ドイツ・ナチス期「戦時・ゴットル経済生活論」から敗戦後「平時・経営生活論」へと隠密なる解脱を図った「経営哲学論の構想」はひそかに「ゴットルの名」を消していた(6)
※-0 冒頭での付記:断わり
この冒頭では「本稿(1)」のリンク先・住所のみ付記しておくにした。興味ある人はこの(1)から読んでもらえると幸いである。
以下,本論に進む。
※-1 戦時体制期における国家社会主義と経営経済学
吉田和夫『ゴットル』(同文館,2004年)も触れていた事実であるが,戦時期ドイツナチ流国家社会主義の思潮が日本の経営〔経済〕学におよぼした影響には,計りしれないものがあった。池内信行や山本安次郎は,その大波のうねりに呑みこまれた経営学者たちであった。
大橋昭一『ドイツ経営共同体論史-ドイツ規範的経営学研究序説-』(中央経済社,昭和41年)は,ナチスとドイツ資本主義企業経営との関連問題を,つぎのように論及していた。
要するに,ナチスは私企業の存続を否定しないどころか,欲求充足のために,つまり生産増大のために役だつ資本主義的原理や資本主義的要素はそのままうけ容れ,原理的には資本主義的私企業の存続を是認した。しかしあくまで,最高全体者としての民族共同体に奉仕することを要求した。
かくして,より大きな全体としての民族共同体と私的企業との関係においては,私的企業の奉仕が一方的に要請され,企業と企業所属員との関係においては,個人の企業への奉仕,具体的には企業を代表する企業者への服従が一方的に強制された。
ナチスの思想,その経営共同体論の概略は,たとえばニックリッシュの経営共同体論とも,原理的な諸点において必ずしも軌を一にするものではけっしてないが,ナチスは「民族的指導者国家」の全権力をつうじて,強圧的・ファッショ的にその思想を実現しようとし,そのためにいっさいのものを役だてようとした。
科学もその例外ではなく,原理的にまったく相容れない理論は一方的にしりぞけられ,原理的に共通するものも,ナチス的改革を要求された。
ニックリッシュをもって頂点に達した経営共同体論の理論も,ナチス的改革を要求され,当時ナチスに迎合してその主張を理論化しようとしたいくつかの試みも登場した。註記1)
筆者が既述中(連続ものの「本稿全体」)で議論してきた池内信行や山本安次郎の戦時期経営理論も,まったく同じであり,ナチスを当時の日帝に置換すれば,基本的な様相は酷似していた。
先述のとおり,戦争の時代における経営学論として,平井泰太郎の構想した「経営国家学」(神戸商大新聞部編『経済及経済学の再出発』日本評論社, 昭和19年1月所収)のような「戦時体制的な経営構想」論もあったが,実際にこうした「戦争経営学」的な経営思想論は,大東亜戦争の開始以前より提示されていた。
◆-1 平井泰太郎『国防経済講話』(千倉書房,昭和16年5月)は,こう論述していた。註記2)
a) 国家の名誉と民族文化
「国家の名誉といふことで,日本に就いて申しますと,日本が強いといふことであります。そこに国防経済の最重点を置かなければならぬ。そこなんです。……国民経済といふものは,民族を保存し,民族の文化を昂揚させる為の手段であります」。
b) 自由主義の問題
「自由主義の思想の場合に於ては,矢張り個人々の立場を極度に尊重して,その利益を尊重すること自体が国家全体の利益に適ふのだと考へ方なのであります。個人の集団といふもの以外に国家はないといふ考へ方なのです。これではいけないのです。これだったら所謂滅私奉公といふことは出て来ない。人のために犠牲になる。国のために潔く武士道を尽さうといふことは出て来ない筈であります。そんなものではない,これでは自由主義の場合の『私益即ち公益』といふ考へ方になります」。
c) 戦争体制と国民経済
「戦争になると国民全体が国民協同体を作って,国民共同の目的に向って突進して行く」。「従来は自主的な企業経済を前提にして居り」,「営利経済の原則が行はれて居りまして,こゝに所謂生活経済よりも営利経済の原理が進行して居った」。「ところが,その個別に儲けさしてやって行くとか,個別に生産力を増大してやって行くという考へ方でなく,今度は全体的に調整する経済をやって行く」。
d) 経営国家学
「総て国家全般,国民協同体全般を一丸として経営して行く,経営国家を作り上げて行くといふ考へ方でありますから,経営学で今迄やって居ったことを全部こゝで引張って参るのであります」。
しかしながら,詳論するまでもないと思うが,第2次世界大戦での敗戦によって,この国は政治・経済・社会・文化の各領域においてどのような体験をしてきたか?
イ) 戦争遂行を至上命題とした日本の「国家の名誉」と「民族文化」は,いったん地に落ちたが,その後,旧政治体制時をはるかに上まわる水準まで回復できた。
ロ) 「自由主義の問題」もしかりであり,戦争に負けてこそはじめて,旧日帝の臣民は〈自由と民主主義〉を享受できる時代を迎えることになった。
ハ) 「戦争体制と国民経済」は,戦争というものが国民経済,国民生活を徹底的に破壊しつくすものである点を教えた。
ニ) 平井泰太郎式になる「経営国家学」の発想は,ナチスあるいは日帝が統制経済体制のもとで,経営〔経済〕学者に要求,強制した企業概念に対して,すすんで迎合する理論を構成するものであった。
◆-2 村本福松『経営学概論』(千倉書房,昭和13年11月)は,「序」のなかで,こう表白していた。
村本「同書の本文」は,戦時体制期の企業経営は,自由経済時代とは異なり,それじたい独立の存在を有するものでなく,国民経済の発展に仕えるかぎりにおいて企業経営としての存在があり,そうした観察のもとにおいてのみ企業経済たりうる,と主張した。註記4)
村本福松『経営経済の道理-翼賛経営体制の確立-』(文雅堂書店,昭和17年7月)になると,題名どおり「翼賛経営学」の書が完成する。
村本が戦争の時代に提唱した内容は,結果として,歴史の事実をもってそのすべてが否定された。だが,彼はその結末を目の当たりにしても,学究としての思想的・理論的な責任を,みずからすすんでとることをせず,戦争中に投獄されたが敗戦後に釈放された同じ大学の元同僚たちのきびしい責任追及を受けてから,ようやく応えたにすぎない。
要するに,戦時体制期における村本福松の経営学は,「国民経済の発展に仕える」「企業経営としての存在」を育成・発展させるどころか,それを崩壊・破滅させる立論を盛んに披露していた。
「戦争という緊急・非常の事態」は,当時,これに対峙した社会科学者の姿勢:真価を,根源より問いつめるほかない状況を作った。
吉田和夫『ゴットル』2004年は,難波田春夫 註記6)の「政治経済学の社会科学的展開」を評価するに当たり,戦時期に難波田の公表した有名な著作『国家と経済 全5巻』(日本評論社,昭和13~18年)に言及しないで,戦後期になってからの難波田春夫の「近代の超克」論だけをとりあげていた。
しかし,それでは,難波田「政治経済学」の学問全体像を的確に把持することは,とても無理であった。戦争の時代における難波田の著作活動は,経営学者の平井泰太郎や村本福松,山本安次郎のそれを凌駕する質量で,かつ歴史学的にも壮大な展望を広げながら,熱烈に「翼賛経営・経済体制」を謳いあげていた。
平井泰太郎に再度,登場してもらおう。
平井泰太郎『統制経済と経営経済』(日本評論社,昭和17年5月)が,「前論」の一〔いち〕で,「経営学は,今にして初めて其の正しき地盤に到達しつゝあるものと言ひ得よう」と喝破したのは,
「統制経済時代は,経営学の時代であると言っていゝ。経営学の対象を営利企業なりとする偏狭なる学説は,将に清算せらる可き絶好の機会を得た訳であるが,在るべき経営学は寧ろ此の機会に其の本然の姿を現はし来るであらう」と確信しえたからであった。註記7)
平井がそこまでも自信をこめて強調して発言した戦時期日本における経営学の方途であったけれども,いうまでもなく80年近くも前に,その顚末は出ていた。ところが,敗戦後における日本政治史過程のなかで,平井がそうした主張を後悔したり撤回したり,とりわけ反省したりした様子はいっさいなく,完全に頬被りを決めこんでいた。
※-2 作田荘一の国家主義
山本安次郎の師である作田荘一は,準戦時体制期に『国民科学の成立』(弘文堂書店,昭和10年8月)を公刊し,本文の末尾近くの段落中でこう強く提唱していた。
作田は,文部省の指揮する「国民に対する思想善導」教育事業の先頭に立ち,その旗振り役をよく務めてきた(昭和13:1938年に京都帝国大学経済学部を定年退職後は,昭和17年まで満州建国大学副総長)。
その以前の時期,同省が「学徒の思想善導」係として重用したのは,筋金入りの自由主義者河合栄治郎であった(東京帝国大学経済学部教授。ただし昭和14:1939年1月31日「平賀粛学」によって休職処分に付された)。
ところが,時代はすでにこの河合栄治郎を用済みにするほど,日本の教育社会に対するファシズム的統制を強めていたのである。
作田荘一のほうは昭和9:1934年,「資本主義,社会主義,国家社会主義,国家主義と発展して行くのではないか」と時代を展望し,「国家主義に依る経済統制を述べ」た著作『日本国家主義と経済統制』(青年教育普及会,昭和9年6月)を公表した。
同書で作田は,「国家主義こそ今後最も勢力の大なるものとなって行くべきものであると考へる」のは,「それは深く我が国の歴史を省み,我々国民生活上の実際の体験を意識することに依って下し得べき結論であると信ずる」からだ,と論じた。註記9)
だが,戦時体制期に移行した日本帝国は,国家主義の道をとりながら侵略戦争をすすめた結果,国民生活を壊滅させただけでなく,その国家主義の基本義も否定されられた。したがって,作田のような見解は,歴史的にも論理的にも破綻した。
ゴットルに見解にしたがえば,「経済の多くのものがまさに生活必然的だから」,戦争体制という非常・緊急の事態に協力すべき企業経営の「経済生活は強制経済なしに決して済まされまい」,と結論づけられた。註記10)
つまり,この「強制経済」=「経済生活」に必然的にしたがうべき「企業経営」に関する「存在論的判断の内実は,……いはゆる正しい構成的結合関係のそれであ」る,と主張されていた。註記11)
だから,酒井正三郎『経済的経営の基礎構造』(昭和18年10月)は,戦時体制下「における企業経営の根本問題とは何であるか?」と問い,こう答えていた。
イ)「企業が国民経済の在内構成体として正しくその環境に適応せんがためには,その構成体としてとる形態がいかに革新せらるべきかといふことが,まづその第1の問題であ」る。
ロ)「企業なる構成体においてそれぞれ固有の役割を果してゐる資本家・労務者,もしくは企業者が,殊に現代企業経営の基柱となるところの企業者が,いかに企業に対して態度をとるべきかといふことが第2の問題である」。
ハ)「ゴットルの言葉でいへば,前者〔a)〕は在内構成体と包括構成体との正しい構成的結合関係の問題であり,後者〔b)〕は構成体と人間との間の正しい生活的結合関係の問題である」。註記12)
くわえて,宮田喜代蔵『生活経済学研究』(日本評論社,昭和13年10月)は,戦時体制期を迎えて企業経営が国家のために「正しい経済生活=正しい生活的結合関係」を要求されたのは,
「全体的目的論的考察の登場が,転換期における経済学の新しい進展に対して……重要な意味をもってゐる」からだ,と主張した。
すなわち,それは,「経営経済学と国民経済学とが接近しつゝある事実」であり,「国民経済における全体的目的の考察をめぐって生じた両つの学問の接近である」,と説明した。註記13)
宮田喜代蔵は,昭和19年1月に公刊された別の共著,日本国家科学大系 第9巻『経済学2』実業之日本社,昭和19年1月に寄稿した「企業統制論」のなかでさらに,生活経済学の立場を具体的に説明をおこない,戦時「企業体制の正しい生活的判断」をつぎのように記述した。
酒井正三郎や宮田喜代蔵のようなゴットリアーネル(ゴットル亜流経済学者)は,戦争の時代における経営経済学あるいは生活経済学の規範的課題:「正しい経済生活」を,全体的目的=国家的目的に求め,かつそれに指示されてもいた。
しかも,それが歴史的事情のなかで必然の方向性だと認めていた。それでは,その「正しい経済生活」という規範目的を,「正しい経済構成」に関する判断基準として要求した「時代の事由」は,どのようなものであったのか。
河瀬龍雄『満洲建設の標幟』(三省堂,昭和10年3月)は,明治以来の日本帝国の足跡を振りかえり,早くからこう強弁していた。
この発言は,当時としてはけっして奇異でも異様でもなく,日本帝国の臣民たる知識人にとってみれば,ごくふつうの〈公式見解〉であった。昭和10年3月といえば,満州国が建国されてちょうど3年が経過した時期であり,中国への侵略戦争を開始するまであと2年4カ月の時期でもあった。
戦時体制期まで時代が進行する以前だったけれども,日本帝国にとって,いったいどのようなものが「正しい経済生活」だったのか。その「規範:基準:当為」は,全体的な国家目的に求められていた。
当時における「社会科学としての経営学」の方向性は,そのような最高の地位におかれた「当為の目的」:「国家の要求」を,否応なしに受容させられていた。
作田荘一は既述のように,昭和13〔1938〕年5月に開学した満州建国大学の実質的な最高責任者である副総長を務めた人物であった。著作『日本国家主義と経済統制』(昭和9年6月)では,当時における「国家主義に依る経済統制を述べ」るに当たり,「資本主義,社会主義,国家社会主義,国家主義と発展して行く」段階を教示していた。註記16)
日本本土の「経済生活」の段階は,ひとまず「資本主義」の段階にあったと理解しておく。これに対して,前出の河瀬『満洲建設の標幟』は,
「満州国事業の如何なる部分幾干,民間事業に委せらるゝが明瞭でない点等,疑義は多いが,少なくとも社会主義的なる統制主義の下に,満州開発の基幹の置かれている居る事を看取し得る。即ちこの基幹を忠実に実行さるゝ事が,日満経済合一の一大モットーでなくてはならない」
と説明していた。
いいかえれば,当時における満州国政治経済は,経済生活の基幹に「社会主義⇒国家社会主義⇒国家主義」の政策的進路を据えようとしていた。河瀬は,「満州国は,総て新らしき試みであり,世界に類のない王道国家を作りあげようと云ふのである」といっていたから,そういう理解がなされて自然であった。註記17)
そもそもは,作田荘一がその政策的方向性,つまり資本主義を抜け出て,「社会主義⇒国家社会主義⇒国家主義」に向かう経路が,学理「論」として前進すべき適切な方途だと確信していた。
だから,山本安次郎『公社企業と現代経営学』(建国大学研究院,康徳8〔昭和16〕年9月)も,「現代的転換を意味する」「国家の立場,国家的存在の論理の立場」=「行為的主体存在論の立場」「行為の立場」「に於てのみ」「吾々の現代的課題が存在する」と規定した。
あるいはまた,「それが作田先生の主張せられる『国民科学』乃至『現代的学問』の確立に外ならない」,「この意味に於て」「真に根柢的に具体的に把握せられる」「企業の現代的形態としての『公社』の問題は吾々の経営学にとって正に一の試金石たるを思はしめる」と論断した。註記18)
しかしながら,以上の試み:「満州国という偉大な実験場」は結果としては,はかない一場の夢に終わった。ところが,山本安次郎は戦後になっても各著作のなかで,「公社」企業という経営概念の有効性を復唱・高調することを,けっして止めようとはしなかった。
ここでは「三公社五現業」という戦後日本に登場した公共企業体の現実問題があったけれども,山本の経営学「論」とは特別な接点があったのかどうか,その付近の問題は語られずじまいになっていた。
それゆえ,戦前における山本流の「独自の提唱になる公社企業論」に関しては,特定の疑念を提示する以前になにゆえに,戦後においては,その程度の「企業現実・感」に跼蹐していたのか,という素朴な感想を添えておくことが必要であった。
以上の論点,公社企業論とはあくまで別個であったかのようにして,山本『経営学本質論』(昭和36年初版)は,戦後作である学的な立場から,再度こう述べるようになっていた。
という経緯になっていたわけであるが,ここでは念のために,つぎのごとき酒枝義旗『ゴットルの経済学』(昭和17年9月)が,戦争中はこういう見解を披瀝していた事実を添えておく。
山本安次郎は,戦時体制期においてのみ「国家を主体とする」「経営政策学」が「成立つと考えてい」ただけではなく,敗戦後15年以上経った時点においても,満州国時代の持論を現在形で妥当とする意見を吐いていた。それもとくに註記のなかでのものであった。しかもその意見は,作田「公社概念」を,歴史縦断的に,無条件に正当視するものでもあった。
筆者は,山本学説「公社概念」とは全面的に対決する姿勢で,その経営学本質論・方法論に関する哲学・思想史的な問題点を中心に,度重ねて議論をおこないつつ批判してきた。
しかし,山本は,社会科学としての経営学が踏まえるべき〈歴史科学性・経験科学性・実証科学性〉をないがしろにしながら,敗戦後の斯学界に向けてなおも,満州国時代の「公社」概念の経営政策的妥当性を粘り強く訴えつづけることにのみ,非常にかつ異様に熱心であった。
21世紀初頭の日本経済の段階で,「公社」という経営概念に,どれほどの存在価値が認めうるのか。すでに決着済みの論点である。すでに別途,国家主体があれこれ運営・管理する経営主体に関しては,独立行政法人という事業形態が雲霞のごとく登場してきた。
だが,その動向とはひとまず完全に別の「過去問題」であった「旧満洲国における公社企業論」の「経営理論的な構想」は,山本安次郎が学問として提唱した概念であったにもかかわらず,この自説が敗戦という事実によって倒壊させられた歴史的な事情・背景は,どこまでもあたかも無縁でありえたかのようにふるまってきた。
というよりも,そうした問題意識が山本にあっては皆無であったゆえ,そもそもが「学問・理論」の基本姿勢からして,重大な疑問を突きつけられて当然であった。
自説の提唱が歴史の潮流のなかで大きく翻弄され,その理論の実践が途中経過を十分に観察する間もなく潰えた「公社企業論」,そして,この理論の構想を哲学論的に支えていたはずの西田哲学ばりの「経営行為的主体存在論」が事後,まともに再検討・再吟味されたことはなかった。
とりわけ,他者から「事実をもって提示された反証」に対面させられてもこれに真正面から対決することがなく,ともかく自説の立場に唱和することばかりを要請・念願していたのが,山本安次郎流の学問観であった。
「自説の蹉跌」がはたして,どのような時期,どのような要因によって生じざるをえなかったのか? その原因分析を,とりわけ歴史的背景と突きあわせて試みることがなかった山本安次郎の,その「経営行為的主体存在論」なる理論構想は,最終的には「老いの繰り言」として,いつまでも反復提唱される結末になっていた事実は,どうしようもなく否定できなかった。
いうなれば,念仏を唱えるがごとき要領でもって,持論の創造性・卓越性を格別に強説してきた彼の学究人生は,他者の研究進展にとって,いったいどのような意義ないしは貢献がありえたのか,という疑問を残すだけとなった。
※-3 補 述
青山秀夫『近代国民経済の構造』(白日書院,昭和23年1月)は,戦時中における超国家主義経済学者の主張,つまり「自由経済の「段階」から統制経済の「段階」への発展」という考えかたを,ありえない〈ナンセンス〉だと一蹴した。
その指摘は,「超国家主義経済学者諸君が『日本精神』理論あるひはゴットル理論等々に依頼される」「主張の誤謬」に対するものであった。こう批判していた。
ここで,酒枝『ゴットルの経済学』からさらに,つぎの文節を引用し,山本の「国家主義的経営政策学」の源泉・由来を訪ねておく。
もっとも,21世紀の日本資本主義経済体制のどこに,「君主の命」をむきだしした,しかも同時に「国家を主体とする」「経営政策学」を求めればよいのか,まったくおぼつかない点である。この点はただちに,誰しも認めるほかない現状認識である。
敗戦前における山本学説は,西田哲学流「経営行為的主体存在論」に囚われた理論構想,換言すれば,前段のように定義された経営学「論」を相対化できていかったし,かつまた,ゴットル流価値判断:「存在論的判断」の過誤からも創造的に解脱できていなかった。
ゴットルもいったように,「国民経済によって包括されてゐる構成体の生活力の増進は,それによって国民経済そのものの生活力が同時に高められる限りにおいてのみ,意味を有する」註記23) ものであった。
敗戦時直後からとくに,日本国民経済の生活状態は,どのようなものになっていたか。
山本経営学説は戦時中においてこそ,そのような「構成体=国民経済の生活力の増進」をめざすために,「国家を主体とする」「経営政策学」を構想した。そして,常時臨戦体制国家だった旧「満州国」においてだからこそ,その経営政策論上の達成目標とされた「公社企業」概念に対して,理論展開上大きな期待をかけていた。
作田荘一は,「公社」企業の概念を,こう説明した。
イ)「国民経済の優先」 「公社企業は統一的国民経済の意識的分担なるを以て,一企業の成敗もこれを個別的に見ず,国民経済に貢献せる方面に於いて見ざるべからざる」。
ロ)「公社企業の目的」 「公社の経営目的は会社のそれと異り,名実共に国民経済の目的,即ち国富の増進及び普及に参与するにあり。公社の経営に当りて収益を生ずるとも,それは増進せる国富の部分に当り,従って経営者の任意に処分し得べきものにあらず」。
ハ)「公社企業の性格」 「公社企業は政府企業と会社企業との中間に立ち,一方には官吏式経営の低能率化を避け,他方には個人主義的資本家経営の弊害を退け,以て国民経済の健全なる運営を庶幾するものなり」。註記24)。
作田はまた,満州国のありかたに関して,「国家は社会に委譲せる経営を統制し,更に重要なる事業を国家に回収し且つ自ら発企しつゝある。かくて国家は統治国家たると同時に経営国家となる」と主張すると同時に,
「日満不可分関係への誤解は今回の大東亜戦によって氷解されるはづである。大東亜戦は米英の勢力を排して大東亜共栄圏を建設する歴史上未曾有の大規模なる経世戦である」,と予測した。註記25)
だが,戦時体制期の日本経済ならびに満州経済に向けて期待を賭けたそうした主張は,歴史的・実証的な裏づけを与えられないまま,いわば尻切れトンボ状態にされた。にもかかわらず山本は敗戦後になっても,昔と同様にその後もなお,「公社企業」概念の国家政策論的な有効性だけは,いつまでも主張しつづけてきた。
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