戦時期ドイツのゴットル流生活経済学を批判した日本の経済学者中山伊知郎の戦後
※-1 中山伊知郎はゴットル生活経済学を批判したが,それが意味した社会科学的な含意を考察する
戦時体制期は日本の場合,第2次世界大戦に関する理解としては,1937年7月から1945年8月という期間となる。「戦争と経済」という枠組をもち出して,戦争遂行の基盤となる経済体制のありようを吟味する作業は,どの時代,どの状況のなかにあっても必要不可欠である。
付記)冒頭の画像は古本通信販売用のそれを借りた。
その戦時体制期においてとくに,日本の経済学界は,どのような動向をたどってきたのか。21世紀のいまとなってもなお,きな臭い匂いを嗅ぎたがるのだが,それでいて「戦争の現場の〈本当の悲惨〉」をしらないままで,そして,自分たちだけはけっして戦場に出向くことのない爺さんたちが,亡霊のごとく繰り返しこの世の中に登場してくるかぎり,いまさらのように「戦争と学問とが対面する歴史問題」を,しっかり勉強しておかないといけないのである。
本日の記述は,中山伊知郎『戦争経済の理論』昭和16年10月のゴットル批判論に注目し,そうして問題意識を向けるべき「戦時期日本の学問」の軌跡を,経済学の一例に目を向け,議論する。
※-2 中山伊知郎『戦争経済の理論』昭和16年10月
中山伊知郎(なかやま いちろう,1898〔明治31〕年9月-1980〔昭和55〕年4月)『戦争経済の理論』(日本評論社,昭和16年10月20日初版,本文300頁)は,専門書の性格にもかかわらず約1年後の昭和17年10月15日には,第6刷で5千部を増刷していた。
中山の本書は「序」で,「この序論的な考察を通じて問題の所在と方向をと明かにすることが出来れば著者の望は足りる」と語っていた。本書の構成は,こうなっている。
第1篇 戦争経済学の基礎概念
第1章 戦争経済学の本質
第2章 戦争経済の安定と進歩
第3章 安定と進歩の経済学的意義(経済的厚生の概念を中心として)
第4章 経済と与件
第2篇 戦争経済力の集中と育成
第5章 潜在的戦争力としての経済
第6章 戦争経済の性格
第7章 国民的自主の要求と国際分業の利益
第8章 戦争経済力の測定
第3篇 戦争経済表の確立
第9章 経済表の戦時形態
第10章 再生産論の方向
第11章 統制と均衡
第4篇 戦争経済下の資本形成
第12章 資本形成に於ける自由と統制
第13章 統制経済下の資本形成
第14章 節約の論理
第5篇 現代の経済学
第15章 現代経済学の主潮(特に理論のあり方について)
第16章 最近の経済界
大東亜〔太平洋〕戦争になるまで日本経済学界においてはすでに,マルクス〔主義〕経済学は完全に抑圧されてしまい,窒息状態になっていた。その代わりに「皇道経済学」あるいは「純粋・数理経済学」の方途しか許されず,学問・研究の自由などほとんど存在しない学的状況に置かれていた。
日本伝統の神話的な妄想を足場に置く「皇道経済学」はさておき,わけても,同盟国ナチス・ドイツ公認の学問「ゴットル生活経済学」の〈祖述〉を生業とする,経済学者・経営学者の活動が幅を利かせ,声高に発言する時代になっていた。
本ブログでもすでにほかの記述で触れたことがあったが,戦時体制期の軍国日本では,国家の立場に協力しない学問形態はその存在をまったく許されなかったから,その範囲内で治安維持法に引っかけられないよう,慎重かつ用心深い「学問の営為」が必要であった。
その意味では,ゴットル経済学の立場を採用する経済学者・経営学者は,ファシズムの時代から身の安全を守るための得策=上策の,つまり手っとり早いといえばまさにそのとおりであった〈学問の立場〉を採ったといえる。
※-3 中山伊知郎のゴットル経済学批判
しかし,中山伊知郎『戦争経済の理論』昭和16年10月は,第5篇「現代の経済学」,第16章「最近の経済界」の「三 生活経済学の立場」(291-299頁)という一項のなかで,ゴットルをこう評価,批判していた。
a)「日本経済学の現状について見ればその第1の場合これを所謂生活経済学の立場」「の功績を一般的に『経済の本質を反省せしめるもの』として高く評価した」。
「ゴットルの経済学は国民経済の基本構造への最も論理的な接近を試みた点においてこれを本質への反省と呼ぶ」。
b)「ゴットル学派における問題の中心は社会生活乃至国民生活における経済の位置づけである」が,「経済の論理に対する不当なる軽視がふくまれてゐる」。
ゴットル流に「構成体の論理を以てそのまゝ現代経済の課題を解き得るものとするならば吾々は断乎としてこれに反対せねばならぬ。それはまさに経済の課題を経済学以外の手に委ねることに外ならないからである」。
c)「ゴットルの学説は果して本来の経済学の平面に降り来ることが出来るか」。
「ゴットル経済学の性質はその運命において曾ての左右田経済学のそれに似たるものではあるまいか。それが与へるところは究極において経済学への反省であり,反省と拡充とにおける刺戟である。しかしこの刺戟の中に直ちに問題解決の一切の手段が与へられてゐるとすることは到底許され難い。殊に単に外から与へられたにすぎぬやうな全体の意志や政治理念が吾々の問題解決に何らの実質的貢献をなし得ないことは敢て云ふまでもない」。
中山伊知郎は以上のように,戦時体制期の日本経済・経営学界に大いに流行っていたゴットル経済学に対して,正面切って堂々とその基本的な難点を指摘した。中山はさらに,昭和18年12月8日(!)に『戦争経済の動向』(大理書房,昭和19年2月,初版5千部)も公表していた。
当時における刊行物はみなそうであったことだが,本書『戦争経済の動向』のようにその品質(使用されていた紙質や装丁のこと)は落ちてはいるものの,上製カバー付きの本を発行できた大学教授という商売・職業の対場は,それなりに相当恵まれた出版事情を与えられていたといってよい。
ちなみに,本書の奥付には《印紙》そのものが貼りつけられておらず,この印紙を貼りつけるべき箇所には「中山」というハンコが直接押されている。もしかすると,この本のばあい,印紙そのものが調達できなくなっていた時期であったということか? カバーも本体のなかに折りこむ部分の幅が少なく,筆者の所蔵本では前後それぞれ33㎜と40㎜しかなく,外れやすい。物資不足の深刻さを想像させる。
さて,中山『戦争経済の動向』の「小序」は,こういっていた。日本の戦争経済は「支那事変」=日中戦争から大東亜戦争にかけて,未曾有の変貌躍進を重ねてきた。同書は「この同じ時期に試みた講演の集録であり,目的とするところは複雑多端な非常時経済に能ふ統一的な見透しを与へて,聊かなりとも戦力増強の要請に応へんとすることにある」。
この中山『戦争経済の動向』は,第1講「経済統制の将来」,第2講「経済減速の戦時的展開」,第3講「戦争経済の課題」,第4講「戦争経済下の生産と消費」,第5講「総力戦と経済建設」,第6講「戦争経済の貨幣的側面」,附録,という構成であった。
※-4 戦後における中山伊知郎
ところが,戦後の昭和54〔1979〕年,80歳を越える年齢となった中山は『わが道 経済学』(講談社学術文庫)という回顧録を公表している。
この著作のなかで彼は「イデオロギーという形のもっと一般的なものは,依然として経済のものの見方を支配している。その展開はマルクス経済学である。マルクス経済学は,自分たちが赤い色眼鏡をかけていることを,はっきりさせているのがだから・・・」などと,それまで戦後日本の経済学界においては一大勢力だったマルクス〔主義〕経済学を非難していた。
それだけではなく,「一言でいって戦争の経済学は実らなかった。これからも実らないであろう」。そして「戦争が一時的に影響力をもつように思われることもあったが,長い目でみると宗教と経済の二つには及ばない」といった〈A・マーシャル〉のことばにも言及していた(同書,97頁,20頁)。
とすると,中山自身が『戦争経済の理論』昭和16年や『戦争経済の動向』昭和19年をもって語ってきた中身も,戦後になってからはまちがいなく「実らなかった」学問の成果ということになる,と解釈されてよいのか?
--戦時体制期の刊行物に話をもどすと,たとえば,柴田 敬『新経済論理』(弘文堂,昭和17年6月初版,12月再版)は,「倫理なき論理は盲目であるが,論理なき倫理は無力である」との見解を披露しつつ,こうも述べていた。
「すでに新嘉坡は陥落した。武力にかけては我国に及ぶ国は世界にないやうになった。我国の偉大さは更に文化の方面においても示されねばならぬ。理論経済学徒も旧套を脱して,立ち上がらねばならぬ。この意味において,近来,日本的なる新しき理論経済学建設の要請が高いのは,まことに慶賀すべきことである」。
補注)1942年2月8日から1943年2月15日にかけて,イギリスの海峡植民地のシンガポールで,大日本帝国陸軍と連合国軍(イギリス軍)との間でおこなわれた戦闘で,日本軍が勝利した。
「それはあくまで,国家生活の一面として他のもろもろの国家生活面との緊密なる関連において,且つ,国家学的実践学的に展開されるものとあらねばならぬ。新しき理論経済学の研究が国家哲学乃至歴史哲学と結びついて進められんとしてゐるのは,まことに故あることである」(同書,236頁)。
こうした戦時体制期でも,大東亜(太平洋)戦争に対する柴田 敬の雄叫びが発せられていたけれども,まさしく当人が論じたように「論理なき倫理は無力である」点が,もののみごとにというか,如実に証明されてい事実を忘れてはいけない。
柴田は当時,「日本的なる共同体的全体主義の経済論理の方が資本主義の経済論理よりもより高き生産性を有する,といふことを,静態論の理論段階において論証することに,成功した」(はしがき4頁)といった具合に倫理的な確信を抱いて論断し,つまりは大言壮語に等しい学問の立場からの表明を放っていた。
だが,大東亜戦争に関しては,柴田みずから喝破した大事な点,すなわち,この「闘争の過程においてどれほど物質的生産力を発揮しうるかといふことが最後の勝利の重要なる要件の一つとなるのである」と(はしがき2頁)発言していたとおりであって,彼の「戦時経済理論」に関する〈非『論理』的な主張〉も,まことにもののみごとに破綻したのである。
その結末は倫理とか論理とかを対局させる〈リクツ〉の地平に,議論の方向をもちこむ以前にすでに,「経済論理」といった論点の比較を試み,「日本的なる共同体全体主義の経済論理」が「資本主義の経済論理」に対して有意であると主張した意図は,完全に溶解させられていた。
さて残念なことに,中山伊知郎の「戦争経済学」も柴田 敬の「戦争経済論理」もともに,結局は「実らなかった」戦争中における『経済学の「学問の営為」』であった。
どうしてそのように評議されるのか? 中山伊知郎の戦争経済学はこの「学」の議論がむずかしい壁にぶち当たるほかない事実を,学問の論理そのものとしてはけっこう分かりやすく説明してくれた。
だが,その「戦争経済学批判」の立場は,「戦争経済体制論」を客体的に冷静に分析はしていたものの,戦争体制にあった日本の軍部(政府と陸海軍,さらには天皇・天皇制の問題とのかかわりから必然する戦争経済の難問を,具体的に批判するところまでは,つまり「直接に」という意味でのそれには至ることがなかった。
むろん,前段のごとき学問営為の以降をわずかでも明瞭に意思表示したときは,当該の社会科学者の命運がただちに絶たれる戦時体制期であったゆえ,そのような要求は「後出しジャンケン」の要領でする批判である。しかし,だからといってこの要領であっても,経済学の「戦時体制期問題」が,そのまま放置されてよかったなどとは,けっしていえない。
要するに,学問にもすぐ降りかかってくる「戦争の空しさ・儚さ・無意味さ」に思いをいたすべきであり,それでいながら戦争というものがいまも絶えない,この地球上の国際政治・外交から関心を逸らすわけにはいかない。
社会科学として経済学にかぎらぬが,非常時である戦争の時期において,いったいどのような学問の姿勢を採ることになっていたのかは,それぞれの学者たちの真価を量るために欠かせない試金石になっていた。
※-5 補足の記述
『決戦憲法関ヶ原歴史編のblog-「東京裁判史観」「ホイッグ史観」「原罪史観」を超えて未来へ・・・。 歴史を裁くのは「世界史の法廷」(ヘーゲル)だけである。』というブログが,中山伊知郎の経済理論をつぎの各記述でとりあげ議論していた。
▼-1
2019年11月02日
「東京商科大学と『大東亜戦争』⑦ 中山伊知郎の『総力戦論』-その1」
⇒ http://akirakapibara.livedoor.blog/archives/19982003.html
▼-2
2019年11月05日
「東京商科大学と『大東亜戦争』⑧ 中山伊知郎と『総力戦論』-経済戦の地位-」
⇒ http://akirakapibara.livedoor.blog/archives/20032844.html
▼-3
2019年11月07日
「東京商科大学と『大東亜戦争』⑨ 中山伊知郎と『総力戦論』-戦争経済の課題-」
⇒ http://akirakapibara.livedoor.blog/archives/20048132.html
▼-4
2019年11月08日
「東京商科大学と『大東亜戦争』⑩ 中山伊知郎と『総力戦論』-経済戦略-」
⇒ http://akirakapibara.livedoor.blog/archives/20083908.html
▼-5
2019年11月09日
「東京商科大学と『大東亜戦争』⑪ アカデミズムの変節と敗戦利得」
⇒ http://akirakapibara.livedoor.blog/archives/20112026.html
この最後の▼-5から,つぎの段落を引用しておくのが,本日のこの記述全体を補足するために役立つと考える。
▽-a) 東京商科大学が,中山伊知郎を始めとして,みずから進んで「大東亜戦争」に協力し,積極的にかかわっていいたことは,「戦時文献学」的考察から明らかである。私は,そのことじたいを非難したり,否定したりするつもりはない。
だが,敗戦により状況が一変するや,たちまち変節し,戦時下の言動を「あれは軍部のせいだ」となにもかも軍人・軍部に「戦争責任」を押しつけようとするこの姿勢こそ,「戦後民主主義の虚妄」というべきだろう。
▽-b) 米谷隆三の教職追放について触れておこう。『如水会ニュース』によれば,「経済指導者研究室」や「冊子」が教職追放の原因になったというのだが,それならば,なぜ,室長を務めた中山伊知郎が不適格者とは認定されなかったのだろうか?
ほかに東商大からは,金子鷹之助,常磐敏太が教職追放となっている。なぜ,この3名が教職不適格となって追放されたのか?その基準がまったく分からない。
要するに東商大は,この3名をスケープゴートにすることで,GHQの追究をすり抜け,一橋大学と看板を塗り替え,戦時中に培った「政財界の人脈」をフルに活用しながら,日本を代表する「経済系大学」となった。まさに,東京帝大と並んで「戦後利得」大学といえるのである。
以上,『決戦憲法関ヶ原歴史編のblog』から借りた戦時経済学批判の口調は,さらに教職追放という戦後問題までも関連させて議論する必要を示唆していたが,ここではあまりにも大きな別の問題点であるためあつかえない。
ただし,そのブログ主が▽-a) のなかでわざわざ,
「大東亜戦争」に協力し,積極的にかかわっていいたことは,「戦時文献学」的考察から明らかである。私は,そのことじたいを非難したり,否定したりするつもりはない。
などと断わるのは不可解かつ奇怪な言説であった。前後の論旨に合わない,完全に齟齬を来した文言であった。なぜ,「そのように発言するのか」という理由を訪ねてみる余地がある。
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