名古屋大学出版会,1992年),編著『「満洲国」の研究』(京都大学人文科学研究所,緑蔭書房,1995年),単著『「満洲国」経済史研究』(名古屋大学出版会,2003年)などの業績を有している。
有造が父の安次郎の満洲国とシベリア抑留「体験」をどのように聞いたのが,あるいはもしかしたら聞けなかったかもしれないが,息子の1人の立場からその付近に関した情報について,どのような「歴史の認識」を抱いていたのか,本ブログ筆者は寡聞にしてしらない。
関連しては,加藤勝康編集代表『山本安次郎先生喜寿記念文集 めぐりあい』(経営学理論研究会,昭和57年)は,巻末「七十八年の歩み」で,シベリアへ強制抑留されたときの生活状況を,山本安次郎自身にこう語らせていた。
「シベリアへ抑留される。哈爾浜からイルクーツクを通り,チェレンホーヴォーの炭坑街にて越冬。極寒粗食に堪えたのは奇蹟であった。病弱者として労働を免れたせいであろう。死者多く,墓掘りをやる」註記24)。
息子の山本有造は明らかに,父安次郎からなんらかの影響を受け,上段に上げたごとき研究業績を挙げてきたものと推察される。すなわち,息子=有三は,家庭的だったか学問的だったかを問わず,父安次郎の「満洲国」体験を意識せざるをえない環境に置かれていたと推測できる。
ましてや,山本安次郎自身は満州の建国大学教授であったとき,「満洲国」の建国理念,つまり五族協和とか王道楽土とかいった政治的標語を,経営学の学問展開における「大前提の価値理念」に据えていた。
ところが山本安次郎は,自身の満州国「建国大学」における研究生活ならびにシベリア抑留体験(大日本帝国の敗北)を,併せて「被害者意識」に一括投入したかたちにすることで,ひとまず処理済みの事項に整理しておいたように映った。
しかしながら,その息子の1人はともかく,父の生きざま,その残影を強く感じさせる学究としての人生を表現してきたのであり,なおさらのこと,「満洲国建国大学の体験史」と「シベリア抑留の記憶史」が,安次郎自身の個人精神史において,それも学問の展開となってどのような影響をもたらしたか,という問題の設定がなされてなにもおかしい点はない。
敗戦後,1947年6月10日日本に帰還した山本は,のちの1949年5月,彦根経済専門学校〔現滋賀大学経済学部〕教授として学究生活に復帰する。
満州国産業経済の発展に寄与するため,建国大学の経営学担当教授として研究に従事・活躍してきた山本は,敗戦後に,戦時中を前段でも触れたように回想していた。しかしながら,「皆が戦争犠牲者」だといったさい〈皆〉とは,いったいぜんたい,誰のことを指していたのか。
補注)2016年から東京都知事になっていた小池百合子は,関東大震災の犠牲者のうち「震災ではなく人災側から下された原因」によって虐殺された「6661名の朝鮮人」(この人数は一番犠牲者の多い説)に対して,
石原慎太郎元知事などこれまでの東京都知事のすべてが,毎年9月1日に執りおこなわれる慰霊祭には必らず追悼文を送っていたにもかかわらず,なぜか「震災で死んだすべての人びとと同じに慰霊すればよいのだ」というリクツを盾に,追悼文は不要であるといった詭弁を弄していた。
そのリクツは,「火事で焼死した人間」も「火災現場に放りこまれて焼け死んだ(殺された)人間」も「焼死した事実に変わりはない」のだから,このうちでも後者の「殺されたほうの人間のこと」をとりあげ,とやかくいう筋合いはないといういいぶんに似た,ヘリクツどころか,おそろしく没論理かつ残酷な発想が先走しっていた。
ネトウヨ的な軽やかさだけがとりえであった小池百合子は,2024年7月7日の都知事選でも,立憲民主党を離党して立候補した蓮舫や,突如として立候補した石丸伸二を寄せつけず,三選された。
だが,この百合子はモノゴトの本質や歴史的な由来に対する理解力がないというよりは,その種の問題は私自身の関心にとってみれば「どうでもよい歴史上の出来事だ」という認識しかもてない劣士であった。
〔記事に戻る→〕 満州国の建国理念には「王道楽土・五族協和」という標語があった。満州国内の実情では,「日本人が1等,朝鮮人が2等,中国人〔満人〕が3等」とそれぞれ階層づけられ,あらゆる場面で民族の差別が当然視されていた。山本安次郎はその「日本人1等」階層のなかでも,官立大学の教官として,最高の社会的地位に属した人物である。
まさか,「戦争の犠牲者」になったのだから,満州国で営為した学問の理論的内容は,戦後にその真価を問われなくてもよい,とでもいうのか。ところが,山本学説にとってこの問題指摘は,とうてい理解できないものだった。
というのは,満州国の建国大学時代の研究業績が,敗戦後における日本の経営学界にも十分連続し妥当するかのように,山本はつねに力説してきた履歴も記録されてきたからである。
自説として展開してきた理論:「公社」概念と,これをもって対象にとりあげ議論した現実:満州国産業経済とは,完全に分離可能,別物だったかのようにあつかわれてきた。
しかし,戦時体制の深化で「暗い谷間」にあった日本帝国とその属国の満州国においてだからこそ,「公社」企業論を,「国家科学」「国家の立場」に立つ「自説:経営行為的主体存在論」として政策的に提言した。これが,経営学者山本安次郎の立論であったのである。
この文章は,戦時中の研究状況の悪化を描いた記述,すなわち「準戦体制から次第に戦時体制に移行し,経済統制が強化され,激化する戦争の影響もあって,自由な研究や発表もとかく妨げられ,外国文献も途絶えて研究は停滞しがちとなり,さらには中止のやむなきに至り,極く少数の人びとのみが自己の道を守り,沈潜することが出来た」註記26),という段落につづけて書かれていたものである。
戦争の時代「研究は停滞しがち」だったが,「自己の道を守り沈潜することが出来」,「開眼の喜びにひたるこの出来た」学者もいたといわれていたが,これは山本自身のことであった。
いわば,山本『公社企業と現代経営学』(昭和16年9月)は,「本当の経営学の哲学的基礎に逢着し,開眼の喜びにひたることが出来た」著作であった。
ところが,この著作において山本が主張した理論の核心および政治経済的な基盤は,敗戦後,その根拠を徹底的に破壊されつくしたのだが,それでも,この業績をいつの時代にも通用する成果として誇示されてきた。
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つぎは平井泰太郎の本。
つぎは山本安次郎の本。