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明治神宮のあからさまな謎,昭憲皇太后は睦仁(明治天皇)の妻か,それとも母(義母)だったか?

 ※-1 本日の話題「明治神宮のあからさまな謎」点は「昭憲皇太后は睦仁(明治天皇)の妻か,それとも母(義母)だったか?」などと,考えてみるまでもなく珍妙,奇妙奇天烈,トンチンカンの問いを発している


 しかし,前段見出しのごとき〈問い〉は,トンチンカンどころであったどころか,ごく自然な感覚でもって,明治神宮の祭神に「明治天皇夫婦を並べて呼ぶのに『明治天皇と昭憲皇太后』とは」「これいかに?」と疑念を呈していたに過ぎない。

 ふつうならばというか,当然に,明治天皇夫婦のことは「天皇と皇后」と組みで呼ぶしかありえないはずだが,どうしたわけがあるのか不可解なことに「天皇と皇太后」との組みあわせで呼んでいる。

 明治天皇の妻は「睦仁の女房(第1夫人)」であったのだから,当然のこと「天皇と皇后」とならべて呼ぶのが当たりまえ。ところが,なぜか,そのように「天皇と皇太后」と終始一貫,指称してきた。

 たとえば,平成天皇夫婦のことを「明仁天皇と美智子皇太后」との組みあわせで呼ぶか? このような呼び方をしたら「あなたはいったいなにを変態な発言をするか」と,小馬鹿にされるのがオチ。

 しかしながら,天皇・天皇制に関した話題になるとなぜか,明治神宮の祭神は「『明治天皇と昭憲皇太后』でございます」というふうな,なぞなぞ以前の,いいようにもよるが「奇怪きわまりないの神宮側のいいぶん」が世間にまかり通っている。

 明治神宮が創建されたのは1920年11月1日,つまり大正9年の出来事であった。いまの東京都渋谷区に位置するが,明治天皇死後に建造されこの神宮の旧「社格」は官幣大社で,勅祭社とされ,祭神は「明治天皇と昭憲皇太后」ということにされた。

 付記)なお本記述の初出は,2009年11月26日,更新 2022年4月21日,再更新 2024年2月29日である。

  しごく単純に考える。明治時代を画した「睦仁天皇は『自分の妻』」を母と呼べといったことになるのか?

 ウィキペディアのごく一般論的な解説でも,昭憲皇太后のことを,明治天皇の奥方のことを,そのように紹介しているが,この解説の仕方になんら疑問をもたれないのであれば,これはたいそう不思議な理解である。

2009年11月24日撮影:明治神宮手水場

 なお,昭憲皇太后は,1849年〔嘉永2〕年5月9日4月17日に生まれて 1914〔大正3〕4月9日に死んでいるから,夫の睦仁(1852年11月3日-1912年7月30日)より1年と8カ月後に他界していたことになる。

 明治天皇の妻が3歳半ばかり年上の女房であった点は事実そのものであっても,「明治天皇と昭憲皇太后」という並べ方での呼称は理解しかねる。そういったごときの「明治史に関して,なんだが,ナゾめいた」,そしてなおかつ,そのあたりにはなんらかの因縁が秘められてもいたかごときの「歴史物語」は,あえて想像力をたくましくするまでもなく,十二分に「想定可能」な筋書きとしてあらためて描かれる必要性があった。

 以上,※-1としての書き出し部分は,本日 2024年2月29日に補筆してみた冒頭段落の記述内容である。

 さて,本記述の全体そのものは,初めて公表してからすでに15年目になるが,この2024年になって時点でもなお,日本の社会全体が「明治天皇と昭憲皇太后」という呼称(表現)を使いつづける,といったきわめて異様な事実に関してであっても,いまだに「問題意識をもたないで」いる。

 その疑問点については,まともに解明する努力が本格的に展開されていて,よかったはずであった。だが,その種の疑問を抱かないでいられるわけでもあったのかという事実じたいからして,21世紀「現代日本社会の諸相」のひとつとして,あらためて詮議されるべき対象になりうるのである。

 以上の疑問に関連しては,もとより素朴な疑問があった。たとえば,ネット上では,つぎのごとき疑問が提示されている。本日(ここでは2022年4月21日のこと)に探しだしたものだが,※-2に移って紹介する『Japaaan』の文書は,さらにそれよりも5年前(2024年からだと7年前)に書かれていた文章であった。このたぐいの記述は,ほかにも散見されるものであり,とくに珍しい内容ではない点をさきに断わっておく。


 ※-2「明治神宮に祀られる昭憲皇太后はなぜ『昭憲皇后』ではなく『皇太后』なの?」『Japaaan』2017/08/09,https://mag.japaaan.com/archives/59515


左が「昭憲皇太后」で右が明治天皇:睦仁
女房は洋装のドレスで夫殿は軍服に勲章がいっぱい

    素朴な疑問は「明治天皇のお妃さまが昭憲皇太后 ?」◆

 東京の中心である原宿からも代々木からもほど近い,明治神宮。この神社に御祭神として祀られているのは,明治天皇と,そのお后・昭憲皇太后です。御祭神がご夫婦ということで縁結びのご利益があるといわれ,都心でありながら大人気のパワースポットとなっている神社です。

 このお二方のお名前を並べてみていると,不思議なことに気づきます。明治天皇と並んで祀られている昭憲皇太后は,確かに亡くなられた時の身位は皇太后でした。皇太后とは,天皇の母の意味。しかし「両陛下」をお呼びする時には「天皇皇后両陛下」であり,「天皇皇太后両陛下」とは呼びませんよね?

 また,亡くなられた方は生前のもっとも高い身位で呼ばれるのが習わしとなっています。皇太后では皇后より位が下となってしまうので,本来であれば昭憲皇太后にも皇后としての諡(おくりな)が追贈されるはずです。

 実際に,大正天皇の皇后は「貞明皇后」,昭和天皇の皇后は「香淳皇后」との追号が贈られています。これらにもとづけば,「昭憲皇后」と呼ばれることになるはずなのに,なぜ「皇太后」なのでしょうか?

 以上が『Japaaan』2017/08/09 からの引用であるが,この明治神宮の祭神についてのこの指摘は,しごくもっともな疑問を披露していたに過ぎない。どうしてこのような疑問が「明治神宮の祭壇に鎮座する祭神」に関してとなると,ごくたまにしか話題にならないのは,とてもおかしいことだと表現するほかなかった。

 

 ※-3「日本人が知っておくべき『この国根幹の重大な歴史』」『火起こしでっぽ』2021.01.07,               http://careernetwork.jp/log/?l=494967

 この『火起こしでっぽ』というブログは,こういう話題をとりあげていた。まずこういっていた。 

 日本人が知っておくべき『この国根幹の重大な歴史』(加治将一,出口 汪)というタイトルの本を読んだので紹介したい。

 補注)上記の『日本人が知っておくべき この国根幹の《重大な歴史》』ヒカルランド,2015年4月は,新装版も2023年7月に発売されていた。


 この本は主に,つぎの点を議論している。 

  1.日本開国の裏には驚愕の事実があった。

  2.フルベッキ写真の謎と明治天皇すり替え説を検証する

 フルベッキ写真(46人撮り)は,ある意味で血判状のような役割を果たした。写真にはのちの睦仁親王(孝明天皇の息子)に取って代わり明治天皇になったとの説がある,大室寅之祐とみなされた人物が写っている。

【参考資料】「フルベッキ集合写真」同一だがその2点-〈天然色に加工をしたもの〉と〈人名が特定され記入されているもの〉-

真ん中:中心にフルベッキという人物
フルベッキが息子を前に立てて座っているが
そのまた前に明治天皇になった人物「大室寅之祐」が
その前列の真ん中に座っている

 徳川家茂は,第2次長州征伐で京都・大阪に来たときに突然死んでしまい,毒殺された以外に考えられない。孝明天皇も半年後に死に,薩長にとって都合の悪い2人のトップが相次いで亡くなった。

 孝明天皇は徹底した外国嫌いで頑強な攘夷論者。孝明天皇の暗殺(ヒ素中毒)が真実とすると,その実子・睦仁親王をそのまま天皇にするのは不自然である

 和宮は天皇の妹で将軍の妻,副葬品はなく左手首がない遺体であった(増上寺)。和宮は無血開城の時に裏で動き,旧幕府勢力にはシンボル的な存在だった。生きて明治天皇に会えば別人と分かってしまう。途中の箱根で殺害された可能性がある。

 孝明天皇の子,睦仁親王も箱根で殺され阿弥陀寺に葬られたのではないか。和宮の戒名が「静寛院殿二品親王」となっており,和宮と睦仁親王の2人分を入れこんだ。阿弥陀寺は,睦仁親王と和宮の2人の遺体を引き取った。

 睦仁親王と明治天皇では体格があまりに違う。睦仁はひ弱なのに,明治天皇は相撲を取っていた。睦仁は右利きなのに,明治天皇は左利き。明治天皇は,すり替わった自分こそ正統だと公言したかった。

 皇居のそばに楠木正成像を作ったり,南朝の皇族や武将を祭神とした南朝神社をつくり,明治天皇は死ぬ1年前に南朝こそが正統だと聖断を下した。

 明治神宮にいくと,明治天皇の妻を皇太后と書いてある。明治天皇の妻・一条美子さんは,先帝・睦仁親王の妻であり,本来は皇后と呼ばれるべき。孝明天皇の崩御1866年12月から明治天皇の即位1868年8月まで1年以上かかっているのも異常である。

 この日本史の闇は明らかになれば社会問題にもなる。昭和・平成・令和天皇のルーツはなに?

 有栖川宮(孝明天皇の弟)は,つぎの天皇にするとの三条・岩倉の甘言でさんざん利用された挙句,ウツになって自殺した。

 鳥羽伏見の戦いを始め,騒擾状態のどさくさで御所に突入し,すり替える環境を整えるべく,いままでの女官や側近を全部解任している。

 吉田松陰の功績は,南朝天皇の子孫・大室寅之祐を長州が囲って天下をとるシナリオを考えたことにある。

 大室寅之祐は山口県田布施町の出身,長州閥が幅を利かせたのは明治天皇を握っていたから。孝明天皇の暗殺事件は,犯人が岩倉具視と伊藤博文であることを突き止めた。岸 信介元首相も「明治になって天皇家が変わっている」と明言している。

 孝明天皇の祭神として玉鉾神社が正式に登記が認められたのは1954年であり,死後87年間許可が下りなかった。明治維新は,下級武士による政権奪取であるといえる。

 明治天皇のすり替え,にわかに信じがたいことだが,最近になって,このような書籍がたくさん発行されている。山形市立図書館にも数多く並んでいる。この国の本当の歴史を知ることは,この国の将来のあり方を考える上で大切なことと思われる。

 付記)以上,2022年4月21日の再掲・公表に当たっての補論的な記述であった。以下の※-4からは,2019年11月26日記述の復活となる。

 

 ※-4 明治神宮の,とても奇妙な「解説の表記」

 先日(ここでは2009年7月15日の記録),東京生まれ・育ちの本ブログの筆者が,このかた一度も明治神宮を見学したことがないのに気づき,あらためて原宿駅のそば〔本当は明治神宮のそばに原宿駅がある〕に立地するこの明治神宮に遊びがてら,散策にいってきた。

この案内板にも明治天皇の奥方のことは昭憲皇太后と書いてある
ふつうは明治天皇皇后というはずだが


 筆者は〈神道イスト〉ではないので,あくまであの広大な,それも人口超過密大都市トウキョウの,いまではファッションの街近くに位置する明治天皇の〈霊〉を祀った〔墓ではない〕この神宮を,ただ,ひとつの観光地として訪問したつもりである。

 この明治神宮は,神宮側の解説によれば,こういう由来をもっている。建立・設置されたのは,前述にも触れたように,いまから1世紀前の大正時代であった。

 明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后をお祀りする神社で,清らかで森厳な内苑を中心に,聖徳記念絵画館を始め数多くの優れたスポーツ施設を持つ外苑と,結婚式とセレモニー,パーティー会場の明治記念館とからなっています。
 内・外苑一帯にわたって鬱蒼と茂った緑したたる常磐の森は,神宮御鎮座にあたり,全国から献木されたおよそ10万本,365種の人工林で,面積は70万平方メートル,国民の心のふるさと,憩いの場所として親しまれています。

 初詣は例年日本一の参拝者数を集める神社としても知られます。そのほか,大相撲横綱土俵入りや,こどもの祭まで幅広い祭典と行事,厄祓い,祈願をとりおこなっております。加藤清正が掘ったと言われる清正の井や明治天皇のおぼしめしにより昭憲皇太后のために植えられた,美しい花菖蒲など,多くの見どころがあります。

 明治45〔1912〕年7月30日に明治天皇,大正3〔1914〕年4月11日には昭憲皇太后が崩御になりましたが,国民から御神霊をお祀りして,御聖徳を永遠に敬い,お慕いしたいとの熱い願いが沸き上がり,大正9年11月1日(1920年)に両御祭神と特にゆかりの深い,代々木の地に御鎮座となりました。

 註記)http://www.meijijingu.or.jp/about/index.html

明治神宮・説明

 この説明のなかにはっきり出ているのが,『「明治天皇」とその配偶者〔の1人:正妻〕であっても「昭憲皇太后」という変妙な〔用語の〕組合せ』でもって,この夫婦をそれぞれ指称していることである。

 しかし,少しでも日本の皇室関係に関する知識がある人ならば,この「天皇(=夫)と皇太后(=明治天皇の妻なのに,その母だという〈?〉)」という表記が,そもそもおかしい点に気づいて,当然のはずである。

 明治天皇に対する皇太后は,この睦仁の父である孝明天皇(1831〔天保2〕年-1867〔慶応〕2年)の妻であった女性,九条夙子(あさこ)〔英照皇太后 1834-1897年。ただし,睦仁は典侍(孝明天皇の側室)である中山慶子が生んだ〕になるはずである。

中山慶子・関連家系図

 補注)典侍とは「ないしのすけ / てんじ」と読むが,要は女官のことであり,あるいは側室のこと。天皇の第◉夫人ということになる女性。

〔本文に戻る→〕 それなのに,なにゆえ,明治天皇は自分の妻である一条美子を「昭憲皇太后」と呼ばせて,その夫である自分自身と並べさせ表記させていたのか? 受けとめかたによっては〔そうでなくとも,あるいはもともとからが〕,きわめて奇怪なる並記の方法であった。

 

 ※-5 明治神宮側の,どだい合点のいかない説明は無理が過ぎた

 1) なぜ,天皇の妻が皇太后なのか? -なにがなにやら,わけのわからぬ夫婦間の呼称方法-

  “MEIJI JINGU GARDEN” という明治神宮内の英字解説板の写真は,つぎの2種類の表現の組合せでもって,明治天皇「夫と妻」を表記していた。これは2009年7月15日に入手した資料に依っている。

 a) His Majesty the Emperor Meiji と Her Majesty the Empress Shōken   b) His Majesty と the late Her Majesty  

 ところが,社殿の前に置いてあって自由に持ち帰れる『明治神宮』というパンフレットの表紙には,大正9〔1920〕年11月1日に創建されたこの明治神宮の祭神は,つぎの2名であると書いている。

 c) 明治天皇(第122代の天皇 今の天皇の御曾祖父)
 d) 昭憲皇太后(明治天皇の皇后)

 さらにいうと,英文のパンフレット “MEIJI JINGU” は,祭神を

 e) Emperor Meiji and His consort Empress Shōken

という表記をしており,a) から d) においてすでに疑問の噴出していた問題点を,〔それも故意になのか百も承知で?〕正直に告白:記録している。

 なお,consort とは「国王・女王の配偶者」の意味である。ところが,明治神宮側は,明治天皇夫妻を天皇と皇太后と呼ぶのは「大正天皇も認めたこと」だから,なにも問題がないというふうに,珍妙にもいいはっている。

 補注)明治神宮ホームページ,⇒ http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/12.html を参照。なお,この住所は現在は削除されており,https://www.meijijingu.or.jp/ という「明治神宮の表紙のページ」に飛ぶ。

 しかしながら,英文のパンフレット “MEIJI JINGU” は,本文中において,Emperor Meiji and Empress Shoken とか,the Emperor and his consort とか表記している。

 「Shoken:昭憲」とは〈皇太后〉を指示する。にもかかわらず,英文のなかでは「外国人にはどうせわからない」と思って〔高をくくって〕なのか,日本語との対応となれば当然のこと,「実質的・内容的に矛盾する表記」を併記させている。それでいながら,平然としている。

 英字文での表現:「 Empress Shoken 」では,明治天皇の配偶者の名が〈昭憲〉であると,すなわち「昭憲女王(=皇后)」であると読めるように表記している。

 さきほどは明治天皇の妻を the late Her Majesuy と呼んでいたのに,こんどは his consort と呼ぶことは「ないだろう」。それでは「間違いの表記になる」というべき「理屈=反論・批判」が,当然のように提示される。

 また同時に,「明治天皇の世代における話」であるのに,その世代の夫婦の片方=配偶者=妻を,the late Her Majesuy =皇太后と呼んでいる。これは日本語での表記に合致している。

 以上のように,まったく極めつけ的に支離滅裂(四分五裂?)であるのが,明治神宮側がみずからする「明治天皇夫婦(?)に関した説明文」の中身なのである。

 けれども,明治神宮内にいくつもかかげられている説明板すべてに「明治天皇+昭憲皇太后」という組合せでの文章が,みかたにもよるが〈これみよがし〉に,「日本語」で堂々と記述されている。理解に苦しむ案内であるが,一般の参拝客には判るわけもあるまい,という風情であった。

 

 ※-6 明治天皇に教育勅語を垂れる資格があったのか?

 その『明治神宮』というパンフレットからは,妻を複数〔より正確にいえば多人数〕擁していた「明治天皇」が,「教育勅語」という文句のもとに,「私たち国民の,永遠不変の道徳教育の基礎ともいわれます」「教育に関する勅語をお示しになりました」というのだから,これをすなおに読むほかない人は,すなわち,ごくふつうの道徳観の持主であれば,即座に〈ずっこける〉こと請け合いである。

 明治天皇の皇后〔正室〕は前述のように,一条美子(=なぜか「昭憲皇太后:彼の母だ」と呼ばれている)であったが,彼女との間には子どもはいなかった。以下に紹介する側室〔お妾さん〕たちの氏名と,その間に儲けた子どもたちの氏名(⇒以下の名)は,以下のようである。権典侍とは,典侍の次の位を意味する女官の地位。

 「権典侍:葉室光子」
    ⇒ 稚瑞照彦尊(わかみずてるひこのみこ,1873)*死産

 「典侍:橋本夏子」
    ⇒ 稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと,1873)*死産

「権典侍:柳原愛子」
   ⇒ 梅宮薫子内親王(うめのみや しげこ,1875-1876)
     建宮敬仁親王(たけのみや ゆきひと,1877-1878)
     明宮嘉仁親王(はるのみや よしひと,1879-1926 第123代・大正天皇

「典侍:園 祥子」
   ⇒ 久宮静子内親王(ひさのみや しずこ,1886-1887)
    昭宮猷仁親王(あきのみや みちひと,1887-1888)
    常宮昌子内親王(つねのみや まさこ,1888-1940)

 竹田宮恒久王妃
   ⇒ 周宮房子内親王(かねのみや ふさこ,1890-1974)  

 北白川宮成久王妃
   ⇒ 富美宮允子内親王(ふみのみや のぶこ,1891-1933)

 朝香宮鳩彦王妃
    ⇒ 満宮輝仁親王(みつのみや てるひと,1893-1894)
      泰宮聡子内親王(やすのみや としこ,1896-1978)

 東久邇宮稔彦王妃
    ⇒ 貞宮多喜子内親王(さだのみや たきこ,1897-1899)

「権典侍:千種任子」
   ⇒ 滋宮韶子内親王(しげのみや あきこ,1881-1883)
    増宮章子内親王(ますのみや ふみこ,1883)

明治天皇の側室はこのとおり9人いたがその出自・出身により
彼女たちに付された「正式名称」には
違いがあった点に注意したい
王妃⇒典侍⇒権典侍

 どうして,こういう人物:明治天皇=睦仁氏に,われわれ一般庶民が「教育のための標語」を聞かされねばならなったのか? 

 まともな常識・神経の持主ならば,首をひねること,それも百何十度までひねたみたところで,まだ納得がいかないこと必定である。

 ごくわかりやすくいえば,「明治天皇の配偶者としての〈多数の女性関係〉」は,かくのごとしであったのである。

 さて「女の話」があれば必然的につぎは「酒の話」である。

 なんと明治神宮には明治天皇が飲み干したというワイン樽の類似品の,その木樽がわざわざ数多く,参道脇に飾られており,これみよがしに説明文も付していた。

 こちらは残念ながら写真は撮らなかったけれども,インターネット上にはいくらでもその写真がみることができる。その一例を「文章だけ」による説明で,つぎに紹介しておく。

要は明治天皇睦仁は飲んべえであった
この天皇の死因は持病であった糖尿病が悪化し
尿毒症になり最後は心臓麻痺で死亡

 説明書きがある立て札を読むと,なんでも明治天皇が沢山ワインをお飲みになっておられたとか。そこで,いまでもフランスのブルゴーニュから好意でワインが明治神宮宛てに送られてくるそうです。その数,50,60樽くらいありましたね,きっと。

 註記)「明治神宮,ワイン樽と企み。」『 go2 屏風と商売は曲げねば立たぬ。』2008.01.03 Thursday,http://go2.jugem.jp/?eid=161

 明治天皇に関する学術研究書においても,「明治天皇が酒,それもワインが好きで,毎日飲み過ぎの傾向がある」ので,配偶者の皇后--もちろん一条美子のことだが,ここまでの記述に即していえば『妻でも皇太后だ(!)』といわねばならないが--がひどく心配して,側近たちに「過剰飲酒をほどほどで止めさせるように」と命じていた話が出てくるくらい,彼はワインが好きであった。ありていにいえば「アル中気味」であったらしい。

 要は,睦仁天皇は前段の女性たちを多妻としてもっていた。また,乗馬好きだった彼は毎日のように,馬に乗っていつもの居所に出かけてはワインを飲み過ぎることも多いため大いに酩酊してしまい,皇居に帰るさいにはお付きの者たちの気苦労が絶えなかったという。

 ところで,さてまた,睦仁は日本酒は好きではなかったのか?

 したがって,こうした人物=『明治大帝』〔とも呼ばれていた〕が,国民〔かつての臣民〕に対してその「教育のための勅語」を述べるというのも,ずいぶん奇妙な,そして不自然なかつ理不尽な話でもあったことになる。

 天皇だからといって,闇雲に聖人君子あつかいするのは,要注意であった。それ以前に,飲んべえでかつまた,たくさんの女性を妾に置いている睦仁氏が,帝国臣民たちに向けて「道徳・倫理」まがいの教訓を垂れるとなれば,これに抵抗を感じないほうがおかしい。

このなかに「夫婦相和シ」とも書いてあるが
これでもって
「朕爾臣民とともに拳々服膺して,咸其徳を一とせんことを庶幾う」
といわれてもたいへん困るとしかいいようがない

 本ブログ筆者が2009年7月に明治神宮を訪ねたさい,社殿の前にお持ち帰り自由の〈折り畳み状の印刷物〉としてたくさん置いてあった「教育勅語・五箇條の御誓文」を,一部もらってきた。ただし,こちらは仮名の文字「部分」は,平仮名で印刷してあった。形状は折りたんだ状態で「135 × 55㎜」ということで,携帯用を意識した造りになっていた。     

 筆者が明治神宮に見学にいった2009年7月のその日は,晴天のとてもいい日和であった。時刻は正午前ころであったが,ちょうど婚礼の儀式を終え,神主・巫女を先頭に行列を組んで歩いてくる新婚夫婦がいた。

 「おめでとうございます! ただし,明治天皇みたいな夫婦関係にならないようにね!」などと,余計な声がけをしたくなったが,お節介が過ぎるので無言にて祝意を・・・。

 少し話しの方向を変える。

 「『NHK大河ドラマでは描きづらい』渋沢栄一の激しすぎる “女遊び” の自業自得 その性格は長男にも受け継がれた」『PRESIDENT Online』2021年4月22日 11:00,https://president.jp/articles/-/45236?page=3 が,つぎのような解説をしていた。『論語と算盤』を解いた渋沢の存在を念頭に聞いておきたい話となる。

 ついに〔渋沢〕篤二の廃嫡を決断する。

 そんな篤二が,明治44年(1911)5月にある芸者にぞっこんとなり,妻を家から出し,その芸者を家に引き入れるといい出したのである。この醜聞は新聞にも載ってしまい,栄一は苦汁の選択を迫られる。そして栄一は結局,篤二を廃嫡することに決めたのである。

 大正2年(1913)1月10日に渋沢家は東京地裁に「身体繊弱」という理由で篤二の廃嫡申請を提出,正式に廃嫡が決まった。栄一にとっては忸怩たる思いだったろう。なお,栄一の跡継ぎは,篤二の嫡男・敬三となった。

 だが,父の栄一には息子・篤二の所業を真っ向から責める資格はなかった。栄一自身も女性にはだらしなかったからだ。ただ,もちろんそれは,現代からみての話である。

 伊藤博文にしても,かつての上司・井上 馨にしても,さらにライバルの岩崎弥太郎にしても,芸者と遊び,遊郭に出入りし,妾を持っていた。

 金や権力を有する者にとって,それはごく当たりまえであったし,男としての甲斐性といわれた時代であった。だから栄一もたびたび芸者と遊び,妾も複数かかえていた。

 ただ,問題なのは,そんな彼が世間に向けては,道徳を声高に唱えていたことである。几帳面な栄一は毎日必らず日記をつけており,妾宅にいくときは「一友人」を問うと記していた。

渋沢栄一の息子の話

 以上の引用が語る意味は,明治天皇睦仁の場合になると,適用不可のことにしておいてよろしい,とでもなるのか? しかし,そこまでいいきれる人は,トンデモ話をしている自分を客体視できていない。

 渋沢栄一の場合は,「論語と道徳」とが関連する領域の問題を,21世紀にいまにも読まれるかたちで教訓的に論説していた。ところがである,渋沢の行状においてだけでなく,息子までがこのオヤジの真似を大いにする顛末になっていた。

 前段の記述は,「女性問題」では艶福家の素質を発揮していたのが「渋沢親子2代」であった。だから渋沢栄一は,息子が起こした女性問題の処理のために,自身がだいぶ苦労した話題も語っていた。

 さて,渋沢栄一自身に関する「妾殿の問題」は,周知の事実であって,それこそ清濁合せて呑むではないが,人物史研究にとっては欠かせない題材になっている。

 となると,明治天皇の場合は「側室の存在」(典侍・権典侍,王妃など)は,教育勅語の思想史的な問題としてどのようにとりあげ論じるべき題材になりうるのか?

 教育勅語にはいいところもあると弁護する人たちが,明治天皇自身にまつわってい切り離せない現実問題の,いわば実質「蓄妾」行為は,旧大日本帝国「謹製」になる帝室内の現象となるだけに,一筋縄ではいかない難問を「戦後レジームからの脱却」を強説していた人びとに突きつけていた。

 要するに,睦仁天皇は好き勝手にお妾さんを9人も置いていた。そうであったに過ぎない。「女官だ?」「典侍だ?」「王妃だ?」と表現したところで,つまりは側室たちのことであって,それぞれが第◉夫人たちのことを指したに過ぎなかった。

 教育勅語のなかには確か「夫婦相和し」という文句があったが,夫1人に妻が大勢いても,その夫婦相和しという関係性が構築され維持できたと推察できる「明治帝室内の内部事情」は別格であった。

 すなわち,それはまた神聖なる天皇家の尊意であったゆえ,平民(庶民)のオマエたちが直接,口出しなどするな,聖域の問題なのだ,という発想もありえたかもしれない。

 しかし,以上の議論は,21世紀の現段階においてとなれば,舟が山を登るかのような話題になっていた。

 

 ※-7 明治天皇「すり替え説」の謎を解く手がかり

 本ブログは,明治天皇「すり替え説」,つまり,われわれが一般に理解している明治天皇は,本当は「孝明天皇」の子息である睦仁ではなかった,と「論じられてもいる」歴史問題を取り上げたことがある。

 そういった記述のなかでは,こういう話題がとりあげられていた。前段に紹介したフルベッキが中心に居て撮影された集合写真は,その問題に関連する話題を提供してきた重要な史料であった。その写真をもう一度,ここに挙げておく。

フルベッキ集合写真

 孝明天皇父子はともに暗殺されていた。つまり,明治天皇とされる「睦仁は入れ替えられて」いて,大室寅之祐という南朝系の血統を引く人物が,代わりに「本当の明治天皇」になっていた,という筋書きの議論であった。

 ここにこそ実は,「明治天皇と昭憲皇太后」という,異様な呼称方法の組合せで表現される「夫婦関係の『呼称方法=なぞ』を解くカギ」が隠されていた,と推理することが可能である。この推理は単なる陰謀論に似た議論として提示されたものではない。

 今年〔ここでは2009年〕は平成天皇在位20年であった。そういえば,明治天皇の後見人みたいな陰の地位を占めていた伊藤博文は,今年からちょうど百年前に暗殺されていた。犯人は韓国では英雄あつかいされている安 重根(안 중근,アン・ジュングン)であった。

 この安 重根は,裁判のとき伊藤博文の罪状15条のひとつに「孝明天皇の弑逆」を挙げていた。どうして,安がこの弑逆をしっていたかは,こみいった事情もあるらしいが,ともかく,あの悪相の岩倉具視とともに後ろ暗い経歴をもつのが,この伊藤博文でもあった。

 伊藤之雄『伊藤博文-近代日本を創った男-』講談社,2009年11月が公刊されていたが,はたして旧帝大系の大学教授が描く伊藤博文「像」が,いったいどこまでその真実に肉迫できるかみものであった。

 伊藤之雄(1972年生まれ,京都大学名誉教授)は,明治神宮の表示:「明治天皇と昭憲皇太后」にそのまましたがい,『明治天皇-むら雲を吹く秋風にはれそめて-』ミネルヴァ書房,2006年の「口絵」に使っていた。本ブログ筆者は,官許的な学問に固有であるその限界は,おのずとしれわたるものであると理解しておく。

 最後に触れておきたいことがある。明治神宮は,2004年に神社本庁と被包括関係から離脱しており,単立宗教法人として運営されている。この運営形態を可能にする条件はいつも,全国で1位を占めてきている「新年の初詣人出」の数値にみいだすことができる。

明治神宮位置-内苑と外苑-
明治神宮内苑境内地図


 明治神宮はたとえば,2009年におけるその数は 319万人で,前年比+2万人であった。2024年まで常時,3百万人を超える初詣人出を誇っているのはこの明治神宮だけである。

 要は,お賽銭の実入りがたんまり期待できる神宮であった,ということである。ともかく,以上のように言及してきたように,かなり意味深の問題を抱えている夫婦を祭神にしているこの明治神社ではあるが,なんといっても,明治天皇その効能はきわめてアラタカなのである。

 おまけに,明治神宮は,日本でも人口密集地域である東京都の中心部に立地しているという好事情もあって,また最近では,パワースポットもその境内にはあるという若者たちの関心・人気もあったりで,独立した神道神社としてその宗教法人なりの運営・管理は,これからも順風満帆が保障されている。

 結局,明治天皇には女房がたくさんいた? ドンマイ(!)……というわけ・・・。

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