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日本経営学の社会科学論としての方向性喪失問題(続論)

 「本稿(続論)」は,つぎの前論を受けた記述になっている。できれば,この前論をさきに読んでもらえると好都合である。


 ※-1 この「続論」の記述に当たって断わっておきたい点

 a) この前論は1編の記述になるほど書くつもりがなかったのだが,書きはじめたところ,1回分の中身になってしまい独立させ,さきに「前論」と仕立てることにあいなったしだい。

 ということで本日(2025年2月19日)はその続論を記述する。主題は「日本経営学の社会科学論としての方向性喪失問題」と表現しているが,多分,この議論の対象になっているいまどきの大学経営学部,それも経営大学院経営管理研究科(とくにMBA)で教鞭を執っている先生方には,理解が及ばないというか,それ以前の地点でとまどいを感じる内容だと考えている。

 「昔の日本経営学」は「方法論過剰」だという一般的な評定があったものの,「いまごろの日本の経営学」にあっては,擬似的というか単なる亜流の実用主義的な〈事例研究崩れ〉とでも形容したらいいような,結局,学問というにはあまりにも「単なる現象説明主義が強い立場である」がために,社会科学の一陣を占めていると名乗りを挙げるには,だいぶ苦しい,つまり,相当に無理があった「理論(?)的な展開」史ばかりを,少くとも21世紀に入ってからはたどってきた。

 結局,あれこれについていろいろ説明はしてくれるものの,それではその経営学者の説く社会科学であるはずの「理論の立場」は,いったいどのような基本的性格を有しているのかとか,この経営学者の思想なり主義なりその議論や説明の裏付けになっているはずの,そのもっとも根本にある「価値観=学問構想の基礎」が,さっぱり伝わってこない。

 b) ここでつぎの人物に触れておきたい。このピーター・F・ドラッカーという経営学者(1909年11月19日~ 2005年11月11日)は,この経営学という学問範疇のなかにはとうてい収まりきらず,より広大な視野を有する文明論学者とかまでいわれた,元オーストリア人であった。ドラッカーは,戦前においてナチスドイツが勃興してきた政情のなかでた,自分の身の危険を感じすぐに出国,最終的にはアメリカに逃れその後,ここで大活躍することになった。

時間管理(Time study)の重要性
 
全体主義を討議した本

 ところで,ウィキペディアに書かれているこのドラッカーの解説を参照してみたら,冒頭でいきなりつぎのように書いてあり,いささかならずビックリさせられた。

 ピーター・ファーディナンド・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker,ドイツ語名:ペーター・フェルディナント・ドルッカー ,1909年11月19日~ 2005年11月11日)は,オーストリア・ウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人経営学者。「現代経営学」あるいは「マネジメント」(management) の発明者。他人からは未来学者(フューチャリスト)と呼ばれたこともあったが,自分では「社会生態学者」を名乗った。

ウィキペディアから

 なにがビックリかといったら,『「現代経営学」あるいは「マネジメント」(management) の発明者』という解説は,はっきりいってデタラメの域を出ない,実にいいかげんで,無理解のドラッカー「感」を書いていた。

 米欧とそして自国日本の経営学史・経営理論史「内」においてだけでも,経営学の理論展開がいかほど豊富になされてきたか,それも米欧各国の経営学研究に関してならば「世界で一番幅広くかつ詳細・綿密に学習・解明してきた」この国の経営学界(学会)の実績に照らしてみるまでもないのだが,

 いくらドラッカーがともかく偉大で「ひとまず超人的な経営学者」だったにしても,『「現代経営学」あるいは「マネジメント」(management) の発明者』だとまで超絶的に賛美したのは,贔屓の引き倒しにしかならない。例えていうとしたら,安倍晋三という「世襲政治屋3世」が「平成の時代を創ったりっぱな政治家」だと断定するのに似ている。

 c) 安倍晋三にドラッカーを比較しようとするごとき,そもそもが論外の,奇想天外のトンデモな発想は,無理が過ぎるは百も承知なので,さらにつぎのようにも語ってみたい。

 どこまでも例えとしてであったが,この『21世紀においてジャパン・デストロイヤー』として登場したうえ,実際にこの「美しいはずのニッポン」を壊しまくってきた『ボクちゃん政治屋3世』は,ドラッカーの足下にも及ばないどころか,はるか彼方にしか望めない程度の,しかも幼児性ばかりがきわだっていた「ミクロもきわまって小人物」そのものであった。

 ここでは余談になるが,安倍晋三が死亡して国葬が執りおこなわれたさいその司会をしたのがフジテレビの「女子アナ」(女性アナウンサーといわないらしい)だったという事実が,昨年(2024年)12月下旬から世間を騒がせ続けているフジサンケイ・グルーブで,この実権全体を把持する日枝 久の采配によって,演出されていた裏事情のひとつして,いまごろにもなってだったが,あらためて指摘(暴露)されていた。

 そこでさらに問題だとして指摘されたのは,とくに1990年代前半の時期から,『産経新聞』と統一教会とが非常に密接した関係をもちながらうごめいたいた事実である。その日枝 久とあの安倍晋三が非常に親しい仲であった事実は,新たに判明したと形容する以前に,ある意味では四半世紀以上も以前から周知の事実であった。

 ところが,中居正広のフジテレビ女子アナに対する「性加害問題」を原因とする事件発生を契機に,いまごろになってだが,フジテレビとこの持ち株会社フジサンケイホールディングス内に淀んでいた醜悪な企業体質が,じわじわと世間の側にも認識されだしている。

安倍晋三が実権を陰日向なくそれも無謀に振るってきた
時期(多分,2016年から2017年)
に撮影されたのがこの画像

このなかに「写っているそれぞれの人物」はすでに安倍晋三亡きあとだから
いまでは好き勝手はできない時代になった

この写真のなかでほぼ完全にうしろむきに写っている人物たちは
その後ほとんど「全然パッとしなくなった」

かつておごり高ぶっていたこうした権力体集団は基本からさまがわりした

とくに日枝久は以前のように横柄になんでも
いいたいことがいえ・やりたいことがやれる状況ではなくなった

だから現状は逃げ隠れしなければならない蟄居状態を強いられている

 以上,論旨が脱線気味の方向にだいぶずれたが,本論に舵を取りなおすことにしたい。ドラッカーの話題に戻る。

 d) このごろ大型書店にいき,経営学関係の本を並べている場所にいってざっとそのたくさん売っているものをみると,このピーター・F・ドラッカー関連の本が相当の冊数置いてあるのは当然というか,自然のなりゆきかもしれないが(日本にはドラッカー学会という,ファンたちが結成した学会まである),このドラッカー以外にたくさん棚に並べられている本は,

 あくまで本ブログ筆者の場合(感想)にしか過ぎないけれども,正直いって「手にとってパラパラとでも中身をめくってのぞいてみる気」さえ起こらない本が大部分。それでもどれかの本をとりだしてこれを,目次構成の文言を介して何カ所かのぞいてみるが,専門書としてならばその質量(中身)観からして,そもそも「軽いな」というか,「実が詰まっているような」本である感じがえられない本が多い。

 要するに,サラリーマンが通勤時に電車のなかで読めるような軽い教養書の本ならば,おおげさにいうと五万とあっても,本格的により「自分の仕事」に関連する教養を深められるような経営学書は,なかなかみつからない。

 本稿(の前論)でとりあげ,批判的にきびしく言及するほかなかった伊丹敬之(大)先生は,ますますご健勝に新著を意欲的に発刊しているが,東芝事件がどうしても障害になって,それら「新著公刊の真」意義はどのように受けとればいいのかなどと考える以前に,思考を停止されるごとき気分が強烈に湧き上がってきた。
 

 ※-2 日本における経営学史(経営理論史)に関した「歴史的研究の貧困史」の一端

 a) 古林喜樂編『日本経営学史 人と学説 第1巻』千倉書房,1977年(初版,日本評論社,1971年),同編『日本経営学史 人と学説 第2巻』千倉書房,1977年は,日本の経営学に関して著名な学説をとりあげ説明する著作であった。

 日本における経営学研究は,社会科学分野のなかでは非常に旧くから存在しており,2017年時点から回顧してみればすでに1世紀を超える歴史を有している。

 しかし,経済学史という研究領域に比較すればすぐに判るように,経営理論に対する歴史科学的な視座を据えたうえで,日本の経営理論を本格的に解明しようとしてきた業績はわずかしかない。

 自国の学問営為に関心がもともと薄かったという学問状況は,なにも経営学にかぎらない現象であるが,それにしても経営学界の場合は,その兆候が顕著であるた「経営学史の過去・履歴」を記録してきた。

 補注)下にかかげた画像資料は(昨日の「前論」でも冒頭でかかげてあった画像),アマゾンの宣伝画面から借用してものであるが,この本の発売日(2017年9月8日)以前にすでに「中古本として売りに出されている本」になっていた。というのは,本ブログ筆者がそのアマゾン通販に出品されていたこの本をみつけたのは,同年の8月25日であったので,このような書き方となったしだい。

日本経営学会が創立されたのは1926年(大正15年)7月10日

米欧よりも早く「経営学の学会組織」を創立されていた

来年の2026年が来ると1世紀の歴史を刻んできたことになる

 事前に日本経営学会員に配布されたものが古書としてそのように,発売日以前に早々と出まわっていた。この事実に関してどのような意味が汲みとれるかについては,具体的に指摘してみたい点があったが,しかし,ここではあえて我慢し,沈黙しておく。

 b) さて,当時においてそのように近刊予定となっていた(2017年9月8日発売),日本経営学会編『日本経営学会史-51周年から90周年まで-』は,およそ「20世紀最後の第4・四半世紀(のそれ)」が始まるころから最近までの「日本経営学史」を概説した著作である。

 それ以前まで,この国における経営学の全般的な状況は,山本安次郎『日本経営学五十年-回顧と展望-』東洋経済新報社,昭和52〔1977〕年が,代表作と有名であるが,描いていた。

 しかしながら,山本安次郎個人による努力をもって制作されたこの日本経営学史の論著であったゆえ,その個性的な主張面に関して,あれこれ批判されるべき余地が残されていた。山本のこの業績は,日本の経営学者自身がどれほど「自国の経営理論そのもの」と「実践とが交流」する問題に関心が薄かったかを教えていた。

 しかし,山本は満洲国官立大学として設立された建国大学に勤務していた時代(敗戦時まで)にあっては,その理論と実践との交流に対して,第1の関心を向ける「経営学論」の定立に鋭意努力を傾注していたのだから,敗戦を挟んでの学問の展開「全体の流れ」に関してとなると,どうしても説明しにくい齟齬を発生させしていた。

 また,山本の場合は,日本の経営学の出立点を「昭和の時代」,つまり,日本経営学会が創立された大正15〔昭和1年:1926年12月25日から始まった〕にみいだすという誤認を示していた。この学史的理解は,それ以前における「大正時代における日本の経営問題研究史」をよく透視しえていなかった限界を,山本の同書を特徴づけるかたちで表白させた。


 ※-3 本質論・方法論が特異に肥大していた日本の批判経営学の滅亡(興亡の顛末)

 a) 最初に「批判経営学」について簡明な解説を聞いておく。それはマルクス主義経営学ともいわれ,企業をひとつの個別資本と考えて研究対象とし,労働者階級の立場から経営問題をとりあつかい,社会の基本的な矛盾との関係でこれをとらえ研究する経営学の一分野である。

 b) 世界大百科事典における批判経営学への言及は,こう解説している。

 1910年代に日本の大学でも経営学関連の講座が設置され,ドイツ経営学の移入によって始まった。また,それと並行してアメリカ経営学も〈科学的管理法〉を中心として紹介され,1920年代の産業合理化運動の指導理念となっていた。

中西寅雄・画像
http://www.chikura.co.jp/ISBN978-4-8051-0395-1.html

 1930年代にはマルクス経済学の興隆に刺激されて,経営学においても個別資本の運動法則を解明し,現実の企業活動を批判的に研究する個別資本説ないし批判経営学の流れが中西寅雄,馬場克三らによって始められていた。

 他方,ドイツ経営学の基礎のうえにアメリカ経営学の問題意識を接合させた研究が馬場敬治や藻利重隆によって進められ,これらが第2次大戦後に引き継がれた。

 註記)以上,https://kotobank.jp/word/批判経営学-120642 参照。

 補注)戦前と戦中における日本経営学の展開に対する考察をくわえるさいは,慎重な吟味が前提においてなされるべきであった。

 中西寅雄,馬場克三,馬場克三,藻利重隆と並べられていたが,それぞれの理論的な出自は,別々の源泉をたどることができた。なかでも「藻利経営学」とまで偉称された「藻利重隆の経営二重構造理論」が,ドイツナチス経済「科学」論に根っこを生やしていた事情は忘れられない。

 なお,上記の註記)中のあった記述では「マルクス主義経営学」にリンクが張られていたので,これをクリックすると「『批判経営学』のページをご覧ください」と記されていて,もとに戻ってしまう。

 註記)https://kotobank.jp/word/批判経営学-137540 も参照。

 

 ※-4 野末英俊稿「批判経営学と管理学-組織社会の出現と専門経営者-」愛知大学経営総合科学『経営総合科学』第102号,2014年10月,https://leo.aichi-u.ac.jp/~keisoken/research/journal/no102/a/04_NOZUE.pdf

 この論稿からは,つぎの項目・段落を参照する。なお以下の引用では適宜補正しつつ,引照している。

 「5.  批判経営学の限界」〔※-4の論稿からこの「5.の段落」を参照している〕

 a) 敗戦後において,日本の経営学がひとつの大きな系統を形成したのは, マルクス主義にもとづく経営学(批判経営学)であった。 第1次と第2次の世界大戦を経てからの世界は,影響力を増大させていった社会主義と資本主義の盟主としてのアメリカの凋落(ベトナム戦争,ドル体制の動揺)とが,その学流の旺盛ぶりを勢いづけたといえる。

「資本の循環公式図解」
出所)http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-07-10/2014071009_01_0.html

 そのなかで批判経営学もこう考えていた。マルクス『資本論』 は資本の運動を分析対象とするし,マルクス主義は労働者の立場に立っている。 労働者がおこなう労働は価値を生み出し,社会は労働によって生み出された価値によって存立する。

 それにもかかわらず,資本主義においては 生産手段を保有し,労働力を買いとった資本家が労働者が,その生み出した剰余価値を合法的に収奪(搾取)する。このような経済・社会構造のあり方を廃止し,社会主義へ移行することによって,資本主義の諸矛盾が解決されるとした。

 資本家は,労働者の労働が生み出した剰余価値を搾取することによって, みずからは労働することなしに富を蓄積する。 貨幣の増殖と蓄積が資本の目的である。 この構造によって資本家と労働者の対立は激化し, 最終的に資本主義は崩壊し廃絶されて,より高次元の体制である社会主義へ移行する。

 要するに,このようなマルクス主義の立場に立つ経営学が批判経営学(経営経済学) であった。 批判経営学の起源は, 中西寅雄の『経営経済学』日本評論社,昭和6〔1931〕年に求めることができる。

 補注)中西寅雄は,日本における批判経営学にとってみれば “源流” の位置を,いうなれば「その理論上の系譜」において占めた経営学者である。けれども,この中西自身はマルキストではなかった。

 ただ,資本論の論理構成をドイツ経営学に関連づけながら「経営学方法論の思考方式」に応用したのであって,彼が基本的な立場においてマルクス主義思想を,本気で信奉したり支持したことはない。

 その点の理解に関しては,いまは(正確には21世紀になってからは)ほとんど完全に崩壊(溶融)状態を余儀なくされた「マルクス主義経営学陣営の大学教員たち」は,もともとよく調べもしないで,中西寅雄は「ワレワレの仲間」(マルクス主義の同志だ)と勘違いしてきた。

 おまけに彼についてはのちに「転向した」などとまでいいつのり,その理論志向に関しては,実に〈自由自在な解釈〉をくわえていた。しかし,中西に関するその手になる誤解は,「その人なり学説なり」をよく観察していなかったからこそ,長期間,大手を振って斯学界を徘徊してこれた。

〔本文記事引用に戻る ↓ 〕 
 個別資本説は,経済学が社会総資本を分析対象とするのに対して,経営学としおて企業(個別資本〔の運動〕)を対象とする。 この結果, 批判経営学はおのずから経営学を経済学の一領域として位置づけることになる。

 ここで,企業の目的は利潤の極大化であり, 労働者の生み出した価値(剰余価値)の収奪 (搾取) によって実現すると規定されている。

 b)「批判経営学と管理学」 企業組織が大規模化すると社会構造に変化が生じた。

 ここでは,複雑化した組織を調整・維持する機能を担う経営者が生み出されると同時に,従来の資本家の個人的資質に依存する 「コツ・カン」 による管理の限界と合理的(科学的)な管理方式が要求されるにともない,管理学(アメリカ経営学)を生み出した。

 こうして,寡占企業が資本主義経済の中心的位置を占めるようになって,いわゆる「資本(所有)と経営の分離」 が進展した。

 すなわち,資本主義発展のもとでは資本家階級の役割が後退していき,これに代わって経営者が社会の支配者として台頭した。この寡占企業の支配者は,資本家とは異なる専門経営者であって,その権力の源泉はもはや財産(貨幣)ではなく, 知識・能力・経営技術にその重心が移ってきた。

 社会主義社会では生産手段の社会的所有が実現されたものの, 計画経済の非効率性がしだいに明らかになったり, 特権的な官僚制が不平等を生み出したりして, 労働者の生活が向上することは困難となった。結局,社会主義は内部から崩壊した。 こうした現実は, マルクスの理論を大きな限界に直面させた。

 また,資本主義社会における資本家の後退は,多様な非営利組織(政府・学校・病院・労働組合など)を形成させていき,こうした非営利組織がそれぞれの組織目的をかかげつつ,必らずしも営利性に拘束されずに経営者が維持・運営している。

 管理(英語でいえば,management )問題の重要性が高まる反面,批判経営学はとりわけ「経済学からの独立性」をいかに明確化するかという課題に,いまだに直面している。

 註記)前掲稿,http://leo.aichi-u.ac.jp/~keisoken/research/journal/no102/a/04_NOZUE.pdf から引用をつづけている。

 この説明は最後で,批判経営学は「『経済学からの独立性」をいかに明確化するかという課題に,いまだに直面している」と結論づけていた。けれども,2014年10月に公表した論稿における見解としてみるに,斯学界における研究状況にうとい解釈だといわざるをえない。その課題にはすでに以前より,真正面からする答えも与えられているし,特定の成果も挙げられ蓄積されてきている。

 つまり,その「明確化」が必要だと指摘された点については,これまで相当程度に理論的に進展させられているにもかかわらず,半世紀前であれば間違いなく妥当しえたかもしれないような「論断になる説明」は,これじたいが好ましくない。

 というよりも,さらにいえば,当該論点の理論状況・水準をきちんと渉猟したうえでの判断ではない点で,問題があり過ぎた。

 

 ※-5 元マルクス・批判経営学者であったらしい人物の「奇妙な発言」

 ブログ『セレンディピティ日記 読んでいる本,見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。』に,これはいまから20年近くも前の記述であったが,「偶然に見つけた論文」(2006-07-22 23:25:55 思想)という題名のつけられ,つぎのように言及する一文が残されていた。

 このブログの文章は執筆者の入りくんだ感情のひだを表出させており,その意味では,一定の〈明瞭ならざる部分〉を含んでいた。以下に引用するので,これを読んでもらえれば判明する(その点を感得してもらえる)と思うが,いまはなきマルクス・批判経営学〔者〕の苦しい心境が,紆余曲折したかのような筆致で表現されている。

 --長い間書きこんでなかった。土日もいろいろ用事があって時間がとれなかったこともあるが,おもな理由はいろいろ本を買ってはいるが,つぎつぎ目移りしてまともに読み終えたものがないからだ。その場その場で思いつくことはあるのだが・・・。  

 今日はインターネットのウエッブサイトで偶然みつけたある学者の論文を,両面印刷と割り付け印刷で1枚の紙に4ページ分を印刷して50ページぐらい読んだ。ある程度読み終えるとつぎを印刷すると,かたちで短いあいだに50ページぐらいになった。歳にもかかわらず老眼の兆候がなくかえって割り付け印刷の細かい文字の方が読みやすい(速読の訓練のせいか?)。

 で,その論文についてだが,このブログに書くにはためらいがあった。というのは,その論文で俎上にのせられ批判されているのは恩師(補注1)でもあり,そしていまの僕の考えは批判者側に近いからだ。

 いまの僕の立場〔ポパリアン〕(補注2)からすれば,異なった考えをしることは喜びであり,批判することも批判を聞くことも普通な行為なのだが,恩師というより恩師の拠って立つ思想はこれと大分異なっている(その事情はこの論文の中から理解できる)。

 したがって,僕がこの論文について肯定的な評価を表すことはフリクションが懸念される。  

 補注)ここでいう恩師とは角谷登志雄か,それとも上林貞治郎か?  

 補注)「ポパリアン」とは,カール・ライムント・ポパー(Sir Karl Raimund Popper,1902~1994年)を信奉・追随する科学者の立場。

 ポパーは,純粋な科学的言説の必要条件としての反証可能性を提唱した。精神分析やマルクス主義を批判し,ウィーン学団には参加しなかったものの,その周辺で反証主義的観点から論理実証主義を批判した。また「開かれた社会」において全体主義を積極的に批判した。

補注1・2

〔ブログ・原文記事の引用に戻る→〕 しかし,相手と目的で言説をその場その場で変えて,つねに「(他の目的の)ためにする」言説をおこなうのはあの思想の人たちであり,わが道ではない。

 唄の文句ではないが,「どんなときも,どんなときも」である。で,その論文というのは…… ▽▽△△氏の「批判的経営学の◎◎◎◎」という論文だ。http://www13.plala.or.jp/・・・・(このリンク先住所は検索しても現在は削除状態になっていた)  

 補注)ところで,上に紹介したこの「段落の意味」は〈韜晦的な雰囲気の筆致〉があって,かなり判りにくかった。「あの思想の人たち」とは誰のことか? ここでは多分,このブログ『セレンディピティ日記』の,かつてにおける筆者自身のことではないか,などと受けとめておく。  

 なお,前記の▽▽△△氏の「批判的経営学の◎◎◎◎」なる論稿は,以前に判明していた点であって,現在はただちには確かめにくい点だが,9万3千字ほどの分量になっていた。この字数だと新書版の場合,1頁あたり6百字が通常の組み版・字数となるので,155頁にもなる論稿であるから多分,前後した記述のなかで紹介につながるような感想が述べられていた,などと察してみる。  

〔記事に戻る→〕 ほぼ消滅したものに「なにをいまさら」ともいえるが,いまだからこそ「興亡」史が書かれる時期かもしれない。読んでみて,ああなるほどとあらためて気がつく点がある。  

  

 ※-6 片岡信之稿「日本における経営学の歴史と現在」明治大学『経営論集』第64巻第4号,2017年3月

 この論稿は,日本経営学会編『日本経営学会史-51周年から90周年まで-』(千倉書房,2017年刊行予定)の編集責任者に任命された片岡信之が,公表していた。この論稿から適宜,本ブログ筆者なりに関心のもてる段落を引照しつつ,関連する議論をしてみたい。

 a) 日本経営学史の出発点はいつだったのか

 「日本経営学会……〔は〕,明治期までの商業諸学が大正前期に,米独経営学の翻訳や紹介を媒介としながら,一応日本人としての諸知識を体系化し始め,方法論的問題意識をもちはじめたということをもって,経営学史の始まりとみなしてよいのではないかと考えられる。その意味では日本経営学会創立以前に経営学の実質的中身は一応あったと私はみている。なお,ほぼ同様な見解は,すでに裴 富吉,前掲書(#)でも提示されている」

 註記)片岡,前掲稿,50頁・註10。なお,裴 富吉の前掲書(#)とは『経営学発達史-理論と思想-』学文社,1990年。

 b) 時代への迎合性がめだっていた経営学会

 「統一論題テーマが,つねにその時代的現実と要請に密着して設定されていたということである。この点は第1回大会以来一貫していた特徴であり,敗戦後も今日まで基本的に引きつがれてきている特徴でもある。論点はつねにホットな時流と繋がっていた。

 経営学というきわめて現実的な実務の場を捉える学問としては,一面では当然のことではあるが,しかしながら他面では,現実との間合いの取り方において,あまりにも無批判な即自的受容・認識・主張を重ねてきたという批判を免れられないであろう」

 「研究対象に即して研究する事は,対象のあり方をそのまま即自的肯定的に認識し論じることと同じではない。この点からすれば,経営学研究が,全体として,当時の時代潮流・時代精神に迎合しすぎて,議論の客観性・普遍性において問題があったことを認め,教訓としなければならないであろう」

 註記)同稿,55-56頁。

 c)「戦後日本経営学における主要論点」から

 「敗戦直後の1946年に開かれた戦後初の日本経営学会大会(第19回大会,統一論題:日本経済の再建と経営経済学の課題)における諸報告であった。とくに第一部の報告は,『社会主義経営学の提唱』『経営者革命と会社革命』『企業民主化の方向』等,戦前の大会ではありえなかった内容のものであった」

 「そこでは戦時統制経済下の経営学の論点とはまったく対照的ともいうべき,戦後の全面的な大変動の雰囲気を反映した新しい論点が示されていた。また,戦時及び敗戦で崩壊した経済・経営をどう再建するかという問題意識が強く出た報告がなされている。論者も論点も大きく入れかわったのであった」

 「しかし,新しい論点を提出するにせよ,当面の企業再建を論じるにせよ,従前の戦前経営学についての全面的な批判的総括,それに基づく理論的超克の視点はみられない。戦前の大会で報告した論者も何人か報告しているが,みずからの戦前報告の内容との関連についての総括も自己批判も抜けている。経済・経営の戦後復興・再建が喫緊の課題であったとしても,理論的総括の作業は,理論家としては,やはり必要であったと思われる」

 註記)同稿,57頁。

 「その後の戦後大会の統一論題を継時的にみれば」「まさに理論的総括の場としてふさわしい回が何度もあったと思われるのであるが,結局それはなされないままで過ぎた。新しい状況下で経営学はどんな課題と向き合わねばならないのかということについての問題意識は強く感じられるものの,

 戦前経営学と関連づけて何がどう変わるのか(変わるべきなのか),あるいは変わらないのかという理論的総括の視点はないのである。何度か出てくる『再検討』『根本問題』『根本問題』などの意味は,当面する新しい戦後の事態にどう対処するかという目前の課題に絞られている」

 註記)同稿,57頁,58頁。

 d) マルクス・批判経営学の雲散霧消

 「戦後に解放された労働組合運動を背景にして,企業に対する批判的研究をかかげる批判的経営学のアプローチが盛んになった。これは日本に固有の企業研究といわれ,その中は方法論的相違から個別資本説学派,上部構造説学派,企業経済学派などに分かれていたが,

 そのほとんどは当時のソ連共産党流の『マルクス=レーニン=スターリン主義』を下敷きにしていて,のちにこの『社会主義体制』が政治的・経済的に崩壊するとともに雲散霧消することになる。戦後提唱された社会主義経営学も同様な運命を辿った」

 註記)同稿,60頁。

 e) 本質論・方法論が消えてしまった経営学界(以下は,片岡信之稿の最後部「総括」から任意に取捨選択して引用)

  ⅰ)「経営研究の totality をどのように確保できるのかが今後問われねばならないのではないか」

  ⅱ)「第2次大戦後の日本の経営学は,アメリカ経営学(経営管理学)の流入によって,基調はそれ一色となり,戦前昭和期経営学の論調はまったく消えたといってよいが,それとともに,経営学の研究対象が企業,経営経済から組織一般・管理一般にまで拡大され,それに伴って経営の価値,価値の流れ,価値の転換過程などの経済過程の解明(ドイツ経営学の特徴)が経営学の内容からなくなった(ないしは薄くなった)」

  ⅲ)「こうして経営学とは経営管理学なのか,経営経済学なのか,それとも両者を統合したものなのかという初期経営学者たち(日本経営学会の初期から参加し,戦前から昭和30年代頃まで活躍した人たち)の永年問うてきた方法論上の論争・論点はほぼ消えて,戦後の時の流れのなかで自然の内に経営管理学に収斂したように思われる」

 「経営学の研究対象,研究方法,学問的性格のいかんはもはやほとんど問われなくなった。しかし,それは本当に解決されたとされるべきものであるのだろうか」

  ⅳ)「日本経営学会初期から『資本論』やリーガーに依拠して批判的経営学につながる流派が生まれたが,それはいまや活動停止状態ないし瓦解状況にある。それに関連して生まれた社会主義経営学の議論も消滅したといってよい」

 「それはかつて存在した(あるいは現在存在している)社会主義を名乗る国家の自滅・崩壊と直接に関係しているが,さらに,そもそも最初から理論的に内包していた誤謬によって,これ以上理論的に積極的な展開が不可能な所まで追い詰められたことが根底にあった。資本主義企業も(残存する)「社会主義」企業も,ともに大きな諸問題点を抱えているいまこそ,新たに先入観なき柔軟な理論構築の試みがなされてもよいのではないか」

  ⅴ)日本経営学会は,これまでみてきたように,昭和金融恐慌→産業合理化→戦時統制経済→戦後復興→高度成長→構造転換と国際化→内需拡大・バブル経済・海外直接投資→バブル崩壊・長期低迷と,めまぐるしく移り変わる経済変動のなかでの企業経営の現実をみながらそれをその時々の課題として取りあげて論じてきた」

 「そしていま,企業を取り巻く国際環境はまたも大きな激変と転換の流れのなかにある。地球規模での環境問題,民族紛争,国際的・国内的な貧困問題・格差問題,ポピュリズムの台頭,ナショナリズム国家の台頭,EU崩壊の危機,グローバリズム逆転の兆し,既存の国際政治経済枠組み崩壊の危機,……など,これまでの枠組みとは異なった世界秩序への大きな再編の可能性が生じつつあるかにみえる転換期にあって,経営学の果たしうる貢献はなんなのか」

 「このような時代的問題意識と無関係に日常的に些末な経営現象の実証研究だけに自己完結的に閉じこもっていることの限界性が問われてきているように思われる」

 註記)以上,同稿,78-79頁。

 最後の指摘,「時代的問題意識と無関係に日常的に些末な経営現象の実証研究だけに自己完結的に閉じこもっていることの限界性が問われてきている」という点は,これが具体的に顕現されている実例を挙げておくと,「日本の大学院教育としての経営専門職大学院」がその本来めざしているはずの目的・機能・成果を十全に挙げえていない実態・実績をもってしても,十分に推し量ることができている。

 本日のここまでの記述に照らして判断するに,マルクスの変革思想にベッタリズム的に追随してきた,それも日本に特有だった理論志向の「批判経営学」が,ソ連邦(1922年12月から1991年12月)の興亡に合わせるかのようにして,

 それも敗戦後から急速に勃興・発展してきた「日本の批判経営学」の興亡として,いったいどのような歴史的な存在意義と理論的な問題性を有していたのか,あらためてその批判的な詮議が要求されているはずである。

 それれは「日本経営学界(学会ではなく)」全体の「理論展開のあり方」に関した非常に重要な責務のひとつである。

 日本比較経営学会編『会社と社会-比較経営学のすすめ-』文理閣,2006年は,関連する事情をこう説明(弁明)していた。前段における叙述では,d) と e) の ⅳ)に直接関連する論点となる。  

 なによりも〔19〕89年11月にベルリンの壁の崩壊とともに旧ソ連・東欧諸国の社会主義経済体制そのものが崩壊してしまいました。「社会主義企業経営に関する研究」をおこなうことを目的として発足した学会にとって,それは衝撃的な出来事であり,学会の存在根拠を問われかねないほどのものでした。  

 註記)同書,まえがき,1頁。   

社会主義経済体制・崩壊

 その事実経過については,前段で片岡信之が追究したとおりであって,結局のところ,その「衝撃的な出来事」を「学界の存在根拠」(理論的な基盤:妥当性)にかかわる重大な論点として,とことんまで詰めてみようとする思考が展開された様子はうかがえない。

 いってみれば「『そこ』から尻尾を巻いて逃げ去ったマルクス主義的な批判経営学の人びと」は,どこかへ待避(?)したまま,しらんぷりを決めこんでいた。もちろん,彼らのなかにはごく少数であったが,その後も「批判的な経営学」の立場・思想を捨てずに,がんばり通してきた者が絶無であったのではない。

 要は「日本経営学会の戦争責任の戦時的問題」,そして「批判経営学の理論責任の20世紀末的な問題」が,この学界のなかにあってはいまだ「まともに詮議されえない研究課題」としてとり残されている。

 おそらく,この21世紀中にはよほどの事情でも生じないかぎり,その「2つの時期に生まれていた問題」は,このままだと埋没していき,さらにいえば忘却の対象にすらなりえなまま,人びとの記憶からは完全に消滅する。すでにそうなっていたが,さらに「そうなっていく」としかいいようがない。

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