安倍晋三第2次政権がこの日本を徹底的に破壊してきた惨状,2015年ころにまで回帰して再考する(後編)
【断わり】 「本稿(後編)」が受ける前編のリンク先はこちら。できればこの前編から読み始めてくれることが好都合である。
本日のこの後編の記述にさいしては,最近みつけた図解であった。それは「アホノミクス:ダメノミクス=アベノポリティックス」が2010年代に積み上げてきた「罪と罰」であったとか形容がしにくい,「世襲政治屋3世:安倍晋三」の「負だらけの業績というにはあまりにも無残」であった「日本国じたいに対する破壊行為史」について,そのホンの骨子にしかなりえないがつぎの画像資料を紹介しておきたい。
国会事情史にくわしい平野貞夫がその後,安倍晋三のことを検察庁に告発していた。
※-4『朝日新聞』2013年7月17日「〈社説〉参院の意義『ねじれ』は問題か」などからあれこれ議論
この朝日新聞の社説に触れる前に,冒頭でいったん,現在〔2025年1月〕日本国の首相になっている石破 茂政権の話題に触れておきたい。
この「世襲政治屋3世」の石破 茂もまた,7月に予定されている参議院選挙に合わせて,衆議院の解散総選挙を同時に実施するとかなんとか「ささやいていた」。まだ,自分の成立・発足してから半年も経っていないこの政権であるのに,目先チョロチョロの小手先手法を弄しはじめた。本来の任務や仕事に熱心にはみえない,このシケた小人物ぶりだけは,早くも鮮明に披露しはじめた。
自民党の歴代,それも「世襲政治屋3世」である人物が首相の多くを占めてきているが,21世紀になってから登場してきた森 喜朗や小泉純一郎,安倍晋三,麻生太郎,岸田文雄などは,政治家としてはたして,まっとうな人物・人格・教養・見識を備えていたか怪しい人物ばかりであって,非常に残念なことに政治家としてまともな人格者は1人もいなかった。
安倍晋三にはいびりまくられてきた石破 茂であったが,単なる軍事オタク的な素養を範囲を超えて,多少でもまともな為政の担い手になってくれるかと,期待しないわけではなかった国民・有権者たちの期待が,今後において満たされるどうかについては,疑問のほうならば確実に膨らんでいる。
それでいて,憲法上の解釈としては非常な疑義のある「首相の手による衆議院解散総選挙という〈非常手段〉」を悪用したがる点では,石破 茂もいままでの自民党の首相たちと変わることがなく,またもやその手を使う算段である意向を故意に隠していない。
石破 茂は首相になった直後,こういう迷采配ぶりを発揮した。それは昨年(2024年)暮れの話題であったが,2025年7月の参議院選挙に引っかけて,与党の自民党側に有利になりがちな「衆議院解散総選挙との同時選挙」を,いかにも「オレ様の特権だ」という語感を漂わせて口に出していた。
さて,ここからが『朝日新聞』2013年7月17日「〈社説〉参院の意義『ねじれ』は問題か」をとりあげる議論・記述となる。
1)衆参のねじれという問題は問題か? 今日〔ここでは2013年7月17日になるが〕の『朝日新聞』朝刊「社説」は,参議院選挙を目前にした現時点で,この「『ねじれ』は問題か」との題名を付けて,つぎのように主張している。
「参議院とは,いったいなんのためにあるのだろう?」 参院選の街頭演説を聞きながら,こんなことを考えた。というのも,最近の参院はマイナスイメージで語られることが多いからだ。安倍首相や自民党の候補者らは,衆参で多数派が異なる「ねじれ」が生じたことで日本の国力が失われたとして「ねじれに終止符を打たねばならない」と力をこめている。
先の国会の最終日,民主党など野党が参院で首相問責決議を可決し,あおりで重要法案が廃案になった。これに限らず,2007年以降,断続的に起きたねじれが,時の政権運営を不安定にしてきたのは事実だ。だが,衆院とは違う角度から政権のゆき過ぎに歯止めをかけたり,再考を促したりするのが,そもそも参院の大きな役割のはずだ。
補注)2007年という年は,安倍晋三の第1次政権(2006年9月26日-2007年9月26日)に任期がかかっていた点,周知のことがらだが,この事実を喚起させておきたく付記してみる。
〔記事に戻る→〕 その意味では,ねじれじたいが悪いわけではない。問題は,参院で多数を占める野党がもっぱら政権を揺さぶるためにねじれの力を乱用してきた点にこそある。野党時代の自民党もその愚を犯したことを,首相はよもや忘れてはいまい。
では,参院を「政局の府」にしないためには,どうすればいいのか。参院自身がこんな案を出している。衆院と異なる機能を確保するため,脱政党化した選挙制度を確立する。政権から距離を置くため,参院から閣僚を出すのは自粛してはどうか。両院の議決が一致しない時の両院協議会の使い方を工夫する。
いずれも,もっともな内容である。早く実現させればよいと思うのだが,与野党が動く気配はない。これらの案は,8年も前に参院憲法調査会がまとめた報告にある。先の国会の参院憲法審査会でも,多くの党の議員が同じような意見を繰り返した。
要は,処方箋は分かっているのに,だれも実行に移そうとしない。それが問題なのだ。選挙制度もそうだ。昨秋の最高裁の違憲状態の判断は改革の好機だったのに,「4増4減」でお茶を濁した。一事が万事と思わざるをえない。解散のない参院議員には,6年の任期が保証されている。それが逆に改革への切迫感を欠く原因になっては本末転倒だ。
仮に〔2013年7月〕21日の参院選でねじれが解消されれば,首相の政権運営は楽になるだろう。一方で,衆院と同じことをするだけの存在なら「参院不要論」が再び頭をもたげてくるに違いない。ここでサボれば,参院議員はみずからの首を絞めるだけである。
自民党が衆参両院で圧倒的な過半数を占めることができれば,いよいよこの先3年間は,安倍晋三が政治宣伝用の著作として1月に,文藝春秋から公刊した『新しい国へ-美しい国へ完全版-』文藝春秋,2013年への道筋がつけられる可能性が出てこないとはいえない。
同書は「日本を取り巻く環境は日増しに悪化している。長引く景気低迷,押し寄せる外交・安全保障の危機,さらには少子高齢社会の訪れによる社会保障の拡充。この国のリーダーは今なにをすべきなのか? 大ベストセラー『美しい国へ』に,新たな政権構想を附した完全版」だという。
補注)今回のこの記述は内容からして,安倍晋三君のこの種の手前味噌本だとみなすほかなく,それこそ味噌クソにこき下ろすほかなくなっていた。
2015年前後に関した「アベノミクスとアベノポリティックスの拙劣なる負的効果」についてその評価を下すとなれば,いまとなってみれば自明ともみなせるくらいにまで,「世襲政治屋3世」による「国民生活の二重苦化」の招来になっていたのだから,落第点を突きつけるほかなかった。
安倍晋三の業績に即して判断するとしたら,当初から必然的に累積されてきた問題は,その途中ですでにその概要が鮮明になっていた。彼のなしえた政治は,国民生活をどん底へと誘導することに成功したことであった。
2015年付近における話題を意識していおう。「それから10年が経った2025年を迎えた現在」,森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』岩波書店,1999年という本が公刊されてから早,四半世紀(以上)の歴史が経過してきた時点に立っているとなれば,つぎのように回顧するのが順当である。
安倍晋三流の「アホノミクス:ダメノミクス」と「アベノポリティックス:カッテノミクス」とに対する全体的な認識,いいかえれば,この『デタラメノミクス』に対する包括的な評価は,《悪の権化》ごとき結末しか呼びこめなかった事実をめぐり,下されるほかない。
前段に挙げた安倍晋三の第2次政権からの7年と8ヶ月については,こういうふうにする「出来事・事件の整理」がなされていた。本ブログ内ではときどき説明用にもちだしていた資料であるが,本日も早速,ここでかかげておく。
2)空虚な政治家:安倍晋三-3代目世襲の黄嘴的議論の特性-
思うに「日本を取り巻く環境」要因にかかわる問題性よりも「この日本国じたいのありようそのもの」を改革することが,最重要の先決の課題ではないか。安倍晋三の発想は,自国の問題・難題は,すべて国外から襲来してくるかのように理解されていた〔つまり,国内の難題からは人びとの目線をそらそうとしていた〕。
〔『朝日新聞』社説に戻る→〕 「外交・安全保障の危機」について,選挙期間中ではあるが,沖縄県に対して,2013年7月「16日,自民党が参院選の最重点区とする沖縄を訪れ」て,「参院選後を見据え,米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設に向けた安倍政権の意思を明確に示すとともに,尖閣問題を抱える石垣島を訪問し,中国を牽制するのが狙いだ」と報道されていた(同日『朝日新聞』朝刊)。
--だが,一方で沖縄の基地問題に関するアメリカ追随の姿勢と,他方で対中国に対する強気の姿勢とでは,どうみても均衡がとれていなかった。そういった〈二面相の印象〉を拭えないでいた。
アメリカが中国とは「実際にどのように交渉しているか」について,最近の関連するまともな情勢分析をしたうえでの,そうした安倍による選挙向けの演技であったのかと問えば,そうではなくまったく頼りなかった。アメリカにも中国にも「裏をかかれてしまう日本国」にならないか心配になった。
自国のことを「美しい国:日本」〔にするのだ!〕といったところで,「3・11」で事故を起こした東電福島第1原発と,この周辺地域のあの惨状をみつめてだが,これを「美しい国」をめざした結果といえるか?
自分の観念の世界だけで,甘いコトバだけを先走らせ,しかも「美しくもなんでもない」妄想を,悪酔いでもしたのか,単に新しく披露できたとしても,なにか特別の意味が生みだせたわけではあるまいl。
当時,自著のなかで一生懸命に強調してみた首相の文章と,この「国家の現状」とを,実際に比較対象させてみようとする手順そのものからして,初めから徒労感を惹起させるに十分であった。
それでいて安倍晋三は,2013年9月リオデジャネイロで開催されたIOCの会議,「2020東京オリンピック開催」を決めたこの会議のなかで,つぎのようなデタラメ発言を放っていた。
2011年3月11日に発生させた東電福島第1原発事故のその後についての説明であったが,当時において国内の状況は,つまりとくに放射性物質の被害・汚染状況はすでに
“ under control ”
だと,無責任のきわめつけを,しかも自信をこめていい放った。
その “明白なウソ” は,被災地とそこの人びとをコケにしたどころか,日本国首相 として国際社会に対して堂々と吐いた大嘘でもあった。その2020東京オリンピックは,新型コロナウイルス感染症が同年の初めから流行しだしたために,1年順延せざるをえなくなったけれども,
「3・11」以後の日本が「原発の過酷な大事故を起こした国家」として,実に恥ずかしい,みっとない現象を世界に向けてさらしてきた事実など,なんとも感じないでいられた〔らしい?〕態度を,平然と他者に誇示していた安倍晋三の,つまりは「世襲政治屋3世」としての人間的な素性は,ただただ唖然とさせられる。
しかし,この安倍晋三が当時,この国の最高指導者であった。その責務はたいそう重要なのは〈当然も当然ある〉が,この人にあっては,その自覚や意識という「精神的な認識次元における存在の自覚」は,なにがなにやら,完全につかみどころがなかった。
安倍晋三の場合,岸田文雄流にいえば「異次元におけるチャイルディッシュな」,すなわち,より具体的には「幼稚と傲慢・暗愚と無知・欺瞞と粗暴」の性格=素性が,これでもかといえる程度にまで大いに発揮しうる点おいてにこそ,彼自身の最たる個性(?)がみいだせていたことになる。
安倍晋三の政治的発言においては,実に軽々しく「コトバが踊る」。それも「単にヘタに舞いあがっている」風もあって,くわえて,上っ調子であることに特徴が出ていた。
副首相(当時)の麻生太郎もそうであったが,お坊っちゃま世襲政治家にあっては,とりわけ原発事故で故郷を追われ,彷徨わされている人びとの労苦などを理解し,共感するために必要な最低限の感性すらもちあわせていなかった。
威勢よく「日本をとり戻す」などといいたいならば,まず最初に福島の原発災害地から「その美しい日本のなかでも,また美しいフクシマ」を取り戻すことから,真剣にとり組みはじめねばならなかった。
もっとも,半世紀以上もかけたところで,あの「3・11」の被害がなにもなくなったといえそうな時期はこない。
チェルノブイリ原発事故の残骸をみよ。地球の表面に大やけどを負わせたうえで,現状は被害地の放置,切り捨てしか事後の対策としてはとりえなかった。
東電福島第1原発事故の現状をみよ。溶融を起こした3基もの原発の後始末は,それを完全に跡形もなく整理できるという見通しすら立てられないまま,
これから21世紀に残るあと「四半世紀 × 3周回分=75年」を,どうやってやり過ごしていくことになるのか? 22世紀になってからでもいい,東電福島第1原発事故現場は,20世紀前半期における現風景にまで戻すことができるのか?
そうした問いはたいそう難題であったから,あらかじめ回避(パス)しておくのが賢いと考え,黙殺している節があった。ましてや「美しい国」などと叫んでいても,その実体も根拠もはっきりないまま,
それでいて,ただ漠然とした〈愛国心〉を国民に対してもたせていたいかのように,つまり一般庶民を煽るかのように,そしてなおかつ無思想に語るのは,まったくの「危険な思想」である。
3)ナチス・ヒトラーの悪夢物語の現実的結果を思い出す
『つぶやき館』と名乗るホームページが,つぎのように論じている。題目は「在特会の韓国人迫害と,ナチスのユダヤ人迫害との比較」である。安倍晋三の発言に近づけて聞いておく価値のある記述内容である。こう記述している。
--なぜ世界に冠たる文化と歴史をもつドイツ民族が有史以来,例もない残虐で卑劣,悪辣なユダヤ人迫害を組織的におこない,大量虐殺をおこなったのか? これはヒトラー率いるナチスにすべて帰せられるかといえば,それは違う。
付記)なお,以下の引用では文章をいじり,文体を整えて読むやすくする工夫をした。他意はない。もちろん文意じたいに変化はない。
◆-1 ヒトラーは,ドイツ民族の精神に潜在している民族的優越感を唱え,そして,これと一体であるユダヤ人劣等民族視を強調した。そして,ユダヤ民族の抹殺さえ厭わない差別感情を巧妙に引き出した。ドイツ民族に潜む精神の奥底には,いいしれない,暗く汚れた差別・憎悪・偏見の感情が潜在している,といってもよいのである。
補注)昨今(ここでは2010年代からの話題であったが),世の中を騒がせてきた日本の在特会もその一類型である。
◆-2 日本人で韓国(朝鮮)人迫害を叫ぶ者は,一方で「韓国(朝鮮)人とユダヤ人は同じような存在で殺されて当然」だと,積極的に,韓国人迫害をユダヤ人ホロコーストと関連させてながら,「殺す側の論理」(実は論理にもなっていないものだが)をまくしたててきた。
左翼,右翼というイオデオロギーの対立・差別・憎しみなどは,実は,マルクス以来のたかだか,百数十年の歴史しかない最近までの実態である。しかし,民族の精神に根強く潜む他民族への差別感情・偏見・憎悪は,何千年かそれ以上の歴史を有している。在特会で「普通」のOL,サラリーマン,高齢者がデモるのも,長い長い差別の伝統を考えれば,実にむべなるかなである。
◆-3 ヒトラーは,なにも新たなこと:思想を創造したのではなく,民族の心の奥底に潜んでいた歪んだ偏見・差別感情・憎しみを「恥も外聞もなく声高に叫んだ」に過ぎない。その歪んだ民族的偏見を,ヒトラーは『わが闘争』 “Mein Kampf” でものの見事に文章化した。
補註)そのヒトラーの差別・偏見は,日本人・日本民族にまで向けられていた事実は,『わが闘争』に書かれているとおりであった。
「多数派は人を更迭することができない。多数派は無知の代表であるばかりでなく,臆病者の代表である」
「ユダヤ人とは他民族の体内で成長する寄生虫のごとくに生活する」
「ユダヤ人に対する監視者として私は,神の創造物〔ドイツ民族のこと〕を守護する」
「すべての人間文化の現出,すべての芸術の産物,科学,そして技術の優秀さは,ほぼ独占的にアーリア人種の創造である」(ヒトラーはだから,日本人・日本民族ももちろん,その独占性からは外れる民族・人種だといっていた)
「優れた人間を創りあげたのはアーリア人種だけである。すなわち,人間とはアーリア人種のことである」
「わが種族の子孫たちがすべて,みずからの土地をもてるようにされないかぎり,帝国の将来が保証されたことにはならない」(⇒ 周辺の隣国を侵略するための〈正当な理由づけ〉が,この文句であった)
「この世のあらゆる権利のなかで,もっとも神聖なことは,人間が自分自身で耕せる土地をもつことである。あらゆる犠牲のなかでもとも神聖なものは,その土地を獲得するために血を流すことである」
補注)他国・隣国に侵略戦争をしかけるためのヘリクツ,要するにそれを合理化するための説法。
「人種混交の時代に,種族の血統の最良の要素の保持という義務に全力を尽くす国家は,いつの日か,地球全体の支配者になるだろう」(しかし,そうはならず,大失敗したのはドイツも日本も同じであった)
◆-4 「さて,ナチスのユダヤ人迫害のためにもっともよく働いたSS( Schutzstaffel:ナチス親衛隊の略称:頭文字)は,ドイツに生まれた不平不満の大量失業者で作られた」
「そのハインリヒ・ヒムラーはのちのヒトラー内閣の農相になったワルター・ダレとともに,隊員のための特別の婚姻法を編み出した」
「ダレは1929年に『血と土』を執筆し,ヒムラーを『血の宗教』へ帰依させた。それは本質的には,ドイツ民衆にあった異民族への迷信の復活であった」
「人種的に純粋な人間とか」いい,「下等な人種から犯されない金髪の救済とか」「下等民族の浸透はユダヤ人,スラブ人から始まった」など。
「ダレの師匠のローゼンベルクはこう書いている」
「人間のきれいごとの理想によって,支配優秀人種の被支配劣等人種への優越的統治が阻害されたとき,文化はつねに堕落する」
要するに,ヒトラー・ナチスによるユダヤ人迫害は,古来よりドイツ人民衆の意識にあった「異民族・異教徒」に対する「偏見や憎しみ,差別感情」の,巧妙な焼き直し版であった。
ドイツは,第1次大戦に敗北したのち,経済は超インフレの混乱に苦しめられており,政治への不満がひどく高じていた。そこへ「古来の迷信的差別感情」をうまく利用する方法を使うことで,ヒトラー・ナチスは権力を獲得できる突破口をみいだし,政権の座に就いたのである。
このようにみると,現在の日本における「在特会」の盲動も,古来の日本人民衆にあった韓国(朝鮮)への優越感的偏見が頭をもたげはじめた,という事情が関連していた。
しかし,それは「憎悪,差別感情という一方的な迷信」の理不尽な表出でしかなかった。だからこそ,在日もほとんどいない東北の田舎の高齢者までが,嬉々として在特会に入会するといった事情も生まれていた。
◆-5 イデオロギーはほんの百数十年の長さしかない。ところが,古来の民族的迷信はそれこそ何千年もの歴史がある。このアーリア民族絶対視は,劣等民族でアーリアの血を汚し,社会を毒するというユダヤ民族の絶滅計画を実行された。
もとはといえば,古来のドイツ民衆・農民に潜んでいた異民族差別の感情を「現状変革」に利用しようしたのである。「ユダヤ人どもは寄生虫だ! 殺せ,駆除しろ,絶滅させろ!」と煽動した。
補注)安倍晋三(元)首相にいわせると,その程度での「殺せ」の文句は「表現の自由」のうちであった。日本の在特会は「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」というプラカードを,街頭デモ行進でかかげていた。
それは,在特会の街頭シュプレヒコールと同じである。差別団体の街頭行動の容認は結局,危険な殺戮・迫害を誘発しねない。肝に銘じなければいけないのは,差別・偏見を利用して民族の迫害を扇動させることである。悲惨な犠牲を出した歴史を,間違っても繰り返させてはならない。
「韓国人を駆除しろ! 追い返せ,殺せ!」という叫び声は,まさしく歴史が繰りかされていることを,実証している。
〔記述本文に戻る→〕 「ドイツ人よ,ドイツを護れ!」( “ Deutsche ! Wehrt Euch ! ” )という文句に注目したい。ユダヤ人が経営する商店のこの文句を書いた張り紙をした。その下に書かれているドイツ語の文句は「ユダヤ人から買うな!」( “ Kauft nicht bei Juden ! ” )となっている。
「民族のもっとも心の奥底の差別感情も,他民族へ憎しみを利用すれば,悪い意味で巨大な力になって動いてしまう」。これは,ナチスのユダヤ人絶滅計画実行という前例があるだけに,十分考えねばならない事態である。
註記)以上の記述はつぎのリンク先住所の記事を引照していたが,現在はブログサイトの閉鎖による閲覧不可。⇒ http://s.webry.info/sp/madonna-elegance.at.webry.info/201304/article_1.html
4)寸 評 3)ではいぶ長く引用してみたが,なかんずく安倍晋三『新しい国へ-美しい国へ完全版-』文藝春秋,2013年1月と比較するための材料として参照した。安倍のこの本は「日本をとり巻く環境は日増しに悪化している」と指摘していた。
たしかに「日本国内をとり巻く環境」でいえば,在特会のような『誰々が嫌いだ,嫌いだ,嫌いな奴は殺していいだ,と叫んでいる〈市民〉運動』(?)のせいで(こうした日本社会の動きひとつ取っても),この国内環境が大いに悪化していることは,確実になっていた。
在特会の場合,しかも,その日本社会が「悪化」している原因をすべて,盲目的に,在日外国人(韓国人〔朝鮮人?〕)にもっぱら求めているのだから,無知蒙昧とか幼稚・単純とかいう次元を,はるかに超えて程度も始末も悪い。これが偏見や差別でなければ,いったいなにか?
在特会の活動は,自分自身や周辺の人びとがふだんは不幸で不運な生活をしているのに,在日は特権をもってのうのうと日本において暮らせているなどと,非常に強く,それも想像たくましく勝手に誤解している。それもごく「ふつうの市井の人びと」によって支えられている。
補注)その後,樋口直人『日本型排外主義-在特会・外国人参政権・東アジア地政学-』名古屋大学出版会,2014年2月が刊行され,以上のようにも説明できる「在特会の社会集団的な特性」が解明されている。
ごくふつうの庶民が在特会の会員には多いことが,この組織を調査した専門家によって既知になってい。そうであればなおさらのこと,在特会の会員たちによる在日外国人に対する差別・偏見の感情・意識の出所が問題になる。
あるいは彼らは,在日外国人に関する基本的知識を欠如させ,ほとんど無知に近い状態で蠢いているなかで,それでいながら面白・興味半分で,この在特会の活動に参加している者もいる。これはタチが悪い。いままで日本社会に潜在していた「患部のような部分」が,いまさらのように表層に現出してきた。
在特会の者たちの発想・発言を聞いていると,単に理性のもち方に問題があるというだけでなく,根本の精神部分において貧相で粗野で,短絡的かつ暴力的である。自分たちがなんとなく内に抱えているらしい社会認識の不足・政治精神の未熟の端的な反映でしかないが(そのはけ口になっているらしい),問答無用的にともかく,在日外国人をその非難・攻撃のための標的に選んでいる。
そのような日本国内における政治・社会的な相互関係を観念的に構築していく方途でしか,自分たちの欲求心理を感情表現できない人びとであるから,その人間的な粗雑さ・人格的な貧困症は並たいていではない。その意味でみれば,同情の余地が全然ないわけではない。
しかし,彼らの直接行動にについていえば,もし「文句・苦情をいいたいのであれば,在日ではなくて安倍晋三さん」に向かって,じかに叫んだほうが効果的ではないのか? そのような基本的な疑問が浮上してきて当然ではないか。
「在日の特権」を許さないというのであれば,それよりもさきに『在日米軍の特権』を問題にしろという意見もあった。もっとも,在特会に所属する彼ら・彼女らに向かい,日本の社会・政治・経済全般に関する,まともで常識的な理解すら期待することじたい,ないものねだりであった。
なかんずく,「在特会」に特定の軸心が貫かれた政治思想(?)があるようには,とてもみえない。結局,在特会にはまとまった一定の政治思想などなにもない。
けれども,ともかく庶民の共感がえられるような〈どす黒い情念〉だけは,その奥底にはドロドロ(チョロチョロ(?)あるいはサラサラ)と流れているようである。
安倍晋三流に「美しい国」を「新しい国」としてとり戻すのだといわれたとき,それは,いったいどこから・どのように奪還すればよいというのか?
--安倍は「新しい国」とかいう表現も出して,自説の「美しい国」を形容し,力説(?)していた。だが,この「新しい国」を求めるべき日本国の,けっして「美しくはない」現状の一端に触れておこう。
そのひとつが「生活保護世帯(人数)が215万5218名である(あった)」し,もうひとつが「非正規社員の割合(比率)がまた増えた」ことである。パートやアルバイトなど非正規社員として働く人が増えている。
総務省が2013年7月12日発表した就業構造基本調査では,役員を除く雇用者のうち非正規社員は全体で約2043万人となり,初めて2000万人を突破した。比率も38.2%と過去最大を更新した。産業構造がパート比率の高いサービス業に転換していることなどが背景にある。
註記)「非正規社員比率38.2%,男女とも過去最高に」『日本経済新聞』2013年7月13日午後2時00分,http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS1203R_S3A710C1EA1000/
その後も,ここに指摘した生活保護世帯はじりじり増加している。非正規社員率もその絶対数を増大させつつ,高止まり状態にある。
解説)以下に,『日本経済新聞』2014年12月27日朝刊の報道を紹介する。前段の記述と多少合わない中身があるが,委細かまわずこちらも引用する。なお,その後10年が経った2024(2025)年でも,非正規雇用の立場で働いている労働者層の比率はほとんど変わりない。2023年のその比率は37.0%。
その記事は「非正規社員2000万人突破 11月48万人増,女性・シニアが増加」という見出しを付けていた。
「総務省が26日まとめた〔2014年〕11月の労働力調査によると,非正規社員は2012万人と前年同月から48万人増えて,初めて2000万人を突破した。企業で定年後の再雇用が広がっているほか,子育てが一段落してパートに出る女性が増えているため。かつては正社員になれずに非正規になる若者が急増したが,足元ではシニアと女性が目立つ」
2014年「11月は雇用者全体に占める非正規の比率も38.0%と今年2月の38.2%に次いで過去2番目の高さとなった」
「非正規社員を性別ごとにみると,女性が36万人増と増加分の4分の3を占めた。年齢別にみると65歳以上が26万人増と,64歳以下の22万人増を上回った」
ここでもう一言足していうが,沖縄から米軍基地をすべて除去したら,きっと「美しい沖縄」がとり戻せるのではないか? 米軍基地関係の諸施設だけは「美しく」立地しているように目に映るのが,沖縄本島である。そこには,米軍のための「美しい日本」がある。しかし,けっして,日本・日本国・琉球人のための「美しい米軍基地など」ではない。
※-5 コップのなかの嵐-「安倍首相のメルマガ,菅元首相が提訴『原発対応で虚偽情報』」-
民主党の菅 直人元首相は2013年7月16日,国会内で記者会見し,東京電力福島第1原発の事故対応を批判した安倍晋三首相のメールマガジンの記述に名誉を傷つけられたとして,記述の削除と謝罪,約1千万円の損害賠償を求める訴えを,東京地裁に起こしたと発表した。
安倍氏は 2011年5月20日付けのメルマガで「菅首相の唯一の英断といわれている海水注入の指示が,まったくのでっち上げであることが明らかになった」などと書きこみ,国民への謝罪を求めた。
菅氏は会見で「まったく虚偽の情報にもとづき,私の名誉と民主党へのマイナスイメージを植え付ける内容」と反論。参院選中に提訴した理由については,インターネット選挙の解禁を踏まえ,「以前から何度も指摘してきたのに無視され,ネット上に掲載されている。参院選に悪い影響を与える」と説明した。内閣記者会は安倍氏に対してコメントを求めたが,応じなかった。
註記)『朝日新聞』2013年7月16日朝刊。
補注)菅 直人が安倍晋三を提訴したその民事裁判は,なんというか「国策的裁判」であるまいに,安倍に勝たせた。日本の裁判所は当時,多分「アベのアンダーコントロール」だったと観察できる。
--「暴走老人」ということばがあったが(藤原智美『暴走老人!』文藝春秋,2009年),安倍晋三(1954年生まれ)は「暴走首相」か? 否,安倍は来年(2014年)に迎える還暦の誕生日をまえに,依然として「五十にして自分の天命もしらず」の状態にあった。
われわれはこの日本国まで暴走させてはなるまい。とはいっても実際のところ,いまの日本国には暴走させられるほどの余力:〈馬力〉など,ほとんど残してない。さらにいえば,安倍晋三にも若者の暴走族ほどの元気あるわけでもない。
となればかえって,この国の未来には,なにかすごく不吉な感じがしないわけではない。どちらといえば「疾走」ならぬ「失速」状態になっていたからである。政治のみならず経済も,である。その証拠がたとえば,アベノミクス。トリクルダウンなどいっさい起こりえなかった。
最後に一言。安倍晋三は2014年11月18日の経済財政諮問会議において,個人消費を刺激する施策の目玉となる「地方自治体が配る地域商品券」に充てる予算確保を,2014年度補正予算案に盛りこむ考えを示していた。
しかし,その予算の原資はもともと国民の税金であり,あるいは国債(国民や企業に対する借金)でしかないのに,それでどうなるかという事後に予測されうる局面まで深慮したうえでの判断なのか?
安倍晋三政治の〈お遊戯的な為政〉にさんざん小突きまわされきた国民・企業側にとっては,たまらない〔その第2次政権下〕2度目の新年になりそうである。いずれにせよ,2015年1月9日にはその補正予算案を閣議決定する日程を組んでいるらしいが,これで日本経済が少しでも元気になるという保証はない(事後のなりゆきに触れれば実際なかった)。
-----------【アマゾン通販:参考文献】----------