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1945年3月10日東京下町大空襲に関する分析
※-1 1945年3月10日未明から「東京下町を襲った米軍のB29大軍」は「一般都民を殺しまくる戦争行為」をビジネスライクに敢行し,他方でその犠牲となった帝国臣民たちの非力と不運と悲惨はいまなお償われていない
★ 空襲楽観論を説いた戦時期日本の「軍部の愚かさ」★
a) 先日たまたま,須崎槇一・内藤英恵『現代日本を考えるために-戦前日本社会からの視座-』梓出版社,2007年を読んだ。この本のなかで,東京空襲に関連する論及に出会っていた。
ところで,今日からだとあと数日が経てば,今年も3月になる。いまから80年も前,大日本帝国が敗戦した1945年の,この3月の10日に起きた出来事(大事件)があった。それは,その日の未明から東京都下町が米軍の約3百機ものB29爆撃機の襲来を受け,その絨毯爆撃によって10万人もの戦争犠牲者を出すという大惨事となった記録のことである。
その日は,本ブログ筆者の一家も東京都民として下町(浅草)に住んでいたために,その大空襲の襲来によってけが人を出したものの,なんとか1人の死者も出さずにすんでいた。このときの体験は,母がまだ生きていた時に聞かされたことがある。
幸いにも,家族たちから死者は出なかった。けれども,母たちはそれはもうひどい体験をさせられた。いまは亡き母からは,その「3月10日」の未明から,B29の大軍に襲来された東京都下町で,彼女個人の体験に過ぎなかったが,九死に一生をえたも同然の残酷な記憶を,「空襲から必死に逃げまどい,なんとか死ぬ目に遭わないで済んだ〈物語〉」になるそれを,なぜか2回だけとなったが,聞かされた。
その母の「3月10日東京下町大空襲」に関した記憶は,これを家族に語っていなければ,永久に「無かったことになる」「彼女だけの〈歴史の個人体験〉」に終わってしまい,それだけでただ雲散霧消したかもしれなかった。しかし,子孫に語ってくれたことで,その戦争体験をめぐる記憶は「歴史のなかで継承される事実」となって留められている。
彼女の語り(ナラティブ)は,今風に表現するとしたら,録画をみながらそれも自身がそのなかに登場する人物(当事者の1人だったから当然か!?)として話すそれそのものであって,まるで彼女がみずから撮影(出演?)したがごときに,その経過を追って立体的に説明される思い出「話」になっていた。
b) 冒頭でもちだした,須崎槇一・内藤英恵『現代日本を考えるために-戦前日本社会からの視座-』梓出版社,2007年に戻って記述をつづける。まず,同書の第6章「情報操作とその落とし穴」における記述を,以下に紹介することにしたい(以下,194-201頁を参照,記述)。
1941年夏,東京銀座を歩いていたある左官屋が,突然憲兵に拉致された。行き先は皇居の地下であり,ここで防空壕の建設工事のために働かせられた。日本の支配層は,日米戦争の開戦によって予想される大規模空襲に備えて,皇居の防空・消火体制を整えていた。しかし,民衆にはこの情報は伝えられず「防空敢闘」の精神だけが強要された。
その結果がどのような事態を招いたかを如実に示すのが,一晩で10万人が犠牲となった1945年3月10日の東京大空襲であった。このすさまじい犠牲者が出た第1の原因は,カーティス・ルメイの指揮による北西の季節風を利用した残虐な空襲の方法であった。第2の原因は,帝国臣民たちに課せられた「応急防火義務」であった。
早乙女勝元『東京大空襲』(岩波書店,1971年)も,「応急防火義務」に忠実なあまり「命を亡くした庶民」がいた例を指摘していた。「軍の行動」がいかに民衆の生命を軽んじていたかは,1945年3月9~10日における,つぎの東部軍司令部の対応に明らかである。その司令部にいた藤井恒男元陸軍中尉が,こう証言している。
空襲をしらせる情報板の赤い豆ランプがあちこちで点滅しはじめ,しだいに状況判断が不可能になった。私は参謀に空襲警報を発令すべきだと進言した。だが,参謀は許可しなかった。
参謀としては,状況がはっきりしないうちに,しかも深夜空襲警報を発令すれば天皇は地下の防空壕に避難しなければならない。社会の機能はその間マヒするという配慮があったらしい。3月10日の空襲警報が「空襲がはじまって」から発令されたのは,このような理由があったからである。
東京空襲を記録する会編『東京大空襲・戦災誌 全5巻』(東京空襲を記録する会,1973-1974年。のちに講談社発行)の第1巻も,第1弾が投下されてから7分後にようやく空襲警報が鳴らされるが,東京都民にとって「この7分差が決定的な時間になった」と記している。
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この写真はアメリカ軍撮影
下にグーグルマップから21世紀の現在における「当該地域の地図」を
葛飾区と江戸川区の方面も右側に足し入れて切りとってみたので
これと比較してほしい
上の地図と重ねて比較すべき地域はだいたい左側5分の3程度か
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c) 空襲警報が,天皇の睡眠への配慮,社会の機能マヒの恐れなどにより出し惜しみされ,東京下町の多くの住民が炎の犠牲となった。それでも,警察署・憲兵分隊は,空襲によって「焼夷弾が落下したる場合は個人の事は後と廻しにし隣保相協力し先づ初期防火に敢闘する事」を示達していた。
東京日日新聞社・大阪毎日新聞社『婦人日本』昭和16〔1941〕年11月号は,支配層が恐るべき空襲を予測していたにもかかわらず,民衆に対しては「空襲恐れずに足りず」式の情報操作をしていた。
内務省防空局の玉越勝治は「家庭防空の知識と対策」で「焼夷弾それ自身は何ら恐ろしいものでない」と述べ,応急防火義務を強調していた。そうした情報操作の結果,国民のあいだに,空襲に対する楽観論が生じたことはまちがいない。
民衆に真実をしらせまいとする支配層の姿勢は,必然的に民衆の生命を守るべき防空壕といった基本的防空施設の発達や,防空対策を立ち遅れさせた。日本の「指導者」が,蓋(おお)いのない防空壕(無蓋溝型)建設を最初に指示したのは,驚くべきことに,ミッドウェー敗戦後の 1942年7月になってからである。
結局,当局の姿勢は防空壕の建設を遅らせ,1942年4月にドゥーリトルの空襲があった東京でさえ,1943年7・8月ころようやく防空壕を掘る家も多かった。これは,山本五十六連合艦隊司令官戦死後の1943年6月に,内務省が防空退避施設の整備強制を通牒したことによるが,民間での防空的動きがこの時期に具体化する。
d) しかし,依然として,支配層の国民に真実をしられまいとする姿勢が顕著であった。1944年3月30日出された,兵庫県警察部長・内政部長,関係各科長連名の「屍体緊急処理要綱制定ニ関スル件」(兵防発秘第198号)極秘通牒(警察署長・市町村宛)が,その点を象徴していた。
大規模且反復空襲に際し同時多発を予想せらるゝ屍体を迅速適切に処理し之か惨状を速に一般より秘匿し極力人心の刺戟動揺を防止し以て防空態勢を確保するは治安維持の要諦にして・・・。
註記)なお,1945年3月10日大空襲による被害者たちの屍体は,18日に昭和天皇が視察するまでには〔その通路周辺は〕片づけられていた。とくに天皇の通る道筋については,この要諦が迅速・適切に適用されたゆえ,空襲によって殺された臣民の屍体を,彼はそのひとつもみないで済んだ。
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天皇自身のとくに陸軍武官の両名の長靴がピカピカである点は
この写真をみるたびに感心させられる
e) 防空壕だけでなく,空襲にさいして人びとの生命・財産を守るべき消火能力もきわめて貧弱であった。それでも庶民は空襲への備えをしらされず,「空襲恐れるに足らず」式の情報操作に洗脳(マインド・コントロール)され,東京・大阪・神戸などの大都市が空襲で惨憺たる被害を受けてから,ようやく我に返る始末であった。
政府・軍部,そしてラジオ・新聞などの情報操作に煽られ,さらに住民同士の相互監視のなか,増産に,供出に,貯蓄に「お国のため」と信じ,犠牲にも耐えてきた銃後の民衆が酬われたものは,飢えであり,空襲による生命の危険であり,殺され,傷ついても,なにもしてもらえない現実であった。
そればかりでなく,日本の支配層は,民衆が死線にあえいでいるとき,税金や,供出・貯蓄にかかる民衆の富を分けどりし,恥じるところがなかった。--昭和20年8月14日「軍其の他の保有する軍需用保有物資資材の緊急処分の件」が決定されている。
※-2 桐生悠々「関東防空大演習を嗤ふ(わらう)」昭和8〔1933〕年8月11日
a) ところで,太田雅夫編になる桐生悠々『桐生悠々反軍論集』(新泉社,1980年)がある。
後段で一定字数を参照・引用する,本書の解説「軍部攻撃に一貫した桐生悠々-ジャーナリストの抵抗-」を執筆した太田雅夫は,なによりも「悠々の反軍論集を読むとき,彼が後輩の私達に残していった課題が,いまなお現代的課題として与えられていることをしらねばならない」と結んでいた。
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21世紀になってからだが軍隊関係の事件を追うと,2008年2月19日未明に起きた「漁船・イージス艦衝突事故」発生後,防衛省当局がしめした態度,つまり「調査中」を繰り返す「海上自衛隊幹部らの姿勢」が問題となったことが,記憶に新しい。
事故現場となった勝浦沖は漁船が多く通過することでもしられるスポットとしてしられる。天候や波の状態も荒れてはいない状況だった。河野海幕防衛部長は「東京湾近郊は漁船が多いということは心得ている。航路も通常通りだった」と釈明。だが,衝突の角度や当時の速度,レーダーに漁船が映っていたのかなど事故原因と関係することについては「調査中」を繰り返した。
出所:註記) 『産経新聞』2008年2月19日10時52分,http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080219-00000912-san-soci この記事は本日検索してみたところ,削除状態。
この海難事故は,最新鋭の軍艦=イージス艦が「そののけそこのけお馬が通る」という気分,あるいは「大名行列」意識で自働操舵させていた,いわば「お上意識」が起こしたものである。ましてや,戦前・戦中の日本帝国陸海軍は,日本国内やアジア諸国(大東亜共栄圏!)で怖いものがないほどに威張りくさっていた。
b) ところが,桐生悠々が昭和8〔1933〕年8月11日『信濃毎日新聞』に「関東防空大演習を嗤ふ」という記事を執筆したのである。以下(数段空けてあるが)に引用枠内に紹介する部分は,全文のほぼ8割に相当する箇所である。長くなるが引用する。読みやすくするために,改行箇所を任意に増やしている。
◆ 桐生悠々「関東防空大演習を嗤ふ」◆
=『信濃毎日新聞』の昭和8〔1933〕年8月11日 =
防空演習は,曾て大阪に於ても,行なわれたことがあるけれども,一昨九日から行われつつある関東防空大演習は,その名の如く,東京付近一帯に亘る関東の空に於て行なわれ,これに参加した航空機の数も非常に多く,実に大規模のものであった。
そしてこの演習は,AKを通して,全国に放送されたから,東京市民は固よりのこと,国民は挙げて,若しもこれが実戦であったならば,その損害の甚大にして,しかもその惨状の言語に絶したことを,予想し,痛感したであろう。
補注)AKとは,NHK東京放送局のことであり,コールサインの「JOAK」から映画・映像業界が,このAKとも呼んでいる。
〔引用に戻る→〕 というよりもこうした実戦が,将来決してあってはならないこと,又あらしめてはならないことを痛感したであろう。と同時に,私たちは,将来かかる実戦のあり得ないこと,従ってかかる架空的なる演習を行っても,実際には,さほど役立たないだろうことを想像するものである。
将来若し敵機を,帝都の空に迎えて,撃つようなことがあったならば,それこそ人心阻喪の結果,我は或は,敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか。
何ぜなら,其の時に当り我機の総動員によって,敵機を迎え撃っても,一切の敵機を射落すこと能わず,その中の二三のものは,自然に,我機の攻撃を免れて,帝都の上空に来り,爆弾を投下するだろうからである。
そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは,木造家屋の多い東京市をして,一挙に,焼土たらしめるだろうからである。
如何に冷静なれ,沈着なれと言い聞かせても,又平生如何に訓練されていても,まさかの時には,恐怖の本能は如何ともすること能わず,逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く,投下された爆弾が火災を起す以外に,各所に火を失し,そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ,
関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも,想像されるからである。しかも,こうした空撃は幾たびも繰返えされる可能性がある。
だから,敵機を関東の空に,帝都の空に,迎え撃つということは,我軍の敗北そのものである。この危険以前に於て,我機は,途中これを迎え撃って,これを射落すか,又はこれを撃退しなければならない。
戦時通信の,そして無電の,しかく発達したる今日,敵機の襲来は,早くも我軍の探知し得るところだろう。これを探知し得れば,その機を逸せず,我機は途中に,或は日本海岸に,或は太平洋沿岸に,これを迎え撃って,断じて敵を我領土の上空に出現せしめてはならない。
与えられた敵国の機の航路は,既に定まっている。従ってこれに対する防禦も,また既に定められていなければならない。この場合,たとい幾つかの航路があるにしても,その航路も略予定されているから,これに対して水をも漏らさぬ防禦方法を講じ,敵機をして,断じて我領土に入らしめてはならない。
こうした作戦計画の下に行なわれるべき防空演習でなければ,如何にそれが大規模のものであり,また如何に屢々それが行なわれても,実戦には,何等の役にも立たないだろう。
帝都の上空において,敵機を迎え撃つが如き,作戦計画は,最初からこれを予定するならば滑稽であり,やむを得ずして,これを行うならば,勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。
壮観は壮観なりと雖も,要するにそれは一のパッペット・ショーに過ぎない。特にそれが夜襲であるならば,消灯しこれに備うるが如きは,却って,人をして狼狽せしむるのみである。科学の進歩は,これを滑稽化さねばやまないだろう。
何ぜなら,今日の科学は,機の翔空速度と風向と風速とを計算し,如何なる方向に向って出発すれば,幾時間にして,如何なる緯度の上空に達し得るかを精知し得るが故に,ロボットがこれを操縦していても,予定の空点に於て寧ろ精確に爆弾を投下し得るだろうからである。
この場合,徒らに消灯して,却って市民の狼狽を増大するが如きは,滑稽でなくて何であろう。特に,曾ても私たちが,本紙「夢の国」欄に於て紹介したるが如く,近代的科学の驚異は,赤外線をも戦争に利用しなければやまないだろう。
この赤外線を利用すれば,如何に暗きところに,また如何なるところに隠れていようとも,明に敵軍隊の所在地を知り得るが故に,これを撃破することは容易であるだろう。こうした観点からも,市民の,市街の消燈は,完全に一の滑稽である。
要するに,航空戦は,ヨーロッパ戦争に於て,ツェペリンのロンドン空撃が示した如く,空撃したものの勝利であり空撃されたものの負である。だから,この空撃に先だって,これを撃退すること,これが防空戦の第一義でなくてはならない。
桐生悠々がこのように,昭和8〔1933〕年8月の時点で事前に予測した空襲の恐怖は,「まさに,事実その通りのことがその後12年そこそこで証明され〔はじめ〕た。すなわち太平洋戦争が勃発し,東京大爆撃の段階となると惨状は言語を絶し,木造都市の東京は一夜にして焼土と化したが,悠々はすでにそうなることを予言して」いたのである。
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c)「関東防空大演習を嗤ふ」昭和8年8月は,悠々の日支事変〔日中戦争〕以後の言論にくらべると,非常におだやかなもので,内容もけっして反軍的なものではない。作戦構想批判であって,決して作戦無用論ではない。
とにかく,日本の領土に敵機を入れると手遅れだから,領土に入れるまえに撃退する工夫をせよ,要するに,この防空演習はパペット・ショーに過ぎないといっており,「嗤ふ」ものではなく「忠言」なのであった。
「嗤ふ」という見出しが軽率であったかもしれないが,そう問題にすべきものではなく,いまからみれば当たりまえのことをいったので,そうしなければ悲惨な運命到来は必至であると「予言」した警世的論文であった(以上長々と,太田雅夫『桐生悠々』紀伊國屋書店,1972年,129頁,130-131頁から)。
d) 『日本経済新聞』1994年5月9日「私の履歴書 小坂善太郎 ③」は,当時『信濃毎日新聞』を経営していた父小坂順造は,昭和8年8月11日「関東防空大演習を嗤う」が軍部を激怒させたため,やむなく桐生悠々を処分したけれども,その後,悠々が名古屋で発刊した『他山の石』という雑誌を最後まで援助した,と記述している。
われわれは,戦前における桐生悠々の言論活動に,なにを学べばよいのか? たとえば,2003年3月にイラク戦争をはじめた息子ブッシュ大統領は,その後長い期間にわたり,その戦争状態に終止符を打てない経緯をもたらした。
その期間は,2003年3月20日に始めてから終えられたのは,やっと2011年12月15日であった。太平洋戦争よりもイラク戦争のほうが長期化した。ブッシュは,イラクの独裁者サダム・フセインを追放できたものの,イラクという国そのものを目茶苦茶に破壊した。
補注)現在(2025年2月26日)だと,「ロシアのプーチン」が隣国ウクライナへの侵略戦争を始めたのは,3年前の2022年2月24日であって,すでに3年もの歳月が経過したことになる。
旧大日本帝国の場合,あの太平洋戦争(大東亜戦争)を3年と8ヵ月ほど継続してから,やっと敗戦の憂き目を味わされるかたちで終えることになったが,宇露戦争はすでに停戦の兆しがないわけではないものの,まだしばらくは戦争状態が続きそうである。
宇露両国がその間(いままで)において強いられた戦争犠牲者の記録は,正確さにまだ問題が残るけれども,たとえば,ウクライナ側死者4万6千人・負傷者39万人,ロシア側死者35万人,負傷者70万人という統計が示されている。
そのなかでもロシア側は,兵士の人命をなんとも思わない「国家としての伝統的な既定観念」があるためか,将兵の落命をいちいち深刻視しない傾向がある。敗戦前のどこかの国が,臣民兵士の命をまったく大事しなかったそれと似ているところは,思いだしたくもない事実である。
ブッシュのために,イ) イラクの「一般庶民が受けてきた戦災の苦難」と,ロ) 1945年8月まで「日本全土が受けてきた空襲の被害」,そして現在進行中の宇露戦争では,ハ) 異様に多い数値の犠牲者を出しているロシアとウクライナ両国の「兵士たちの近親者たちの悲劇」などとのあいだに,なんらかの関連性をみてとるのが当然の理である。
両国(ここでは戦前日本および21世紀のイラクのこと)の一般庶民にまで危害をくわえていた軍隊の国籍は,なぜかアメリカであった。「ウクライナ × ロシア」の戦争では,ウクライナ側に最大の支援を送っていたアメリカではあるが,帝国主義の宗主たる大国意識に浸っている点に注意が必要である。
【参考画像資料】-日本全国空襲と同程度にひどい死者を出したのが,広島・長崎への原爆投下であった。こちらもB29が運んできては投下した。
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民間人は踏んだり蹴ったりの戦争被害で
泣き寝入りさせられてきた
※-3「東京大空襲を見つめる TBS系と日テレ系で特番」
『朝日新聞』(asahi-com) 2008年03月07日15時01分,https://www.asahi.com/culture/tv_radio/TKY200803070205.html から
※ ここに紹介する記事は,東京大空襲などに関する話題をとりあげ,この空襲において出てきた出来事の「ほぼすべて」に触れようとしているテレビ特番であった。
--敗色濃厚な63年前の太平洋戦争末期。3月10日に日付がかわった直後から,東京の下町を300あまりの米軍爆撃機B29が襲い,32万発の焼夷弾を投下。強風で火炎の風が吹き,2時間半の爆撃で10万人の命が奪われた。この東京大空襲を題材にした特別番組を,TBS系と日本テレビ系で放送する。
制作のきっかけは1年ほどまえの報道番組。被害者や遺族が国を相手に起こした東京大空襲訴訟をとりあげ,その取材報告を,TBSの島田喜広プロデューサーは聞いた。「しっていたつもりだが,想像を超えていた」。
隅田川の言問橋(ことといばし)には両岸から人が押し寄せ,身動きできずに群衆が炎に包まれた。水を求めた人が集まったプールの悲惨な光景。火が収まって残された,黒こげのおびただしい数の遺体。「現実に目を背けないで」という体験者の言葉に応え,今回は,みようによっては残酷すぎる光景も,ためらわずに描いた。
ドラマと記録映像の混成について,島田プロデューサーは「連合国軍総司令部(GHQ)からネガを守った石川〔光陽〕さんは,伝えるのが仕事である私たちの先駆者。ドラマによってその情の部分を,ドキュメンタリーでは惨劇の現実を映し,全容を伝えたかった」。
日本テレビは〔2008年〕3月17,18日の2夜連続で大型ドラマ「東京大空襲」を放送する。心臓の病で徴兵されなかった青年と,彼と将来を誓った看護師,強制連行された朝鮮人青年とひそかに愛を育むもう1人の看護師。4人を軸に,愛と命をずたずたにされた人たちを通して平和の貴さを描く。フィクションだが,綿密な取材で「あったであろう」ストーリーを展開する。
死者の数は膨大だが,広島や長崎への原爆投下や,沖縄戦に比べて映像化の機会の少ない東京大空襲。二つの番組の制作者は「まが,実態を映像で伝える最良で最後の時」と考える。
出所) 「東京大空襲を見つめる TBS系と日テレ系で特番」『朝日新聞』2008年3月7日夕刊,http://www.asahi.com/culture/tv_radio/TKY200803070205.html (この記事,現在は削除)
つぎに,『朝日新聞』2008年3月8日夕刊掲載された「落語で伝える大空襲-生後5カ月で経験 柳家さん八師匠」の記事を紹介する。
落語家の柳家さん八師匠(63歳;当時)は,1945年3月10日,10万人がなくなったとされる東京下町大空襲に遭った。ともに命からがら助かった祖母から聞いた話をもとに,創作落語『実録噺・東京大空襲』をつくり,各地で披露している。
雨あられと落ちてくる焼夷弾を逃れ,中川にかかる鉄橋の下でしのいだ。明るくなって,川一面に丸太や筏が浮いているように,ふらふらと死体が浮いていた。
父がいう。「冗談じゃねえ。これ,浮いてるの,みんなこれ,人間じゃねえか。人だよ。暗いうちにみんな死んじゃったんだよ。この世のものと思えねえ。まるで地獄だよ」。
「そうすっと,暗い時に電信柱か木が倒れていたのかわからなくなったのが,焼夷弾に焼かれた,真っ黒こげになった死体が数え切れないほど横たわっておりました」(この文は,前半と後半のつながりにおいて意味が汲みとりにくい部分があるが,そのまま引用しておく)。
柳家さん八師匠は,戦後60年を迎えるまえの年の2004年にこの落語をつくり,ときどき披露してきた。評価の声の一方で「こんな噺を聴くつもりはなかった」と顔をしかめる人もいた。師匠の生後5カ月での空襲体験だったというが,祖母から聞かされた体験話が口伝されるかたちで,落語として芸術化されたことになる。
いったい,なんのための,空襲体験の『落語への芸術化』か? あらためて一考する価値があるが,ここでは議論しない。
宇露戦争のなりゆきがこれからもすぐに止まないようでは,ウクライナ首都中心部の広場に設けられている「戦死者たちの数」と「同数のウクライナ国旗」を捧げる場所での,その国旗の数が,これから増えることはあっても止まることはない。
ロシア軍の将兵の死に方(殺され方)に関してとなれば,報道などでしりうるわれわれの理解としては,プーチン流になる「人間を単なる資源的なモノ」としてしかあつかおうとしない,その残忍なKGB出身者としての冷酷無比の精神構造が,とくに印象づけられた。
人間の命を大事にしようなどとは,たいして考えられていない「ロシアの兵士たち」は気の毒である。ウクライナ政府・軍側が「公表するロシア軍の犠牲者」には統計的に “大盛り” にするきらいがあるとしても,すでに35万人もの戦死者を出している結果は,あまりにも甚大である。負傷者も合算すると優に100万人の総犠牲者数になる。
ロシア(旧ソ連)は対・ウクライナ戦争においてだが,大戦規模ではない隣国への侵略戦争・紛争で発生させた犠牲者数としては,破格の損害者数を被っている。にもかかわらず,いまだに,督戦隊を常備させる軍隊のあり方を変えるつもりなどない国家態勢のままである。
また,ロシアは自国を構成する自治共和国の少数民族を不当・不平等にとりあつかい,いままで「優先させて彼ら」をウクライナの戦線に送りこんでは,大砲の餌に供給しつづけてきた。この種の理不尽は実質,民族・人種差別となるほかない兵員調達を意味した。
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