
1919年における「三・一独立運動と五・四運動」から日韓・韓日関係史を再考
※-1 「中学歴史 5分でわかる! 三・一独立運動と五・四運動」『TryiT』https://www.try-it.jp/chapters-3121/lessons-3135/point-3/
この中学生向けの歴史教材は「動画の要点」として,この歴史問題「三・一独立運動と五・四運動」を,広く東洋史のなかの問題として,つぎのように説明している。
その「大正時代3」の「ポイント3」は,「第1世界大戦後のアジアの民族運動」です。第1次世界大戦の後,朝鮮と中国で起きた2つの民族運動について学習します。
◆-1 1919年 朝鮮で三・一独立運動が起きる
1919年,朝鮮と中国でそれぞれ民族運動が発生しました。朝鮮で起きた民族運動を 三・一独立運動 といいます。日本に植民地支配されていた朝鮮で,民衆が日本からの独立を求めてデモ行進をおこないました。3月1日に起きたことから,三・一独立運動と呼ばれています。
◆-2 1919年 中国で五・四運動が起きる
同じ年,中国で起きた民族運動を 五・四運動といいます。中国では21か条の要求やベルサイユ条約の内容に抗議する大規模な集会やデモ行進がおこなわれました。5月4日に起きたことから,五・四運動と呼ばれています。1919年に,朝鮮と中国で起きた2つの抵抗運動をおさえておきましょう。
補注)この三・一独立運動と五・四運動,つまり朝鮮と中国のそれぞれ国内で起きた事件:出来事の,いってみれば東洋史全体の流れのなかで有してきた意味は,当時,旧大韓帝国から「現代韓国風の修辞」でいうと,旧大日本帝国に植民地された時代のことを『強占』という漢字を当てていた。
そこで,AI君にこの強占ということばを訊ねてみると,つぎのような答えが返ってきた。韓国語の補足は引用者である。
強占とは,強制的に占領することを意味する言葉である。韓国では,日本が朝鮮を支配していた1910年から1945年までの35年間を「日帝強占期(イルチェ カンジョムギ:일제 감정기)」と呼んでいます。これは「日本帝国主義がわが国を強制的に占領した時期」を意味する言葉です。
この旧「日帝」によって韓国が植民地にされた時代は,日本の敗戦によって終了し,韓国(朝鮮)は独立した(解放された)。しかし,その後においてに日韓間(韓国の正式名は大韓民国)の国交正常化交渉は,サンフランシスコ平和条約の発効を待って「日本が独立を回復した」直後,1951年の予備会談から始まった。
それよりもさき,1950年6月25日にはすでに北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)による韓国への侵攻(侵略戦争)が始められ,朝鮮半島(韓半島)はその後,半島のほぼ全体が廃墟となる惨状を呈した。その途中での1951年に日韓国交正常化のための交渉がもたれていた。
結局,とくに日本政府側の暴言・妄言発言が大問題になったりで,何度かの中断をはさむこと14年間,7次にもわたった交渉のすえ,ようやく1965年に日韓基本条約と日韓請求権協定が締結された。
※-2 以下の記述は,『読売新聞』2019年9月4日に掲載された記事「日韓対立の底流にある『もはや』の3文字」から,関係する段落を参照し,関連の経過事情を説明する
▲-1 玉虫色の産物「もはや無効」
韓国併合は不法で無効な植民地支配だったのかどうか。この点については,日韓請求権協定とともに結ばれた日韓基本条約の第2条の解釈がカギになる。

「1910年8月22日〔日本が韓国を植民地とした日付〕以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は,もはや無効であることが確認される」(日韓基本条約第2条)という文言のなかに「問題となる」というか,いつまで経っても「解釈の違い」のせいで,日韓間の悶着でありつづけた論点(問題)が残された。どういうことか?
問題となる点つまり,その日付は日韓併合条約の締結日にあった。素直に読めば,日韓基本条約の締結で日韓併合条約を含むそれ以前の条約は無効になることを確認しただけ,と読めるが,実は「もはや」の3文字に大きな意味がある。
日本側の主張は,「もはや無効」を「かつては有効だったが,日韓基本条約で無効になった」と解釈する。日韓併合条約は大韓民国が独立した1948年8月15日に失効したが,かつての日本の韓国併合は国際法的に合法,有効だったことになる。
これに対して韓国側の主張は,「もともと日韓併合条約を含む一連の条約は無効だったことを,この条文で確認した」と解釈する。韓国併合は最初から不法におこなわれ,日本の朝鮮半島支配は全体が違法・無効だったことを日本側も認めた,ということになる。
▲-2「ナル・アンド・ボイド」(null and void)めぐる攻防
日韓基本条約の第2条が玉虫色であることは,英語の表現をめぐる交渉記録を見ると,よりはっきりする。
「もはや無効」は英語では「already null and void」と記されているが,韓国側は当初から「null and void」という表現にこだわった。「null」はラテン語では完全否定で,「null and void」には「当初にさかのぼって無効」という強い意味がある。日本側は「null and void」を拒み,決着は最終の第7次交渉までもつれこんだ。
最後は外相として訪韓した椎名悦三郎(1898~1979)が徹夜交渉の末,「null and void(の表現)を受け入れるが,その前に already を入れてほしい」という妥協案を出し,ようやくまとまった。
韓国側は国際法の学者に問い合わせ,「null and void が入るなら,前にどんな修飾語がついても意味は変わらない」という答えをえて,「already null and void」を受け入れている。
韓国側の解釈では,日本の韓国併合は不法で無効であることは日韓基本条約で確認されているのに,日韓請求権協定はその前提に立って結ばれていないのだから,植民地時代に強制動員された元徴用工に対して慰謝料を払うのは当然,ということになる。
補注)徴用工の問題はごく最近の話題であったので,ここではそれほど気にせずよんでほしいものと,解釈しておく。
▲-3 なぜ合意を急いだのか
日韓両政府が国交正常化を急いだ背景には,双方の事情と米国の圧力があった。当時の韓国は経済の停滞が続き,冷戦下で国防予算の膨張が続いた米国は韓国への海外援助を削減しはじめていた。
中国が核実験をおこない,北朝鮮も「千里馬運動」による経済成長を続けていた。朴大統領は国交正常化によって日本からの経済協力をえることを優先した。一方,アジア外交の推進を掲げた佐藤栄作(1901~1975年)首相も,韓国との不正常な関係はアジアの平和と安定にマイナスになると判断していた。
ベトナム戦争にのめりこむなかで,米国もアジアの安全保障の面から日韓の連携を強く求め,日韓の交渉がいきづまるたびに再開を促し,早期合意に向けて両国に圧力をかけてきた。第2条の文言が英語の表記でもめたのは,交渉の影の主役が米国だったことを物語っている。
だが,合意を急いだツケは大きかった。「過去」の清算をする絶好のチャンスを十分に生かせなかったことは,歴史認識をめぐる日韓対立は続く結果を招いた。
神戸大学大学院教授の木村 幹さんは『朝鮮半島をどう見るか』のなかで,「両国政府は国交を正常化するにあたって,『過去』の問題への理解をあいまいにすることを選択した」「一見たいした違いとは思えないような解釈の相違は,決定的なものだった……このような条約解釈は,日韓の『過去』に関する議論にピリオドを打つどころか,むしろそれを大きく刺激することになった」と指摘している。
以上で敗戦した旧大日本帝国が残した20世紀における負の遺産,東アジア各国・各地域に与えてしまったよからぬ「歴史の損壊」は,その後におけるアジアの国際政治史に対しても大きな影響をもたらしつづけた。
※-3 日本共産党が2010年に説明する日帝の朝鮮支配史「罪悪性」
以下に長めの参照になるが,『しんぶん赤旗』2010年8月30日に「『韓国併合』100年 日本は植民地支配で何をやったか」という解説記事が掲載されていた。

この御璽(天皇印)は現在も続いて使用されている
天皇の「皇」という字は「白」ではなく「自」と彫ってある点に注意
つまり「自分がこの国の王だ」というのが
このハンコ(実印?)の意味になる
この文字は捏造された文字であるとしか理解できない
つぎの画像は参考にまでかかげてみる

明治二十二季二月十一日とも書いてある
「韓国併合」100年,植民地支配が崩壊して〔2010年で〕65年も経つのに,日本ではいまだに「鉄道建設や教育の普及など近代化に果たした役割は大きい」とか「創氏改名は強制ではなかった」などと,一部政治家や特定のメディアが韓国併合や植民地支配を美化する主張をことさらに吹聴しています。
併合 100年〔になるこの2010年〕を機に始まろうとしている日韓友好の新たな発展の動きを確実にするためには,在日大韓民国民団主催の8・15光復節中央記念式典のあいさつで日本共産党の志位和夫委員長が語ったように,日本が韓国・朝鮮に対しなにをしたのか,植民地36年の実態について「両国の共通の歴史認識とすること」が不可欠です。
補注)確かに,日本共産党の志位和夫委員長は韓国とは友好関係にある党の代表として親交の姿勢を維持してきた。北朝鮮とはその真逆であり,この実情にはいろいろ背景があるが,ここではくわしく説明できない。
本ブログ筆者は10数年前になるが,韓国政府が主催したあるレセプションに招待されたとき,その会場で志位和夫が日本共産党の代表として出席していたことを,いまから10年以上も前になるが記憶している。
2024年9月に公明党代表を辞めた山口那津男もそのレセプションに来場していたが,SP(多分公明党の自前だと思われる警備要員)が付いていて,この会場のなかでもキョロキョロと,山口のまわりを警戒していた。目つき悪かった……。商売柄,故か?
〔引用に戻る ↓ 〕
イ)「任意」装った
明治政府が「韓国併合」の具体的方針を決定したのは1909年7月6日の閣議です。「適当ノ時期ニ併合ヲ断行スル」とした大方針にそって,1年後にその日を迎えました。この間,政府は日本軍の韓国駐留,多数の憲兵・警察官の韓国増派,韓国鉄道の掌握,日本人多数の韓国移住などの準備計画をすすめ併合断行に備えました。
韓国併合条約の調印は1910年8月22日です。全8条からなる条約の第1条は,「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲與ス」。韓国の皇帝が日本の天皇に併合を申し出て,日本の天皇がこれを受け入れたという「任意の併合」を装ったものでした。
同条約を公布したのは1週間後の同月29日です。発表を抑えていた間に,政治団体の解散,政治集会や演説会の禁止,批判的な新聞の廃刊などを強行し,韓国民の口を封じ手足を縛りました。
また,朝鮮各地からソウルに移動・集中させた日本軍を,各城門,王宮,統監邸,閣員邸など要衝に配備。憲兵が定期的に街中を巡回する厳戒態勢を敷き,反対行動を力ずくで抑えこむなかで韓国・朝鮮の独立を奪ったのです。
寺内正毅朝鮮総督は桂太郎首相への報告書の中で,ソウルへの部隊移動は6月中旬から始め7月9日に完了したこと,配備した部隊は歩兵15個中隊,騎兵1連隊,砲兵1中隊にも及んだことを明らかにしています。
ロ) 徹底的に弾圧
「併合」にあたって明治天皇は詔書を発し「民衆ノ福利ヲ増進」「其ノ康福ヲ増進スベク」と韓国民にとって至れり尽くせりのことであるかのように描きました。しかし,軍隊による厳重監視のもと,クーデターのように強行したのが「併合」の実態であり,その野蛮さは36年間にわたる過酷な植民地支配にくっきり現われました。
補注)その36年間という年数の区切り方に関しては,1910年8月22日から1945年8月15日が,韓国(朝鮮)が植民地にされてきた期間なので,より正確に実質的な期間で表現するとしたら,35年となる。
「36年間もの長期間,植民地にされた」という意味を強調する・しないとにかかわらず,たとえば,より正確にいいたいのだという気分をこめて「36年間にもわたり植民地にされた」という表現は,このものじたいに対する表記としてならば,けっして間違いではない。
もっとも,植民地された国の国民・市民の立場からすれば,36年間と35年間の差にたいした違いはない。要はその中身だということになるゆえ,このような「実質の1年差」にこだわって詮議しても,それこそ詮ないことであり,36年間だったといいたければいえばよい,それだけのこと。
〔引用に戻る→〕 なによりも,「朝鮮の独立」や「民族自決」を求める朝鮮民族の運動を徹底的に弾圧したことです。併合から9年後の1919年3月,朝鮮全土に広がった「三・一独立運動」では,日本軍・警察による凶暴な弾圧で,死者7600人,投獄者5万人にのぼる犠牲者を出しました。
〔日本帝国は〕「産米増殖計画」のもと朝鮮産米を毎年大量に移送し日本国内の米不足対策にあてるなど,朝鮮半島を食糧・資源の供給基地としました。とくに,1931年の満州事変後は,朝鮮半島を足場に中国奥深くへと拡大する侵略戦争への兵たん基地化の推進でした。
朝鮮総督府が1944年に発行した冊子『前進する朝鮮』は,「今日朝鮮の果すべき大陸に対する兵站基地的使命」「征戦日本の輿望(よぼう)に応えるべく,朝鮮はその兵站基地的適性に於ても完璧の態様を整備」すると明記しています。
戦争に物質的・人的動員をする兵たん基地化は,「皇民化運動」という精神動員運動と表裏一体で推進されました。「皇民化」の名で朝鮮民族に押しつけたことは,朝鮮語の追放・日本語の常用化,神社参拝の強要,朝鮮式の名前を奪った「創氏改名」でした。
補注)以前,在日特権を許さない,といってとくに在日韓国・朝鮮人たちを標的にするヘイト運動をしていた団体(在日特権を許さない市民の会,在特会)の初代会長だった桜井 誠という「デブチン男」がいた。
ところが,この誠君,「在日は通名を使うな,これも特権だからダメだ,やめろ!!!」みたいないいぶんを前面にかかげていた。ところが,自身が主導者としてヘイト運動を組織していて,そのような反・在日運動に尽力していたこの誠君,
実は,自身のそうした言明そのものが「支離滅裂だった」という以前に,「自己矛盾の塊みたいな屁理屈」しか吐けていなかった事実は,いまでは「知る人ぞ知る」ところの「普遍的な事実」。
というのはまず,このデブチン君自身がそもそも通名である「桜井 誠」を名乗っていた。本名は「髙田 誠」とのこと。こうなると,この在特会のいまでは元会長,通名という事実そのものに関して,日本人も外国人も違いは寸毫もなかったとなれば,ぜひとも,論理陥没を余儀なくされていたそのド・屁理屈であったけれでも,その実証性に関する弁明を聞かせてほしかった。
要は,一言でいって「ヘイトするモノにはもともとヘイトの心があって,このヘイト精神ゆえ,ともかくヘイトしたい」以外の理由が,なかなかみいだしにくい。要は凝り固まった「嫌(反日・嫌韓)なのだから,単に嫌なだけでも,⇒ヘイトするのだ!」というド屁理屈が先頭に立っていた。
桜井君,いや髙田(誠)君は,いままでなぜ,暴走していた? 説明させても理屈になりえないそのド・屁理屈しか,このデブチン君からは吐かれたことがなかった。
この誠君はあるとき,大阪府知事であったころの橋下 徹だった記憶するが,両者が対話する機会が設けられたことがあった。だが,誠君は面会の当初からけんか腰で対峙していた。
橋下 徹は多分,部落出身者としての立場も踏まえての応接(偏見・差別はよくないよという立場)だったので,誠君をたしなめる場面が最初にいくらかあったものの,結局,対話は成立しえず不出来のまま,つまりケンカ別れになってしまった。
なんだかんだいっても,街頭デモをさせては〈韓国人は殺せ!〉などと書いたプラカードをもったヘイト集団が,警察署の許可をえて正々堂々とデモをするのが,この日本。
誠君の系列と思われる諸ヘイト集団は,あまりにもタチが悪すぎたせいで,とうとう,日本人自身が組織した「カウンター・デモをするしばき隊」が登場するほどにまで,事態は進展・高潮していった。

ヘイトデモが盛んだったころのデモ隊側・一風景
〔引用に戻る→〕 これをテコに,工場・鉱山などへの労務動員・強制連行とともに兵力動員が強化され,1938年からの特別志願兵制度が1944年には徴兵制実施へとすすみ,日本の侵略戦争に朝鮮人を総動員しました。
補注)朝鮮人を兵隊に採る(兵員の員数として調達する)という政策は,日本政府としてはなかなかやりにくい仕事であった。だが,太平洋戦争(大東亜戦争)の時期になってからは,もう「背に腹はかえられぬ戦況」にもなっていたゆえ,結局は朝鮮人からでも「上の軍人としては将軍,下の兵隊は特攻隊員までも,つまり,くまなく用兵の対象にする」ほかなくなっていた。
しかし,旧海軍の将兵としてだけは,朝鮮人はけっして要員の対象にしていなかった。その理由は申しあげるまでもあるまい。要は,ひどく恐れ,怖かったのである。朝鮮人の海兵たちに艦艇を爆沈させられたりする犯意・動機を抱かれたりする危険性を,極度に抱いたのである。
もっとも,日本人と「平等に徴兵される事情にはなかった朝鮮人」,それも敗戦後に時代が移ってから,朝鮮人の男性たち相当な数が「男ひでりに泣く大和撫子たち」の伴侶になっていた事実は,21世紀のいまになっても,あまり触れたがらないままである。
筆者の友人には近所(東京の下町)で生まれ育った在日韓国人がいて,この人いわく,もう半世紀以上も前になる話題だが,自分の通っていた東京の韓国学校--韓国系の学校で所在地は東京都新宿区若松町,最近なにかとお騒がせのフジテレビは以前,この学校からだと南西方向の敷地に位置し,つまり,この学校のほぼはす向かいの区域に放送局を置いていた--の同級生のうちには,とくに父親は韓国人でも母親が日本人だという生徒が一定数まざっていたという。
〔引用に戻る ↓ 〕
ハ) 美化する勢力
1945年8月15日,日本政府が受諾したポツダム宣言は,第8条で「カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルベク」と日本に迫りました。そのカイロ宣言は「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ朝鮮ヲ自由独立ノモノニスル」と明記し,日本の植民地支配で朝鮮民族が奴隷状態を強いられたことを明確に認めました。
植民地の解放・朝鮮の独立は,日本の戦後世界への出発点です。いまだに,韓国皇帝の申し出による「任意的併合」だったとか,朝鮮半島の近代化に役だった,などと言って植民地支配を美化する勢力は,歴史に断罪された流れにくみするものにほかなりません。(近藤正男)
ニ)「韓国廃滅」を意味する言葉
1910年の「韓国併合」当時,外務省政務局長として対韓政策の原案を作成した倉知鉄吉(元外務次官)は,「併合」という新語を用いたわけをのちに覚書に,つぎのように記しています。
「併合」の意味がよくわからず,両国が対等で一つになるとか,オーストリア・ハンガリー帝国のような連邦国家ができるかのように解する人もいた。自分が「併合」という造語を使ったのは,「韓国が全然廃滅に帰して帝国の領土の一部となるの意を明かす」ためであり,同時に「其語調の余り過激ならざる文字」として選んだものだった。
ホ) 植民地支配 土地・米から命まで
1910年代は土地調査事業による「土地よこせ」,1920年代は産米増殖計画による「米よこせ」,1930年代は皇民化政策による「人よこせ」,1940年代は徴用,徴兵による「命よこせ」――。
(在日大韓民国民団作成の歴史教科書『在日コリアンの歴史』から)
ヘ) 併合時首都警備が最も緊要
政変ニ際シ京城警備ハ最モ緊要ニシテ極メテ周密ナル手配ヲ要スル……
首都ニ於ケル応急準備ノ為六月中旬ヨリ軍隊配備ノ異動ヲ行ヒ七月九日ヲ以テ全部ヲ完了セリ…京城付近ニ於テ時局ニ際シ急ニ応スル為該地付近ニ歩兵十五箇中隊騎兵一聯隊砲兵一中隊ヲ集結ス
※-4「日本史・日本史年表 大正時代『三・一独立運動』」『名古屋刀剣博物館』の解説〔を以下にくわしく聞く〕
「三・一独立運動」(さん・いちどくりつうんどう)とは,朝鮮(現在の韓国)で起きた民族運動である。当時の朝鮮は日本の植民地支配を受けていた。つぎの画像資料には,戦後に撮影された朝鮮総督府の建物も写っているが,この画像については,次段に引照する文章が参考になる。




ここでは「朝鮮総督府の解体」という話題をまな板に使い,その上でつぎのように語ることとする。
1945年8月14日,日本のポツダム宣言受諾により植民地支配が終わり,朝鮮総督府も9月9日をもって消滅した。朝鮮総督府の建物は朝鮮王朝の王宮である景福宮をほぼ取り壊して,覆い隠すように建造されていた。
しかし,第2次世界大戦後も大韓民国の政府庁舎となり,朝鮮戦争の時に焼失したがまもなく再建され,1983年からは国立中央博物館として利用されていた。そのころから,旧朝鮮総督府の建物を解体するか保存するか,激しい議論になっていった。
韓国の国民感情としては,総督府の建物はいかに重厚な文化財だといっても,忌まわしい植民地時代の象徴であった。議論の結果,金 泳三大統領の時,議会で解体することが議決され,
1995年8月15日に式典をおこない,尖塔部分の除いて解体工事が始まり,翌年までに旧建物は撤去され,あらたに景福宮が復元された。朝鮮総督府を象徴する中央の青い尖塔は天安市の独立記念館に移築された。このように,現在は旧朝鮮総督府の建物をみることはできない。
日本は「朝鮮総督府」を中心機関として,戸籍事務から農作物の作付けに至るまで,朝鮮の人々の日常生活に踏みこんだ支配を続けた。日本の支配に耐えかねた朝鮮の人びとは,自分達で意思決定をする民族自決の機運が高まるなかで,日本の支配からの独立をめざして立ち上がった。
次段からは,三・一独立運動が起きるまでの背景と内容を解説しよう
1) 三・一独立運動の背景
1894年(明治27年)の「日清戦争」で勝利した日本は,清(しん:17~20世紀の中国の王朝)がもっていた朝鮮王朝(14~19世紀の韓国の王朝)における宗主権(内政や外交を管理する権限)を放棄させた。これにより,朝鮮は大韓帝国として独立する。一方で,日本とロシアからの干渉を受けるようになった。
1904年(明治37年)に「日露戦争」が起きると,日本は軍事的に圧力をかけ,大韓帝国とロシア間の条約を破棄させる。
1905年(明治38年)には,「第2次日英同盟」によって,イギリスが大韓帝国における日本の優越権を承認。同年に結ばれた「ポーツマス条約」(日露戦争の講和条約)では,日本の大韓帝国への保護権をロシアに認めさせました。
そのようにして外堀を埋めた日本は,「第2次日韓協約」を結ばせて,大韓帝国の外交権を奪う。大韓帝国は,日本の仲介なしには他国と条約などを結べなくなった。
1906年(明治39年),日本は大韓帝国に「韓国統監府」を設置し,「伊藤博文」(いとう・ひろぶみ)が初代統監に就任する。これにより大韓帝国は事実上日本の植民地となり,内政も支配されるようになった。
1909年(明治42年)に伊藤博文が暗殺されたのち,翌1910年(明治43年)に日本は大韓帝国を植民地として支配する「韓国併合」を実現します。伊藤博文の後継として,「寺内正毅」(てらうちまさたけ)が韓国統監となりました。同年8月22日,漢城(現在のソウル)にて「韓国併合条約」を調印。韓国の植民地化が完了する。
2) 日本による韓国支配
韓国併合によって,日本は韓国統監府を前身とする朝鮮総督府を置き,植民地支配の中心機関とした。初代総督には寺内正毅が就任し,この朝鮮総督は天皇による勅任とし,陸海軍の大将が任命され,韓国における軍事,および政治の全権を握った。
日本は,憲兵(主に軍事警察や治安維持をつかさどる)や軍隊によって武力で韓国を支配する武断政治をおこない,朝鮮総督府が採用した憲兵警察制度のもと,憲兵警察は治安維持にとどまらず日常生活にも入りこみ,戸籍事務から農作物の作付けまで支配した。
日本語や日本の文化・慣習を強いる同化政策も開始され,韓国市民は言論,出版,集会,結社の自由も奪われるに至った。会社設立も許可制とされ,民族資本も抑圧されるなど,日本による強圧的支配は韓国国内での不満を高めていった。
3) 三・一独立運動の概要
a) 三・一独立運動前夜
「第一次世界大戦」以降から広がった,国民の総意で意思決定をおこなう民族自決の風潮も後押しとなり,韓国国内では日本からの独立の動きが活発化した。
韓国では,パリ講和会議に朝鮮人代表を派遣して,独立の必要性を訴えようとする計画が進みました。また,天道教(朝鮮の民衆宗教のひとつ),キリスト教,学校の教師と学生の間でも,それぞれ独立運動が計画され,個別に進んでいた独立運動計画は,しだいに連携を強化していった。
1919年(大正8年)1月21日,大韓帝国の初代皇帝であった「高宗」(こうそう)が亡くなった。高宗は,1907年(明治40年)にオランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に,自身の全権委任状をもたせた排日派3名を送り,日本からの主権の奪還を試みたが失敗し(ハーグ密使事件),退位させられていた。
韓国国内では,高宗が日本の差し金で毒殺されたという噂が飛び交い,これを受けて,独立運動は高宗の国葬がおこなわれる1919年3月3日の決行に向けて準備が進められていた。
同年,2月8日には朝鮮青年独立団の名のもとに,在日留学生が東京で独立宣言書を発表。警察と衝突して約60人が検挙され,負傷者が出るほどの大騒動となっていた。
補注)この1919年2月8日,日本に留学していた朝鮮人が集結し,その独立宣言書を作成,公表した出来事は,「3・1独立運動」の先導役となったという位置づけができる。本記述の標題もその歴史的な関連性を念頭に置く名称にしてある。
b) 三・一独立運動の経過
1919年(大正8年)3月1日,ソウルのパゴダ公園(現在のタプコル公園)で三・一独立運動が始まる。まず,集結した学生が独立宣言書を読み上げた。この独立宣言書には民族代表として計33名が署名。天道教,キリスト教,仏教の宗教団体が中心となり,秘密裏に印刷していた大量の独立宣言書を配布した。



人びとは大韓帝国時代の旗を振り,「独立万歳」と叫びながら街へと繰り出した。デモは韓国の600ヵ所以上で起き,数万の群衆が参加する大規模デモになった。
三・一独立運動は,農民,官僚,貴族といったさまざまな身分の人たちを巻きこんでいった。デモは平和的な行進にとどまりえず,憲兵や警官のいる駐在所を襲撃したり,投石や放火などをおこなったりと,しだいに暴徒化もした。治安部隊と激しく衝突し,死者や負傷者も出る事態となった。
3月中旬以降,運動は朝鮮全土に拡大する。日本の支配層は,これを徹底的に弾圧した。憲兵や警察のほか,軍隊も出動させて鎮圧にあたり,多数の死者や負傷者が出ることになった。そののち,4月中旬ごろになると,運動は収束していく。
4) 朝鮮のジャンヌ・ダルク「柳 寛順」
「柳 寛順」(ユ・グァンスン,유 광순)は,三・一独立運動の学生リーダーのひとりであった女性である。三・一独立運動ではデモの先頭に立って指揮を執った。

日本は,柳 寛順を運動の首謀者として逮捕し,懲役3年を宣告した。しかし,柳 寛順は日本に裁く権利はないと主張して,獄中闘争をおこない,日本側からの圧力にも屈せず,支配の不当性を糾弾しつづけた。
そののち,拷問によって16歳で獄死。柳 寛順の祖国愛は韓国の人びとの胸を打ち,「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と称えられています。
5) 三・一独立運動の結果
三・一独立運動が激化し,日本政府はその対応を余儀なくされた。「原敬(たかし)」内閣は,事態の収束と植民地支配の安定のために,融和策を打ち出す。当時の朝鮮総督「長谷川好道(よしみち)」)を更迭し,新たに「斎藤 実(まこと)」を総督に就任させた。
斎藤 実は,これまでの武断政治を文化政治(民族運動の要求を一部認める政治)へと転換する。憲兵警察制度を廃止するとともに,朝鮮総督の就任を武官任用から文官任用も許容する方針とした。
また,一部の言論,出版,集会,結社の自由も認められることになった。しかし,融和策に転じた一方で,日本語教育のさらなる徹底を進めるなど,日本政府は植民地支配の強化をめざした。
三・一独立運動は朝鮮の独立意識の高さを世界にしらしめた運動であり,朝鮮における独立運動の出発点となった。また,中国で同年5月に「五・四運動」(ご・しうんどう)が起きるなど,三・一独立運動の影響は国外へと広がっていった。
日本は三・一独立運動について,朝鮮で起きた暴動を鎮圧した事件としてあつかったが,大正デモクラシーを主導した「吉野作造」は,朝鮮総督府の失政であると糾弾し,日本の植民地政策の在り方に異議を唱えた。
このほかにも,新聞記者の「石橋湛山」や思想家の「柳 宗悦」(やなぎ・むねよし)なども朝鮮の独立運動に理解を示している。なお,三・一独立運動に衝撃を受けた柳 宗悦は,「朝鮮人を想う」という小論を読売新聞に発表した。
とくに,柳 宗悦自身の関連する発言については,つぎの引用をしておく。
吾々とその隣人との間に永遠の平和を求めようとなれば,吾々の心を愛に浄め,同情に温めるよりほかに道はない。然し日本は不幸にも刃を加え罵りを与えた。之が果して相互の理解を生み,共力を果し,結合を全くするであろうか。
否,朝鮮の全民が骨身に感じる所は,限りない怨恨である,反抗である,憎悪である,分離である。独立が彼等の理想となるのは必然な結果であろう。彼等が日本を愛し得ないこそ自然であって,敬い得ることこそ例外である。
人は愛の前に従順であるが,抑圧に対しては頑強である。日本は何れの道によって隣人に近づこうとするのであろう。平和がその希望であるなら,何の穉愚〔ちぐ(⇒賢いことと愚かなこと)〕を重ねて抑圧の道を撰ぶのであろう。!
金銭や政治に於て心は心に触れる事は出来ぬ。只愛のみが此悦びを与えるのである。殖民地の平和は政策が産むのではない。愛が相互の理解を産むのである。此力を越える軍力も政権もあらぬ。
余は想う,国と国とを交び人と人とを近づけるのは科学ではなく芸術である。政治ではなく宗教である。智ではなく情である。只ひとり宗教的若しくは芸術的理解のみが人の心を内より味い,味われたものに無限の愛を起すのである。
日本は朝鮮を治めようとして軍人を送り政治家を送った。然し友情や平和の真意を知るのは宗教家であり芸術家である。余は習慣が国際の問題をひとり政治家にのみ委ねるのを奇異な幼樨な態度であると思う。
余は古いソクラテスやプラトーンの如き又は孔子,老子の如き人々が真に一国の治平,万国の平和を語り得る人々であると確く信じる。
朝鮮の人々よ,余は御身等に就て何の知識もなく経験もない一人である。又今迄御身等の間に一人の知人をすら持っていない。然し余は御身等の故国の芸術を愛し,人情を愛し,その歴史が嘗めた淋しい経験に尽きない同情を持つ一人である。
又御身等がその芸術によって長い間何を求め何を訴えたかを心に聞いている。余は余の心にそれを想う毎に淋しさを感じ,湧きくる愛を御身等に贈らずにはいられない。
朝鮮の人々よ,よし余の国の識者の凡てが御身等を罵り又御身等を苦める事があっても,彼等の中に此一文を草した者のいる事を知ってほしい。否,余のみならず,余の愛する凡ての余の知友は同じ愛情を御身等に感じている事を知ってほしい。
かくて吾々の国が正しい人道を踏んでいないと云う明かな反省が吾々の間にある事を知ってほしい。余は此短い一文によって,少しでも御身等に対する余の情を披瀝し得るなら余には浅からぬ悦びである。
(1919・5・11)
(柳 宗悦著,高崎宗司編「『朝鮮人を想う』から」)
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