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ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用という「対・概念」を定型化したつもりだった概念操作が社会科学的作法に反していた事実

 ※-1 本ブログ内においてはすでに,このジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用

 のことを,あたかも欧米型人事・労務(その決定的に定まった特定の形式がありうるとは思えない)に対してだが,これに日本型人事・労務のあり方をじかに対応させる比較が可能だとみなし,そのうえで,なおかつ,双方を「対の概念」(欧米対日本のそれ)として,支障なく,学術的にも運用しうるかのようにあつかってきたこの「雇用の分類」(便宜的なその措置)に関しては,つぎの記述をもって根本的な疑問を提示してみた。

 この2023年2月26日の時点で公開していた「『ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用』の組み合わせ理解で日本経営の未来が分析・観察・展望できるのか」という記述は,ほぼ1万5千字近くの分量で書いていたが,興味ある人はできれば,さきにこの9ヶ月前の文章を読んでもらえれば幸いである。

 付記)冒頭の画像は濱口桂一郎がかなり若めの時期だったころのお写真。


 ※-2 本日とりあげる議論の題材は,『日本経済新聞』2023年11月14日朝刊30面「経済教室」の〈私見卓見〉欄に寄稿されたこの「『ジョブ型雇用』は甘くない」である

『日本経済新聞』2023年11月14日朝刊

 この寄稿者は「多摩大学職員 高部大問」と名のっている。ネット上に関連の情報を探すと,こういう経歴が出ていた。

 1986年大阪府生まれ,慶應義塾大学商学部卒,中国留学を経てリクルートに就職。自社の新卒採用や他社採用支援業務などを担当,教師でも人事でもなく,子どもたちを上から目線で評価しない支援を模索すべく,多摩大学の事務職員に転身。

高部大問・略歴

 本ブログ筆者がこの高部大問の寄稿に注目したのは,この850字の分量になる文章だから,もしかしたら表現するうえで制約があった可能性もあるが,「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」という表現でもって,この「対の間柄」の関係づけに関して,なんらかの含意があったように受けとめてみたからである。その点を以下に説明していきたい。

 高部大問のいいぶんを紹介する前に,こういう議論を前提として申し述べておきたい。

 まず,ジョブ型雇用という表現は「仕事型雇用」ないしは「職務型雇用」と日本語には訳せる。もともと日本語として使用されているこの「ジョブ型雇用」という用語は,専門用語の範疇に分類できるとはいえず,そのように『同語(同義)反復』の,つまり『重箱的な読み方』の名称「新創造」になっていた。この指摘はまず “疑念そのもの” として,断わっておくべき事項であった。

 そのうえで,雇用という用語を「主語(主体:中心)」に置くかたちを採るさい,これに「意味させたい」中身・実体を具体的に限定・制限しつつ注入しようとする意図じたい--これはジョブ型とメンバーシップ型という表現のありようを指している--が,最初から奇妙であった。

 「お金」というものを考えてみたい。日本の円とアメリカのドルという通貨がそれぞれあるといいながら,「円のゼニ」も「ドルのゼニ」もゼニそのものとしての,つまりお金じたいとして意味にはなんら違いはありえないのだが,円とドルではお金そのものとして,もとからなにか本質的に違いがあるかのように語る説明に似た,なんらかの奇妙さを残していたのが,「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」という「対になる雇用」をもちだして,あえてその区分を強調しようとする説明であった。

 補注)なおここでは,ドルの「国際決済通貨」である事実や,金や原油などの取引に使われる「基軸通貨」としての意味あいは,あえていっさい排除して説明をしたつもりである。したがって,それは,ドルでなくとも欧州通貨同盟のユーロでも,中国の人民元でもよかった。

 以上のようにお金にたとえて説明しようにも,まだ不適切な要素が残っててしまったが,だいたい,雇用ならばその出発点には「賃金がいくらか,その仕事はなにか」という問題が基本にあった。ジョブ型雇用であってもメンバーシップ型雇用であっても,「雇用が基本」となりその「仕事や職務の内具体的な容」が根幹に控えていての話題であった。

 だから,そもそもジョブ型雇用という表現は「屋上屋を架した」表現であって,雇用というものを具体的に説明する概念たりえていなかった。それに対してメンバーシップ型雇用という表現は,「雇用」のなかにある人間集団=仕事関係のあり方に関して発生していたところの,それも日本企業の場合において特殊であり,個性的でもある人間関係の存在・展開を前提とした,いわゆる「日本的経営」(日本型経営・日本式経営,日本の経営)を指したのちに,そのあとにさらにつづけて,そこに必然的にだが,派生的に介在してくるはずのメンバーシップ性を強く前面に押し出することで,日本企業における雇用問題の特殊的な個別性を強調するものになっていた。

 日本の経営であっても,「雇用」は仕事・職務(Job)があっての雇用なのであり,メンバーシップ性はそれはその後に着いている付帯条件であった。人間関係の問題がさきにあってそのあとに仕事・職務があるのではない事実は,メンバーシップ型雇用(?)がおこなわれていると観られたどの会社であっても,基本においてなんら変わる点はない。

 ところが,従来の日本的経営に関して「三種の神器」といわれた「終身雇用・年功序列・企業別組合」という特性は,前世紀中であったが,日本の企業が「Japan as No.1」とまでいわしめる好業績を挙げていた時代の繁栄()名残り)としてだが,雇用はさておき人間関係面から観ようとした仕事集団を想定しての話題になっていた。

 すなわち,雇用の問題そのものはひとまずそっちのけにしたまま,この雇用がメンバーシップ輪の中に丸めこまれるかたちで,それなりに会社ごとなのだが個性的に制度化されるときにこそ,日本の企業における特長のあり方が独自に生まれていたと理解された。

 だから,それをメンバーシップ型「雇用」として概念的に造りなおして唱えてみたらよいといったがごとき,濱口圭一郎の立論が示されていた。その点は,「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」という「対(セット,組みあわせ)」になる概念として定義的に説明がなされ,日本の雇用問題を議論するための予備概念として利用されてきた。

 ここまでですでに,前置き的な記述がだいぶ長くなったが,本日する議論が対象にする高部大問の「『ジョブ型雇用』は甘くない」という設題にもとづく論述は,ジョブ型雇用(これは重箱的な表現そのものだが)という用語はもちだしているものの,メンバーシップ型雇用という用語はもちださない議論をしていた。

 

 ※-3「『ジョブ型雇用』は甘くない」は,つぎのように論じていた

 職務内容を定義し,専門性にもとづいて働く「ジョブ型雇用」が若者に人気だ。就職活動中の学生に聞けば,大半は賛成する。賛成する就活生に理由を聞くと,従来の会社にありがちなウェットな人間関係から解放されることを夢見る人は少なくない。スマートな生き方に慣れ親しんでいる若者にとって,週5日出社や職場の飲み会を強いる会社は泥臭いと感じるのだろう。

 だが,人間関係を完全に断った仕事はありえない。会社のすべての人と仲良くする必要はないが,人間嫌いにはなんの仕事もできないことは事実である。そして,ジョブ型は楽に稼がせてくれる雇用形態ではない。

 それどころか,手に職をつけたプロフェッショナリズムが求められ,つねに「あなたはなんの専門家か」という高いレベルが問われる。まずはこのアメとムチを理解しなければならない。そのうえ,専門性を追求したいと思う就活生だけがジョブ型雇用を導入した会社を受験すればよい。

 ジョブ型雇用では,担当する業務の範囲・難易度・必要スキルなどがまとめられたジョブディスクリプションと呼ばれる職務記述書を雇用者と被雇用者が共有する。ジョブ型雇用は仕事を細分化するだけでなく,専門化・高度化が要求され,人間の全体ではなく,部分が必要とされる。そこには新たな束縛が待ち受けている点にも注意しなければならないだろう。
 
 補注)以上のジョブ型雇用に関した説明と「警告めいた,しかし当たりまえの注意」は,ジョブ=仕事・職務に関してもとより,ごく当たりまえの基礎的な関心事に触れていたに過ぎない。「新たな束縛」とは,だからジョブ遂行によって賃金がえられる代価であると断わっておけばいい。このあたりの議論は,経済学や経営学のイロハに属する内容であった。

 もっと簡単に考えていおう。ラーメンのチェーン点に勤務する店員が時給1100円で働くとして雇用されたさい,この業務=「仕事・職務」に必要となり,「労働者側の立場」に要求される接客行為は,一定の内容(ジョブ)として確立している。こうした店員の仕事・職務はわかりやすい実例となるが,これがそれならば,高級なブランド店の店員が顧客への応対で必要なジョブとは,いったいどのようなものになるか? こちらもそれほど困難もなくその要件は挙げられる。

 そして,その当初に準備されるべき評価基準や,のちに適用される人事考課(業績評価)は,いくらか複雑な内容にもなって適用されるはずである。けれども,基本はそのジョブ(仕事・職務)がいかに遂行されたかについて,その判断・評価が下されることになる。

 ところが,メンバーシップ型雇用になると会社の業績貢献に対して非常にまわりくどい,確かにジョブに関していることは当然なのであるが,その関係が不明解になる余地がある「労働者間が織りなす人間労働の業績判断」がいうなれば,その関係の中間的な場所から要請されることになる。それが能力主義だとか資格給だとかいった用語に反映されていた。ここに問題が出ていた。

 ジョブ型雇用であってもメンバーシップ型雇用であっても,会社の利益追求に寄与しえない(直接と間接と〔遠回し?〕を問わず)雇用の関係性をめぐっていえば,ジョブ型雇用であろうがメンバーシップ型雇用であろうが,その目的に対して貢献しえない結果は,基本として評価されえない。

 となると,ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用の相互関係は「直接と間接」あるいは「最初から表⇒表」と「しばらくは裏から⇒表」としての仕事・職務の流れを,それぞれ意味していたに過ぎない。

 メンバーシップ型雇用の会社であっても経営不振がつづけば解雇はある。実際に,いくらでもあった。その解雇の仕方・手順に差異があるにしても,業績不振がつづく会社がジョブよりもメンバーシップのほうを重視する経営管理などするわけがないし,ありえない。解雇問題に関しては,メンバーシップ型雇用もへったくれもなにもなくなるのは,理の必然であった。

〔記事:高部の寄稿に戻る→〕 一方で,終身雇用や年功序列といった日本の旧来型のシステムは,不況でも給料の安い若者を雇う方が得であるという経済合理性が後押しをしている。

 そこには勤続年数に応じて少しずつでも賃金が上がる可能性だけでなく,若者の自己肯定感を担保するという副産物をもたらす側面もある。若者の失業率が高い諸外国と異なり,働き盛りの大切な時期に疎外感と悲観論を抱かせないという利点もあるはずだ。

 補注)しかし,この段落は,高部大問がここで指摘(強調?)した日本的経営の特徴なるものは,いまでは日本における企業体制,それも大会社のなかでもだんだんに変質してきた。日本の労働組合が基本で職種別に組織化されるよりも,会社ごとに別々に単立組合的に組織化される場合が多いために,横断組合の形成が不全・不活発であった。とはいっても,会社側の雇用体制において,なにも変質が生じていなかったのではない。

 「失われた10年」がすでに第4周目に立ち入らんとしている昨今日本の産業界のなかで,日本型経営(メンバーシップ型雇用?)のあり方が完全に消滅することはないにしても,もはや旧来のという意味では過去の遺物になりつつあり,主勢力の分野ではありえなくなった。

 いまや「衰退途上国」となって「経済先進国」ではなくなったこの国の労働経済のあり方が,日本的経営「スゴかった」論などではなにも説明できなくなっているおり,そこに闖入してきた「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」という2分類論は,この国に労働経済問題に対する詮議に不必要な混乱を招く結果になっていた。

 要は,マックス・ウェーバー流の理念型(理想型)に関した基礎知識から縁遠いかたちでもって,理念型として,つまりは「それらを組みあわせた概念」として言及すべき論点となるのだが,認識できる可能性が,あるいはそれ以前にはたしてその必要性がありえたのか疑問があったのが,「ジョブ型雇用」と「メンバーシップ型雇用」との「対の概念」にたとえられた「この種の議論」であった。こうした基本的な疑問が当初から待ち受けていた。

 本ブログ筆者が,冒頭で触れたごとき2023年2月26日の記述では,濱口圭一郎が発案したごとき立論が,そもそも初めから非社会科学的な発想としては脱輪していた点を指摘し,批判してきた。その種の疑問にまともに答えられる姿勢が実は,最初から濱口には準備がなかったせいで,話の筋が噛みあわないのは当然,必然であった。

 しかし,この濱口圭一郎という国家官僚上がりの疑似研究者は,自説の観点が少しでも批判されると,その相手と議論し,自説の立場を再吟味しつつ,さらに高度化・精錬化しようとする能動的な意欲を完全に欠いていた様子がうかがわせてきた。せっかくの批判が贈呈されても,しょせん無駄になりがちであったとすれば,とても残念ななりゆきであった。

 たとえば,つぎの画像資料のように指摘されていた。

池田信夫の濱口桂一郎「批判」

 まだ,高部大問の文章が残っていた。最後はこう書いていた。

 --会社にもスタイルがあり,就活生にも向き不向きがある。多様性の時代にあって,働き方も柔軟になってきた。在宅勤務を認め,飲み会を強いない会社も増えはじめている。就活生にはジョブ型雇用の厳しさを踏まえ,自分に合った会社をみつけてほしい。(引用終わり)

 さて,ここで高部大問がいうところの「ジョブ型雇用の厳しさを踏まえ,自分に合った会社」とは,いったい具体的にはなにを想像させうるか? ここまで来たら,ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用(こういった雇用の分類がひとまずありうるとしてだが)とを問わず,ともかく「雇用の厳しさを踏まえ,自分に合った会社」を探すことが,肝心の問題だったという単純な顛末になっていた。

 結論をいおう。

 仮説:1 「ジョブ型雇用」「メンバーシップ型雇用」という当たりまえの往事から今日までの事実。

 仮説:2 「ジョブ型雇用」があっての「メンバーシップ型雇用」であったという資本主義企業経営内における,これまた当たりまえすぎる優先関係の確認が必要。

 雇用形態においてはそもそも,メンバーシップがあってジョブがあるのではなく,その反対であった。このことはあまりにも事実そのものに関した理解であって,わざわざいうのも面倒にさえ思える。

 アメリカ経営学は20世紀の前半,科学的管理法(課業管理)に始まり,人間関係論(感情問題)に進み,さらに組織管理全体の観点を問題意識のなかに順次組みこんでいった。

 日本の企業とて,戦前における労働者たちに対して仕事(業務・職種)そのものを,これに対する賃金の対価を示す関係のなかで,そもそも「人事・労務管理体制」を構築してきた歴史を有する。

 最初から「日本的経営の三種の神器」が存在していたわけではなく,戦時体制期をはさんでの現実史としての話題であった。この神器も会社の業績が悪化しつづければ雲散霧消する「本性」を有していた。ジョブはいつも最初からあるが,メンバーシップも同じにいつも,そのつぎの問題である。

 そのふたつを同じ次元で同じ重みがあるとみなして,「理念型」的にあつかう形式での分類:「ジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用」は,最初から社会科学論としては「ボタンのかけ違い」どころか,見当違いにそのボタンを引きちぎってしまう創見を披瀝した。

 いったい,なにとなにを比較してきたつもりなのか? 比較の構成を構想するときその相手を間違えていなかったか? 社会科学論として経済学(労働経済学)や経営学(人事・労務管理学)の予備知識に不備はなかったか?

 以上,高部大問が『日本経済新聞』の「経済教室」のコラムに,「『ジョブ型雇用』は甘くない」という題名の一文を寄稿したさい,おそらく「メンバーシップ型雇用」という用語に違和感をもともと抱いていたのではないか?

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