「国民のための日本」か,その「象徴の天皇」の日本か,新天皇になる皇太子徳仁「誕生日」などの記事が溢れていた2019年2月23日『朝日新聞』朝刊の紙面構成(その2)
※-1 2024年元日早々から「大災厄:大凶発生」のこの国,その基盤には安倍晋三が壊した日本そのものが横たわる
「本稿(2)」は,昨日2024年1月3日に記述した「(1)」の続編であるが,その内容そのものは,2019年2月24日に記述した当該「(2)」の復活となっている。もちろん補筆や追記も付加されている。
付記)なお「本稿(その1)」へのリンクはこちら( ↓ )
⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/n293e7f667306
もちろん,本日の改稿にあたってそれなりに追論する段落もあるが,この2024年正月は1日能登半島地震で震度7を本震とする,しかも震度5の余震がすでに10回以上もつづくという,従来はあまり体験(記録?)したことのない地震災害が発生していた。
しかも3日になると羽田空港で着陸態勢で滑走路に降りてきた「札幌発の日航機」が,離陸を待っていたがどうやら「管制塔からの指示」にしたがわなかった疑いがもたれる海上保安庁の航空機が,接触するかっこうで激突,両機ともに炎上した。
この衝突・炎上事件に関しては,つぎのように海外から称賛の声が寄せられている。このような事件や災害発生時,日本の会社・日本人の対応は素晴らしい,という高い評価が与えられる一例になっていた。
しかし,視線を能登半島地震のその後,被災地に対する救援・支援の状況がどうなって進んでいるかを観ていると,未解決の諸問題が山積したままである事実に愕然とさせられる。この諸問題は,積年の課題として改善が要望されていた具体的なものであって,政府(安倍晋三第2次政権時から)の重大な責務になってもいたはずだからである。
今回のその疎漏ぶりをいっそうきわだたせる顛末になっていたのが,この正月に起きた以上のごとき重大事件「2件」であった。以上の指摘をさらに明解にさせたいのであれば,ネット上を検索をかけるとすぐに出てきた,つぎの解説が参考になる。
住所(リンク先)はつぎに指示してあるが,さきに,その題名だけを文字でも引用・表記しておく。
「先進的な海外の避難所に学ぶ! 地域に生かす避難所運営(前編)『食事』」『moshimo ストック もしものための防災情報』2022年5月9日。
「先進的な海外の避難所に学ぶ! 地域に生かす避難所運営(後編)『トイレ・ベッド』」『moshimo ストック もしものための防災情報』2022年5月16日。
この2編のなかに記述された内容は,われわれ日本に暮らす人びとの平均的な理解にとってみれば,あまりにも「実際に体験されられてきた事実」からは,だいぶかけはなれていると受けとるほかない。
前記のネット記事2編は,「まともな国々」に発生する災害非常時において避難を余儀なくされた「人びと(国民・市民・庶民)の生活に対して準備されている待遇」を説明している。
前段に紹介した2稿は,前編の冒頭でこう書きはじめている。
今回発生した能登半島地震で避難所に移って生活するハメになっている人びとの姿は,いうまでもない記憶になっているが,2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災(東電福島第1原発事故)のとき,避難を余儀なくされた人びとが待遇された「ひどい生活条件」と,まったく同じに,劣悪な避難所での生活を始めている避難民がすでに大勢出ている。
安倍晋三の第2次政権以降,「3・11」のあの大災害のさいして,被災民がどのようにあつかわれてきたか? その風景・光景・模様からまったく進歩がないまま,避難民がまるで緊急に野原でキャンプ生活を強いられたかのような「既視感」が再生している。
SNSに若い女性だと思うが,以前だが今回と同じような避難生活のなかで,体育館から少し離れてあるトイレにいく途中で,中年の男性から性的乱暴を受けそうになったというごとき「恐怖体験」に関する投稿があった。
確かにまだ日本は一般的,平均的には安全な街である場所が多いが,災害発生後になって生じていた以上のごとき事例は,女性の立場にとってみれば恐怖そのものであり,避難所でトイレですらろくいけなくなるという事態はいったいどういうことか。
日本では災害時や緊急時であっても,皆が列を乱さずに救援物資を給付される場面などが,海外では「日本素晴らしい,スゴい」と称賛される事由になっているものの,実際にはその陰で海外並み(?)に残酷な事象も,災害時のどさくさに紛れて犯す「奴ら」がいるという指摘が,前段の女性の口から批判されていた。
補注)イスラエルとパレスチナの紛争中である現在だが,救援物資をうけとろうとする人びとのモッブ(群衆)的な行動はニュースでも報道されていた。
この2024年正月,自然現象である能登半島地震や,羽田空港で突発した航空機事故とが1日と2日に連続して起きたことで,いまの日本,本当のところ,実際にはどういう国になりつつあるのかを,否応なしに教えた。
安倍晋三が第1政権を構えていたとき,これは吉井英勝『国会の警告無視で福島原発事故』東洋書店,2015年にも記述されていた事実であるが,2006年12月22日に安倍が当時,首相の立場から答えた「原発の危険性」に関して吉井に返した「完全に間違えた認識」が,2011年3月11の東電福島第1原発事故を惹起させる素因になっていた。
その種の重大な政治責任もさることながら,この安倍晋三の政治路線を盲目的に継承した現在の岸田文雄の方途もまた,実際に能登半島地震が発生していたにもかかわらず,「10年一昔」というそのまた以前の「とてつもなくだらけた災害発生に対する緊急の対応措置」しか展開できていない。
「いまだけ,カネだけ,自分だけ」の悪代官的な自民党政権がすでに13年近くもつづいてきたせいで,国民・市民・庶民が自然災害でそれこそ途方に暮れるような目に遭わされているにもかかわらず,いまの「自民党政権」は国民たちの生活がこのような非常事態に落ちこんでいるさいであっても,いまだにモタモタと対応するしか「能がない」
また,自民党と野合政権を組んでいるオカルト政党,創価学会公明党は,いま,いったいなにをしているのか? 平和と福祉ということばが漢字が泣いている。
さらに野党である日本維新の会は,ふだん「実を切る改革」をするのだとう大言壮語をかかげていたが,最近の関西万博の企画実現に向けた政治的な采配のなかで,その本性を暴露してもいる途中のなかで,今回の能登半島地震の被災者のために,いったいなにをどのようにして「実を切る支援」をするつもりがあるのか?
要は,2012年12月26日に発足した安倍晋三政権以降の「自民党執権」は,「3・11」東日本大震災,東電福島第1原発事故の「発生」から13年もの時間を経てきたものの,いまの岸田文雄政権になってから起きた能登半島地震の被災者たちに対して,いまだにもっぱら公共施設,具体的には学校の体育館などに収容するしか対応できていない。
最初のほうで紹介したつぎの2稿から1箇所だけ引用しておく。このうちの「後編」からの引用となる。適宜に切り貼りしつつ紹介する。
以上に説明されてているスフィアの4条件は,能登半島地震の被災者となった人びとに対して,現在,どのような状況に置かれているのか? 昨日,1月3日午後9時55分の報道だとこう解説されていた。
皇室側が「新年一般参賀中止」としたのは当然であった。だが,自民党の国会議員たちの感性にしたがうと,災害が予測された時点・状況のなかでも,自分たちだけはやりたい放題であった。
有名な話としてこういうものがあった。
2018年7月5日夜のことであった。その時間になったころには「西日本豪雨の被害が迫っていた」が,東京では自民党国会議員ら約50人が宴会を開き,盛りあがっていた。当時首相であった安倍晋三もともに出席していた。
しかも,その西日本豪雨が実際に襲来していた夜に,「赤坂自民亭」と称される某所で,当時の安倍首相ら自民党議員の酒盛り写真を自身のツイッターに投稿したのが,西村康稔官房副長官(55歳,当時)であった。
彼奴等は要するに,繰り返すが「いまだけ,カネだけ,自分だけ」なのであり,災害に遭ってとても困った状態に追いこまれている人たちのことなどしょせん,遠い他人事……。
だが,ここではつぎの事実も付記しておく。
※-2「国民のための日本」か,その「象徴の天皇」の日本か,新天皇になる皇太子徳仁「誕生日」などの記事が溢れていた2019年2月23日『朝日新聞』朝刊の紙面構成について,いまごろになってさらに議論する「その続き」の記述
「本稿(1)」でも最初に断わったこの記述全体の要点は,こういう具合に表現されていた。一字一句は異なる表記になってもいるので念のため。
補注)ちなみに,世界で祝祭日の日数がもっとも多い国はインドとコロンビアの18日,もっとも少ない国がメキシコの7日。とくに西欧諸国は少ない傾向にあるが,日本は多いほうで3位の15日に着けている。
◆「陛下ゆかりの色枠で…ダムカードを無料配布 在位三十周年記念」◆
=『産経新聞』2019.2.22 17:40,「ライフ皇室」,https://www.sankei.com/life/news/190222/lif1902220048-n1.html =
天皇陛下の御在位三十周年を記念し,国土交通省は記念式典がおこなわれる〔2019年2月〕24日から陛下ゆかりの色枠を配したダムカードを製作,全国のダムで無料配布する。東北では岩手の胆沢(いさわ)ダム(奥州市)や福島の摺上川(すりかみがわ)ダム(福島市)など23のダムで配布する。
補注)たとえばこれ。
ダムカードは名刺サイズのカラー刷りで,表に当該ダムの全景写真,裏にダムの情報を記載。無料だが,そのダムにいかないと手に入らない希少性から,ファンの間で人気が高い。国交省摺上川ダム管理所によると,全国で配布しているダムは民間を含め約600あるが,陛下の御在位記念カードを配布するのは169カ所という。
記念カードに配された陛下ゆかりの色枠は,
(1) 陛下が宮中祭祀で召される束帯装束を元にした黄,
(2) 神事の際の御衣の白,
(3) 宝物をイメージした黒,
(4) 天皇,皇后両陛下のお召し列車の茶(小豆色)
の4種類。
東北6県は大川ダム(福島県会津若松市)と横川ダム(山形県小国町)が (2) ,ほかの21ダムは (4) 。いずれも午前9時から午後4時半まで配布する。希望者が多い場合には増刷して対応する予定だ。期間は5月31日まで。同管理所では「いまはまだ寒いけれど,暖かくなってからでいいので,ダムまで出かけて入手してほしい」と話している。(引用終わり)
平成30〔1989-2019〕年間の「天皇治世」を記念する便乗商法というものがある。新聞などの広告にあれこれ宣伝されているが,いずれにせよ「金儲け」のために “貴なる皇族・天皇家の存在” にかこつけて,いろいろと営業政策を工夫したうえで,営利目的の “よりよい実現” を狙っていた。
前段において記事から引用したのは,国家(国土:風土)じたいの業務に関係する省庁のひとつである国土交通省が発行した「天皇陛下の御在位三十周年を記念」を「祝して」「陛下ゆかりの色枠を配したダムカードを製作,全国のダムで無料配布する」とされた催しのことであった。こちらは金儲けとは無縁の,そのものとしては純粋な企画であった。
だが,同じく国家関連による「三十周年記念」のための企画のなかには,造幣局が提供したこういう実例もあった。つぎの註記に挙げた記述が語ったところを聞いてみたい。
註記)「【記念コインの話題】 高っ!! 販売価格13万8千円。天皇在位30年記念貨幣1万円金貨5万枚を発行。ざっと64億円のもうけですな!!」 『おやなみ通信』2018年8月7日,2018年11月5日,http://おなやみ.com/news/8734/)
これは「独立行政法人造幣局」が提供した話題であった。
「財務省は〔2018年11月〕7日,天皇在位30年記念貨幣の図柄を発表した。1万円金貨は,表に鳳凰とキリ,シラカバを,裏に菊の紋章をデザインした。5万枚発行する予定」であり,「11月1日から購入の申込を」「通信販売」で「受け付け」る。「販売価格は金貨単品で13万8千円」とのことであった。
♥-1「金貨単体セット 13万8,000円(消費税・送料込)20,000個限定」
♥-2「2点セット 14万円(消費税・送料込)30,000個限定」
「1万円金貨は純金製で重さ20グラム,直径28ミリ。製造費用が1万円を超えるため,政府が額面を上回る価格で販売する『プレミアム型』の記念貨幣になる」
「500円の銅貨も500万枚発行し,図柄は表が,ご成婚の際にパレードで使用した儀装馬車とキリ,シラカバで,裏は菊の紋章。来〔2019〕年2月ごろから金融機関の窓口で現金と引きかえる」
以上の話題は「プレミアム(型)の記念硬貨発行」であり,つまり国家側が儲かる,実質は「13万8千円以下の金の価値」しかない「1万円の硬貨:金貨」を鋳造して販売するというのだから,
たとえて比較するとしたら,福沢諭吉さんが肖像画に登場する「なんらかの特徴を備えた1万札」を「1万2千円で売る」のとはわけが違うことは,即座に理解できる。諭吉さんが生きていたらなんというかは,ここでは全然分かりえないことなので,この話題はひとまずおしまいにする。
つぎの画像資料は参考にまで,本日(2024年1月4日),ネットから探しだしてかかげておく。いつに,この値段,22万5千円で売れたかは分からないが,差し引き8万7千円の儲けになる。商売としてこの差額は商売の運営にかかる諸経費とのかねあいでも評価されるべき金額となるが……。
なお,2018年1月における金の取引価格もさきに掲示しておくので,参考にしてほしい。
※-3「新たな時代へ,人々と共に 皇太子さま,きょう59歳の誕生日 記者会見要旨」『朝日新聞』2019年2月23日朝刊36面〔の全面を宛てた特別の記事〕
皇太子さま〔令和天皇になった徳仁〕が59歳の誕生日を前に記者会見し,〔2019〕5月に即位を控えた現在の心境や,次代の象徴天皇としての決意を語った。天皇,皇后両陛下に対する思いや,ご家族についても言及した。
これまでも折に触れ,理想とする皇室像のほか,警備のあり方や政治とのかかわりなどについて,踏みこんだ発言をしていた皇太子さま。過去の発言や歩みとともに,会見の内容を紹介する
◆-1 即位前の心境や将来像
昭和から平成の移り変わりを,皇居の吹上御所で迎えました。深い悲しみの中に,一つの時代が終わったという感慨が頭のなかを駆けめぐったことを記憶しています。皇太子となって,その役割に対する自覚が,より根づいてきたように思います。
国民の幸せを願い,国民とともにありたいと思っておられる陛下〔父の明仁〕をお助けすべく,なにができるかを常に考えながら一つ一つの公務に取り組んでまいりました。
国民のなかに入り,国民に少しでも寄り添うことを目指し,行く先々では多くの方々のお話を聴き,皇室がなにをすべきか的確に感じとれるように,国民と接する機会を広くもつよう心がけてまいりました。こうしたことは,今後も活動の大きな柱として大切にしたいと思います。
国際親善と交流も皇室の重要な公務の一つだと思います。
平成28〔2016〕年8月8日の天皇陛下のおことば以来,これから担う重責について,あらためて思いをめぐらせる機会も増えてきました。両陛下から,様々な機会に多くのお話を伺ったことも,大きな道標(しるべ)となるものであり,大変ありがたいと思っております。
これからのことを思うと,とても厳粛な気持ちになりますが,引きつづき自己研鑽に努めながら,過去の天皇のなさりようを心にとどめ,国民につねに寄り添い,人々とともに喜び,ともに悲しみながら,象徴としての務めを果たしたいと思います。
長年携わってきた水問題を切り口に,豊かさや防災など,国民生活の安定と発展に考えを巡らせることもできると思います。取り組みでえられた知見も,防災・減災の重要性を考えていくうえで大切にいかしていきたいと思います。
男性皇族の割合減少や高齢化,女性皇族の結婚による皇籍離脱は将来の皇室の在り方とも関係する問題です。ただ,制度にかかわる事項についてこの場での言及は控えたいと思います。
補注)ここでは「制度にかかわる事項についてこの場での言及は控えたい」といっているが,このことばは裏返しにして聞いておけば,その意味に漂う含意がまたよく伝わってくるはずである。
〔記事に戻る→〕 国民と心をともにし,苦楽をともにする皇室ということが基本であり,これは時代を超えて受けつがれているものだと思います。過去の天皇が歩んでこられた道と,日本国憲法の規定に思いをいたし,国民と苦楽をともにしながら,国民の幸せを願い,象徴とはどうあるべきか,その望ましい在り方を求め続けることが大切との考えは,いまも変わっておりません。
補注)ここでいわれた「過去の天皇」とは,はたして何代前にまで遡れる話であったのか,判然としない中身であった。徳仁当人もそこまでは考えていなかったと受けとるほかないが,突くつめて考えてみると,場合によってとりとめのない話題になるかもしれない。
〔記事に戻る→〕 同時に,その時代時代で新しい風が吹くように,皇室の在り方もその時代時代によって変わってくるものと思います。過去からさまざまなことを学び,伝統を引きつぐとともに,時代に応じた皇室のあり方を追い求めていきたいと思います。
補注)はたしてというか,もっとも,その伝統(皇室・皇族の)とはなにか? こちら側にあっては,なにか少しは判ったようで,まだよく判り切れない点を残す話題であった。2700年近く昔まで遡ったそれか,それとも明治以来のそれか,さらには敗戦後を想定しておけばいいそれか,議論をしたらきりがない論点にもなりそうである。
◆-2 温かい家庭・えがたい経験,糧に
a)『両陛下への思い』
天皇陛下は長年にわたり,つねに国民の幸せを願い,国民に寄り添い,苦楽をともにしながら象徴天皇としてのお務めを果たされ,そのあるべき姿について全身全霊をもって模索をしてこられました。
皇后陛下は陛下のお気持ちを心から共有され,つねに陛下を支えてこられました。陛下は皇后陛下を敬愛され,ご一緒に歩みを進めてこられました。両陛下のこれまでの歩みに思いをいたす度に,両陛下に対して,深い感謝と敬意の念を覚えております。
私自身,両陛下のお手許(もと)で温かい家庭において慈しみを受けながらお育ていただき,また音楽やスポーツの楽しみを教えていただいたり,留学といったえがたい経験をさせていただいたりしたことが,大きな糧となっていることに深く感謝をしております。
ご退位については,陛下が「全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことがむずかしくなるのではないか」と,ご案じになられていることにとても心を揺さぶられましたが,お考えに至られた背景については十分にお察し申し上げます。
「オリンピック・パラリンピック,大変楽しみ」〔です〕
補注)徳仁は両親に対して絶対敬語を使用している。この話法は一般庶民にそれとは顕著に異なる。日本国・民の統合たる象徴の天皇とこの子息がそのような日本語の話し方をするという点は,一定の疑問を抱かれてもなんらおかしくない。
このあたりの問題になると,けっこうな人数いる天皇・天皇制の研究者たちであっても,明確に問題意識を抱いて接近したうえで,それなりに分析したり討究したりする論点に挙げえていない状況は,やや「摩訶不思議」な実情であるというほかない。
b)『雅子さまについて』
この1年も体調に気を付けながら,できるかぎりの務めを果たそうと,一生懸命に努力を積み重ねております。活動の幅が少しずつではありますが,着実に広がってきていることを,本人も私もうれしく思います。
体調には波もありますので,引きつづき焦ることなく,少しずつ活動の幅を広げていってほしいと願っております。今後は,立場が変わることで公務も多くなるなか,一朝一夕にすべてをこなせるようになるわけではないと思いますが,皆さまには引きつづき温かく見守っていただければと思います。私もできるかぎり力になり,雅子を支えていきたいと思っております。
海外での経験もありますし,グローバル化の時代にあって,本人だからできるような取り組みというのが今後出てくると思いますが,いま具体的にはお答えできないです。なにかいい取り組みに将来出会うことができれば大変うれしく思います。
c)『愛子さまについて』
この1年,英国イートン・カレッジでのサマースクールや秋の関西地方への修学旅行などを経て,一段と成長を遂げたように感じています。
◆-3 即位に関わる皇室行事の在り方について
平成の前例を踏まえ,政府において十分な検討をおこなったうえで決定したものと理解をしております。私もおりおりに説明を受けてきており,この場でなにか述べることは控えたいと思います。
d)『平成という時代は』
平成の始まりというときに,ベルリンの壁の崩壊を思い起こします。壁が崩壊し,東西のベルリン市民が壁を登っている姿に,新たな時代の到来を感じました。
また人びとの生活様式や価値観が多様化した時代ともいえると思います。今後は多様性をおのおのが寛容の精神をもって受け入れ,おたがいを高めあい,発展させていくことが大切になっていくものと思います。
◆-4 昨〔2018〕年6月,視覚障害者女子マラソンの道下美里選手の伴走をした感想
どのように声をかけてリードしたらいいか,事前に書物を読んだり動画を観たりして研究しました。最初は少し緊張しましたが,いい経験をしたと思います。三重県で(障害者スポーツの)ボッチャを観てて,ボールを投げてみました。来年のオリンピック・パラリンピックを大変楽しみにしております。(引用終わり)
当時,「新天皇の地位」に就く予定を目前に控えていた皇太子徳仁がこのように,次代の「国とこの民を統合する象徴」となる人間として,とくに父親の軌跡を主に想起しながらであったが,自分が天皇になってからどのように「生きていくのか」について率直に述べていた。
とはいえ,1人の人間が皇族に生まれたがゆえにこのようなことを考え,しかもその決意を「自身:故人の抱負」(見解:努力目標に当たるもの)として国民たちに向けて語らねばならない,といったごとき「日本政治における構図の一部分」は,必らずしも人びとの胸中に(それも簡単に百%)ストンと入りこめるものとはいえまい。違和感をもたざるをえなかった人びとも,少なからずいたはずである。
したがって,そのあたりの問題「人間としての天皇」が「国とこの民を統合する象徴」になるということは,日本国憲法のなかに「平等原則,貴族制度の否認及び栄典の限界」として規定されている,つぎの条項に抵触するとみなしても,けっして不自然な解釈でないどころか,しごく当たりまえの解釈である。
※-4「〈新天皇と新皇后 即位を前に:上)ともに悩んだプロポーズ 『ずっとお守りできるか』心動かす」『朝日新聞』2019年2月23日朝刊39面「社会」から
「実はとても迷いました」
1992年12月初め,皇太子さまはプロポーズをしていた雅子さまにそう切り出し,「ずっとお守りすることが,本当に自分にはできるのか。そんな力があるのかどうか,悩んだからです」と続けた。
その年の10月3日,皇太子さまは宮内庁新浜鴨(かも)場(千葉県市川市)で「私と結婚していただけますか」とプロポーズしていた。
だが,雅子さまが受諾の意思を伝えたのは2カ月が過ぎた12月12日。思い悩んでいた雅子さまの心を動かしたのは,この間,ともに悩んでいたと率直に明かした皇太子さまの誠実さだった。
結婚が正式決定したのち,雅子さまから直接,その時のやりとりを明かされた友人女性が取材に明かした。皇太子さまのプロポーズの言葉としては「全力でお守りします」がしられるが,雅子さまはこのエピソードを,ほおを染めながらうれしそうに話したという。
お二人の最初の出会いは1986年10月,東宮御所でのスペイン王女歓迎茶会だった。その後も友人らが数回にわたり引きあわせたが,雅子さまの祖父が水俣病を起こしたチッソ社長だったことが問題視され,いったんはお妃(きさき)候補から外れた。
「小和田さんではだめでしょうか」。皇太子さまはあきらめず,なんど度も周囲に伝えた。友人は,英オックスフォード大学での留学(1983~1985年)経験が関係しているのでは,とみる。
同じ時期に同大に留学した大阪大学微生物病研究所の松浦善治所長(63歳)によると,皇太子さまは自由に街を歩き,パブでビールを飲むなど「のびのびと楽しい時間を過ごされた」
大学で男子学生と活発に議論する女子学生に感心した様子で,のちに会見で理想のお妃像を問われたさいには「自分自身の意見をしっかりもっていること」と語った。
「殿下は皇室にもグローバルな視点が必要と話していた。留学を通じ,自分の意見を発信できる人が妃にふさわしいと思い定めたようだ」と友人は話す。
補注)皇太子も父と同じ体験を,それも時代を違えてヨーロッパに滞在しているときにえたといえる。
日本国内ではそのように,皇族の人びとが「のびのびと楽しい時間を過ごされた」と形容できる機会がほどんどありえない事実は,東宮御所といういわば〈御殿〉に暮らす彼にとってみれば,ある意味ではいかんとしがたい「日本の皇族」を囲む生活環境,その現実模様であった。
先日,テレビの映像に出ていた東宮御所の表門には,そのときは安倍晋三首相が訪問していたときだけに,警察官たち(皇宮警察の)が厳重に警備していた。彼らの存在(天皇家の人びと)は,日本の国民たちにとっていかなる〈政治的かつ日常的な〉意味を有しているのか,あらためて考えなおす機会があっていいはずである。
〔記事に戻る ↓ 〕
「不調のときも寄り添って 」
1993年6月に結婚したが,雅子さまの歩みは順風満帆ではなかった。「皇位継承権のある男子を」との重圧を背負い,外交官だったキャリアが生かせると期待した外国訪問の機会は限られ,皇室行事では存在を否定されるような体験もあったという。徐々に体調を崩し,2003年に適応障害の療養に入った。
この病では,つらい体験をした場所にいけなくなることがある。皇室行事に出られず,公務から遠ざかった。主治医は気分転換を勧めたが,街に出たり,家族でスキーにいったりすると「公務をせずに遊んでいる」と批判を浴びた。
皇太子さまは,雅子さまが批判記事に触れないよう新聞や雑誌を遠ざけた。2004年5月には記者会見で「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあった」と語った。体調を崩した背景への理解を求めたが,逆に,刺激の強い発言として批判されることもあった。
それから15年〔⇒2019年になったとき〕。雅子さまの体調は上向き,活動の幅は広がりつつある。即位が近づき,お二人で今後の活動について話しあう機会も増えた。皇太子さまは誕生日を前にした〔2月〕21日の会見で「できるかぎり力になり,雅子を支えていきたいと思っております」と語るとともに,「引きつづき快復を温かく見守っていただければ」と国民に理解を求めた。
昨〔2018〕年11月の園遊会。雅子さまは療養に入る直前の2003年秋以来15年ぶりに全行程を歩いた。招待客1人ひとり人と話しこむあまり,前を歩く天皇,皇后両陛下との距離が空く場面もあったが,皇太子さまは急(せ)かすことなく,その様子を見守った。(引用終わり)
なお,日本国憲法は,第7条「天皇は,内閣の助言と承認により,国民のために,左の(下の ↓ )国事に関する行為を行ふ。」(以下に引用・列記)という具合に「天皇個人」に関してのみ定めているが,
この点について実際にはいつの間にか,それも不文律的でありながら,天皇家一族の1人ひとりにまで大幅に拡大解釈されたかっこうで,しかも,その行為が「その国事に関する天皇の公務」である範囲内から,各皇族たち全員の「公務」や「私的行為」にまでわたるかっこうで,非常な広範囲にまで既定事実化されてきた。
これらの憲法第7条が規定(定義)する「天皇の公務としての行為」は,天皇に支障があってその任務に当たれないときは,皇太子がそれを代行できる規則は用意されている。
しかしながら,皇族たちが広い範囲・領域にまで各種・各様に登場し,頻繁に活躍している諸行為(諸活動)の様相は,これを慣習的なものであるという以上に,より厳密な次元・水準において,しかも学術的とみなせる手順・体裁の次元に乗せて究明してきた学者の業績がなくはないものの,学問的次元において合理性や妥当性を備えた定説となりうる解釈は,まだ提供されていない。
いずれにせよ,そうした皇族たち全員の憲法第7条との整合性を突きつめていくと,どのような論点が困難として生じてこざるをえないかまで,さらに厳密な議論をそれも第3者に対して納得のいく説明が,必要かつ十分になされていない。というか,こちらの議論をきわめることは至難であって,学問的に国内外に提示できる水準での論理構築は,ある意味,最初から無理筋でありつづけてきた。
※-5 最後に-昭和天皇と平成天皇と新(令和)天皇-
本記述が最初におこなわれた日付は,2019年2月24日のものであったが,当時の日程において実際に公表できたのは,翌日の25日の午前中であった。そして,その25日朝刊のトップ・ニュースは,『朝日新聞』の場合,こう報道されていた。この記事の冒頭段落のみ引用する。関係する他の記事の掲載面も付記されている。
【参考記事・画像】
以上の沖縄県民
投票の件に関して安倍晋三政権はまえもって,菅 義偉官房長官につぎのように政府の立場を表明させていた。
菅 義偉官房長官は〔2019年2月〕14日の記者会見で,米軍普天間飛行場移設をめぐる沖縄県民投票の告示を受け,投票結果にかかわらず名護市辺野古移設を進める方針を表明した。
「どういう結果でも移設を進めるか」との問いに「基本的にはそういう考えだ」と述べた。「問題の原点は普天間の危険除去と返還だ」とも強調した。
県民投票に関しては「地方自治体がおこなうものであり,政府としてはコメントは差し控えたい」とした。西村康稔官房副長官は会見で「丁寧に説明しながら,理解をえて辺野古への移設を進めていきたい」と述べた。
すなわち,政府はこの「沖縄県民投票」の結果は無視する態度を鮮明にしていた。もっとも,その結果が安倍首相の好みに合うものとして出てくれば,これは大いに利用させてもらうはずだったと思われたが,その結果は現政権にとってお気に召さないものとして出た。
補注)この『朝日新聞』で2019年2月25日朝刊に報道されていた「辺野古埋め立て沖縄県民投票」の結果は,いまの岸田文雄政権になっても完全に否定する,つまり地方自治体の分権的な主権性をいっさい認めない,自民党政権側の横暴に対して必死になって抵抗する沖縄県民の意思を明示している。
しかし,日本政府は「売国的だ」という意味で「対米服従外交」しか展開できない立場からそのように,沖縄県のアメリカの飛び地であるかのように実質,委ねてきた。この歴史的な含意を有する在日米軍基地の問題は,沖縄県じたいの軍事面における地政学的な関連のなかで詮議すべき論点であった。
さて,安倍晋三による平成天皇への嫌がらせには定評があったが,2013年4月28日のつぎの出来事は,天皇明仁の気持にとってみれば “最大の我慢” を強いられた場面を意味していた。
「なぜ『天皇陛下万歳か-大いなる疑問と違和感-」(『テルヤ寛徳 衆議院議員沖縄2区 ウチナーの未来は,ウチナーンチュが決める』2013年5月1日,https://terukan.ti-da.net/e4715522.html が,その付近に関する事情を説明していた。
さて,沖縄ではいまだに〔2013年〕4・28「主権回復の日」政府式典と4・28「屈辱の日」沖縄大会が対比して,興奮ぎみに語られている。1万人余の県民が「がってぃんならん」と怒りの拳を突き上げた沖縄大会と「天皇陛下万歳」を唱和した政府式典,どちらが歴史の真実に向きあった大会か,日を追うごとにはっきりした。
4・28「主権回復の日」政府式典で「天皇陛下万歳」三唱があった。政府式典に仲井眞知事の代理として出席した高良倉吉副知事は,「式典の趣旨がぶち壊しになった」と不快感を示し,
「なぜそうなるのか理解できない。アジアや沖縄への戦争責任に向きあえない,柔軟性を欠く日本社会を表わしている」と,沖縄県民が「天皇陛下万歳」に強い違和感を抱いていることを代弁するかの如き発言をしている。
沖縄国際大学の石原昌家教授も「4・28は沖縄戦の結果を反映したもの。式典での『天皇陛下万歳』に,体験者や遺族は脳天を殴られた気持だったのではないか」
「為政者は既成事実の積み重ねのパワーを熟知している。安倍晋三首相はみずから天皇・皇后の前で万歳し,戦争国家に向けて最初のくいを打ちこんだ」と語っている(2013年5月1日付『沖縄タイムス』)。
平成天皇の正直な気持は,父親の昭和天皇が大東亜・太平洋戦争に関して「大元帥の立場」から背負っていた「戦責問題」に対して,彼なりにできるかぎり真剣な気持ちをこめて誠実に応えようとしてきた。この基本姿勢じたいは,平成の期間内に11回も沖縄県を訪問してきた記録にみてとれる。
天皇明仁はその種の戦責問題を深刻に受けとめたうえで,「天皇としてのその種の行為」を,何回でも沖縄県を訪問するかたちに表わし,つまり誠意をもって反復してきた。
敗戦後,沖縄県が「在日米軍基地のための島」になった。この事実は「昭和政治史」において,いったい誰の責任であったかを思えば,天皇明仁がそのように頻繁に「ほぼ3年に1度」の間隔で,沖縄県訪問を果たしてきた事実をもって,たいした困難もなくただちに理解できる。
ところが,いまの安倍晋三という首相は,そうしたもうすぐ退位する予定になっていた平成天皇の気持など平然と踏みにじる「権力者としての采配」を振るってきた。
昭和天皇は生存中,一度も沖縄県を訪問できなかった。太平洋戦争中の末期,いわゆる〈捨て石作戦〉の犠牲に供された「沖縄戦の顛末」に対して,彼がどのように関与して(指揮をして)きたかを想起するまでもない。息子の明仁もその沖縄戦史に対する父親の関与(大元帥としての指揮)ついてはよくしっている。
ともかく,敗戦後史における昭和天皇によるいわば「沖縄処分」の問題を知悉していたはずの平成天皇が,事後,必死になって沖縄県に「寄り添う」ためなのであれば,あらゆる方法を使ってでも自分の意志をみずからの行動を介して具現させようとしてきた。それは11回にも及ぶ沖縄県訪問の正直に表現されていた。
ところが,いまからは6〔11〕年前であったが,2013年4月28日の「主権回復の日」政府式典が,沖縄県・民にとってみれば「4・28『屈辱の日』」に逆回転させられたのが,現状のごとき「在日米軍基地の島」のままをもって執りおこなわれた “政府式典で,安倍晋三側からゲリラ的に発せられた「天皇陛下万歳」三唱” であった。
★ 2013年4月28日沖縄返還記念式典万歳三唱 ★
=この構図では左側端に安倍晋三,右側端に菅 義偉=
『日本経済新聞』2019年2月25日朝刊35面「社会」の冒頭記事「沖縄に関心もって 辺野古移設で県民投票 『基地,国全体で考えて』3択投票,反対が多数」という記事は,つぎの3点を見出し(小見出し)に立てていた。
▼-1「〈反対〉 基地,国全体で考えて」
▼-2「〈賛成〉 やむをえない選択肢」
▼-3「〈どちらでもない〉 さまざまな立場の人いる」
平成天皇は,現実的にはきわめて強度に政治的な実在であり,現実には政治に対して大きなもろもろの影響力を発揮してきた「象徴天皇」であった。日本の天皇を君主天皇に変えろという意見も強くあるが,あながち的外れとはいえず,現実に即した部分もある。
だが,実際の政治にかかわる天皇の行為・行動は,極力憲法の規定に則した言動しかおこなわないように努力しているはずである。平成天皇は,内政・外交の問題について「政治的な発言」を具体的かつ直接的にすることなど,絶対にしないように注意してきた。
しかし,それでいてこそまた,高度に「政治的な関与」をするほかない制度的な存在でもある特徴が,日本の天皇・天皇制にもともとしこまれていた《根本の矛盾》であった。
2013年4月28日の「主権回復の日」政府式典ではおそらく,安倍晋三が事前にしくんだと受けとるほかない,それも小賢しい策謀が,あの「天皇陛下万歳」三唱” であった。
平成天皇はその三唱はなされないことを前提にその式典に出席していたのだから,内心においては「怒り心頭に発する思い」を抱いていたものの,この感情をどこにも表明することはできなかった。そういった種類の苦衷の立場に置かれていた。
天皇明仁はいまもきっと,一般的な国民たちと同じに『安倍晋三のことを大嫌い』ではないかと拝察する。その安倍晋三は2022年7月8日,統一教会「宗教2世」であった山上徹也の狙撃を死んだ。
だが,それ以前に日本の民主主義は死に体同然になっていた。むろん,安倍晋三のためにそうなってしまっていた。
2024年1月1日に発生した能登半島地震は,いまもなお,被災者として救出されていない人びとが「72時間の制約」が,今日1月4日の夕刻に迫ってきている。
まだ,救助を待っているが発見されていない被災者がいるが,現・自民党政府の震災対応に対して示しえている基本姿勢は,完全に後進国風であって『衰退途上国』と称されるようになった「日本国」だからといって,被災者に対する救援体制に滞りがあってはならないが,いまのところ,画期的に改善されるみこみはない。
いままでの日本人の礼儀ただしく,控えめで,秩序を重んじる精神が,岸田文雄のキシダメノミクスによって,いいようにかじりとられるだけの社会風景となって拡大されつつある。
首相になることだけが「世襲3代目の政治屋」として,自分の人生の大目標であった岸田文雄であった。こんな首相を生んだわれわれが悪いのか,それともこんな首相自身が悪いのか? 多分,その両方……。
ろくでもない政治屋があいもかわらず,ダメだらけの為政を,まるで自己目的も同然にダラダラと維持するだめにだけ担当している。
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