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マルクス的経営学の嚆矢とみなされた中西寅雄「経営経済学説」の吟味,戦時体制期に中西寅雄が創説した個別資本運動説はただしマルクスの思想・主義にあらず(その4)

【断わり】 「本稿(4)」は「本稿(1)(2)(3)」から連続する記述である。「本稿(1)から(2),(3)へ」と事前に読んでもらわないと,論旨・脈絡が把握しづらいと思われる。それゆえ,まず「本稿(1)」の住所(リンク先)を下記に示しておくので,興味ある人は,この(1)から読んでもらえると好都合である。できればなるべくさきに,そちらから順に読んでほしいところと希望している。

 ⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/n441075984af3
 

 ※-1 中西寅雄学説の再考

 戦争の時代を迎えて中西「経営経済学説」が理論的に動揺したのは,大正デモクラシー時代に盛行したマルクス〈主義〉経済学「思潮」の余韻を響かす自説に,時局対応上,すくなからぬ不安を抱いたからである。

 中西『経営経済学』昭和6:1931年は,経営経済学の研究方向をこう規定していた。

 「私はマルクス主義経済学に従って,それは資本家的生産諸関係を研究対象とする科学であると解する」

 註記)中西寅雄『経営経済学』日本評論社,昭和6年,3頁。

 「マルクス主義経済学に従って」と中西が宣言したとき,「それは資本家的生産諸関係を研究対象とする科学である」という意味合いであった。その後,中西「経営経済学説」の解釈に関して特定の偏倚が生じたのは,その解釈に(ぶ)れが大きかったためである。

 だが,中西が「マルクス主義経済学に従っ」たのは,理論的経営経済学の「研究対象」を「資本家的生産諸関係」に求めることによって,その「科学」性を獲得しようとしたがゆえであって,それ以上のものではなかった。つまり,マルクス主義「経済学の立場(=方法)」に依拠して「経営経済学」の理論構築を試みた中西だからといって,「マルクス主義」の立場じたいに立ったりその思想・イデオロギーを採ったりする「社会科学の方法」を意味したわけではなかった。

 さて,東京帝国大学経済学部においては創設以来,マルクス主義-自由主義-国家主義という3種の思想・イデオロギーが渦巻き,部内の対立・軋轢が絶えなかった。しかも,時代の進行にともない,各主義の思想・イデオロギーの担い手だった教員たちは順次弾圧を受け,学外に排除されていった。

 註記)東京帝国大学経済学部における内紛の歴史についてはとくに,竹内 洋『大学という病-東大紛擾と教授群像-』中央公論新社,2001年参照。

 昭和14(1939)年1月28日の「平賀粛学」は,渦中の人物河合栄治郎教授の追放に象徴される結末をもって,東大経済学部のたどった紆余曲折を集約‐終結させた事件といえる。ここでは既述のように,連袂辞職を余儀なくされた中西寅雄の立場・心情を忖度し,想像してみるとよい。

 中西は辞職後,陸軍省経理局から戦時日本における原価計算制度の普及・指導に関する事務を嘱託され,これに応じ,尽力した。さらに,企画院の事務を嘱託されて財務諸表準則統一協議会委員に赴任したり,中央物価統制協力会議常務理事を引きうけたりもしていた。

 敗戦後は,経済安定本部企業会計制度対策調査委員を委嘱されたり,公認会計士管理委員会委員に任命されたりしながら,東京都商工指導所長も長く務めた。

 東大を去ることになった中西であったが,その後もともかく,八面六臂の活躍をしてきた。

 註記) 中西寅雄がたどてきた還暦までの経歴は,黒澤 清・柳川 昇編,中西寅雄先生還暦記念論文集『原価及び原価管理の理論』森山書店,昭和34年,「中西寅雄先生略歴」があるが,ここでは〔「本稿(3)につづけて〕再度つぎの概略を参照してみたい。

敗戦後東大に中西寅雄が戻れなかったのは
それなりの事情があったはずである

 昭和27(1952)年4月日米間にサンフランシスコ講和条約が発効する。中西寅雄に教職として復帰する職場を提供したのは,大阪大学法経学部〔当時〕であった。この大学・学部は,マルクス経済学を完全に排斥し,近代経済学中心の研究‐教育体制をととのえていた(*)。その意味で中西がこの大学に復帰したことは,意味深長である。

 註記*)ここではとくに,大阪大学経済学部50年史編集委員会編『大阪大学経済学部50年史』大阪大学出版会,2003年を参照。

 

 ※-2 理論と思想

 本稿(全体の論旨)が中西寅雄「経営経済学説」に注視した論点はまず,『経営経済学』昭和6:1931年における見解が,以後どのように変化したかについてである。

 従来,この論点については斯学界において関心がもたれてきた。しかし,その学説史的な解釈として突出していたのは,「批判的経営学」陣営から放たれた一方的な論難,「中西説は転向した」というものであった。

 とはいえ,中西が描いていった学問的な行路を「転向」と非難することは,見当ちがいの決めつけであった。そのことは,『経営経済学』第1章「経営経済学の本質」の提示した核心の論点が,中西自身においてその後,どのようにとりあつかわれていったかを観察すれば,理解できないわけがない。

 中西『経営経済学』のその第1章は,理論的経営経済学ではない「利潤追求を目標とする学」や「工芸学」を排除した。しかし同時に,「技術論としての経営経済学が……文字通りに『共同経済的福祉を目標』とする学となり得る」ことも指示していた。

 「金儲けの術」や「工芸学」が「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」に転換するためには,その目標において超歴史的なもの,したがってまた,普遍性を有するものを措定しなければならなかった。

 だから,その「目標は使用価値生産の労働過程をそれ自体として研究する場合に於て措定せられ得る」と,中西は説明した(*)。実際,晩年における中西自身の回想に照らして判断するに,周囲が勝手に誤解して中西にくわえた「理論を転向させた」〔マル経から近経に!〕」という断罪まがいの論難は,まったく的外れだったことがわかる。

 註記*)中西『経営経済学』56-57頁。

 『中西寅雄経営経済学論文選集』(千倉書房,昭和55:1980年)は,中西寅雄の論稿「経営学の回顧と発展」(『PR』第9巻第3号,昭和33:1958年3月)を収録している。同稿は,昭和32: 1957年11月8~10日東京大学経済学部で開催された日本経営学会第30回大会で,中西が講演した要旨を活字に起こしたものである。

 中西「経営学の回顧と発展」は,「経営経済学の本質」における本旨を,再度語っている。

 理論科学(reine Wissenschaft)としての経営学は結局,国民経済学〔厳密には純粋経済学〕に包摂されるべきであり,独立の科学としては成立しえない。経営学は,理論科学に対立する意味における応用科学(angewandte Wissenschaft)と解し,経済技術論として基礎づけるのがこの学の発展にとって意義があることである。

 註記)『中西寅雄経営経済学論文選集』千倉書房,昭和55年,〔「経営学の回顧と発展」〕162頁。

 中西はまた,「マルクス経済学を基礎とし,経営学の対象を個別資本の運動と規定する」「かつてのわたくしが提唱し」,「馬場克三教授によって発展せしめられた」「個別資本運動説」(*)を,つぎのように回顧する。

 註記*)同書,166頁。

 ◆ 個別資本の運動は,価値増殖過程と使用価値生産過程とのこの対立物の統一において把握される,と主張された。これはまったく正しい見解であり,いわゆる「価値の流れ」と「組織」の問題が統一的に把握できる。

 ◆ 個別資本学説の基礎であるマルクス学説の正否は,あまりに大きな問題であり,ここでは問題としない。しかし,その個別資本学説の意味するところの理論的経営学は,理論経済学とは別個の独立した理論科学ではなく,その一部分にほかならない。これは「かつてわたくしの述べたとおりである」。 

 註記)同書,167頁。

 以上2点を回顧した中西は,「問題の独立性のみが科学の独立性を形成するから,国民経済学と経営経済学の問題は同一である」,「経営学と国民経済学を分離する特別の問題は存しない」,「理論的科学としては理論経済学あるのみ」などといい,『経営経済学』昭和6:1931年に発する自説を再確認した。

 註記)同書,168頁。

 しかし,個別資本〔運動〕学説のみならず,一般的に「経営学と称される学問」が研究対象にとりあげる「資本主義企業経営の本質把握」に関して,中西はみのがせない過誤を犯していた。

 中西は,「経営学は経済性なる選択原理によって内容づけられた技術に関する学である」と述べ,「経営の実践目的たる経済性実現のために経済理論を適用する応用科学たることを」主張していた。

 註記)同書,171頁。

 だが,そうした把握の方法は,「個別資本運動」を真正面よりとりあげた経営経済学者の言辞としてみるとき,不可解な論点を残した。

 というのは,「資本主義経済体制のなかで利潤追求をする企業経営:個別資本の運動」を,経営学の研究対象にとりあげるに当たり,「収益性を行動基準に活動する資本制会社」のことであるにもかかわらず,これをわざわざちがえて,べつの「〈経済性という選択原理〉で認識しようとする」のであれば,そこに疑義〔食い違い:齟齬〕が生じて当然だからである。

 経営学は通常,資本主義企業経営における経営者の「基本的な行動原理」が「利潤-利益の追求」であるとみる。それゆえ,その理論認識上の選択原理は「営利原則」以外にないとみる。このあまりにも当然な認識の仕方が,中西「経営経済学説」ではなぜか,「経済性」の原理に置換されている。

 このあまりにも「当然な認識の仕方が」「経済性の原理に置換されている」点は,中西寅雄だけでなく,戦時体制期に経営学者として学者業を始めていた学究たちには少なからず存在した。

 たとえば,古川栄一『経営学入門』実教出版,昭和24〔1949〕年9月は,「経営学の研究しようとする経営経済は,(ア)個体経済であること,(イ)しかもそれが生産経済であること,さらに,(ウ)それは経済性の発揮を目標としているということを,その基本的な特長としている」と規定した。

 しかも「この意味の経営経済を簡単に経営とよぶ」さい,「企業をたんに営利的意味にかぎらないで,このような経営経済を実体としていることに重点をおいて,企業の意味に理解することにしたい」(同書,11頁)と説明してもいた。

 補注)だが,この古川栄一の経営学という学問の目標「規定:説明」は,完全に間違いであった。もとは,古川栄一の恩賜である増地庸治郎の「経営学の定義」を継承したその説明(解釈)であったとはいえ,経営学の研究対象の理解としては,現実から逃避した「経営経済:経営」の概念を,しかも企業の概念を歪曲しつつ希薄させた。

 この古川栄一とほぼ同一であった経営経済学の基本概念を(も)定義した中西寅雄の場合は,もともと,マルクス資本論の研究とドイツ経営経済学のその応用を試みた方途を志していただけに,「経営経済:経営」の確定となると,読む側においてよりいっそう疑念を惹起させるほかない経緯にならざるをえなかった。 

中西寅雄と古川栄一の主張比較

 中西は事後も,「価値増殖過程と使用価値生産過程とのこの対立物の統一において把握」する「個別資本の運動」という理解は,「まったく正しい見解であり」,「『価値の流れ』と『組織』の問題が統一的に把握できる」視点になることを,確認していた。この指摘は多分,「理論的経営経済学〔私経済学・企業経済学〕の視点」のことを意味したものと思われる。

 だが,中西はこの視点をさらに,「価値増殖過程と使用価値生産過程とのこの対立物」というせまい枠組においてだけ理解し,これを「統一において把握」する「個別資本の運動」全体の動態面は,無視した。

 それゆえ,「理論的経営経済学」と「技術論としての経営経済学」とを分断・固定化したあげく,「理論的経営経済学」を国民〔全体〕経済学の相対的一部分に位置づけるとともに,現在においてふつう「経営学」とよばれる学問の存在する余地を完全に否定した。

 つまるところ,「技術論としての経営経済学」の残された方途は,「超歴史的な普遍性を有するもの」をその認識目標に措定することで,「金儲けの術」「工芸学」たる性格を,「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」へ変換・転化させることになった。

 中西「経営経済学説」における基本的な疑問は,「理論的」に経営経済学を考察しながらも,狭義の「技術論としての経営経済学」しか認知しえなかった点においてこそ,生じていた。

 

 ※-3 戦争と学問

 1937年7月7日から始めた「日中戦争」以降は,戦時体制期に本格的に移行した日本帝国は,軍事的に経済統制を強化しようと,国家総動員的な戦争政策を実施していく。

 国家総動員法は昭和13〔1938〕年4月1日,第1次近衛文麿内閣のもと,国家総動員法が公布され,5月5日施行された。この法律は,国家総動員を,事変を含む戦時にさいし,「国の全力をもっとも有効に発揮せしむるよう人的及物的資源を統制運用する」ことであると定義していた。つまり,国家総動員上必要と認められる事柄について,政府が広範な統制をおこなえるよう定めたのである。

国家総動員法,昭和13〔1938〕年

 中西が『経営経済学』昭和6:1931年や『経営費用論』昭和11:1936年で駆使していたマルクス主義経済学的な語法や概念は,プリント「経営経済学」(昭和14年)ではほとんど抹消される。その代わり,ゴットル流「生活経済学」の学問理念が登場し,混入される。くわえて,作田荘一流「国家意思の動向・視線・実践を指導する」「国民科学としての国民経済学」に賛同する姿勢も,中西はしめしている。

 たとえばそれらは,「国民経済ノ本質ハ,生産ト消費トノ持続的調節(整)デアル」と定義したり,あるいは,統制経済下の「部分経営:生産経済」の目的観を,「資本家的経済,収益-費用=利益」に代えて「費用補償ノ原則,収益-費用=剰余」をもって規定したりするところにも,表出されていた。

 中西は戦後も,「個別資本の運動」という経営経済学の理解を,「まったく正しい見解であ」ると確言していた。それならば,戦時体制期における企業経営の実相に反するかたちで提示した,資本制営利会社に関する「費用補償ノ原則,収益-費用=剰余」といった会計的な目的観や,「生産ト消費トノ持続的調節(整)デアル」といった共同経済的・厚生経済的な本質観は,戦後,真っ先に反省する材料にされねばならなかった。

 ところが中西は,自身の理論主張にまつわる以上のような「戦後的な論点」に関しては,「個別資本学説の基礎であるマルクス学説の正否は,あまりに大きな問題であり,ここでは問題としない」といいわけし,斯学界で再吟味されることを回避した。

 中西は,戦後に日本の経営学が展開していく「個別資本運動説」の議論に関与することがなかった。それに代わり,「技術論としての経営経済学」の方途を,「金儲けの術」「工芸学」より「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」へと転換させる努力をおこなった。

 ただし,戦時体制期にかぎっては既述のように,国家「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」が「戦争経済の生産増進の学」に席をゆずっていた。

 再度指摘するが,中西はそのさい,「超歴史的な普遍性を有する」「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」を,「戦争目的の完遂」を合理化する方向に唱和させた結果,ゴットル生活経済学や作田荘一の「国民の科学」的経済学へ急接近した。

 結局,中西においては,

  ◎ 戦時体制期における「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」は,戦争目的完遂協力〔軍事性の発揮〕を志向していた。

  ◎ 戦後平時期における「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」は,平和目的達成奉仕〔経済性の発揮〕に修正されていた。

 以上のように,中西の論説は戦時⇒戦後をとおして,『経営経済学』第1章「経営経済学の本質」をめぐり,どこまでも矛盾する論説を残存させた。中西は,自身が摂取した「マルクス学説の正否」を「問題としない」かぎり,自説を「回顧し発展」させえなかった。だが,中西はその肝心な論点の再考を棚上げした。

 

 ※-4 学問と体制

 中西「経営経済学」の本質論・方法論がかかえていた諸課題は,日本における経営理論の歴史的発展のなかで,そうとう程度克服されてきた。このことは,後段に紹介するごとき諸業績に蓄積されている(後述に関説)。

 『中西寅雄経営経済学論文選集』昭和55:1980年に収録された中西寅雄の論稿「経営学の回顧と発展」は,昭和32・33〔1957・1958〕年に講演・公表されたものであった。昭和32:1957年11月8~10日東京大学経済学部開催の日本経営学会第30回大会でその講演をした中西は,関連する戦時体制期の諸事情を知悉していたものと推測される。

 中西の立場を克服し,発展させようと試みた馬場克三の論稿,「経営学に於ける個別資本運動説の吟味」(『会計』第43巻第6号,昭和13:1938年12月)は,『個別資本と経営技術』(有斐閣,昭和32:1957年4月)に転載・収録されていた。

 しかし,中西はすでに「個別資本学説」からはなれていた。本章が吟味する対象,「中西寅雄のプリント「経営経済学」(昭和13年10月-14年2月の講義,昭和14年3月1日)は,その離脱の事実を如実に物語る史料である。

 戦後に中西は,「マルクス学説の正否」は「問題としない」と断わりつつも,マルクス経済学の方法から完全に離脱したことを,みずから再確認した。だが,それでも,「価値増殖過程と使用価値生産過程とのこの対立物の統一において把握」する「個別資本の運動」という理解は,「まったく正しい見解である」と主張し,経営学の二大基本問題である「『価値の流れ』と『組織』の問題」を統一的に把握することにも賛同していた。

 となれば,「『価値の流れ』と『組織』の問題」を,経営学的な概念枠組として統一的に把握することを認知したのであれば,「経営学の学問的な独立性」を「理論的経営経済学」の観点より否定した中西自身の立場は,根本的に揺らぐほかなくなる。だが,この論点に対してそれ以上詰めた議論が,その後における中西にはなかった。

 しかし,中西寅雄・鍋嶋 達編著『現代における経営の理念と特質』(日本生産性本部出版部,1965年)で,中西はこう述べていた。

 今日の経営研究の特質は,総合的・統一的な思考の体系であることにある。

 すなわち,それは共同経済的思考と組織的(または人間行動的)思考と計算的思考との三つの思考を包摂しながら,その統一的な把握にもとづく総合的思考体系であることを特質とする。

 新しい経営理念に含まれる社会性と利潤性とは,たがいに他を前提し内含する関係にある概念となっているのである。

中西・鍋嶋編著『現代における経営の理念と特質』はしがきⅣ頁

 この見解は,「『価値の流れ』と『組織』の問題」に相当するものの上に「共同経済的思考」を重ねていた。中西はここでも,「経営理念」論として総合的思考体系を特質づけるさい,「超歴史的な普遍性を有するもの」である「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」,具体的にいえば「共同経済的思考」をもちだしていた。

 実は,このような志向性も『経営経済学』昭和6:1931年以来の,中西に独自な発想に由来するものであった。

 「理論的経営経済学」はかつて,「経営学の二大基本問題」のひとつだと認識されている「〈価値の流れ〉」の問題要素を,全体経済学に召しあげられ,残る「〈組織〉」の問題要素は,利潤追求的な工芸学にしか結合しえないものに位置づけたのである。

 それゆえ,「技術論としての経営経済学」の方途は,「超歴史的な普遍性を有する」「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」においてしか,その出口をみいだせないと結論づけた。

 その結果,「超歴史的」な「共同経済」性を媒介にした中西「技術論としての経営経済学」は,国家や体制の要求する価値観に,いつでもすなおに直結する学問形態を装う以外,存在しえなくなった。

 中西・鍋嶋編著『現代における経営の理念と特質』1965年は,その代表的な編著であった。さらに,同じく中西寅雄・鍋嶋 達編著になる『経済の新動向と企業経営』(日本生産性本部,昭和48:1973年)は,共著者の1人にこう述べさせていた。

 現代企業は,資本と労働と経営管理の三つの職能の三位一体的な協働関係によって形成される組織である。それゆえ,この組織の目的価値すなわち経営成果は,伝統的な利潤概念を包摂しながら,より包括的・高次元の経済性概念であることを要する。

中西・鍋嶋編著『経済の新動向と企業経営』〔林 秀彦〕247頁

 現代の企業経営に関する基本的な目的観そのものとして,「経済性」概念を認識基準に設定するのは,完全なる誤りである。しかし中西のように,「超歴史的な普遍性を有する」「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」を欲する経営経済学「観」にとっては,その経済性「概念」こそが有意義であり,不可欠な地位を占めるものであった。

 戦時体制期の日本経営学は,「経済性」概念の必要性を,軍需物資生産増強のために高唱していた。ここで留意したいのは,近現代のいかなる時期においても,またいかなる経済体制をとる国家支配に対しても,「経済性」概念が奉仕しえたことである。

 抽象的にみれば,戦後の「経済性」概念と戦中の「経済性」概念は同質のものだったが,しかし,その上位にそれぞれ陣どった最高の規範としての「企業目的の意図」と「国家目標の意向」とは,まったく相反する質性のものだった。

 したがって,同じ「経済性」であってもこれが置かれる時代が違えば,まったく「異なる概念性=意味合い」を形成・付与される。「戦時体制に奉仕する経済性」と「平時生活に役立つ経済性」とのあいだには,みのがせない含意の食いちがいがある。

 また,中西〔たち〕の場合,戦後における「経済性」概念は,これが「より包括的・高次元の経済性概念であることを要する」といわれていた。したがってここでは,戦前期よりすでに提唱されていた,ゴットリアーネル流「経営性」という概念に言及しておく。

 宮田喜代蔵『経営原理』(春陽堂,昭和6:1931年)は,こう主張していた。

 今日の経営性と社会経済的合理性との関係は,畢竟企業によって支配されてゐる経営的生産の技術的合理性と,これによって実現される社会経済全体の厚生との関係として把捉される。いま一般的には経営性の増進は社会経済性の向上を結果すべく,かうした場合においてのみ経営合理化は最後の経済的意味を客観的に充足しるものである。

宮田『経営原理』69-70頁


 中西寅雄「経営学の回顧と発展」昭和33:1958年3月は,こう主張していた。

 「私企業にすくなくとも経営方針や決定その他において広範な自由が認められているのは,何もそれがもっぱら形式上の所有者や経営者団体の利益を尊重するからではなくして,これにより,より高い経営能率を発揮して現実に共同社会の生産性の向上に寄与すると期待されうる」のは,「共同経済的収益性こそが現在の企業に内在的なものであり企業の本質を規定するものといいうる」

 註記)『中西寅雄経営経済学論文選集』〔「経営学の回顧と発展」〕175頁。

 「今日経営者は私経済的利益の極大化を企業の唯一の目的とするかわりに,共同社会に奉仕するという動機にそくして,むしろ共同社会の代行的な管理者という意識によって,共同社会の生産性に寄与しなければならない。かくて共同経済の生産性の表示としての利益-それは景気利益,カルテル利益等とことなる経営利益と称されるもの-のみが企業に内在的な真の利益であり,経営学の選択原理となる利益である。……かかる利益概念を,わたくしは経済性なる言葉をもって表示したい」。

 註記)同書,176頁。

 再三触れるが,戦後における中西の発言は,理論的経営経済学とは思考形式を異ならせる「技術論としての経営経済学」の方途を,「工芸学」「金儲けの術」より「共同経済の福祉増進の学:共同経済的生産力」へと転換させるためになされていた。

 しかし,「社会経済性:共同経済の生産性」を配慮した「経営性」が「経済性」であり,この目的「性」を私企業の経営者はめざさねばならないという主張は,国民経済学と経営経済学との理論的な識別-区分に関する方法論議を欠落させ,その誤謬にはまった「規範的議論」の一典型である。

 中西のプリント「経営経済学」昭和14:1939年における議論は,「経営合理性ノ判断ハ規範科学デハナイ」,あるいは「規範科学ニ於テ普遍的価値カラ如何ニシテ具体的価値ガ措定サレルカト云フコトハ将来ノ研究ニ俟ツ」と留保を付けたにもかかわらず,戦争中の「国民生活」に関する「国民科学」の「実践科学の任務」:「政策及び規範の研究」は,拒んでいなかった。そうした自家撞着的な言説は当然,自身の議論のなかに背理を生んでいた。

 しかも,今日における経営者の任務は,「私経済的利益の極大化目的」の代わりにむしろ,「共同社会の代行的な管理者」として「共同社会の生産性に寄与しなければならない」ものである,と主張した。もっとも,平和な時代における「経営者の任務」として,そのような「規範的私企業観」を提示したことは,現代資本主義体制の現実をみあやまったものと批判されれば,済むことかもしれない。

 だが,中西のプリント「経営経済学」は,戦争の時代において「経営者の任務」とされたはずの「国民生活」の「政策及び規範」を,「国民科学」の「実践科学の任務」として引きうけた。「戦争の結果:それも敗戦」が明らかにしたことであり,そして結果的にだったことだが,「共同社会の代行的な管理者」として私企業の経営者が「共同社会の生産性に寄与」しえなかった結末は,いかに回顧されるべきだったのか?


 ※-5 体制と人間

 中西「経営経済学説」に対する「経営思想史」的な分析が必要であった点は,すでに触れた。それにしても中西は,「工芸学」「金儲けの術」を理論の定立面では否定していたのに,なにゆえ,「技術論としての経営経済学」を戦時体制期に向けて生きかえらせ,無条件に協力する立論に変質させたのか? 

 中西は結局,ゴットル経済科学的な「存在論的価値判断」にもとづく「規範的経営経済学」を導入した。ゴットルの立場は,「国民経済の在内構成体」である「企業が正しくその環境に適応」しつつ,その「構成体としてとる形態」を「いかに革新」するかというものであった。

 中西『経営経済学』昭和6:1931年〔9月25日発行〕は,ゴットルのテイラー・システムやフォード・システムに関する議論も引照する著作であった。中西の同書はすでに,ゴットル的思惟を理解していた。

 もっとも,中西「経営経済学説」のなかに「ゴットル的立場:そのもの」を注入・添加するのは,戦時体制期〔昭和12:1937年〕に入ってからのことであった。

 中西の主唱においては基本的に,戦時期も戦後期も異質な要素がなく,一貫している。だが,時代の資質・環境は百八十度変質した。基本面では変質しなかった中西説だったけれども,大きく変化する時代背景にそれなりに対峙してきた。そうだとすれば,中西説の核心の問題はいったいなんであって,そしてそこにどんな変化があったのか?

 戦中⇒戦後における中西学説の主張は,つぎのようなゴットル経済観そのものを体現させていった。

 人間共同生活の体験を内面的に省察すると,構成体の存立と持続が如何にして可能であるかという単一の巨大な問題が存在するのである。この問題が社会科学の最も根源的な問題である。

 註記)加藤明彦『社会科学方法論序説-M. ウェーバーとF. v. ゴットル-』風間書房,平成3年,129頁。

 たしかに中西は,「社会科学の最も根源的な問題」に接近したけれども,「社会科学の本質的な問題」の究明からは,逆にしだいに離れていった。戦争中明らかになったことだが,ゴットル流経済科学的思惟や作田流国民科学論に束縛されたのか,あるいはそれに加担し,合流したかのような経営「経済学者」に中西は変身した。

 結局,資本主義経済体制におけるもっとも根源的な特徴「営利性原則」の理解を,「共同社会の生産性(経済性)」のなかに埋没させ,あいまい化させた。

 もっとも,「人間の生きかた」として中西寅雄が歩んだ人生行路は,賢明な出処進退を演じてきたと総括できる。

 昭和37:1962年〔慶応義塾大学教授のとき〕から他界する昭和50:1975年〔拓殖大学教授のとき〕まで中西は,日本生産性本部の「生産性研究所長・常務理事」を務めた。この職場で彼は,ゴットル流「経済政策」論を実質的に展開してきた。すなわち,「経済秩序と人々の共同生活の一般政策的誘導と特殊政策的誘導との相互関係を明白にする」(*)任務を,理論面で推進する指導者であった。

 註記*)小原久治『経済政策の方法・目的・手段論- 一つの経済政策原理-』高文堂出版社,平成10年,22頁。

 その意味で戦後の中西は,体制擁護派の立場を明確に維持した。本章で筆者が強調するのは,『経営経済学』昭和6:1931年は結局,戦前の日本資本主義体制批判のために執筆されたものではなかったことである。

 『経営経済学』は,第2章「個別資本の生産過程」,第3章「個別資本の流通過程」,第4章「個別資本の循環とその回転」,第5章「財産及資本の本質と其構成」,第6章「株式会社」などすべて,個別資本の次元に関する生産-流通問題の客観的な研究・分析であって,もとより,資本主義企業経営の問題を思想・イデオロギー的に批判しようとする著作ではなかった。

 中西「経営経済学説」」のそのような学問的性格は,同書を虚心坦懐に読書すればたやすく理解できるはずである。ましてや,マルクス〔主義〕経済学に一定の知識がある研究者が,その点を理解できないわけがない。

 いずれにせよ,以上のような中西における学問-人生の特性・足跡などを観察し〔ないで!?〕,その「経営経済学説」の「思想」のなかに「転向」が生じたと決めつけたのは,生かじりの理解,勝手な思いこみ,虚像の捏造である。

 むしろ,「人間そのものとしての中西寅雄」の学究的な生きかたを表相的に批判するのではなく,経営経済学者としての「中西寅雄の理論展開」じたいに内在する問題性を具体的にとりあげ,これをめぐって実際的に議論することが肝心である。

 大阪大学経済学部〔1952~1959年〕を退職した中西は,慶応義塾大学商学部〔1959~1969年〕,拓殖大学商学部〔1969~1975年〕に勤務したが,理論面においてはとりたてて『経営経済学』を画する進展をなしえなかった。むしろ,この著作の次元にとどまり,別方向へと持論を拡延させていった。

 補注)なお,中西寅雄の生死年は,1896年3月11日-1975年4月25日。

 結局,戦後の中西は,「個別資本学説(個別資本運動説)」を理論的に発展させる意向を示さなかったし,学問の初めた当初からその種の関心を封印していた。ただし,その問題意識がなかったわけではなく,その志向性に強い関心を有していなかったとも思えない。

 中西が残した足跡からは「学問の展開史」として推察できる〈問題意識〉がうかがえる。ともかく,戦時体制期における中西は「理論的な諸困難に囲繞された時代状況」のなかで,いかに自分の学問を存続させていくかに関していえば,相当深刻に懊悩した,それも他者にはいうにいえない個人的な思惟の変質を体験してきたはずである。

 一寸木俊昭は1977年に,『経営経済学』昭和6:1931年の問題点を,つぎのように指摘していた。

 中西教授はヘーゲル(G. Hegel)の解説者フィッシャー(K. Fischer)の文献(Geschichte der neuern Philosophie)に依拠して,全体(社会的総資本)と部分(個別的資本)とは「相互予定的関係」に立つと主張している……が,それが真にマルクス主義の見地からの理解であるかどうかに疑問がもたれる……。

 すなわち中西教授の理解においては,社会的総資本→個別的資本は「独立化」であり,個別的資本→社会的総資本は「総括」ないしは「統一」であるとされている……が,両者の矛盾・対立→止揚・発展の観点が欠けている……。

 なるほど個別的資本は社会的総資本の契機であり,それは結局,社会的総資本に「総括せられる」のであるが,しかしそれに帰着するまでには,企業間の競争,資本と労働の移動,市場の形成と消滅,さらには企業内部の「経営資源」の再調達と再配置というプロセスを媒介するのである。

 個別資本の運動とは,要するに社会的総資本の運動法則の制約を受けながら,そのように相対的に自立的に展開されるものであり,個別資本と社会的総資本との関係は,内的矛盾の止揚にもとづく発展として理解されるべきものである。

 註記)一寸木俊昭「個別資本概念の具体化と経営学の課題」,日本経営学会編,経営学論集第47集 日本経営学会五十周年記念特集『経営学の回顧と展望』千倉書房,昭和52年,169-170頁。〔 〕内補足は筆者。

一寸木俊昭の見解


 ともかく,個別資本運動説はその後も,馬場克三,中村常次郎,三戸 公,淺野 敞,松本 讓,片岡信之,坂本雅則などによって,経営〔経済〕学の本質論的な立場や方法論的な概念が検討され,国民経済学とは別個に,独自の「理論の体系」も内容的に考察されてきた。

 それら経営〔経済〕学者たちは,

  a) 「国民経済学と経営経済学の問題は同一であ」り,「問題の独立性のみが科学の独立性を形成する」と定義した中西学説の制約・停滞を克服した。

  b) 「理論的科学としては理論経済学あるのみ」で,「経営学と国民経済学を分離する特別の問題は存しない」と規定した中西学説の誤謬・限界を除去した。

  c) さらに,資本制営利会社の運営・管理にたずさわる経営者職能においてこそ,中西学説が観察しなければならなかった,企業経営問題における主体と客体という両面の問題を,統合的に把握する見地も用意した。

  d) 中西のプリント「経営経済学」昭和14:1939年は,『経営経済学』昭和6:1931年と『経営費用論』昭和11:1936年が言及した,「企業家の意識に反映せる姿容に於て研究する学」という文句を出していない。この点は,マルクス主義経済学の観点を経営経済学研究の出発点で利用した中西が,戦時体制期においてその痕跡を消去させるための操作だったと,解釈できなくもない。

 要するに中西「経営経済学説」は,その後における当人の意向や関心の移動にもかかわらず,前掲のような後進の経営〔経済〕学者たちが,その理論を着実に進展させてきた。中西『経営経済学』「序言」は,本書が「問題提起の契機ともなり得るならば,望外の喜びである」と記していた。事後,長い年月が費やされ,まさしくそのとおりになった。

 ちなみに,中西が戦前学んだドイツ経営経済学は,戦後の理論動向において,つぎのような推移をたどった。

 〔19〕60年に至ってもなおシュマーレンバッハの技術論としての経営経済学の理解は,大きな影響を及ぼし続けた。また経営経済学内外の研究者たちは,経営経済学が経営管理論のための一つの学科に属すという見解を主唱してきた。しかしながら今日においてはグーテンベルクのとる『科学としての経営経済学』の格言に強く異論を唱えるものはほとんど存在しない。

 註記)ホルスト・アルバッハ,栗山盛彦訳『テキスト 現代ドイツ経営学』千倉書房,2003年,58頁。〔 〕内補足は筆者。

科学としての経営経済学


 戦後の中西は,「個別資本運動説」に学問的な興味を抱かず,長く実業界の指導者的地位にかかわり,こちらで「実践理論的な寄与」をしてきた。同時に,教職の立場から学生に講義をおこなってきた。これらの意味もあらためて考えておく必要があった。

 

 ※-6 補説-中西寅雄「1934年度講義プリント『経営経済学』」について-

 戦前・戦中期,東京帝大経済学部における中西寅雄の講義「経営経済学」関しては,当時,学生がその授業を聴講したさい,これを筆記したものをガリ版刷りに仕上げる体裁をもって,「定期試験対策用」の「ノート(プリント)」が制作されていた。

 中西の授業を受講していたけれども多分,ろくに講義に出ていなかった学生向けだったと思われる,この「プリント『経営経済学』」が印刷・製本され販売されていたわけである。

 敗戦後もだいぶ時間が経過したあとになったけれども,本ブログ筆者がその現物を閲覧する機会があって,このような論稿としてとりあげ議論するための材料として活かされることになった。

 以上に触れた,中西寅雄の講義「プリント『経営経済学』」には,実は,以下に紹介する表4-3「1934年度講義プリント『経営経済学』目次」もあったので,最後の記述内容になるが紹介しておきたい。 

 ここでは,この論稿(記述)全体のなかではとりあげられなかった「表4〔-3〕 」のその「1934年度講義プリント『経営経済学』」を,本稿全体に対する補足資料として,以下に掲示してみる。

 本稿全体は,中西寅雄『経営経済学』昭和6年,および「中西寅雄のプリント「経営経済学」(昭和13年10月-14年2月の講義,昭和14年3月1日作成)を,もっぱら論及の対象にしてきた。それはあくまで,昭和13年度後期授業で中西が講述し,この内容を学生が筆記したノートをもとに発行されたガリ版刷「講義録:プリント」を媒介とする,中西「経営経済学説」の考察であった。

 「本稿」は,前段で触れたつぎの1934年講義プリント「経営経済学(4分冊)」そのものに言及していなかったが,実際には,前者の昭和14年版と基本的には共通するプリントであった。その「1934年度講義プリント『経営経済学』」目次を,下掲する「表4〔-3〕 」に提示してみた。

 その構成は『経営経済学(第1部)』の(上巻)と(下巻),『経営経済学(第2部)』の(上巻)(下巻)という4分冊からなっていた。この「表4〔-3〕」は,この下掲の表じたいは図表作成の関係で2つに分割・表示されているが,元のそのプリント版の構成においてはむろん,連続した目次である。

 なお,この中西寅雄・講義プリント「経営経済学」の目次は,表記の方法に関して工夫が若干足りず,一貫性や体系性,均衡性に欠けるきらいも残っていた。しかし,本稿において紹介するにあたっては,そのあたりの不備・不首尾は委細かまわず参照している。

1934年度講義プリント『経営経済学説』
1934年度講義プリント『経営経済学説』続き

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