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広島・長崎原爆投下によって発生したが敗戦後,長期間放置されてきた朝鮮人の犠牲者・被爆者はまさに「一億火の玉」となり,戦争の犠牲者となっていたけれども,長らく無視されたという差別問題

 ※-1 アメリカ軍B29が広島市と長崎市に投下した原爆は帝国臣民であった日本人のみならず朝鮮人たちからも多くの爆死者と被爆者を出した

 まず,つぎの表を参照したい。すでに過日における本ブログのなかで引用してみた図表・図解である。

この数字をみてどう感じるか?

 つぎに,『中國新聞』2012年3月30日に掲載されていた「検証 ヒロシマ 韓国・朝鮮人1 1945~95 <10> 被爆」『検証 ヒロシマの半世紀』https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=27222 から,以下の段落を表を紹介する。

 「日本は唯一の被爆国として…」。政府に限らず被爆者,マスコミもこうしたいいまわしをする。原爆被害者は日本国内だけにいるかのように聞こえる。そのフレーズからは,一群の人たちがすっぽり抜け落ちている。在韓被爆者をはじめとした海外にいる被爆者たちである。

 朝鮮半島の南部から広島への移住の歴史は古く,1910年代にさかのぼる。日本の植民地支配のもと,男たちは生きる糧を求め広島に渡り,やがて妻子を呼び寄せ家族で住みつく。大戦中は徴用工の他,軍人・軍属もいた。そして原爆に遭った。

 傷ついた身一つで母国に戻った在韓被爆者はいま,どうしているのか。長く医療支援もおこなわず放置して来た日本をどうみているのか。初の被爆者福祉施設が着工する韓国慶尚南道陝川郡を訪ねることから,「もうひとつのヒロシマ」の現実を追う。(後略)

 以上の記述は広島と長崎に当時いた朝鮮人が被爆したのち,韓国(およびのちの北朝鮮)に帰国した人びとに言及していたが,敗戦後も日本に残って在日としての生活史を構築,展開していった人びとも多数いた。

 「反核法律家協会セミナー報告文 韓国人原爆被害者の権利闘争の現況と課題」『日本反核法律家協会』https://www.hankaku-j.org/event/220314/004.html は,つぎのように述べている。

 この反核法律家協会は,日本被団協のように原爆の問題に限定されることなく原発の問題も当然,「反核」の対象にする視点を据えて議論している。ここではそのセミナー報告文を引用すると長くなるので,要はつぎの事実のみひとまず挙げておく。

 「原爆投下による韓国人の被爆者数」は,1945年8月6日,広島と8月9日,長崎に米軍が投下した原子爆弾により当時朝鮮人は被害を受けた。その被爆者数は約7万人,うち死者約4万人と推定してきた。 ところが,この規模は日本人被爆者総数:約69万人に比べると1割以上になり,日本人死亡者約23万人に比べると死者6人につき1人以上になる。

 この報告文は英文を記入したつぎの表を出していた。

万と千の単位でしか計上できていない

 この英語で表示された被害者統計は,日本語で表示したものもあった。最初の段落でかかげてあったそれである。


 ※-2 関連する事情を説明した文献・資料から

 辛 亨根・川野徳幸「韓国人原爆被害者研究の過程とその課題」『広島平和科学』34号,2012年,Downloads/hps_34_161-1.pdf は,関連する当時の事情・状況を「韓国人原爆被害者問題の概要」としてこう説明している。

 1945年8月の原爆投下当時,広島・長崎の両都市には「皇国(日本)臣民」化されていた十数万人程度の韓国人(当時は朝鮮人)が暮らしていた。彼らは1910年から始まった植民地支配に苦しみ,なかには生きる術を求めて日本へ移住した者もいたが,大半は日本のアジア·太平洋戦争遂行に必要な労働力補充のため朝鮮から動員された人びとであった。

 韓国人被爆者数の正確な算出はいまやほとんど不可能であろう。それでもこれまで,いくつかの推定が試みられている。代表的なものをここで紹介しておく。(ここでの文言についてはすでに前段でその関連統計・資料が提示されていた)

 韓国原爆被害者協会(以下「協会」と称す)は,広島の被爆者が5万人,うち3万人が被爆当時死亡,2万人が生存し,1万5千人は帰国したと推定した。長崎の場合は,韓国人被爆者は2万人,うち1万人が死亡,生存者1万人のうち8千人が帰国したとする。

 被爆した日本人に比べてさらに劣悪な環境を強いられていた彼らは,大半が同年12月までに帰国した。さらには1950年からの3年間の韓国戦争と,その後の困難な経済状況で以前にも増した苦難の日々を過ごさなければならなかった。

 こうした敗戦後史にまでつらなる事実としては,当時まですでに日本全国各地(津々浦々)には,それまでに定住する生活形態で暮らしてもいた朝鮮人たちと,さらには戦時体制期になると急速に増えていた,つまり,強制連行(広義)されて日本に来て暮らしていた在日韓国(朝鮮)人たち(これは正確な統計が残されていないので推定になる数値が入るのだが)とは,約200万人ほどの数にまで増大していた。

 関連するその人口統計を表現した2つの図表を引用しておく。この統計の中身はとくに1945年になるとはたしてこのままに受けとってよい数値であるかについては,疑問を残したままである。

敗戦を機に一気に「帰国」した様子が明解であるが
敗戦後に日本にそのまま残って暮らしていく彼ら・彼女らが
相当数発生した事実はありのままに理解すべき対象である
赤線の折れ線グラフは在留資格として「特別永住」を有する
在日韓国・朝鮮人たちを指示する

半世紀以上から1世紀もこの日本で生きてきたひとびと
2世以下の世代に対して「特別永住」を与えたという
ひどく恩義せがましい措置じたい

この法的処遇の与え方そのものが
非人権思想・排外精神を真正直に表現していた

けれども戦争中は「1億火の玉」として
朝鮮人も道連れにしておきながら
こんどは日本は敗戦したのだから

「オマエたちは用済みだ」
「さっさとチョウセンに帰れ!」

敗戦後史における吉田茂という首相は
(アジア人差別のとくにはげしい元国家官僚であった)

マッカーサー元帥に対して茂は朝鮮人たちの存在を
虚言まで駆使して非常に悪く告げ口していた

 在日韓国・朝鮮人の人口統計に関した評言については,例の「煮て食おうと焼いて食おうと自由」だといいはなったのが,当時,法務省入国管理局付検事参事官の池上 努であった。

 註記)池上 努『法的地位200の質問』京文社,昭和40〔1965〕年,167頁。

 こうした当時の国家官僚の対・朝鮮人観は,植民地時代の感性そのままに露骨に剥き出しにしたものであって,在日する韓国・朝鮮人たちにとっての戦後はいつまで経っても,とりわけ1980年代の半ばまでは,完全に「檻の中での在日生活」という雰囲気がいつも頭上に垂れこめていた。

 ここではいきなりとなるが,本稿の主旨に関連したつぎの略年表をさきに参照しておき,次節※-3に進みたい。

『日本経済新聞』による主な出来事の整理

 

 ※-3 イワシやメザシ,サンマでもあるまいに,外国人は「煮て食おうが焼いて食おうが自由」といった法務省の官僚がいた

 1)「外国人は『煮て食おうが焼いて食おうが自由』で共生社会がつくれるのか。」『にほんごぷらっと』2023年8月10日,https://www.nihongoplat.org/2023/08/10/10165/ から

 池上 努『法的地位200の質問』京文社,1965年がなにも憚ることもなく吐いていたその侮蔑発言,対・韓国朝鮮人に対する「完全なる非人間あつかい」,その差別観100%丸出しにした人間観は,いまから60年近くも前に吐かれていたが,

 さすがに21世紀も四半世紀が経った現時点であるから,それをつぎのように批判する文章が書かれていた。その後における時代の変遷を反映さえた中身になっているので,少し長めに引用しておく。

    ★ 外国人は「煮て食おうが焼いて食おうが自由」で                 共生社会がつくれるのか ★

 先日,大手新聞,放送の記者などジャーナリストの勉強会に講師として呼ばれた。テーマは「入管問題」。私はかつて元東京入管局長など入管関係者との親交があった。先の国会で与野党が入管法改正案をめぐり激しい論戦を繰り広げたが,その議論を踏まえて持論を語ってほしいということだった。

 以下,勉強会を機にあらためて「入管問題」について考えてみた。

 「外国人は煮て食おうが焼いて食おうが自由」。いま,こんなことを出入国在留管理庁(入管庁)の幹部がいったら世論にきびしく批判され,更迭されるかもしれない。

 しかし,半世紀以上前の1965年に「煮て食おうが……」といったのは,法務省の入国参事官だった。著書のなかでそう言明していた。論拠とされたのは,入管法に盛りこまれた「法務大臣の裁量」だ。

 補注)もっともネトウヨ界隈では,この「外国人は煮て食おうが焼いて食おうが自由」という外国人に対する排外精神は,まだまだ「健在」であり,大歓迎されるそれである。彼らはそれこそ,必死になって「気に入らない在日外国人ども」を捕まえては,とくに「オマエらは日本から出ていけ」とがなり立てる。

 在日韓国人の場合,それも3世,4世の世代になるとすでに配偶者としては日本国籍人である場合などが圧倒的に多数派であるが,それでも彼らが在日性を少しでも出すと,それはもうたいそうムキになってしまい,それを真っ向から全面否定したがる。

 しかしたとえば,いまの日本の芸能界,スポーツ界をみるに,最近では後者の実例では「これ,日本人のチーム?」という場合も,テレビの放送やニュースを観ていると,けっこうたくさん出ている。

 外国人なしに日本社会はとうてい動かしていけないような「人口統計上の中身・構造」が,あちらこちらで出来あがってきたという既成事実を,目の前で具体的にたくさんみせつけられている。

 だが,それでもなにかにつけては「在日するいろいろな外国人たち」を,それもとくに元韓国・朝鮮系や元中国・台湾系の人びとに対してはウルサくこだわり,ともかく口汚くかる冷たくとりあつかいたくて仕方がない。

 彼らのいいぶんを聞いたところで,その発言の主旨をトコトン突きつめていくと,それはなにも外国人だけではなくて,おそらくは日本人全体に対してもあてはめてみても「なんら不都合のない」モノが多い。

 要は,「天に唾する発言」になっていて,自分の唾がたくさん着いた自分の顔が,どうしたわけかよくみえていない。すなわち,自分たちの「立ち位置」そのものすらが,もともと自覚できない。それでいて,他者(在日する外国人たち)の存在じたいに向けては,なにやかや問題視しては,ともかく無条件に難癖を投じてきた。

〔記事に戻る→〕 入管法に反する発言でない以上,〔1965年当時は〕法務省も「問題発言」だとして入国参事官をとがめることはなかった。1969年の衆院法務委員会で野党に追及された法務大臣は「用いましたことばは,まことに不謹慎きわまるものでございます」と述べながらも,発言の中身を批判することはなかった。

 その後,ベトナム戦争の反対運動にくわわった米国人の英語教師が在留資格の延長を入管に拒否され,裁判で争った。入管は英語教師が違法とされる政治活動をおこなったと判断したようだ。最終的には最高裁は訴えを却下した。司法が「裁量権」にお墨付きを与えたわけだ。

 ただ,この「裁量権」には不透明さや,わかりにくさがつきまとう。入管法22条の「永住許可」の要件は「その者の永住が日本国の利益に合すると認めた時にかぎる」と漠然したいいまわしだ。同50条の「在留特別許可」でも「法務大臣が特別に許可すべき事情があると認めるとき」に許可される。

 補注) 要するに入管が「総合的判断する」というわけだ〔から,その判断は政治的になんとでも運用できる裁量という名の〈恣意的な対応〉が,いくらでも可能だ〕というしだい。

〔記事に戻る→〕 この「裁量権」こそが,入管行政の本質だと思う。断わっておくが,私は入管の裁量権を真っ向から否定するつもりはない。入管行政にとって職務遂行の必要な手立てであることも認識している。とはいえ,「行き過ぎた」裁量権の行使は,ときに外国人支援の団体などの不信感を増幅させる。

 2018年の入管法改正以降は,「裁量権の行使」のあり方がより重視されるようになっているのではないか。この年の入管法改正では1条(目的)に「出入国管理」にくわえて,日本国内に中長期に滞在する外国人の「在留管理」がくわえられた。「在留管理」とはわかりにくい文言だが,ひらたくいえば「外国人支援」である。

 補注)この「『在留管理』とはわかりにくい文言だが,ひらたくいえば『外国人支援』である」という説明は,実は,かえってわかりにくい。法務省出入国在留管理庁が「外国人支援」をするのだといわれても,ピンとこない。支援でも管理でも同省同庁がやってきた点は,基本「管理」でしかありえなかった。正直にそういっておけばよかっただけなのだが,これを「支援」だなどとキレイゴト風に表現するから,話がややこしくなっている。

 2) 要するに「外国人管理」をする目的は,法務省出入国在留管理庁の本来の任務・仕事そのものであった。あえて「外国人支援」をするのだと説明したところで,その基盤に「外国人管理」がないなどとは絶対にいえない。「ことばのいいかえ」で本質の問題:ありかをぼかそうと意図したのは,たいそう拙劣な「説明の方法」であった。

〔記事に戻る→〕 また,この入管法改正では,新たな在留資格として「特定技能」も盛りこまれた。これは中小企業の労働力不足を補う施策であり,マスコミ報道では「特定技能」が大きくクローズアップしたが,入管行政を大きく転換させる「在留管理」の意味を詳細に報じるメディアにはお目にかかれなかった。

 入管法の目的に「在留管理」が盛りこまれたことに伴い,入管庁には「在留支援課」など新たな部署が設けられた。それまでの出入国の窓口業務や不法滞在者の摘発などから,「共生」の社会づくりが実務としてくわわることになったからだ。

 補注)人口の急激な減少傾向がすでに始まってから20年近くが経過した日本である。少子高齢化もドンドン進行中の日本である。本気で外国人たちに日本に移住してもらい,その人口減少に少しでも歯止めをかけたいのであれば,そのさい「支援」という体制の中身は,もっと具体的に積極的な意味あいをもたせたうえで,明示する必要があった。

【参考図表】

棒グラフの減り方が100万人を割ったあたりから
徐々に加速気味である

日本人のみの出生数を試算する場合
2024年は68.9~69.8万人となり

70万人を下回る可能性が高いと予測されている

 これまで「留学生をアルバイトのように受け入れ,それでもって酷使する体制」や,これまで「技能修習生を極端な低賃金労働者としてしか導入しなかった体制」など,いかほどまともに反省したのかよく説明すらしないでおきながら,

 ただ日本の人口減少傾向にとって都合のよい外国人(労働者)の受け入れと体制を,今後も(?)整備するのだとはいわれても,「過去歴の悪さ」を知悉する関係者・当事者,専門家・研究者たちが,まともに信用してこの話を聞いてくれるわけはない。


 ※-4『移住連』というHPサイトがある

 その2024年5月1日の記述「声明・意見 永住者や永住者を目指している方からの『永住許可の取消せ』に対する声」https://migrants.jp/news/voice/eijyuvoices.html は,現状の法務省出入国在留管理庁に向けて,つぎのように批判する意見を表明していた。

 日本はすでに「移民社会」です。しかし,2024年3月15日に閣議決定された入管法「改正」案に含まれる永住許可の取消しは,現に日本で生活する約88万人(2023年6月末現在:88万178人で,在留外国人の 27.3%)の永住者および今後永住許可をえようとしているすべての外国籍住民の立場を不安定にするものです。

 補注)要するに政府(法務省出入国在留管理庁)のいいぶんのなかには,見当違いの方針・規則が混淆状態にもなっており,いとも簡単に永住権取り消しができる体制をととのえたさいにも露呈していた,それも閣議決定でなんでも決めてしまう現在の自民党政権のこざかしい・こすずるい「外国人管理体制」の本性は,いつまで経ってもなにも変わっていない。

 隣国の韓国は,日本よりも少子高齢化がさらに,より高度にかつより深刻に進展しつつある。こちらが対策として打ち出している内容については,つぎの資料を参照したい。日本も基本的にはまったく同様の対策を必要としている。この点になんら差はない。しかし,両国間において外国人の受け入れ体制については明確な差異もある。くわしくはこの資料に説明がある。

 ⇒『大韓民国における少子化対策』 “CLAIR REPORT” No.549,March 21, 2024,https://www.clair.or.jp/j/forum/pub/docs/549.pdf

〔記事に戻る→〕 さらに政府は「外国人の受け入れ・共生のための総合的対応策」を閣議決定した。政府全体として取り組むべき施策を示したわけだ。在留外国人はこれからさらに増加する。彼らと日本人が相互理解を深めながらどのように社会づくりを進めていくのか。入管は重要案件を担うことになった。

 そこでなにが問題になるのか。そのあたりを分かりやすく説明したい。私たちが「にほんごぷらっと」が詳しく報じているが,名古屋入管局が主導する外国人支援団体のネットワーク化の取り組みがそれだ。「外国人支援団体のネットワーク化」は,「総合的対応策」に盛りこまれた施策だ。 (引用終わり)

 さて問題は,つぎのような,昔から日本の政府が採りつづけてきた外国人「管理・統制」の基本路線の基底にうかがえた排外的な精神,つまり,いつまでも払拭できていない排外主義の本音が,このさい,本当に解消される見通しが期待できるか否かにあった。

 ここで再度「在日韓国・朝鮮人被爆者の問題」にまで戻った議論になる。そこで,以下の引用をしておく。 

      ◆ シリーズ「グローバル・ジャスティス」◆

  第40回「在日朝鮮人被爆者にとってのヒロシマ」(2013年12月5日)
       報告者:李 実根(広島県原水禁常任理事)

   = https://global-studies.doshisha.ac.jp/gs/attach/page/GLOBAL_STUDIES-PAGE-JA-144/121975/file/global-justice-40.pdf

 シリーズ「グローバル・ジャスティス」第40回目は,「在日朝鮮人被爆者にとってのヒロシマ」と題されたご講演を李実根氏から賜った。〔李〕氏は,在日朝鮮人であり,かつつまた原爆被爆者として負うことになった二重の被害者性,その被差別性について,実体験を基にありありと浮かび上がらせた。

 1929年に山口県に在日朝鮮人2世として生を授かった氏は,まず,教育課程において差別を受けることになる。当時の進学校であった厚狭中学校へ1941年,必死の勉強によって入学を果たすも,戦争へと突き進む軍国主義時代の風潮と相まって,先生から民族差別に基づく言葉と身体への暴力を受け,2年たらずで中退することになる。

 そして,氏は2年間ものあいだ,厚狭と神戸市三ノ宮を往来し,闇米の売買に携わることになる。

 そのなかで,1945年8月7日,三ノ宮からの帰宅途中,広島市で入市被爆する。当時の広島の状況は,あたり一面焼け野原であり,地面には至るところに人間の溶解した無数の死体が足の踏み場もないほど横たわっており,時折,その死体を踏み,それに足を滑らせながらなんとか広島をあとにするも,直後から,発熱などの症状に見舞われた。

 以上の経験が,つまり,いわれなき民族差別と,いわれなき被爆の「被害者性」が,氏のその後の人生を方向付けることになる。その後,朝連中央高等学院を卒業,共産党入党,朝連青年部での活動を経るも,1950年には反戦反米ビラ事件によって追われる身となり,1952年5月,密造酒の摘発の捜査により広島拘置所に拘留されることになる。

 1959 年には釈放され,直後から広島の朝鮮総連での活動を開始し,1964 年以降は商工会の仕事を引き受けることになるなど,活躍の幅を広げていく。そこから,決定的な仕事を氏はなしとげることになる。1975年8月,在日朝鮮人被爆者として初の被爆者団体である「広島県朝鮮人被爆者協議会」を結成し,会長の座に就く。

 ここに,氏の二重の被害者性がひとつの「政治」へと結実する。この活動において,たとえば,原爆被害者数の公式の記録のうちには日本人のみが算出され,中国人や朝鮮人の被害者は除外されていることの不正義を訴え,また当初から認められてこなかった平和記念公園内の韓国人被爆者慰霊碑を建てるよう働きかけ,実現させた

 ここには,日本人が通常教わる「被害者性」の位置のさらに一歩外から歩みださざるをえない困難な状況と,つねに「政治」的たらざるをえない切実な生を看取しうる。事実,氏は公演中,何度も憤っておられた。

 さきの大戦における日本の加害者性を十分に自覚したうえであるが,「なぜ日本人はあれほどの被害を受けながら,アメリカに追随するのか」と。またいくどとなく「ノーモアヒロシマ」と唱えられた。オーソドックスな「日本人」の被害物語がイデオロギッシュに腹蔵させてきたもう一つの「ヒロシマ」

 真に政治に翻弄されてきた主体によって紡ぎだされた「政治」の営みをそこに確かに認めることができる。

在日朝鮮人被爆者にとってのヒロシマ

 以上,李 実根の語った戦前・戦中・戦後史は,戦前,旧満洲国で領事・総領事を務めてきた吉田 茂の対「中国人・朝鮮人差別」が骨身までしみこんでいたヤマト精神や,敗戦後,法務省検事参事官であった池上 努の「朝鮮人など在日外国人は」「煮て食おうと焼いて食おうと自由」だといってのけた基本精神が,残念なことに,21世紀の現在になっても,まだ払拭できていなかった,日本政府の伝統的(?)なアジア系外国人に対する偏見と差別の色濃い残滓となって,いまもその「連綿たる秩序的な体系性」の実在を教えている。

 ところで,日本被団協は自分たちの運動がノーベル平和賞を授賞されたのを機に,「広島と長崎の被爆体験そのもの」が現実の歴史推移のなかでは,在日外国人の祖型である在日韓国・朝鮮人の存在とともに,否応なしに呉越同舟で今日まで来ていたにもかかわらず,その存在をいまもなお完全に無視する姿勢を根幹から完全に払拭できていない。

 繰り返すが広島および長崎への「原爆投下によって死亡した6人のうち1人が朝鮮人だったという事実」は,事実として認められなかったのか? それとももしかすると認めたくなかったのか?

 あげくのはてにそのようなの設問をしなければならなかったくらい,日本被団協の訴求は,日本〔国籍〕人用の限定版でありつづけてきたのではないか?

 問題の本質は,単に数字の問題として問われるべき性質のものではなかったはずである。「反核」という運動は普遍的な物語を綴っていくものである。だがそこで,具体的に関連していた歴史の事実に観てとれていた「個別の問題対象:朝鮮人被爆者(死者数でみれば6分の1を占めた者たち)の存在は,長い間にわたり無視したも同然のあつかいをされてきた。

 「彼ら」は被爆者ではなかったのか? かつては帝国臣民であった時期に,それも戦争末期に広島と長崎に投下された原爆によって死んだ者たちが「その後に回復した異国籍」によって,長期間放置されてきたのは,これらの人びとは「煮て食おうが焼いて食おうが自由」だったからか? 同じ人間に対していっていいセリフだったのか?

 被団協がノーベル平和賞が授賞された。だが,旧日本帝国時代に原爆で死んだ「6人中の1人は朝鮮人だったという比率」の絶対的な意味は,もしも故意に埒外に完全に放逐したがごときの「被団協の運動」に即して再考する場合,それがたとえ一時期の出来事であったにしても「介在していた」としたら,この事情・理由だけでその組織としての真義は半減する。あるいはきびしく断定してしまえば,その有した意味はかぎりなくゼロに近づくともいえなくはない。

 被団協は,以上のごとき批判に反論はあるか? 反証をもって議論できるか? ノーベル平和賞を受賞されたからといって,いまさら浮かれている場合ではあるまい。

 仮の話。交通事故で死んだ人間が6名いた。1人は10トンのダンプトラックに轢かれて死んで,さらに1人がバスに,1人がスポーツカーに,1人がタクシーに,1人がベンツに,最後の1人がポルシェにぶつけられて,それぞれ死んだ。

 さて,ここで「問題です」……,「最後に挙げたがポルシェに轢かれた死んだ人は,交通事故死ではなかったのか?」

 この種の実にくだらないヘリクツに対してすら,なんら抗弁できないド・ヘリクツの類いが実際に,それも無意識的にかもしれないが,まかり通っていた。だが,それでよかったのか?

 パールハーバーへの奇襲があったら,原爆も投下されたという因果づけはその論理の粗さはさておいても,それなりにいちおうは理屈が通じる要素があった。ところ「日本人の被爆は被爆だ」が,「朝鮮人たちの被爆は被爆ではなかった」といえたのか?

 最後にこういう点にも言及しておきたい。

韓国人原爆犠牲者慰霊碑

 ウィキペディアに解説のある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の設置場所については,つぎのように記述されている。

 ところで,過去から背負ってきた「真意」(もっぱら日本側がかかえていた「あれこれの経緯のなかで明らかになった本意」)にかかわってとなるが,その関係した諸事情をしる人は,いまではほとんどいないのか。あるいはまた,このウィキペディアの記述中では,いっさい触れたくない話題であるのか? 

 当初は朝鮮公族である大日本帝国陸軍中佐で第二総軍参謀の李 鍝公が発見された現場(広島平和記念公園と本川を挟んだ対岸)に設置されていたが,のちに現在の位置に移った。

韓国人原爆犠牲者慰霊碑

 この韓国人原爆犠牲者慰霊碑の「現在における設置場所」は,よりくわしく説明すると,広島県広島市中区中島町の「広島平和記念公園内にある」広島原爆による在日韓国・朝鮮人犠牲者への慰霊碑である。

植民地時代の「朝鮮〈王公族〉」と呼称された者たちは
日本の準皇族あつかいとされた

【参考記事】 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%8E%9F%E7%88%86%E7%8A%A0%E7%89%B2%E8%80%85%E6%85%B0%E9%9C%8A%E7%A2%91(韓国人原爆犠牲者慰霊碑)

 最後の最後につぎの『日本経済新聞』2024年10月12日朝刊「社説」を紹介しておく。赤線を下部に引いた段落の含意は,より広義に最大限に幅をもたせて解釈してよいはずである。

これにて本日の記述は終わり
「我々」とは誰たちの存在を指すのか?

「唯一の被爆国」という表現はこの意味が把握しにくい

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