ドイツ・ナチス期「戦時・ゴットル経済生活論」から敗戦後「平時・経営生活論」へと隠密なる解脱を図った「経営哲学論の構想」はひそかに「ゴットルの名」を消していた(5)
※-0「本稿(5)」全体に関する案内
ここでは「本稿(1)」のみそのリンク先住所を掲示しておくにしたい。
※-1 戦争と学問の歴史-池内信行学説の戦時的性格-
池内信行『経営経済学史』(理想社,昭和24年)は,第3篇「経営経済学と民族共同体」において,つぎのような内容を充てた議論を,それも敗戦前における問題もからめてだったが,おこなっていた。
◆-1「戦時中の回顧」
「物の理性にそむいておこった国民社会主義がやぶれたことは,やむをえないというよりは,むしろ必然であるといわねばならぬ。にがにがしいわれわれの経験によってもまた,このことはすでに経験ずみである」。
「自由主義と社会主義という本質的にことなるふたつの経済の秩序を国家の権力によってむすびつけるところにそもそも矛盾があるのであるが,それにもかかわらずこの矛盾をおしきる所以のものは,とりもなおさずナチスの経済観念が意志経済的であるがためにほかならない」。
「生活を単に観るのではなく,生活とともに生きる思考こそ生活経済学の根底に流れる思惟である。ナチスの世界観,したがってまたナチスの経済観と一脈相通ずるものをもっている」。註記1)
以上,戦時体制期における,生活経済学とナチス国家社会主義との密着・癒合関係を,敗戦後になって池内が「批判した」論及である。しかし,池内は,戦争の時代を,みずからの「存在論的究明の戦時的な展開」とは切りはなし,想起していた。要は,あたかも全面的に他人事であった口ぶりで,以上のように回顧していた。
「国家社会主義がやぶれ」た戦時体制期を振りかえるに当たっては,池内信行の理論の変遷じたいにおいても,間違いなく「矛盾があ」ったことを認識しなければならなかった。
ところが,この時代史的な自説(学説・理論)そのものが記録してきた変動・動揺・転回は直視せずに,以上のように,まるで自分には無関係であったかのように聞こえるほかない,つまり,完全に突き放したがごとき「戦時体制期の話題であった」かのように,「戦時日本における経営学史の変容・転換ぶり」を語った説法は,身勝手で奇妙な主張を開陳したことになり,これには当然,他者に対してはいちじるしく違和感を抱かせた。
さらに,当時「自由主義と社会主義と」は「本質的にことなるふたつの経済の秩序」であったのに,「国家の権力によってむすびつける」「ナチスの経済観と一脈相通じる」学問というものは,「実は」と語る余地もないくらい明白に,つまり,池内自身においても戦時中は採用され,実際にその理論の展開を試みた志向性となって,正直に表現されていたのである。
その点においても池内は,戦争の時代,自己の立場の矛盾を深めていった事実史をみずから営為していたにもかかわらず,敗戦後史の流れのなかになると,あたかも完全に無縁であったかのように語っていた。
◆-2「敗戦後の確信」
池内はこうもいった。
「ナチスとともにあらわれた数々の経済学,経営経済学がナチスと運命をとともにせざるをえないことはいうまでもないが,しかし,本来の独逸的生に即してきたえあげられた生活経済学(フォン・ゴットル)やニックリッシュ経営経済学は,向後,怒濤にさらされながらも,ねづよくおのづからのみちを生きぬいてゆくことであろう。理性がこの世から消えうせないかぎり。ヘーゲルがこの世から抹殺されないかぎり」と。
「理性に反して生れたナチズムスは鋭く批判されねばならぬけれども,ナチズムスの発生によって経営経済学がその根底からみなおされねばならなくなったことを教えられたことは,われわれにとってひとつの教訓であり,ひとつの収穫であったといわねばならぬ。経営経済学は,今日,その根底からみなおされねばならぬ必要にせまられている」。註記2)
以上,池内の発言も結局,徹底して他人事の論評であった。戦中から戦後に「ねづよくおのづからのみちを生きぬいてゆく」池内理論は,「その根底からみなおされねばならなくなったことを」,実際にはそれほど深く学ぶことにはなっていなかった。このとくに注意を向けられるべき池内の理論的な特性は,後段で具体的に批判する。
戦後作の池内『経営経済学史』(昭和24年)はさらに,戦前-戦中-戦後をとおして「わたしは,ナチスの経験とは別に,経営経済学の存在論的究明をすでにひさしきにわたって問うてきた」註記3)といった。
とはいえ,戦時作の池内『経営経済学序説』(森山書店,昭和15年)がつぎのように,「ナチス即ゴットル」的立場に徹する立場・見地に依拠していたことは,けっして忘れることができない「過去の経緯」になっていた。
a)「国民経済こそ本来の意味における経済であり,最高の経済構成体であるのにたいして経営経済は,営利経済である企業の経済的職分を実現する派生的経済である」。
したがって,「国民経済学は……『最高』の『経済構成体』である国民経済をそれに固有の基本問題とし,経営経済学は『派生的』経済である企業経営の経済的職分を実現する経営経済をそれに固有の基本問題とする特殊経済学でなければならぬ」。
b)「経済は『持続的必要充足』といふ経済に固有の理念にみちびかれながら一層根本的に『国の心』にもとづき『国家の立場』にささえられてゐることを省みることが,『統制経済』の深化を体験しつつある今日,特に必要である」。
したがって,「『個体主義』経営経済学と『全体主義』経営経済学とを『国民共同体の形成』を場として綜合することは,二つの経営経済学の単なる『集合』ではなく,却ってそれは両者の『綜合』である」。註記4)
すなわち,ゴットルの経済科学論がナチスの経験にむすびついたのと同じように,池内の経営経済学も,戦時日本「統制経済」の深化を体験するなかで,「国民科学」としての「国民共同体の形成」にむすびついていた。
戦時体制期において「最高の経済構成体」となった「日本の統制経済体制」は,日中戦争〔そしてのちにはじまる大東亜戦争〕で,敵国の中国〔や英米〕などに勝利するための「国家社会主義的な全体主義の価値観」を大前提に置くものであった。
藤岡 啓『大東亜経済建設の構想』(アルス,昭和17年)なる著作は,こう主張していた。
そこで,池内「経営経済学」の「存在論的究明」=「存在論的価値判断」は,大東亜共栄圏の確保・成立を目的としたあの侵略戦争に対して,全面的に協力する〔ほかない〕経営経済理論の構想・展開をおこなっていた。それゆえ当時,「経済の本質を『国の心』にそひ,行為の秩序に求める思惟が,今日,特に強く要求されることは,転換期経済社会を背景として,まことに自然である」とまで,池内は語るようになってもいた。註記6)
◆-3 池内学説の「国防経済理論」
『経営経済学序説』が公刊された昭和15年〔7月〕の翌年〔昭和16年3月〕に池内信行が公表した論稿2編がある。そのうち「国防経済の理論」という論稿は,こういう論述を遺していた。
池内のもう1編の論稿「経済倫理の問題」は,こういう論述を与えていた。
このように池内は,過去においてこの国の経営学史が展開・蓄積してきた,国家全体主義「翼賛の理論:〈負の遺産〉」づくりに対して,深い関与をおこなってきた。
ところが,自説のそのような業績が記録,保存されていたにもかかわらず,彼は「臭いものにふたをする」ことができたつもりなのか,なにごともなかったかのように,敗戦後の理論活動に移行していった。ただ,そのようなものとしてだけの学問の営為がありうるならば,これはきわめてたやすい業である。
そもそも池内自身,昭和8:1933年の論稿中で,こういっていたではないか。
戦前から戦中への池内理論の進展はこの発言どおりに推移した。だが,その事実経過は,自身の手によって事後的にでも再確認・再評価する学問作業は,まったく反故にされた。
さて事実として,戦中=戦時体制期の旧大日本帝国の大戦争は敗北をもって終焉したが,戦後作の池内『経営経済学史 増訂版』(昭和32年)は,依然こう復唱していた。これは同年に増訂された「補論」における主張であった。
◆-4 筆者は,池内に問う。
戦時体制期そのもの,あるいはそのなかに存在した経済体制-企業経営という「客体」と,そして,これに対峙していた社会科学者:経営学者の池内信行という「主体」とは,相互の「動的」な「生活探求」「の発展の過程」を,いかに,「矛盾的統一」において「発展史的」に認識していたのか。
というのも,池内は,研究対象の「存在基盤=客体」面の根源的な変貌にもめげず,「自説=主体」面の「存在論的究明」の見地だけは,終始一貫,抽象的・不変的・一般的に妥当しつづけ,かつ,適当・妥当・正当な立論だとばかりいいつのった,つまり,一方的・断定的な主張を専断的に強弁した「発想」を突出させてきたからである。
池内流の経営経済学本質論:「存在論的究明」は,その活躍する舞台を戦争の時代から平和の時代に移動したさい,戦争中とは百八十度逆さまとなった国家価値観にかかわる「自説の問題点」にかぎっては,これをそのまま放置し,意識して吟味することをしなかった。
池内は戦後,「学問をただ学問としてみおわるのではなく,実践の発展にてらしてそのすがたをみなおし,たてなおすのでなければならぬ」と断わってはいた。
しかし,「それが理論としてなりたつためには,それに固有の理論的操作によってきたえられた体系をもたねばならぬ」註記11) といいながらも,その肝心な《方法論の更新手続》,しかも,「自説の学問・理論」じたいが立脚した基盤に関する説明は,なぜか不思議なことに回避してきた。というか,完全に無関心でいた。
だからこそ,戦前⇒戦中⇒戦後の過程で,いちじるしく変質してきた時代精神やその価値観を無視し,「存在論的究明」の根本意義をみなすことも立てなおすこともせず,ひたすらその本質論的な発想だけを高調するだけで済ませたのである。
◆-5 中村常次郎の池内信行批判
日本の経営学界史のなかで池内と対面,議論したことのある中村常次郎は,池内『経営経済学史』(昭和24年)を,こう批評した。
中村常次郎がこのように指摘した池内学説の難点は,理論的な構成の方法というよりも歴史的な経緯に由来しており,その意味で非常に深刻な「課題」を継起的にかかえこんでいたことになる。
そこで,戦時体制期における池内信行の論稿,「『転換期』の経営経済学」(日本経営学会編,経営学論集第13輯『戦時体制下に於ける企業経営』同文館,昭和14年6月所収)の主張と,敗戦後に公表した,池内信行『政治と経済』(二條書店,1947年9月)の記述を,つぎに比較対照してみた。
◆-6 戦時体制「転換期」における池内見解〔1939年〕
イ) 「ドイツは『ナチス体制』において,イタリアは『ファッショ構成』において,イギリスおよびアメリカは『民主主義』のために,そしてわれわれは『東亜共同体』の基礎をかためるために」,「これまでの経営経済学が問はずして前提してきた価値観・国家観・経済観の問題がこの学問の再建のために,どうしてもたしかめられねばならなくなってゐる」。
「企業のいとなみも何よりもまづ『全体との生ける連関』において顧みられるのでなければ,ひとり国民経済のみならず経営経済も存続し得ざる『情況』にたちいたっておる」。
「経済は,その根本的規定において人間の共同生活,国民共同体に奉仕するものでなければならぬ。経営経済学がこの現実を側をす通りできるはずはなく,いまや経営経済学も『私経済学』としてではなく『社会的』経営経済学として……再建されねばならぬ」。
ロ) 「規範学として構想せられる」「経営経済学は企業家を教へ且つ導く実践学でなければならぬ」。
「経営経済学を正しく構成するためには,その価値論的問題について考察を深めるのでなければ,この学問を正当に基礎づけることができない。経営経済学的考察と経営哲学的考察とは互ひに他を予定し,他と協力すべき関係にある」。
「経営経済学は,経営経済(企業の経営=個別資本の運営)を『対象的存在』として孤立的に取扱ふのではなく,国民経済,国民生活〔人間の共同生活〕をみちびく基礎理論,すなはち最高規範にてらし,全体〔の立場〕へ自らを形成するものとして,いはば企業のいとなみを『交渉的存在』としてとらえねばならぬ」。註記13)
◎ 敗戦後「転換期」の池内見解〔1947年〕
「現代が転換期の社会であることはいふまでもないが,特にわれわれにとって現代は,文字通りの一大転換を,ひとりそとからの要請のためのみならず,うちからの根づよきさけびとして求められてゐる。ふるき社会の秩序を一応否定して新たなる生活秩序を形成することが現代われわれに課せられた問題であり,そしてこの事態に印応して経済の秩序もまた,根本的にたてなほされねばならぬ必要に迫られてゐる」。
「歪められた社会秩序,歪められた経済秩序を民主主義の原理にもとづいて是正し,しひたげられた国民の生活をその本来の姿にたちかへし,人間の社会的生活を安定せしめるといふさし迫った現実の要請にもとづいて問題は提起されてゐるのであって,問題は政治と経済,あるひは国家と経済の関係をそれ自体として孤立的に問ふことではなく,人間の社会生活,わけても国家再建といふさし迫った生々しい現実の要請にもとづいて問題は提起されてゐるのである」。
「国家再建のために経済の秩序をいかにたてなおすかといふことが問題であり,したがって政治と経済の問題は平面的な関係から立体的な関係へうつりかわってゐる」。註記14)
「戦中転換期」と「戦後転換期」のあいだで,このように異様にまで食いちがった同一人物の著述に接して,不審を抱かないほうがおかしい。
戦時体制期においては,「『東亜共同体』の基礎をかためる」ための「最高規範」を指示した「国家観=全体の立場」にしたがうといい,その「全体との生ける連関」から「人間の共同生活,国民共同体に奉仕する」ための「経営経済学」を,「正しく構成する」ことに応えていたのが,池内信行の立場だった。そのさい,「経営経済学説の存在・存在論的究明こそこの学問の基礎をかためる根本の態度でなければならない」とも 註記15),池内は考えていた。
ただし,池内学説の根幹である「存在論的究明」は,敗戦後において目まぐるしく激変した価値観・世界観に邂逅しても,学問観・方法論として備えていた基本的な視座に,変化をきたすころはいっさいなかった。
要するに,敗戦後の「さし迫った現実の要請」,「国民の生活をその本来の姿にたちかへし,人間の社会的生活を安定せしめるといふ問題」を迎えてからも,戦時中に主張されていたその抽象的方法論にのみに関しては,なんら変質はなかった。その不変的な性格を堅持しえたのである。
そうして,敗戦の憂き目をみた日本であったが,こんどは「国家再建のために経済の秩序をいかにたてなおすかといふ」,いうなれば「ふるき社会の秩序を一応否定して」,「歪められた経済秩序を民主主義の原理にもとづいて是正し」ていくことがむしろ問題だといった具合に,池内はいいなおすことができた。
いわく,戦後の「現代が転換期の社会である」!
なお,池内「『転換期』の経営経済学」は,昭和14〔1939〕年6月の公表であった。ということであれば,8年後の昭和22〔1947〕年にも再び,日本社会に「転換期」が到来したことになる。8年の間隔で2度も転換期がきたわけである。
経営経済学者の池内は,自身が言及した2度の転換期に対して,どのようにかかわってきたのか。1939年にとなえた転換期「戦争の時代」は,5年ほどで敗戦を区切りに,外圧的・他力的・受動的に終了させられた。さらに1947年の転換期「日本にとって平和の時代」は,ともかく半世紀以上「今日」までも持続する画期を形成してきた。
池内は,それら2度の転換期において,それぞれどのように自己の学問:「存在論的究明」を対峙させ,営為してきたのか。池内の学問は,歴史の進展に応じて自説をどのように進歩あるいは変質させてきたのか。彼は,持論の真価を歴史発展的に点検・評価しなおし,あらためて客観的に自己分析をくわえてみる,という問題意識を欠落させていた。
結局,池内『経営経済学史』(昭和24年)に対する論評(書評)で中村常次郎が指摘したように,「その時々に直接取上げた問題に触れて改めて繰返し再確認してゐる」だけの見地が,「存在論的究明」であった。中村のその指摘が当をえているならば,実は「存在論的」というにはふさわしくない視点が,池内経営経済学の「存在論的究明」であったとしかいいようがない。
中村は,池内「『転換期』の経営経済学」(昭和14年6月)より1年半近くまえに公刊された,日本経営学会編,経営学論集第12輯第2号『最近に於ける経営学上の諸問題 第1部-経営学自体に関する諸問題-』(同文館,昭和13年11月)に「『技術論』としての経営経済学」を投稿していた。この論文はその題名とはちがい,「理論科学」である経営経済学の研究方法を論究するものであった。註記16)
中村は,その1938〔昭和13〕年の時点ですでに,「存在論的価値判断にして生産的な認識を可能ならしめることは,全く不可能である」註記17)とまで論定した経営学者である。
たとえ,「存在論的究明」の企図が生産的だったか否かを不問にできたとしても,「一般的・不変的・超時間的な概念であったものが経験的・具体的な概念と混淆若しくは混用されるといふ,ゴットル的思惟の特性が齎されることに成る」註記18)という陥穽に,池内の「経営経済学の立場」がはまりこんでいたことはたしかであった。
◆-7 池内信行「経済経営学説」の問題性
池内『経営経済学史』(昭和24年)における「経営経済学史の課題〔や方法〕」に対して,中村常次郎が「課題の提起としての意味は持ち得るが,結局それだけに止まり,課題の解決と言ふには尚議論の多くの余地を残してゐる」と指摘したのは,戦前から戦時期を通観した批評であった。
いうなれば,a)「一般的・不変的・超時間的な概念」と b)「経験的・具体的な概念」との意識的,無意識的を問わない混淆・混用は,後者 b) の「実際」領域に関与する学問を営為した結果出来させた,前者 a) の「抽象」議論の理論的な蹉跌を,どのようにでも拡散・解消・無化する役目も,事後において期待できた。
池内自身による課題へのとりくみは,〔池内自身修辞を借りていえば 〕「学問の発展法則からみて……理論の発展は,つねに弁証法的である」註記19)とは,いえなかった。
また,「相手のいい分を理解せずして,また理解しようともせず,自己を一方的に主張する独善におちいるようなことがあってはならない」という,みずからの警告にも反した「足跡」を残したことにもなる。
結局のところ,「経営学をその発生の基盤にひきもどし,しかも,動的発展的にでなおすこころみは,あらたなる出発の大前提でなければならぬ」という基本の主張も,基本においてはなおざりにされていた。
戦時期の日本において提唱された「東亜共同体の確立」,国家全体主義の政治経済的価値観:「最高規範」は,「経営経済学を正しく構成する」こと,いいかえれば『全体との生ける連関』において「規範学として構想せられ」,「正当に基礎づける」「経営経済学的考察と経営哲学的考察」を,池内信行に対して要求した。
そして,実際にそれによく応える理論を池内も構想し,その研究成果を豊富に公表してきた。
だが,戦後期に移ってからの池内学説の理論的な展開は,時代の変化に合わせて再び,自説を単純に衣替えするだけの対応に終始した。その変化の節目において対策(自説パラダイムの大転換?)として必要だったはずの,理論を「発生の基盤にひきもどし」て「動的発展的に」新しくみなおす作業は,なにゆえか,全然着手されずに放置された。
◆-8 ゴットル経済科学論の汚泥
「本稿(4)」で言及した論点であったが,池内信行の弟子であった吉田和夫が「21世紀の世界的課題」だといいったもの,
つまり,「持続可能な社会」論や「人間問題や環境問題の台頭」に対してもまた,「経済とは欲求と充足の持続的調和という精神において人間共同生活の構成である」という,ゴットル流「経済本質論:経済構成体論」の〈とりとめのない有効性〉を差しむけるその前に,
20世紀のうちにできれば,きちんと片づけておかねばならなかった「理論的な課題:〈負の遺産〉」が,池内信行「経営経済学説」をめぐってのみなおしも清算もなされずに,21世紀の現在にまでもちこまれていた。
それはまず,第三帝国(ナチス・ドイツ)のもとで,その「国家社会主義への翼賛学説」となった「ゴットル経済科学論」を,政治思想史的に総括し,経営理論史的に清算しておくことであった。
それはまた,そのドイツの学問路線に瓜二つのかたちで追従し,かつ国防経済理論的に「日本帝国主義的・皇国史観的な」「国家全体主義の経営〔経済〕学」を展開した論説に対して,その歴史の底流までみすえた批判をくわえることであった。
ドイツの物真似とはいえ,戦時体制期の社会科学界において猖獗をきわめた「ゴットル経済学への熱狂的で半強制的な傾倒」は,当時の日本帝国主義の国家全体主義思想論と結合するかたちで現象していた。結局,日本の経営学界の状況において,いまもなお,当該の重大な問題点が検討されずに遺されている。
本ブログ内のほかの記述中で筆者は,安井琢磨『経済学とその周辺』(木鐸社,1979年)が,戦争中にゴットル経済学にすり寄り,心酔したかのようにこの学説理論をとり入れ,打ち上げ,議論していた社会科学者たちの様子を,つぎのように描写した段落を引用したことがある。ここでも紹介しておくのが便宜と思われる。
安井琢磨『経済学とその周辺』1979年は,戦争中にゴットル経済学にすり寄り,心酔した態度をとりながら,自分たちの学説理論を構成したうえで打ち上げ,議論していた社会科学者たちの様子を,辛辣に描写しつつ排撃していた。
前段のごとき安井琢磨の言説は,まことに熾烈であり,戦時体制期における学問に対する「批判とはいえない,それ以前の非難(罵倒)」であったと形容できた。
逆言すれば,戦時体制期における学問・研究のあり方は,この時代において,それこそ大真面目に大政翼賛的な学問営為に励んだ学究の「敗戦後」にとってみれば,耳を塞ぎたくなるような安井から,いわば決定打にも受けとれる批判が繰り出されていた。
もっとも池内信行の「戦前・戦中・戦後」は,表面的にも深層的にも一貫していたとみなせる言説を記録してきたゆえ,ここまでの議論だけでも「なにをかいわんや」同然の学問・理論を披露したことになる。
※-2「マルクスの立場」の変貌
a) ところで,吉田和夫は若いときから,経営経済学という学問の建設をめぐり,ゴットルに学ぶまえにマルクスに学び,ウェーバーに学んできたといった。1982年に公表した著作のなかで彼は,こう主張していた。
1982年の時点において吉田はこのように,「認識の論理と変革の論理を統一化する」ことが「個別資本学説の今後の方向」である,と発言した。だが,2004年になると,「いまや共同体性の深化を問うゴットルの経済観が改めて見直されてよい」とも発言した。
【参考画像】-吉田和夫 85歳(2010年)の写真-
しかしながら,吉田和夫『ゴットル』(同文館,2004年)は,「個別資本学説の」「いかにして認識の論理と変革の論理を統一化するかという」「今後の方向」(1982年)を,どこかに放置したかのような叙述をおこなったと,筆者が観察するほかない「ゴットル評価」をほどこしていた。
吉田『経営学大綱』(同文館,1985年)になると,こういっていた。「批判的経営学の本来の任務」,「資本主義経済において……本質的な究明は,やはり,批判的経営学をまたねばならないであろう」。註記22)
このたぐいの主張は,「ゴットル賛美の書であった」とみなすほかなかった前段の著作『ゴットル』(2004年)との関係を考えるに当たり,どのように折りあわせて理解したらよいのか。つまり,吉田と批判的経営学の「接点」いかんが,あらためて要検討の論点となって浮上する。
すなわち,1980年代前半の吉田はたしか,反体制派の立場を選んだ社会科学者として,〈批判の立場〉に立っていたのではなかったか。そうだったとすれば,企業経営の問題究明は,マルクス流の科学的な「変革の論理」を支持しておこなっていた,と観察されてよい。
ところが,2004年の吉田は,ゴットル経済科学論「経済構成体論」を選好する方向に転換したと判断される〈発言〉をした。
マルクスの思想・理論の立場が,ゴットルの経済科学「論」と絶対的に対立せざるをえないことは,戦時体制期の日本においてであれば,理論的にも実際的にも明らかだった「学史上の事実」である。
b) 戦時中はゴットル経済学が流行となり,大いに幅を利かせた。それに対してマルクス主義者・マルクス経済学者は,「マルクス」ということばさえうっかり口に出せない学問弾圧が吹き荒れる状況のなかで,〈隠れキリシタン〉ならぬ〈隠れマルキスト〉のように潜伏を余儀なくされた。
マルクスとゴットルとのあいだに存在した「学問の戦乱的な理論荒廃のなかで潜在させられた対立状況」は,戦後に時が移ったからといっても,一挙にそれが忘失されてよい「軽い問題」ではなかった。
吉田がなぜ事後,ゴットル的思惟の採用を薦めることになったのか,おおよその説明はあった。しかし,吉田の学問遍歴をたどるに,どうしても払拭できない以上のような,その前後関係にまつわる疑念が湧いてくる。
なぜ,マルクスではなくなったのかその釈明がない。それとも,もともとマルクスではなかったのか。その程度でのマルクス研究関与であったのか?
なっといっても,マルクスの「資本の論理」があり,ウェーバーの「組織の論理」があったが,これらに対して,ゴットルの「生活の論理」は,どのような関連づけをもって説明されるのか。吉田自身がこの疑問に真正面から答える中身がみあたらなかった。
「マルクス=正,ウェーバー=反,ゴットル=合」とでもいうべき弁証法的な把握だと理解するのでは,あまりにも好意的かつご都合な解釈になってしまうし,そもそもそのような行為的な理解は簡便が過ぎて,まともな社会科学方法論の思考に値するとはいえない。
要は,吉田自身は,自身にまつわる理論的立場の歴史的変転=断続性を,他者にも容易に理解できるような体裁で,すなわち明快な論理を充てて説明したとはみなせなかった。そのあたりの歴史的な前後関係,いいかえれば「学問遍歴的な意味関連」は,自明に過ぎた記述に終始していた。
c) ところで,三戸 公『科学的管理の未来-マルクス,ウェーバーを超えて-』(未来社,2000年)は,B6版225頁の分量の著作として公刊されていたが,大塚久雄,テイラー,レーニン,ウェーバー,マルクス,ドラッカーなどをとりあげ,思索する好著であった。
三戸はだいぶ以前に,マルクス一辺倒だった自説の立場を変質させていった事情を,『自由と必然-わが経営学の探究-』(文眞堂,昭和54年)に自身の学問遍歴を他者に説明するためにも書いていた。本書は,それ相応に誠意と度量がうかがえる研究者の姿勢を披瀝していた。
三戸は『科学的管理の未来』「あとがき」で,こう語っていた。吉田『ゴットル』も実際,このような内実に言及していたのである。
ちなみに,三戸 公は1921年生れ,吉田和夫は1925年生れであり,三戸『科学的管理の未来』は2000年公表,吉田『ゴットル』は2004年公表だから,両名が同い年のとき両著がそれぞれ刊行されたことになる。
d) なかんずく,ゴットルを選りわけて再びとりださねば,人間の共同生活にとっての「真の経済」が語れない,というわけでもあるまい。筆者はむろん,ゴットル経済科学「論」の価値をいっさい認めない,と断定するような態度は採らない。
しかしながら,未来を新しく展望するために陸続と登壇している,諸学者の学説・理論・思想に目を向けない吉田『ゴットル』の視点は,単純素朴なゴットル賛美に映る追従路線であり,研究者の研究姿勢として最低限要求される進取の気を欠いていた。そのように解釈されても仕方がない余地を残していた。
吉田和夫は,『日本経済新聞』1997年12月4日朝刊のコラム「交遊抄」に,「生活の思想」という短文を投稿していた。話題は恩師,池内信行に関することであった。
まぜかえすことになるかもしれないが,吉田が「21世紀の世界的課題」だといった「持続可能な社会」論や「人間問題や環境問題の台頭」に対して,マルクスやウェーバーは,なにも発言していなかったか。それとも,彼らの学問は,なにも役に立たなくなったとでもいうのか。
わざわざ先祖返りするかたちをとり,垢まみれで,その罪=思想的・理論的な誤謬・欠陥の重大だったゴットルに還帰する必要があったのか。新しい課題に挑戦しようとする新進学者の諸理論も目白押しであるのに,である。
e) たとえば,そんなに昔の古い時期の著作ではなく,
◎ カール・ポラニーの『人間の経済-市場社会の虚構性-』(岩波書店,1980年。原著,The Livelihood of Man,1977),『経済と文明』(サイマル出版会,1975年,筑摩書房,2004年。原著,Dahomey and the Slave Trade : An Analysis of an Archaic Economy,1966)や,
◎ エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハー『人間復興の経済』(佑学社,1976年。原著,Small is Beautiful : A Study of Economics as if People Mattered,1973)〔→別新訳,『スモール イズ ビューティフル-人間中心の経済学-』講談社,1986年〕
などは,ゴットル経済科学とどのように関連づけられるのか,基本的に一考の価値がある。
カール・ポラニー『人間の経済』(日本語訳は2分冊)は,こう紹介されていた。
シューマッハー『人間復興の経済』(原著)1973年の,日本語新訳『スモール イズ ビューティフル-人間中心の経済学-』1986年は,こう紹介されていた。
ゴットリアーネルは,ゴットルの主張が「真の経済」に触れていると応えていた。だが,なにが「人間の経済」における「〈真の〉もの」なのか。
これに対して,ゴットルという学者が,政治-法律-経済-社会問題の全域に完璧に答えられるような,飛びぬけてすばらしい「経済生活の理論と思想」を提供できていると,かつては口をきわめていわれたこともあった。
しかし,それもいまでは「噴飯ものの評価」となった。ゴットルを神聖視し,その著作に聖典のように接するのは,学問の姿勢として要注意である。
カール・ポラニー『大転換-市場社会の形成と崩壊-』(東洋経済新報社,1975年。原著,The Great Transformation,1957)は,社会に埋めこまれた経済をもあつかいうる「新しい経済学の視点」を,つぎのように規定していた。これは,ゴットルとまったく同類・同質の説明だと受けとれる。
◎「経済」の形式的な概念は,「所与の目的の達成のために稀少手段を最も効率的に選択する『極大化』行動をさし,『合理性』の概念につらなるものである」。
◎「経済」の実体的な概念は,「人間とその環境との相互作用が制度化された過程であって,欲求を充足させる物的手段の持続的供給を導くもの」である。註記25)
筆者の参照したこのポラニー『大転換』の日本語訳は,1975年に公刊されてから2000年まで,毎年ほぼ1回増刷されてきた。
くわえて紹介するとこのポラニー『大転換』は,特定の問題点をかかえてはいるものの,「市場経済と社会を考察することで,現代にこれほどの洞察を与えている著述もまた少ないのではないか」,「まさしく現代のわれわれに必要とされるひとつの根源的な視角として,評価されなければならない」と激賞されていた。註記26)
f) 戦時体制期の末期,マルクス主義経済学者のゆえをもって入獄を余儀なくされた上林貞治郎は,『企業及政策の理論』(伊藤書店,昭和18年1月)の前篇「構成体論的企業論分析-ゴットル企業論の究明-」で,若干だが,ゴットル学説に批判を放っていた。この上林の批判がポラニーにも妥当するか否かはさておき,ひとまず聞いておこう。
上林は,ゴットルの企業理論を,「現実的存在そのものを分析するよりもむしろ理性的思惟形象を形づくり,さらには理性的思惟形象そのものを直ちに現実的存在そのもの或は少くもその本質的内容たるかのごとく見做すところのかかる観念的思惟は,具体的問題の取扱ひにおいて自らを露はにしてゐる」,と批判した。註記27)
それでも吉田『ゴットル』は,ゴットル経済科学論の秀抜性を強調・教導する論旨を呈示していた。同書は,ゴットルのなにを訴えたかったのか。
ゴットル経済学の抽象的・不変的・一般的な論理構成とその主唱に関する称賛にかぎっていうなら,戦時体制期の日本おいてすでに,もうたくさん,「掃いて捨てる」ほど多くの著述がなされてきた。敗戦後80年近くも経ったいまとなれば,吉田『ゴットル』は屋上屋を重ねるものに過ぎなかった,と分別されて当然である。
しかも,戦時中の上林によるゴットル批判だけでなく,戦後には本格的なゴットル批判論に接することができるようにもなった。
g) 印南博吉『政治経済学の基本問題』(白山書房,1948年7月)は,戦時体制期にゴットル学説に批判的に論及したために,国家全体主義下の学問抑圧をうけた体験を踏まえ,戦争中にゴットル称賛の思想や立場を支持していた学究を,きびしく批判しなおしていた。
ところが,印南博吉のゴットル批判をしってかしらずか,吉田和夫はゴットル再評価を一方的に語りだした。この姿勢は,学者商売の職業倫理にもとるものである。
要は,吉田のゴットル学説への接しかたは,抽象的・不変的・一般的な要素・側面だけからするものであり,具体的・歴史的・特殊的な要素・側面に現実的にむすびつくことによって生起させた「その学説の重大な結果=問題性」には目をやらない,わかりやすくいえば,歴史学的な理論展開に関する批判・評価を抜きにした〈場当たり式〉の解釈であった。
学問の研究に従事する人間があたかも,流行にしたがうかのように,新学説・新理論・新思想を追跡していればよい,というものではない。かといって,学問伝統的に定評あるとされた特定の学説だけを,後生大事に研究の対象にしていればよい,というものでもない。
h) 吉田は以前〔1978年12月〕,山本安次郎学説にも論及していた。
なかんずく,以上のごとき山本学説解釈は中途半端であった。山本の主張に関する諸学者の理解は,掘りさげ不足のものが多いが,吉田もその例にもれなかった。
山本理論の発生源,「本格的な経営学樹立」とその「積極的な努力」が開始されたのは,「戦後から」ではなく戦時体制期に求められることは,筆者がいままで,さんざんにというか,たいそうだくだしく論及してきたものであった。
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【断わり】
「本稿(5)」の続編はつぎのそのリンク先・住所である。
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