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ドイツ・ナチス期「戦時・ゴットル経済生活論」から敗戦後「平時・経営生活論」へと隠密なる解脱を図った「経営哲学論の構想」はひそかに「ゴットルの名」を消していた(8)

 ※-1 戦中と戦後

 山本安次郎の戦後作,『経営管理論』(有斐閣,昭和29年)は,昭和17年建国大学のテキスト謄写版『現代経営管理論』を原本とし,学位論文となった著作である。註記1)

 注意したいのは,その『経営管理論』〔「序」〕は,「問題を行為的主体存在論的に考えることの必要は今日いよいよ増大している……,本書の如きもその存在理由を主張し得る」と述べ 註記2),戦時体制期に満州国で高唱していた自説の立場を,戦後においても復唱したことである。

 同書の本文は,「古くから問題としている公社は,……国立公社に限定せず,寧ろ,会社企業を越えて考えられ,いわゆる公私混合企業に対して公私統一企業として規定せられるものも含むが,問題の中心は私立の公社である」と註記をくわえ,そこに,作田荘一『経済の道』も再度,参照文献に挙げていた。註記3)

 時代の進展は公私統一企業を暗示する。それが会社に対する公社にほかならない。それは尖端的な現代企業であり,その経営原理は現代の経営原理の原型をなすとも考えられる。これを問題とするとき経営学も新しい立場に立つ現代経営学となるほかはないのである。西田哲学の研究によって開眼されたのであった。

 当時を記念するもう一つの論文として拙稿「企業」満洲国政府編『満洲建国十年史』(明治100年史叢書第91巻)原書房,昭和44年,第8章がある。これは昭和16年頃執筆したもので,今となっては当時の特殊会社を語る唯一の資料である。なお,拙稿「公社の本質と経営原理」『公営評論』(昭和41年1月)もあげておこう。註記4)

 山本学説の企業体制発展史「観」は,単純素朴で単線的なそれであった。「戦前戦時中は経済的国防力の中心として,戦後に於ては破壊せる国民経済の復興,やがては自立経済の確立を担当するものとしてその経営力の最高ならんことが要求せられる」註記5)という記述にみてとれるように,時代の変化を突きぬけて,ただ一直線にすすむだけの史観に支持されていた。

 山本がまた,敗戦後における「経営の民主化は近代経営の構造的変革という正に歴史的意義をもつものといわねばならない。この意味にて,それは経営の歴史的社会的合理化といわねばならない」註記6)と発言した内容は,戦時体制期と敗戦後の政治的価値観の基本的な相違を棚上げしてのものであった。

 「戦時は経済的国防力」であり「戦後は経営力」であるというような,体制無関連的な視点に立った生産力「論」的な視座の一貫性は,実は,社会科学に最低限必要とされる歴史的感性すら欠いた,根拠の薄弱な議論の見本である。

 山本は,敗戦を機に自身に降りかかった不幸・不運を,相対化も客体化もできない経営学者であった。だから,戦時体制期とそれ以後に関連する論点については,なにをいわれても理解できなかった。

 だが,山本は,自身の人生行路において岐路をもたらした,つぎのような自分史的な出来事に触れていなかったわけではない。

 ▼-1「小樽軍教事件」

 大正14〔1925〕年10月,小樽高等商業学校在学中の山本は,同校の「朝鮮人暴動」想定問題に端を発した軍事教練実施に対する反対運動に参加し,停学処分をうけた。小樽高商から挙がったその抗議の声は,全国に広がった。しかし,治安維持法下の弾圧はきびしく,山本は事後,学校当局によって会社就職の道を堅くとざされ,大学へ進学,研究者の道へすすむこととなった。註記7)

 山本はまた,戦中⇒戦後に関して,「戦争経済から平和経済への転換,これにつれて思想,教育,文化,一切の価値の転換が問題となる。一つの革命といい得よう。だから,転換は復興であり,また発展である」註記8)と解説していた。

 戦前⇒戦中,戦中⇒戦後に生じたそのような「時代の転換・発展」に言及するに当たって山本は,自身もその形成に関与した時代の要因だけでなく,自説が前提とした国家観も徹底的に破壊された事情を,真正面よりとらえることができず,別世界の出来事であるかのように放置してきた。それでいて,持論の価値=独自性だけは,なにも支障なく,激変した時代を生きぬいてきたつもりなのである。

 山本がよく使う修辞・文章の表現方法に,こういうものがあった。「戦前史と戦後史とは連続の非連続であるよりは非連続の連続である。両者間には非連続の面,断絶の面が強いことは否定できないが,連続の面も忘れてはならない」。註記9)

 人を「煙に巻いた」ような,こういう西田哲学的用法を駆使した衒学的な記述は,実際のところ,山本自身だけは除外したものであった。

 筆者が長年にわたり,山本理論に対する経営思想史的分析をくわえ,その「〈連続の非連続〉即〈非連続の連続〉」の論理の「カラクリ=まやかし」を問題にし,批判した点を,彼は皆目,理解できなかった。というより,指摘された問題点を理解しようとする姿勢すらまったくなく,ひたすら反発するばかりであった。

 山本はまず,自身の運命を左右した歴史的事件の「小樽軍教事件」に触れ,さらには,日本敗戦を契機とする「思想,教育,文化,一切の価値の転換」にも触れていた。そうであれば,山本の自説そのものをめぐっても,なんらか,戦中から戦後での「思想,教育,文化,一切の価値の転換」があったはずである。

 ところが,社会科学者の立場にすれば非常に重大な意味をもつはずのそのような思想史的に体験してきた学問の諸相が,山本の悟性においては,自己の問題として客観的に意識化されることがなかった。歴史の展開に即してみれば確かに,山本学説の理論変質が記録されていたにもかかわらず,これを平気で無視できた。

 しかし,それとは対照的に興味深いのは,ほかの日本の経営学者に生起した「理論変更」をみのがさず,それを山本が指摘していたことである。他者の理論に生起した変質に対しては,手きびしい評言を残していた。

 ▼-2「中西寅雄・個別資本学説の評価問題」

 たとえば,中西寅雄「個別資本〔運動〕説」に与えた評言がそのよい例である。山本は通説的な解釈にしたがいながら,中西が『経営経済学』(昭和6年)の「マルクス〔主義〕経済学的な」学説を放棄したかのように理解したうえで,中西の「学者的良心と勇気に対して敬意を表したいと思う」と受けとめ 註記10),根本から見当ちがいの態度を表明した。

 山本は,「経営経済学の自律性の否定説(中西理論)から肯定説へ……の転換ないし転換の可能性を」指摘し,「個別資本説の開祖ともいうべき中西寅雄博士の否定説から肯定説への転換の宣言を忘れてはならない」と,これまた勘違いの認識を重ねたうえで,中西の立場に対する一方的で好意的な解説をくわえていた。註記11)

 だが,以上のような中西「経営経済学」説の理解は,二重の錯誤を犯すものだった。

 ひとつは,中西にあってはもとより「転向」に相当するような理論の変転がなかった事実であり,もうひとつは,そのうえで,前段のような的外れの「評言」そのものを与えた点である。

 だが山本は,自身が背負わねばならなかった,つまり当人が十分気づいておくべき「歴史的に関係する事実の介在」に関しては,まったく無頓着であった。

 ▼-3「規範学説の理解問題」

 さらに山本は,西田哲学に開眼し,「経営行為的主体存在論」の立場を会得したという時期より4年ほど前に執筆した論稿,「規範的経営学説の批判(1)(2・完)」(立命館大学『法と経済』第6巻第1号・2号,昭和11年7月・8月)を公表していたけれども,

 この論稿が実は,戦争の時代に移ってからの「自説の立場」を,まっこうより否定,批判する内容に変化していたゆえ,山本学説の理論的な展開をありままにまず接しようとする他者には,戸惑いを与えること必至であった。

 以下に引用する記述はすべて,事後に変質していったあとに登場する山本学説,すなわち「本格的な経営学」「公社企業」という立論・提唱にこそ向けられるべきであり,すなわち,それを根幹から批判しつくす論旨になっていた。

 規範的経営学派が資本主義の変化の事実から,直ちに経営学の規範科学化の正当性を主張する過程には,理論上一つの飛躍が存在する……。

 規範的経営学説は社会的事実に立脚するのではなく,寧ろ却ってこれを軽視しつゝ,資本主義の矛盾の反映としての『正しき経済』への信仰の表明であり,単に世界観としての協同主義的要求の理論化にほかならない……。

 ……その方法論的根拠も極めて薄弱であって,それは結局に於て,経営学をして科学ではなく,形而上学への道を辿らしめんとするものであり,それが経営学本来の道であり得ないことは明かである。

 要するに規範的経営学説の誤謬は,現実に何等かの価値判断の行はれる事実から直ちに経営学も亦価値判断をなさねばならず,またなし得ると主張する点にあると思はれる。

 吾々は規範的経営学派が経営学の規範科学化の正当性を資本主義社会の変化に見出さんとする主張に何等積極的理由を認め得ないといはざるを得ない。

 かくて,規範的経営学は科学としては成立し得ず,たゞ技術論的または実際的経営学たらざるを得ないといふ結論に到達せざるを得ない。註記12)。

「規範的経営学説の批判(1)(2・完)」昭和11年7月・8月)から

 この規範経営学説に対する批判は,昭和15〔1940〕年を境に「戦時体制の経営学」へと変化していく「山本学説の運命」の,その後において不可避となる難関を予見させることになった。

 つまり,「経営学に対する規範価値の措定は結局失敗に終ってゐる」。「更に事実上価値判断が行はれることから直ちに経営学が客観的価値判断をなさねばならないといふ主張に飛躍するの誤謬を犯してゐる。客観的価値判断の可能を論証せんとするが試みが,如何なる形で現はれやうと科学の領域に止る限り不可能であり,事実,規範的経営学説も一の独断に陥ってゐるのである」註記13)と論断したのは,ほかならぬ山本安次郎自身であったからである。

 昭和11〔1936〕年の時点で山本はまだ,独自の学説的地平を開拓・確保できていなかった。しかし,昭和15〔1940〕年西田哲学に開眼し,経営学の新境地を獲得できたと確信するとともに,前述のような「規範経営学派に対する根源的な批判」の立場は放棄した。そして,「戦争の時代が要請する方途」に迎合するかたちで,経営学の立場を規範科学化させていった。

 山本は,「経営学も亦価値判断をなさねばならず,またなし得ると主張する点」「は結局失敗に終ってゐる」。なによりも「規範的経営学説」は,「客観的価値判断の可能を論証せんとするが試みが」「不可能であ」るのに,そ「の誤謬を犯し」「独断に陥ってゐる」と,きびしく批判した。

 だが,山本は以後〔次段以下においてより具体的に分析・批判する論点となるが〕,国家全体主義が戦時体制期において求めていた「資本主義の矛盾の反映としての『正しき経済』への信仰の表明」を,経営学者としておこなうこととなった。「経営学をして科学ではなく,戦時体制学として形而上学への道」に誘導する役割をはたしたのである。

 1936年の「規範学説」批判の立場から,1940年〔以降の〕「規範学説」密着の立場へと移動した山本の理論であったのだが,筆者がその山本の立場を「規範学説」そのものに位置づけた観点をとらえて,「短絡的思考むしろ乱暴さに驚かされた」註記14)と,なぜか,完全に逆方向に反発することになった。

 しかし,1940年〔以降の〕の山本は,1936年の「規範学説」批判に明示した自身の立場を忘れさったかのようにも感じられた。譬えていうなら,1940年〔以降の〕山本自身は,1936年の「規範学説」批判による,自身の「その返り血を浴びる」べき必然的事由があった。

 ところが,戦時期に発想した自説を,全面的に否認するほかなかったその1936年の「論稿」の見解は,以後においていっさい否定も撤回もされないまま,しかも,その後になにもなかったかのように移動していった。

 ところが,山本は1940〔昭和15〕年以降の自説の立場は,「広義の経営学を,時の構造(過去,現在,未来)からする認識帰趨に従って,歴史,理論,政策に分けるのである。経営政策即規範論の現実的必要と存立の可能を説くが,狭義の経営学は実践理論科学説をとる。単純に規範学派とされては困るのである」註記15)と断わっておき,西田哲学論を摂取した自身の「経営学方法論」が,いかに絶対的に秀抜な観点に立つかを,口を極めて強調していた

 ここでまさしく,山本学説の規範的性格があらためて問題とならざるをえなくなっていた。

 山本の経営学の立論は,1940~1945年の〈日本の歴史:戦時体制期〉とどのように対峙していたか,そのなかでどのような〈経営の理論〉を提唱していたか,またどのような〈企業の政策〉的な概念を提案していたかなどを,筆者は終始一貫,山本に問うてきたのである。

 ところで,山本は「いまや『古典』ともいうべき西田哲学については或る程度歴史的普遍性を認めてよいと思う」註記16)まで豪語してもいたが,その「或る程度」とは,いったいどの範囲までを指すのか,全然自明ではなかった。

 もちろん,山本学説内での内面心理的な,そして感性認識的な理解に限って,十二分に自明なことでありえたかもしれない。要は,自身において自明に過ぎた〈核心の主張〉であったなにかが,ひたすら他者に向けて喧伝されるばかりであった。

 しかしそれは,社会科学者に「開眼」を要求する山本の学問のことであったゆえ,他者には計りしれない「或る程度」であったと解釈するほかなかった。とはいえ,それはあくまで「可能性の問題」であり,他者においては,どのようにしてであっても,理解しきれない要素を残していたその表現であった。

 山本はとりわけ,筆者に対してであったが,「西田哲学は」「われわれにとって唯一の経営哲学なのである」から「勝手な『解釈』をされても困る」ともいった。註記17)

 筆者は,こういう種類の意見を聞いて異様に感した。なにかがおかしいと思わずにはいられなかった。「西田哲学の解釈」は,日本の経営学分野の場合,哲学論としては「山本安次郎流のそれ」でしか許されない,あるいは,なんどもいうが「山本安次郎とともに開眼」しないと「会得」できないような特殊個別な性格を有する「哲学」〔専売特許?〕問題だとすれば,これはおよそ「学問の世界」の出来事としては「眉唾もの」だと処遇されてよい。

 山本は,戦時体制期に生起した研究環境条件の悪化・困難に対面するなかで,西田哲学「論」と作田「公社」論とにもとづく「公社企業」概念を構想し,戦争推進に積極協力する経営理論を昂揚させることができた。

 したがって,山本『経営管理論』「序」(昭和29年)が他人事のように回想した「戦争の時代における問題」指摘は,逆転させられてまさしく山本『公社企業と現代経営学』(昭和16年)の内容そのものを,つまり,過去の山本の学問のこと(問題性)を,かえって,ありのままに「記述したもの」になったはずだ,と反問されねばならない。

 というのも,前段で言及してあったように,山本の戦後作であった『経営管理論』(有斐閣,昭和29年)が実は,昭和17年に準備された建国大学のテキスト謄写版『現代経営管理論』を原本とし,学位論文となった著作である関係からしても,前段のごとき疑念が浮上させられて当然であったと理解して,無理はなかった。

 以下は,先述に引用した文章につながる個所からの記述となる。

 私は昭和15年春から建国大学にて特殊会社経営の研究に従事することとなったが,常時その経営は高く政治目的を掲げ徒に大言壮語し,主体性を高調するも客観的把握は軽視せられ経営理論は殆ど全く無視せられ,かくてその業績の余り香しからざるを見た。かかる現状の打開に少しの貢献でも出来ればと思って昭和18年には予て一応終結を見ていた右の研究を基礎に「現代経営管理論」を編輯し上梓を図った……。註記18)

山本『経営管理論』昭和29年

 この記述は,過去のものとなった「満州国企業経営体制の現実」を批判するかたちで,山本が書き残した文章である。だが,筆者が前段のごとき回想を読んで感じたのは,山本『公社企業と現代経営学』(昭和16年9月)の立論も,この山本自身が敗戦後になって『経営管理論』昭和29年のなかでみずから提示した批判そのものを,逆流させて甘受するほかなかったことである。

 というのも,同書は結局,満州国政治経済の発展・成功にとって,必要不可欠な経営政策的とされた「理想的な経営概念」=「公社企業」論を高調する,すなわち「高く政治目的を掲げ徒に大言壮語し,主体性を高調するも客観的把握は軽視」する著作になっていたからである。

 わけても,山本『公社企業と現代経営学』が強調したのは,満州国統制経済の改革に不可欠の目標像とされた「公社企業」論である。当時満州国が企業体制の中心においていた「特殊会社」を再組織するために,その公社企業「像」を政策規範的に用意したのである。

 それゆえ,自説が「規範学説」の立場とまったく無縁であるかのように反論した山本の説明は,自身の研究史に記録されてきた事実に反するだけでなく,虚偽になっていたといってもよい。


 ※-2 論稿「満洲に於ける特殊会社の再組織問題」

 昭和16〔1941〕年5月25日,京都帝国大学経済学会大会において,山本が発表報告した論題を活字化した論稿「満洲に於ける特殊会社の再組織問題」は,こう提唱していたので,以下にしばらく聞きたい。

 イ) 特殊会社が満州国民経済の「建設経済」的性格を基盤とし,その課題を自らの課題として自覚的に担当する固有の企業制度として形成せられ発展して来たものであって,今日では満州国民経済の中枢をなし,これと離れ難き関係にあるといふ事実から出発せざるを得ない。特殊会社の任務は重く,この特殊会社の経営如何が直接に満州国民経済の運命を決するともいふことが出来る。

 ロ) 特殊会社の歴史的社会的必然性は,これを認めねばならないが,それは公私企業の統一ではなく文字通り混合企業に外ならず,その性格上,根本的な欠陥を包蔵することも亦認めざるを得ない。いはゞ特殊会社のかゝる性格的欠陥が再組織問題を契機に具体化したのである。

 併し,だからといって,これを株式会社,営利会社への逆転によって問題の解決を図らんとすることが如何に時代錯誤であるかは説明を要しない。現実に於ける危機はそれによって打開さるべく余りに大きい。事実,営利主義による能率増進の時代は既に過ぎ去った。

 換言すれば,特殊会社は真に計画経済的再生産の自覚的担当者としての公社企業の方向に再組織されるのでなければならない。文字通り公私混合企業としての鵺的存在から真に公私企業の統一たる公社企業へ向ふ外はない。吾々は特殊会社再組織の方向はこれ以外にあり得ないと思ふ。

 ハ) 従来,社会科学,文化科学,精神科学等と呼ばれる学問は殆んど全く実験から無縁なるかの如く考へられて来た。しかし立場を転検して見れば,無縁どころか実験そのものに外ならないことを理解し得ると思はれる。特に満州国に於てはその感が深い。

 ニ) 吾々は却ってこの正しき道を主張せざるを得ない。註記19)

「満洲に於ける特殊会社の再組織問題」

 
 山本が満州国民経済に対して垂範した「真に」「正しき道」は,「特殊会社再組織の方向」であり,「公私企業の統一たる公社企業」の方途にあった。それは,満州国民経済を構成する「計画経済的再生産の自覚的担当者」に課せられた,社会科学的な「実験そのもの」でもあった。

 実は,戦時体制期における「満州国民経済」に対してそのような主張を繰りひろげた山本安次郎こそ,「高く政治目的を掲げ徒に大言壮語し,主体性を高調するも客観的把握は軽視せられ」た立場に立っていたのではなかったか。そういう自他を「すりかえたような論法」はふつう,「天に唾する」とか「省みて他をいう」とかに譬えられてよいのである。

 当時,「営利主義による能率増進の時代は既に過ぎ去った」と,山本は断言した。戦後,このことをどのように再論したのか。山本安次郎『増補経営学要論』(ミネルヴァ書房,昭和41年)は,こう説明していた。

 「経営学においては,利潤の問題は会計の複合利潤を中心に,経済理論的分析を考慮しながら,経営政策の基礎を解明するところにある」。つまり「利潤を中心とする多目的論の展開こそ今後の問題といわねばならない」。註記20)。

 この説明が「営利主義による能率増進」を排除しえないことは,贅言の余地もなく,明々白々の事項であった。つまり,戦争の時代に山本は,経営目的論について完全にまちがえた説明をしていた。戦後になると彼は,過去の自分の見解を否定する説明をしていた。

 もしかすると,戦時期の満州国民経済における企業目的論と,敗戦後の日本産業経済における経営目的論とではその基本的な観点を変えてもよかった,とでも弁解するつもりだったのか。しかし,筆者によるこのような疑問の提示は,山本自身においては問題外というか,想定外であるかのように理解され排除された。


 ※-3 学会発表「公社問題と経営学」

 つぎに,昭和15〔1940〕年10月20~22日神戸商業大学で開催された日本経営学会第15回大会で,自由論題「公社問題と経営学」を報告した山本安次郎は,こう主張した。

 東亜建設の課題を根源的主体の立場に於て考へるならば,計画経済の当来性は最初から自明のことに属する。これまで統制経済に停迷してゐたのは政治がかゝる基本的主体の立場を自覚し得なかったといふべきであらう。

かくて初めて国家は真に経済の主体となり,経済は真に国民経済として国家活動の体系に帰一する。計画経済とは国民経済的再生産が国家の全体的統一的綜合計画に基いて自発的に行はれ,いはゞ経済の経営化ともいふべきである。

 国家は他の主体をも客体たらしめる如き根源的主体である。それ故,「行為の立場」は国家的「行為の立場」,国家的「主体の立場」でなければならない。個人的主体が一応独立だとしても同時に国家主体性の自覚に立つのでなければ真に具体的な主体とはいへない。公社経営論はかゝる意味にて「行為の立場」に立つのである。註記21)。

 戦時期における満州国計画経済をとらえて,国家的な「行為の立場」「主体の立場」による「経済の経営化」だと観察した山本の理解は,平井泰太郎の戦時「経営国家学」を彷彿させる。山本はともかく,この論稿「公社問題と経営学」の末尾で,「吾々の課題を遂行し得たかどうか,それは批判にまつ外ない」註記22)と断わっていた。

 満州国における「社会科学的な実験」だと山本が規定した経営政策的な「公社企業」論の企図は,日本帝国の敗戦に遭遇することで水泡に帰した。1945年8月を境に,その実験を歴史條件的に囲んでいた現実的前提は一瞬にして瓦解し,そのすべてが喪失させられた。

 1) 補 述:その1

 満州は土地が広かったから,日本から開拓者がどんどん押しかけて,開拓村を作り,石炭などの地下資源が豊富だったから,それを開発して掘り出しては日本にもってきました。産業資本も満州に進出して,重工業から軽工業まで工場が密集した工業地帯を作るなど,経済開発を進めていきました。

 台湾,朝鮮を含めて,一時,経済的には,日本の植民地経営は大きな成功をおさめたので,全アジアを舞台にもっともっと大きな帝国を経営しようという夢(大東亜共栄圏構想)を大きくふくらませたあげくに,バブルがはじけるが如く全部ポシャッて,何もかも失ってしまったというのが,日本のあの戦争の時代の簡単な総括です。註記23)

 2) 補 述:その2

 丸川哲史『帝国の亡霊』(青土社,2004年11月)は,「満州国」をつぎのように語る。なお丸川を引用する前に,こう断わっておく。

 山本安次郎の「公社企業」論は戦時中,満州国における企業経営の「当為性」を実現するための政策論だったのであり,こうした時代的背景,歴史的展望のなかに鋤きこまれて再考されねばならない。

事前の断わり

  もとより「満州国」は日本帝国による制作物であり,またそのためにこそ「本物」らしさが充填されなければならかった。統治の正統性を担保するために,清朝最後の〈皇帝溥儀〉という,政治的には一度死んだ「身体」が祖先の地に呼びもどされた顛末である。

 皮肉をこめていえば,まさにその起源の正統性こそ,「満州国」の人工性をきわだたせていたものである。その意味では,溥儀が味わった「満州国」崩壊という2度めの悲劇は,まさに日本が作りだしたものだが,「本物」と「偽物」のあいだで揺れたこの人造人間の苦しみについて,日本人はまだ誰1人責任をとっていない。

  かつての日本帝国は,「満州国」という人工怪物(リヴァイサン)を生み育てた一方,戦後の列島規模に生まれかわったとされる「日本」(かつての親)は,必死にその怪物の帰還を不気味な存在として撥ねつけつつも,そこでえられたなにがしかを養分にして我が日本を「復興」させた。

 そこには,「満州国」という怪物を造った欺瞞と,おのれが造ったその怪物を忘却しようとする二重の欺瞞がある。

 そして,この二重の欺瞞の上に,一方では戦後体制を再構築する人物の復活があり,もう一方ではかつての植民地体制とその崩壊によって生じた〈傷〉がとり残されることになった。

  今日,日本人が過去の経験とつながる回路を閉ざしているとするならば,それは,大いなる遺産を放棄していることでもある。日本人がかつての植民地=帝国の記憶を単にうしないつつあるのではなく,「過去の体験を思想化しえなかったことの証左」である。

 しかし,戦後から持続させた,あるいは作りあげた実感の延長だけでは,再び歴史に,また現在の歴史に参入することはできない。

  実のところ,帰るべき内地のあった日本人は,たとえ荒野に野たれ死んだ多くの受難者を出したにせよ,引揚船のある港に出さえすれば,なんとか生きのびて内地に帰ることができたわけである。

 であるならば,そんな日本人が列島規模の戦後日本へと滑りこんだ瞬間,かつての「満州国」は,言説化困難な謎のまま宙づりにされる以外にはなかった。そして,その後の〔中国の〕内戦への突入,また朝鮮戦争の勃発も,まったくの他人事としてあつかわれてしまった。 註記24)

 --以上,まことに意味深長な満州国「戦後」論である。筆者はこれに付けくわえる記述をおこなわない。

 ところでだが,「満洲国」建国大学在籍時の山本安次郎という経営学者は,どのように,その満州国の社会科学的な実験に関与してきたのか。その後の,つまり「敗戦後のいま」になって論じられることになった満州国時代における「公社企業」論は,山本の主唱であったその核心がである,あたかも「他人事」のように語られるか,あるいは「傍観者の立場」で観察される顛末を迎えていた。

 結局,山本「公社問題と経営学」論は,その冒頭部分でつぎのように断わっていた。

 「多くの場合批判は現実の課題からではなしに,一定の学説に立つ学的理念から単に方法論的に問題とせられたから,或は超越的観念的な言葉の問題の如く見え,或は独断的にして説教的臭味さへ帯び,現実的迫力をもち得なかったことを否定出来ない」。註記25)

 「満州国時代における自説」のことでありながら敗戦後,それを他人事のように回顧しつつ批判した山本の視点こそまさに,「現実の課題からではなしに,一定の学説に立つ学的理念から単に方法論的に問題とせられた」ものであった。

 往時の山本学説:公社企業「論」は,満州国における「社会科学的実験」への参加を通してえられた「現実の課題から」の,満州特殊会社に対する「批判」の基盤となる,かつまた,満州国民経済に対する「改革」のための具体的な目標を意味した。

 だからこそ山本は,満州国の国策的な特殊会社を改編するための「公社企業」論を提唱した。この経営政策的な議論はたしかに,一定の「現実的迫力」をもっていた。しかし,敗戦後,その大きな実験ははかない夢となった。結果的にいってのけると,「その姿の具現」にはもともと無理があったことになる。

 ところが,敗戦という歴史の審判を下されたために,その満州国の社会科学的実験に深い関係をもった山本学説もまた,「独断的にして説教的臭味さへ帯び,現実的迫力をもち得なかった」という結末を突きつけられた。

 にもかかわらず,山本「公社企業」論がのっぴきならない関与をしてきたはずの,満州国「政治経済史的な事実展開」の側面だけは,別途に引きはなすことができたつもりになって,この「側面の問題」をまるで他人事のようにあつかい,〈大言壮語〉であり〈客観的把握軽視〉の時代だったと「超越的観念的」に非難した。

 だから山本安次郎が敗戦後になって語ったその満洲国体験への回想的な解釈は,基本的には歴史の事実を無視し,あまつさえ自身の関与を無化させようとした完全なるご都合主義,いうなれば「頭隠して尻隠さず」の自己弁護論であった。

 もう一点指摘する。山本は,満州国「計画経済の当来性は最初から自明のことに属する」と論断していた。だが,その「自明」性のその後における顛末はどうなったのか。この点の詮議はとくにしないけれども,山本にとって事後,日本国⇔満州国の「敗戦体験は自明ではなかったのか」とだけ付言しておく。

 『公社企業と現代経営学』(昭和16年)において山本自身が動員・駆使していた,如上のような〈大言壮語〉〈客観的な把握の軽視〉〈歴史錯誤観〉をさらに,以下に列記しておこう。まず,

  a)「世界史的使命」,b)「世界史の創造者」,c)「大東亜の建設」,
  d)「世界新秩序の建設」,e)「真に国民経済本然の姿」,
  f)「国家的根源的危機」など。

 そして,g)「現代経営学は」,「現代的企業形態の特質を最も鮮明に浮き上らす」「公社経営論である」。

 これらは,山本が「本格的経営学」と自称してきた

  h)「国民科学に属すべき」「国家の立場」においての,
  i)「行為の立場」「主体の立場」における経営学の立場であった。

 ところがである,戦後において山本は,如上の a) b) c) d) e) f),すなわち「戦争の時代」の標語にほとんど言及しなくなかった。それらは,時代の推移から転落した概念であり,より正確にいえば,もう「言及できなくなったもの」だったからである。それらは「戦後に消滅した部分」となっていたわけである。

 だが,山本の g)「公社経営論」は主に,著作の註記中でなおも,断片的・散発的に言及されていた。くわえて,h)「国家の立場」は,註記のなかであったが,ごくわずかに言及されていた。これらは,戦後にまで多少はつづいた部分となったころになる。

 しかしなかでも,i)「行為の立場」「主体の立場」だけは,戦前⇒戦後をとおして一貫,繰りかえし主張されてきた。これは,戦後にもそのままそっくりつづいた部分であったことになる。

 これらのうち,「 a) b) c) d) e) f) 」群の「歴史観の問題」は,戦時中だけは,たいそう威勢よく主張されていた。

 また,「 g) h) 」群の「経営政策規範論の主唱」は,戦時期においては当然だったものであったが,戦後になると遠慮がちになりながらも依然,確信をもって記述された。

 そして,「 i) 」の「経営行為的主体存在論」は,戦時と戦後を通貫してきた見解として,終始,記述・主張されてきた。

 以上,3群においてとりあげられる論点の「明らかな相違」を無視したまま,戦時期も戦後期も自説の変転〔進展?〕に関して差異がないといいはるのは,どうみても大きな無理があった。

 前述にもあったように山本はご都合主義の用法で,「戦前〔戦時〕史と戦後史とは連続の非連続であるよりは非連続の連続である。両者間には非連続の面,断絶の面が強いことは否定できないが,連続の面も忘れてはならない」と断わっていた。まさに,いろいろな含意をもってだが,そのとおりであったといえなくはない。

 山本は,「戦前史と戦後史」において「非連続の面,断絶の面が強い」自説に不可避で固有な難点を,その「連続の面も忘れてはならない」と自己弁護するやりかたで,ごまかし通してきた。

 本ブログ筆者は,「連続の面」を「忘れない」でくれ(!)とばかり強調した山本理論の「歴史的な断続性」を,その「否定できない」はずの「非連続・断絶の面」に注目することで,総合的に検討をくわえかつ批判もしてきた。ところが,現役時代に生きていた時期の山本からその後,筆者のその批判に対して返される答えはなにもなかった。


 3) 補 述:その3

 戦時期満州国「政治経済史的な事実展開」に対応するための理論的な具体観であった,山本「公社企業」論の〈大言壮語〉〈客観的な把握軽視〉を,たとえば当時の著作,藤澤親雄『全体主義と皇道』(東洋図書,昭和15年1月)に聞いておく。

 ◎-1 支那事変の解決は聖戦の目的たる東亜の道義的新秩序を建設してこそ始めて可能となる。

 明治維新を通じて国内統一を完成したる日本は,今次の聖戦を遂行して東亜大陸の統一皇化を実現しなければならない。而してアジアの維新は当然世界の維新即ち天業恢弘の完成へ進展すべきものであることを信念せねばならぬ。

 ◎-2 日本精神は民族精神であるとともに,また世界全人類に妥当すべき普遍生命原理であることを銘記すべきである。

 最近欧州に抬頭せる新興諸国家の全体主義世界観は,明かに我が皇国の国体を模範として構想し且つ実践に移したものであって,この厳然たる事実は神ながらの皇道原理が「之ヲ中外ニ施シテ悖ラサル」絶対的原理であることを雄弁に物語ってゐる。

 ◎-3 我々はこの信念に基き,いよいよ「漂へるくに」の凶相を呈せんとする世界を修理固成し,全人類をして皆その所を得せしむべく,積極的なる思想聖戦を推進せしめて行かねばならぬ。これが八紘一宇世界皇化の使命である。註記26)

藤澤親雄『全体主義と皇道』昭和15年

 こうした世界観のもとに,「今日我々は満州国と皇国との根本関係をはっきりと再認識しなければならない。而してこれに関する深き自覚が生じてこそ,支那の道義的新秩序も確立せられるのである」というふうに,日満関係が措定されていたわけである。

 さらに藤澤親雄『全体主義と皇道』は,つぎのように自信をこめて語ってもいた。

 イ)「東亜聖戦の本質は,蒋政権の背後に蠢動する英ソ,就中,英の侵略的政治勢力を徹底的に打倒して,支那民族及び其の他の東亜諸民族をして,真にその處を得せしめんとする東亜解放戦であり,又同時に,東亜新秩序建設の為めの維新であることを明瞭に再認識しなければならない」。

 ロ)「日本も支那も満州国も皆並列するのに過ぎぬと主張する東亜協同体論の根本的誤謬は茲に存する。皇道の世界的光被とは,現在に於けるが如き平面的な株式会社的国際関係を,上下一体的な家族的国際関係に結び直すことである」。

 ハ)「実に日本こそは『万国の祖国』でありまた万物を生み出した宇宙根元生命の本拠である」。「此の度の東亜の聖戦は実に斯くの如き世界家族新体制創造への不可避なる段階である」。註記27)

藤澤親雄『全体主義と皇道』昭和15年・続き

 戦前においてはこのように当然,日本帝国が東亜地域を支配し,世界全体すら統御する立場に立つべきと考えた「まさしく帝国主義の〈価値観〉」が垂示すされていた。これが公的に標準の国家思想になっていた。そうだったとすれば,そこに〈客観的な把握軽視〉になる〈大言壮語〉が実在していたといって,少しも大げさにはならない。

 川島高峰『流言・投書の太平洋戦争』(講談社,2004年12月)は,満州事変までさかのぼらせた言及を,つぎのようにおこなっていた。

 そもそも「満州事変」は,欧米からのアジアの解放であり,「我が民族の輝かしい世界史への挑戦の始まり」と理解されていた。

 「欧米列強からのアジア解放」という大義名分とのかかわりのなかで,つまり日本との関係のなかにおいて,この戦争の意味を問い,そして総括するという視点が展開した痕跡は,ほとんど認められなかった。このことは,戦争全体がもつ虚構性を明示していた。

 解放すると称し侵略を繰りかえしてきたものが,帰結として直面した絶望的な祖国防衛戦争のなかで,その総括はまったく国内的視点に依拠するよりほかはなかった。註記28)

川島高峰『流言・投書の太平洋戦争』2004年

 4) 補 述:その4

 作田荘一『国民科学の成立』(弘文堂書店,昭和10年)は大東亜戦争の時期,ある社会学者から批判が提起されていた。

 河合弘道『日本社会学原理』(昭森社,昭和18年1月)は,作田「国民科学」に方法論が欠落することを指摘,批判した。

 『国民科学の成立』を宣言した作田荘一博士の功績は,大いに多としなければならないが,ただ単にその対象のみを限定して,科学成立の重要要件たる方法を無視したのでは,所期の目的をまっとうすることできないのではないか,というのであった。

 作田「博士は態々故意に方法に就いては問題外におくと断ってをられる。かゝる独立科学主張の験作に於いて,対象のみを提立してその由って来たるところの方法を議論しないことは片手落ちの非難を蒙らなければならない」。

 「対象の確認といふことは予定的に自らの方法を表現したものである」。「国民性に就いての認識はすなはち国民性といふ対象に対する態度を既に予定したものであらねばならない。作田博士に於いても確に全体主義的把握の態度が窺へるのである」。

 「にも拘はらず方法を問題の外におくと断じたことは,所詮この国民科学が独立科学としての成立することを辞退したものに他ならないであらう」。註記29)

河合弘道『日本社会学原理』昭和18年

 さて,満州国における山本安次郎の政策理論:「公社企業」は,「経営行為的主体存在論」の本質論,方法論に立脚して展開するさい,そのめざすべき方向性においては,「国家〔科学〕の立場」にしたがうことを運命づけられていた。

 しかしながら,そうした「自説の構想」や「理論の核心」を具体的に展開したのちすぐに,河合弘道『日本社会学原理』(1943年)のような疑問が登場したことを,山本は不知だったと思われる。

 とはいえ,山本学説のばあい,西田哲学に確固と基礎づけられた「経営学の本質論・方法論」=「経営行為的主体存在論」の理論的な信頼性は,並たいていの程度ではなかったから,作田がうけた前段のような批判・問題点は回避できるもの,と確信されたはずである。

 河合『日本社会学原理』は,作田の「国民科学の成立」の問題点に言及したけれども,戦争の時代における歴史的状況=「全体主義的把握の態度」が当然に共有されていた前提だったことも,同時に指摘していた。

 山本安次郎という経営学者も,戦時期に特有の世界観・歴史観・価値観に異をとなえず,積極的に支持していた。

 5) 補 述:その5

 岩波講座『近代日本と植民地1 植民地帝国日本』(岩波書店,1992年11月)は,大東亜:太平洋戦争の時期にきわまった「アジアを侵す『大日本帝国』」の根本性格を批判しつつ,こう回顧する。

 日本の植民地支配は,植民地帝国の時代と戦後世界との狭間に展開された。第1次大戦後のヨーロッパでは,植民地支配そのものを正当化することはできなくなっていた。ドイツ海外領土の移管も,委任統治のような偽装なしにはできなかった。

 海外領土に依存しない資本主義の模索,戦後世界では一国民主主義としての福祉国家に結実する模索も,すでにすすめられていた。日本のアジア侵略に対する今日までの引きつづく批判の根拠のひとつは,その侵略がおこなわれた時期から説明することができる。

 第1次大戦が世界観の転換をともなわなかったとはいえ,日本国内でも植民地支配の正統性がうしなわれた事情はしられていた。だからこそ,東アジア侵略にも「満州国」や「アジア主義」のような,海外領土の領有と民族自決原則を接合する虚構が必要となったのである。

 また,植民地がなければ経済が成立しないというかつての「常識」は,日本国内でも挑戦されていた。

 三浦銕太郎や石橋湛山の『東洋経済新報』における中国侵略批判は,同時に海外領土を必要としない資本主義の模索でもあった。つまり,植民地主義の正統性喪失という国際環境を,日本が認識していなかったとは必ずしもいえない。註記30)

岩波講座『近代日本と植民地1 植民地帝国日本』1992年

 山本安次郎が戦後期,持論の「経営学説」のなかで繰りだした〈哲学的な修辞〉,つまり「戦前〔戦時〕史と戦後史」およびその「連続の非連続即非連続の連続」論は,以上のような当時の世界史的な情勢に疎かった。

 それをいいかえれば,「世界史的使命」とか「その課題」とかを高唱したわりには,戦時期以前から存在し,認識されていた「世界の歴史的な事情」に無縁だった「社会科学者:山本安次郎のその立場」は,みずから暴露したがごとく実は,ごく一過性の正統性しかもちえなかった。

註記)
 註記1) 山本安次郎『日本経営学五十年-回顧と展望-』東洋経済新報社,昭和52年,48頁,注)20。この点は,山本『経営管理論』昭和29年(次掲文献)の「序」(6頁)では,同上テキスト版は昭和18年に「編輯し上梓を図った」と説明されている。

 註記2) 山本安次郎『経営管理論』有斐閣,昭和29年,序6頁。

 註記3)同書,32頁,注)④。

 註記4)山本『日本経営学五十年』211頁,注)14。

 註記5) 山本『経営管理論』27-28頁。

 註記6) 同書,29頁。

 註記7) 山本『日本経営学五十年』205-206頁,注)1。なお,夏堀正元『小樽の反逆-小樽高商軍事教練事件-』岩波書店,1993年も参照。緑丘五十年史編集委員会編『緑丘五十年史』小樽商科大学, 昭和36年もこの事件を記述している。

 註記8) 同書,113頁,注)7。

 註記9) 同書,84頁,注)24。

 註記10) 同書,121頁。

 註記11)同書,171頁。

 註記12) 山本安次郎「規範的経営学説の批判(2・完)」,立命館大学『法と経済』第6巻第2号,昭和11年8月,92頁,93頁,97頁。

 註記13) 同稿,100頁。

 註記14) 山本安次郎「経営学と哲学との関連性について」,亜細亜大学『経営論集』第14巻第2号,1979年3月,160頁。

 註記15) 同稿,184頁,注)9。

 註記16) 同稿,180頁。

 註記17) 同稿,178頁。

 註記18) 山本『経営管理論』序6頁。

 註記19) 山本安次郎「満洲に於ける特殊会社の再組織問題」,京都大学『東亜経済論叢』第1巻第3号,昭和16年9月,イ) 110頁,111頁,ロ) 122-123頁,131頁,ハ) 124頁,ニ) 131頁。

 註記20) 山本安次郎『増補経営学要論』ミネルヴァ書房,昭和41年,265頁,269頁。

 註記21) 山本安次郎「公社問題と経営学」,日本経営学会編,経営学論集第15輯『利潤統制』同文館,昭和16年,238頁,239頁,252頁。

 註記22) 同稿,252-253頁。

 註記23) 立花 隆『イラク戦争 日本の運命 小泉の運命』講談社,2004年,306頁。

註記24)丸川哲史『帝国の亡霊』青土社,2004年,①118頁,②120頁,③123頁,④114頁。

註記25)山本「公社問題と経営学」,前掲書,236頁。

註記26)藤澤親雄『全体主義と皇道』東洋図書,昭和15年,序言2-3頁,121頁,169頁。

註記27)同書,183頁,195-196頁,196頁。

註記28)川島高峰『流言・投書の太平洋戦争』講談社,2004年,153頁,283頁。

註記29)河合弘道『日本社会学原理』昭森社,昭和18年,7-8頁。

註記30)岩波講座『近代日本と植民地1 植民地帝国日本』岩波書店,1992年,267頁。 

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