ドイツ・ナチス期「戦時・ゴットル経済生活論」から敗戦後「平時・経営生活論」へと隠密なる解脱を図った「経営哲学論の構想」はひそかに「ゴットルの名」を消していた(8)
※-1 戦中と戦後
山本安次郎の戦後作,『経営管理論』(有斐閣,昭和29年)は,昭和17年建国大学のテキスト謄写版『現代経営管理論』を原本とし,学位論文となった著作である。註記1)
注意したいのは,その『経営管理論』〔「序」〕は,「問題を行為的主体存在論的に考えることの必要は今日いよいよ増大している……,本書の如きもその存在理由を主張し得る」と述べ 註記2),戦時体制期に満州国で高唱していた自説の立場を,戦後においても復唱したことである。
同書の本文は,「古くから問題としている公社は,……国立公社に限定せず,寧ろ,会社企業を越えて考えられ,いわゆる公私混合企業に対して公私統一企業として規定せられるものも含むが,問題の中心は私立の公社である」と註記をくわえ,そこに,作田荘一『経済の道』も再度,参照文献に挙げていた。註記3)
山本学説の企業体制発展史「観」は,単純素朴で単線的なそれであった。「戦前戦時中は経済的国防力の中心として,戦後に於ては破壊せる国民経済の復興,やがては自立経済の確立を担当するものとしてその経営力の最高ならんことが要求せられる」註記5)という記述にみてとれるように,時代の変化を突きぬけて,ただ一直線にすすむだけの史観に支持されていた。
山本がまた,敗戦後における「経営の民主化は近代経営の構造的変革という正に歴史的意義をもつものといわねばならない。この意味にて,それは経営の歴史的社会的合理化といわねばならない」註記6)と発言した内容は,戦時体制期と敗戦後の政治的価値観の基本的な相違を棚上げしてのものであった。
「戦時は経済的国防力」であり「戦後は経営力」であるというような,体制無関連的な視点に立った生産力「論」的な視座の一貫性は,実は,社会科学に最低限必要とされる歴史的感性すら欠いた,根拠の薄弱な議論の見本である。
山本は,敗戦を機に自身に降りかかった不幸・不運を,相対化も客体化もできない経営学者であった。だから,戦時体制期とそれ以後に関連する論点については,なにをいわれても理解できなかった。
だが,山本は,自身の人生行路において岐路をもたらした,つぎのような自分史的な出来事に触れていなかったわけではない。
▼-1「小樽軍教事件」
大正14〔1925〕年10月,小樽高等商業学校在学中の山本は,同校の「朝鮮人暴動」想定問題に端を発した軍事教練実施に対する反対運動に参加し,停学処分をうけた。小樽高商から挙がったその抗議の声は,全国に広がった。しかし,治安維持法下の弾圧はきびしく,山本は事後,学校当局によって会社就職の道を堅くとざされ,大学へ進学,研究者の道へすすむこととなった。註記7)
山本はまた,戦中⇒戦後に関して,「戦争経済から平和経済への転換,これにつれて思想,教育,文化,一切の価値の転換が問題となる。一つの革命といい得よう。だから,転換は復興であり,また発展である」註記8)と解説していた。
戦前⇒戦中,戦中⇒戦後に生じたそのような「時代の転換・発展」に言及するに当たって山本は,自身もその形成に関与した時代の要因だけでなく,自説が前提とした国家観も徹底的に破壊された事情を,真正面よりとらえることができず,別世界の出来事であるかのように放置してきた。それでいて,持論の価値=独自性だけは,なにも支障なく,激変した時代を生きぬいてきたつもりなのである。
山本がよく使う修辞・文章の表現方法に,こういうものがあった。「戦前史と戦後史とは連続の非連続であるよりは非連続の連続である。両者間には非連続の面,断絶の面が強いことは否定できないが,連続の面も忘れてはならない」。註記9)
人を「煙に巻いた」ような,こういう西田哲学的用法を駆使した衒学的な記述は,実際のところ,山本自身だけは除外したものであった。
筆者が長年にわたり,山本理論に対する経営思想史的分析をくわえ,その「〈連続の非連続〉即〈非連続の連続〉」の論理の「カラクリ=まやかし」を問題にし,批判した点を,彼は皆目,理解できなかった。というより,指摘された問題点を理解しようとする姿勢すらまったくなく,ひたすら反発するばかりであった。
山本はまず,自身の運命を左右した歴史的事件の「小樽軍教事件」に触れ,さらには,日本敗戦を契機とする「思想,教育,文化,一切の価値の転換」にも触れていた。そうであれば,山本の自説そのものをめぐっても,なんらか,戦中から戦後での「思想,教育,文化,一切の価値の転換」があったはずである。
ところが,社会科学者の立場にすれば非常に重大な意味をもつはずのそのような思想史的に体験してきた学問の諸相が,山本の悟性においては,自己の問題として客観的に意識化されることがなかった。歴史の展開に即してみれば確かに,山本学説の理論変質が記録されていたにもかかわらず,これを平気で無視できた。
しかし,それとは対照的に興味深いのは,ほかの日本の経営学者に生起した「理論変更」をみのがさず,それを山本が指摘していたことである。他者の理論に生起した変質に対しては,手きびしい評言を残していた。
▼-2「中西寅雄・個別資本学説の評価問題」
たとえば,中西寅雄「個別資本〔運動〕説」に与えた評言がそのよい例である。山本は通説的な解釈にしたがいながら,中西が『経営経済学』(昭和6年)の「マルクス〔主義〕経済学的な」学説を放棄したかのように理解したうえで,中西の「学者的良心と勇気に対して敬意を表したいと思う」と受けとめ 註記10),根本から見当ちがいの態度を表明した。
山本は,「経営経済学の自律性の否定説(中西理論)から肯定説へ……の転換ないし転換の可能性を」指摘し,「個別資本説の開祖ともいうべき中西寅雄博士の否定説から肯定説への転換の宣言を忘れてはならない」と,これまた勘違いの認識を重ねたうえで,中西の立場に対する一方的で好意的な解説をくわえていた。註記11)
だが,以上のような中西「経営経済学」説の理解は,二重の錯誤を犯すものだった。
ひとつは,中西にあってはもとより「転向」に相当するような理論の変転がなかった事実であり,もうひとつは,そのうえで,前段のような的外れの「評言」そのものを与えた点である。
だが山本は,自身が背負わねばならなかった,つまり当人が十分気づいておくべき「歴史的に関係する事実の介在」に関しては,まったく無頓着であった。
▼-3「規範学説の理解問題」
さらに山本は,西田哲学に開眼し,「経営行為的主体存在論」の立場を会得したという時期より4年ほど前に執筆した論稿,「規範的経営学説の批判(1)(2・完)」(立命館大学『法と経済』第6巻第1号・2号,昭和11年7月・8月)を公表していたけれども,
この論稿が実は,戦争の時代に移ってからの「自説の立場」を,まっこうより否定,批判する内容に変化していたゆえ,山本学説の理論的な展開をありままにまず接しようとする他者には,戸惑いを与えること必至であった。
以下に引用する記述はすべて,事後に変質していったあとに登場する山本学説,すなわち「本格的な経営学」「公社企業」という立論・提唱にこそ向けられるべきであり,すなわち,それを根幹から批判しつくす論旨になっていた。
この規範経営学説に対する批判は,昭和15〔1940〕年を境に「戦時体制の経営学」へと変化していく「山本学説の運命」の,その後において不可避となる難関を予見させることになった。
つまり,「経営学に対する規範価値の措定は結局失敗に終ってゐる」。「更に事実上価値判断が行はれることから直ちに経営学が客観的価値判断をなさねばならないといふ主張に飛躍するの誤謬を犯してゐる。客観的価値判断の可能を論証せんとするが試みが,如何なる形で現はれやうと科学の領域に止る限り不可能であり,事実,規範的経営学説も一の独断に陥ってゐるのである」註記13)と論断したのは,ほかならぬ山本安次郎自身であったからである。
昭和11〔1936〕年の時点で山本はまだ,独自の学説的地平を開拓・確保できていなかった。しかし,昭和15〔1940〕年西田哲学に開眼し,経営学の新境地を獲得できたと確信するとともに,前述のような「規範経営学派に対する根源的な批判」の立場は放棄した。そして,「戦争の時代が要請する方途」に迎合するかたちで,経営学の立場を規範科学化させていった。
山本は,「経営学も亦価値判断をなさねばならず,またなし得ると主張する点」「は結局失敗に終ってゐる」。なによりも「規範的経営学説」は,「客観的価値判断の可能を論証せんとするが試みが」「不可能であ」るのに,そ「の誤謬を犯し」「独断に陥ってゐる」と,きびしく批判した。
だが,山本は以後〔次段以下においてより具体的に分析・批判する論点となるが〕,国家全体主義が戦時体制期において求めていた「資本主義の矛盾の反映としての『正しき経済』への信仰の表明」を,経営学者としておこなうこととなった。「経営学をして科学ではなく,戦時体制学として形而上学への道」に誘導する役割をはたしたのである。
1936年の「規範学説」批判の立場から,1940年〔以降の〕「規範学説」密着の立場へと移動した山本の理論であったのだが,筆者がその山本の立場を「規範学説」そのものに位置づけた観点をとらえて,「短絡的思考むしろ乱暴さに驚かされた」註記14)と,なぜか,完全に逆方向に反発することになった。
しかし,1940年〔以降の〕の山本は,1936年の「規範学説」批判に明示した自身の立場を忘れさったかのようにも感じられた。譬えていうなら,1940年〔以降の〕山本自身は,1936年の「規範学説」批判による,自身の「その返り血を浴びる」べき必然的事由があった。
ところが,戦時期に発想した自説を,全面的に否認するほかなかったその1936年の「論稿」の見解は,以後においていっさい否定も撤回もされないまま,しかも,その後になにもなかったかのように移動していった。
ところが,山本は1940〔昭和15〕年以降の自説の立場は,「広義の経営学を,時の構造(過去,現在,未来)からする認識帰趨に従って,歴史,理論,政策に分けるのである。経営政策即規範論の現実的必要と存立の可能を説くが,狭義の経営学は実践理論科学説をとる。単純に規範学派とされては困るのである」註記15)と断わっておき,西田哲学論を摂取した自身の「経営学方法論」が,いかに絶対的に秀抜な観点に立つかを,口を極めて強調していた。
ここでまさしく,山本学説の規範的性格があらためて問題とならざるをえなくなっていた。
山本の経営学の立論は,1940~1945年の〈日本の歴史:戦時体制期〉とどのように対峙していたか,そのなかでどのような〈経営の理論〉を提唱していたか,またどのような〈企業の政策〉的な概念を提案していたかなどを,筆者は終始一貫,山本に問うてきたのである。
ところで,山本は「いまや『古典』ともいうべき西田哲学については或る程度歴史的普遍性を認めてよいと思う」註記16)まで豪語してもいたが,その「或る程度」とは,いったいどの範囲までを指すのか,全然自明ではなかった。
もちろん,山本学説内での内面心理的な,そして感性認識的な理解に限って,十二分に自明なことでありえたかもしれない。要は,自身において自明に過ぎた〈核心の主張〉であったなにかが,ひたすら他者に向けて喧伝されるばかりであった。
しかしそれは,社会科学者に「開眼」を要求する山本の学問のことであったゆえ,他者には計りしれない「或る程度」であったと解釈するほかなかった。とはいえ,それはあくまで「可能性の問題」であり,他者においては,どのようにしてであっても,理解しきれない要素を残していたその表現であった。
山本はとりわけ,筆者に対してであったが,「西田哲学は」「われわれにとって唯一の経営哲学なのである」から「勝手な『解釈』をされても困る」ともいった。註記17)
筆者は,こういう種類の意見を聞いて異様に感した。なにかがおかしいと思わずにはいられなかった。「西田哲学の解釈」は,日本の経営学分野の場合,哲学論としては「山本安次郎流のそれ」でしか許されない,あるいは,なんどもいうが「山本安次郎とともに開眼」しないと「会得」できないような特殊個別な性格を有する「哲学」〔専売特許?〕問題だとすれば,これはおよそ「学問の世界」の出来事としては「眉唾もの」だと処遇されてよい。
山本は,戦時体制期に生起した研究環境条件の悪化・困難に対面するなかで,西田哲学「論」と作田「公社」論とにもとづく「公社企業」概念を構想し,戦争推進に積極協力する経営理論を昂揚させることができた。
したがって,山本『経営管理論』「序」(昭和29年)が他人事のように回想した「戦争の時代における問題」指摘は,逆転させられてまさしく山本『公社企業と現代経営学』(昭和16年)の内容そのものを,つまり,過去の山本の学問のこと(問題性)を,かえって,ありのままに「記述したもの」になったはずだ,と反問されねばならない。
というのも,前段で言及してあったように,山本の戦後作であった『経営管理論』(有斐閣,昭和29年)が実は,昭和17年に準備された建国大学のテキスト謄写版『現代経営管理論』を原本とし,学位論文となった著作である関係からしても,前段のごとき疑念が浮上させられて当然であったと理解して,無理はなかった。
以下は,先述に引用した文章につながる個所からの記述となる。
この記述は,過去のものとなった「満州国企業経営体制の現実」を批判するかたちで,山本が書き残した文章である。だが,筆者が前段のごとき回想を読んで感じたのは,山本『公社企業と現代経営学』(昭和16年9月)の立論も,この山本自身が敗戦後になって『経営管理論』昭和29年のなかでみずから提示した批判そのものを,逆流させて甘受するほかなかったことである。
というのも,同書は結局,満州国政治経済の発展・成功にとって,必要不可欠な経営政策的とされた「理想的な経営概念」=「公社企業」論を高調する,すなわち「高く政治目的を掲げ徒に大言壮語し,主体性を高調するも客観的把握は軽視」する著作になっていたからである。
わけても,山本『公社企業と現代経営学』が強調したのは,満州国統制経済の改革に不可欠の目標像とされた「公社企業」論である。当時満州国が企業体制の中心においていた「特殊会社」を再組織するために,その公社企業「像」を政策規範的に用意したのである。
それゆえ,自説が「規範学説」の立場とまったく無縁であるかのように反論した山本の説明は,自身の研究史に記録されてきた事実に反するだけでなく,虚偽になっていたといってもよい。
※-2 論稿「満洲に於ける特殊会社の再組織問題」
昭和16〔1941〕年5月25日,京都帝国大学経済学会大会において,山本が発表報告した論題を活字化した論稿「満洲に於ける特殊会社の再組織問題」は,こう提唱していたので,以下にしばらく聞きたい。
山本が満州国民経済に対して垂範した「真に」「正しき道」は,「特殊会社再組織の方向」であり,「公私企業の統一たる公社企業」の方途にあった。それは,満州国民経済を構成する「計画経済的再生産の自覚的担当者」に課せられた,社会科学的な「実験そのもの」でもあった。
実は,戦時体制期における「満州国民経済」に対してそのような主張を繰りひろげた山本安次郎こそ,「高く政治目的を掲げ徒に大言壮語し,主体性を高調するも客観的把握は軽視せられ」た立場に立っていたのではなかったか。そういう自他を「すりかえたような論法」はふつう,「天に唾する」とか「省みて他をいう」とかに譬えられてよいのである。
当時,「営利主義による能率増進の時代は既に過ぎ去った」と,山本は断言した。戦後,このことをどのように再論したのか。山本安次郎『増補経営学要論』(ミネルヴァ書房,昭和41年)は,こう説明していた。
「経営学においては,利潤の問題は会計の複合利潤を中心に,経済理論的分析を考慮しながら,経営政策の基礎を解明するところにある」。つまり「利潤を中心とする多目的論の展開こそ今後の問題といわねばならない」。註記20)。
この説明が「営利主義による能率増進」を排除しえないことは,贅言の余地もなく,明々白々の事項であった。つまり,戦争の時代に山本は,経営目的論について完全にまちがえた説明をしていた。戦後になると彼は,過去の自分の見解を否定する説明をしていた。
もしかすると,戦時期の満州国民経済における企業目的論と,敗戦後の日本産業経済における経営目的論とではその基本的な観点を変えてもよかった,とでも弁解するつもりだったのか。しかし,筆者によるこのような疑問の提示は,山本自身においては問題外というか,想定外であるかのように理解され排除された。
※-3 学会発表「公社問題と経営学」
つぎに,昭和15〔1940〕年10月20~22日神戸商業大学で開催された日本経営学会第15回大会で,自由論題「公社問題と経営学」を報告した山本安次郎は,こう主張した。
戦時期における満州国計画経済をとらえて,国家的な「行為の立場」「主体の立場」による「経済の経営化」だと観察した山本の理解は,平井泰太郎の戦時「経営国家学」を彷彿させる。山本はともかく,この論稿「公社問題と経営学」の末尾で,「吾々の課題を遂行し得たかどうか,それは批判にまつ外ない」註記22)と断わっていた。
満州国における「社会科学的な実験」だと山本が規定した経営政策的な「公社企業」論の企図は,日本帝国の敗戦に遭遇することで水泡に帰した。1945年8月を境に,その実験を歴史條件的に囲んでいた現実的前提は一瞬にして瓦解し,そのすべてが喪失させられた。
1) 補 述:その1
満州は土地が広かったから,日本から開拓者がどんどん押しかけて,開拓村を作り,石炭などの地下資源が豊富だったから,それを開発して掘り出しては日本にもってきました。産業資本も満州に進出して,重工業から軽工業まで工場が密集した工業地帯を作るなど,経済開発を進めていきました。
台湾,朝鮮を含めて,一時,経済的には,日本の植民地経営は大きな成功をおさめたので,全アジアを舞台にもっともっと大きな帝国を経営しようという夢(大東亜共栄圏構想)を大きくふくらませたあげくに,バブルがはじけるが如く全部ポシャッて,何もかも失ってしまったというのが,日本のあの戦争の時代の簡単な総括です。註記23)
2) 補 述:その2
丸川哲史『帝国の亡霊』(青土社,2004年11月)は,「満州国」をつぎのように語る。なお丸川を引用する前に,こう断わっておく。
① もとより「満州国」は日本帝国による制作物であり,またそのためにこそ「本物」らしさが充填されなければならかった。統治の正統性を担保するために,清朝最後の〈皇帝溥儀〉という,政治的には一度死んだ「身体」が祖先の地に呼びもどされた顛末である。
皮肉をこめていえば,まさにその起源の正統性こそ,「満州国」の人工性をきわだたせていたものである。その意味では,溥儀が味わった「満州国」崩壊という2度めの悲劇は,まさに日本が作りだしたものだが,「本物」と「偽物」のあいだで揺れたこの人造人間の苦しみについて,日本人はまだ誰1人責任をとっていない。
② かつての日本帝国は,「満州国」という人工怪物(リヴァイサン)を生み育てた一方,戦後の列島規模に生まれかわったとされる「日本」(かつての親)は,必死にその怪物の帰還を不気味な存在として撥ねつけつつも,そこでえられたなにがしかを養分にして我が日本を「復興」させた。
そこには,「満州国」という怪物を造った欺瞞と,おのれが造ったその怪物を忘却しようとする二重の欺瞞がある。
そして,この二重の欺瞞の上に,一方では戦後体制を再構築する人物の復活があり,もう一方ではかつての植民地体制とその崩壊によって生じた〈傷〉がとり残されることになった。
③ 今日,日本人が過去の経験とつながる回路を閉ざしているとするならば,それは,大いなる遺産を放棄していることでもある。日本人がかつての植民地=帝国の記憶を単にうしないつつあるのではなく,「過去の体験を思想化しえなかったことの証左」である。
しかし,戦後から持続させた,あるいは作りあげた実感の延長だけでは,再び歴史に,また現在の歴史に参入することはできない。
④ 実のところ,帰るべき内地のあった日本人は,たとえ荒野に野たれ死んだ多くの受難者を出したにせよ,引揚船のある港に出さえすれば,なんとか生きのびて内地に帰ることができたわけである。
であるならば,そんな日本人が列島規模の戦後日本へと滑りこんだ瞬間,かつての「満州国」は,言説化困難な謎のまま宙づりにされる以外にはなかった。そして,その後の〔中国の〕内戦への突入,また朝鮮戦争の勃発も,まったくの他人事としてあつかわれてしまった。 註記24)
--以上,まことに意味深長な満州国「戦後」論である。筆者はこれに付けくわえる記述をおこなわない。
ところでだが,「満洲国」建国大学在籍時の山本安次郎という経営学者は,どのように,その満州国の社会科学的な実験に関与してきたのか。その後の,つまり「敗戦後のいま」になって論じられることになった満州国時代における「公社企業」論は,山本の主唱であったその核心がである,あたかも「他人事」のように語られるか,あるいは「傍観者の立場」で観察される顛末を迎えていた。
結局,山本「公社問題と経営学」論は,その冒頭部分でつぎのように断わっていた。
「多くの場合批判は現実の課題からではなしに,一定の学説に立つ学的理念から単に方法論的に問題とせられたから,或は超越的観念的な言葉の問題の如く見え,或は独断的にして説教的臭味さへ帯び,現実的迫力をもち得なかったことを否定出来ない」。註記25)
「満州国時代における自説」のことでありながら敗戦後,それを他人事のように回顧しつつ批判した山本の視点こそまさに,「現実の課題からではなしに,一定の学説に立つ学的理念から単に方法論的に問題とせられた」ものであった。
往時の山本学説:公社企業「論」は,満州国における「社会科学的実験」への参加を通してえられた「現実の課題から」の,満州特殊会社に対する「批判」の基盤となる,かつまた,満州国民経済に対する「改革」のための具体的な目標を意味した。
だからこそ山本は,満州国の国策的な特殊会社を改編するための「公社企業」論を提唱した。この経営政策的な議論はたしかに,一定の「現実的迫力」をもっていた。しかし,敗戦後,その大きな実験ははかない夢となった。結果的にいってのけると,「その姿の具現」にはもともと無理があったことになる。
ところが,敗戦という歴史の審判を下されたために,その満州国の社会科学的実験に深い関係をもった山本学説もまた,「独断的にして説教的臭味さへ帯び,現実的迫力をもち得なかった」という結末を突きつけられた。
にもかかわらず,山本「公社企業」論がのっぴきならない関与をしてきたはずの,満州国「政治経済史的な事実展開」の側面だけは,別途に引きはなすことができたつもりになって,この「側面の問題」をまるで他人事のようにあつかい,〈大言壮語〉であり〈客観的把握軽視〉の時代だったと「超越的観念的」に非難した。
だから山本安次郎が敗戦後になって語ったその満洲国体験への回想的な解釈は,基本的には歴史の事実を無視し,あまつさえ自身の関与を無化させようとした完全なるご都合主義,いうなれば「頭隠して尻隠さず」の自己弁護論であった。
もう一点指摘する。山本は,満州国「計画経済の当来性は最初から自明のことに属する」と論断していた。だが,その「自明」性のその後における顛末はどうなったのか。この点の詮議はとくにしないけれども,山本にとって事後,日本国⇔満州国の「敗戦体験は自明ではなかったのか」とだけ付言しておく。
『公社企業と現代経営学』(昭和16年)において山本自身が動員・駆使していた,如上のような〈大言壮語〉〈客観的な把握の軽視〉〈歴史錯誤観〉をさらに,以下に列記しておこう。まず,
a)「世界史的使命」,b)「世界史の創造者」,c)「大東亜の建設」,
d)「世界新秩序の建設」,e)「真に国民経済本然の姿」,
f)「国家的根源的危機」など。
そして,g)「現代経営学は」,「現代的企業形態の特質を最も鮮明に浮き上らす」「公社経営論である」。
これらは,山本が「本格的経営学」と自称してきた
h)「国民科学に属すべき」「国家の立場」においての,
i)「行為の立場」「主体の立場」における経営学の立場であった。
ところがである,戦後において山本は,如上の a) b) c) d) e) f),すなわち「戦争の時代」の標語にほとんど言及しなくなかった。それらは,時代の推移から転落した概念であり,より正確にいえば,もう「言及できなくなったもの」だったからである。それらは「戦後に消滅した部分」となっていたわけである。
だが,山本の g)「公社経営論」は主に,著作の註記中でなおも,断片的・散発的に言及されていた。くわえて,h)「国家の立場」は,註記のなかであったが,ごくわずかに言及されていた。これらは,戦後にまで多少はつづいた部分となったころになる。
しかしなかでも,i)「行為の立場」「主体の立場」だけは,戦前⇒戦後をとおして一貫,繰りかえし主張されてきた。これは,戦後にもそのままそっくりつづいた部分であったことになる。
これらのうち,「 a) b) c) d) e) f) 」群の「歴史観の問題」は,戦時中だけは,たいそう威勢よく主張されていた。
また,「 g) h) 」群の「経営政策規範論の主唱」は,戦時期においては当然だったものであったが,戦後になると遠慮がちになりながらも依然,確信をもって記述された。
そして,「 i) 」の「経営行為的主体存在論」は,戦時と戦後を通貫してきた見解として,終始,記述・主張されてきた。
以上,3群においてとりあげられる論点の「明らかな相違」を無視したまま,戦時期も戦後期も自説の変転〔進展?〕に関して差異がないといいはるのは,どうみても大きな無理があった。
前述にもあったように山本はご都合主義の用法で,「戦前〔戦時〕史と戦後史とは連続の非連続であるよりは非連続の連続である。両者間には非連続の面,断絶の面が強いことは否定できないが,連続の面も忘れてはならない」と断わっていた。まさに,いろいろな含意をもってだが,そのとおりであったといえなくはない。
山本は,「戦前史と戦後史」において「非連続の面,断絶の面が強い」自説に不可避で固有な難点を,その「連続の面も忘れてはならない」と自己弁護するやりかたで,ごまかし通してきた。
本ブログ筆者は,「連続の面」を「忘れない」でくれ(!)とばかり強調した山本理論の「歴史的な断続性」を,その「否定できない」はずの「非連続・断絶の面」に注目することで,総合的に検討をくわえかつ批判もしてきた。ところが,現役時代に生きていた時期の山本からその後,筆者のその批判に対して返される答えはなにもなかった。
3) 補 述:その3
戦時期満州国「政治経済史的な事実展開」に対応するための理論的な具体観であった,山本「公社企業」論の〈大言壮語〉〈客観的な把握軽視〉を,たとえば当時の著作,藤澤親雄『全体主義と皇道』(東洋図書,昭和15年1月)に聞いておく。
こうした世界観のもとに,「今日我々は満州国と皇国との根本関係をはっきりと再認識しなければならない。而してこれに関する深き自覚が生じてこそ,支那の道義的新秩序も確立せられるのである」というふうに,日満関係が措定されていたわけである。
さらに藤澤親雄『全体主義と皇道』は,つぎのように自信をこめて語ってもいた。
戦前においてはこのように当然,日本帝国が東亜地域を支配し,世界全体すら統御する立場に立つべきと考えた「まさしく帝国主義の〈価値観〉」が垂示すされていた。これが公的に標準の国家思想になっていた。そうだったとすれば,そこに〈客観的な把握軽視〉になる〈大言壮語〉が実在していたといって,少しも大げさにはならない。
川島高峰『流言・投書の太平洋戦争』(講談社,2004年12月)は,満州事変までさかのぼらせた言及を,つぎのようにおこなっていた。
4) 補 述:その4
作田荘一『国民科学の成立』(弘文堂書店,昭和10年)は大東亜戦争の時期,ある社会学者から批判が提起されていた。
河合弘道『日本社会学原理』(昭森社,昭和18年1月)は,作田「国民科学」に方法論が欠落することを指摘,批判した。
さて,満州国における山本安次郎の政策理論:「公社企業」は,「経営行為的主体存在論」の本質論,方法論に立脚して展開するさい,そのめざすべき方向性においては,「国家〔科学〕の立場」にしたがうことを運命づけられていた。
しかしながら,そうした「自説の構想」や「理論の核心」を具体的に展開したのちすぐに,河合弘道『日本社会学原理』(1943年)のような疑問が登場したことを,山本は不知だったと思われる。
とはいえ,山本学説のばあい,西田哲学に確固と基礎づけられた「経営学の本質論・方法論」=「経営行為的主体存在論」の理論的な信頼性は,並たいていの程度ではなかったから,作田がうけた前段のような批判・問題点は回避できるもの,と確信されたはずである。
河合『日本社会学原理』は,作田の「国民科学の成立」の問題点に言及したけれども,戦争の時代における歴史的状況=「全体主義的把握の態度」が当然に共有されていた前提だったことも,同時に指摘していた。
山本安次郎という経営学者も,戦時期に特有の世界観・歴史観・価値観に異をとなえず,積極的に支持していた。
5) 補 述:その5
岩波講座『近代日本と植民地1 植民地帝国日本』(岩波書店,1992年11月)は,大東亜:太平洋戦争の時期にきわまった「アジアを侵す『大日本帝国』」の根本性格を批判しつつ,こう回顧する。
山本安次郎が戦後期,持論の「経営学説」のなかで繰りだした〈哲学的な修辞〉,つまり「戦前〔戦時〕史と戦後史」およびその「連続の非連続即非連続の連続」論は,以上のような当時の世界史的な情勢に疎かった。
それをいいかえれば,「世界史的使命」とか「その課題」とかを高唱したわりには,戦時期以前から存在し,認識されていた「世界の歴史的な事情」に無縁だった「社会科学者:山本安次郎のその立場」は,みずから暴露したがごとく実は,ごく一過性の正統性しかもちえなかった。
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