元号「令和」などで時代を区切る「摩訶不思議な歴史感覚」に疑問を抱かぬこの国の民たち,天皇は本当に国民・大衆の象徴でありえたのか?
※-0「皇室の今」が「今の日本」になるのか? 論旨不可解なる皇室論および憲法論などを議論する「試論」は不必要なのか?
a)「皇室の今」といわれる事象が,はたして「今の日本」になりうるのかという論点について,論旨の不可解なる所論を書く皇室付きの新聞記者たちなどがいた。とくに以前,2010年代の発言であったが,朝日新聞記者の皇室論や憲法論に関する疑念をめぐり議論する。
付記1)冒頭の画像は広く流通している西田幾多郎の画像から借りた。
付記2)本稿の初出は2014年2月18日,更新 2021年10月28日であり,本日2023年10月4日に再論することにした。
付記3)「皇室の今」という表現は,西田幾多郎(1870―1945)の基本構想にかかわっていた。西田が,思索した哲学の中心概念であるこの「永遠の今」という用法を真似て,本稿の記述をおこなっている。
要は,西田哲学の新たな可能性が,この「永遠の今」に求めうるかのごとき議論が,日本哲学史のなかで討議されてきた。しかし,西田幾多郎が皇室問題に対してそれも戦争中に関連する話題となると,あれこれ困難な閉塞的議論に類する発言も登場する。
たとえばこう発言した学究もいたので,若干言及しておきたい。
b)「京都学派の天皇論―西田幾多郎と田辺元の論」と題した論考を書いた岩井洋子(一橋大学大学院)は,おおよそつぎのように関説していた。
そのように,戦時体制期における日本哲学史,それも京都学派の代表者であった西田幾多郎の哲学論にかかわって,その「意図」に注目・着目する議論は,間違いなくたいせつな検討事項でありえよう。
「21世紀の今」にもなってだが,あらためて問われるべき論点として,京都学派が戦争中に強説した「世界史的使命」の意図が,戦争の時代における「日本の哲学」の具体的な展開として,それも「戦争の問題に対面させられた理念の提示」をかかげた立場が,
国家全体主義・政治イデオロギーの次元にまで膨張させざるをえなかった事情を分析・評価するさい,その「意図」にのみこだわり過ぎる研究の方途は,当初より脱輪的な説法にはまりこむ危険性が大であった。
補注)岩井陽子(IWAI, Yoko)「博士論文要旨」(博士号取得年月日:2023年3月17日)は,論文題目:『「京都学派の政治哲学」再考 ―時代の危機との格闘の思想として―』に,公開されている。
註記)『一橋大学大学院社会学研究科・社会学部』「研究教育活動-博士論文一覧,博士論文要旨」,https://www.soc.hit-u.ac.jp/research/archives/doctor/?choice=summary&thesisID=509
【参考資料】-前後する記述の話題に直接深い関係のある史料-
c) 西田幾多郎の哲学を評価するための議論をするさい,戦争の問題が陥穽に導く基本的な動因になりがちであった。その点は,岩井洋子がつぎのように把握した西田哲学などの京都学派に対する認識「論」から,察知できる事情であった。
以下,〈論文要旨〉論文題目:『「京都学派の政治哲学」再考-時代の危機との格闘の思想として-』SD141003 岩井洋子,https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/79821/ (2022年度)から引用する(6-7頁)。
時代の危機の克服論として,京都学派の政治哲学をどう読み解くか。戦後,高山は自らの思想の立ち位置は保守主義 Conservatism であるとする。一般的に,保守主義という政治のあり方,これは反動とされ,進歩の反対概念であることから否定的にとらえられている。
補注)保守主義が進歩(主義)の反対概念であるとはいいきれない。相互に否定しきれない政治的な理念や目的が,たがいに渡りあうかのように交錯して共有されているからである。
しかしそれにしても,日本の哲学なり政治における歴史のなかの伝統は,次段で丸山眞男が指摘するとおり,まともな保守の観念は形成されてこなかった。その事実は21世紀における日本政治史が,あますところもなく事実をもって説明してきた。
〔記事に戻る→〕 「進歩」と「反動」とは力学的にとらえれば作用と反作用であり,押し返す力としての反動のない進歩はありえない。丸山真男は,日本において正当な保守主義が形成されなかったことが,日本の政治思想が「なり行き主義」であることの原因とする。
田辺の提示した,友愛による協同体は,日本の古来からの農村協同体を核とする「家」協同体の復活であり,高山による「総有」は「入会」の再生である。西田の提示した「天皇」も,無意識として現われる「伝統」の象徴ともみることができる。これは,「我々の意識の底に流れるダイナミックな動き」歴史に内在する力,絶対無,あるいは天皇ととらえことができる。
補注)農村共同体⇒「家」協同体という指摘は,21世紀の日本社会における農村人口の比率が,つぎのごとき実態にある事実を踏まえた場合,そのまま妥当しうる議論たりうるのか,再吟味の余地があった。
ところが,この種の議論をする人びとはだいたいにおいて,その問題意識を欠いていた。好意的に解釈すると,無意識的に言及することになってはいなかった。しかし学究の立論でする討究に関しては,そのようなうかつは許されまい。
実際的に考えてみよう。日本の「農業就業人口」は2010年に約260万人であった。その後,毎年10~50万人ほど減りつづけため2019年には約168万人にまで減少した。昨年の2022年だと,122.6万人まで減少していた。これは日本の総人口のほぼ「百分の1」にしかならない。
この現実を踏まえたうえで,「友愛による協同体」を,日本の古来からの農村協同体を核とする「家」協同体の復活に求めたり,「入会」の再生を探ったりする社会観が,はたして21世紀における社会共同体(協成体?)として追究するに値し,かつまた一番適切であるか疑問が生じて当然である。
「日本の古来」といっても,明治「維新」より前のそれか,それともその後のそれかによって,その含意は一様ではありえなかった。明治以降を「古来」といえるかと問われたとき,しかりと答えるのは不適切であり,完全に的を外している。
いくらか混ぜっかえしていうと,明治以来もその「古来」と表現したいいまわしは,きわめて適当に,つまり,だいぶいいかげんに使いまわされてきた。だから,歴史学の観点から厳密にいえば,それこそ常識以前の粗雑さが売り物でもあった,「いわばでっち上げ的なヘリクツもどき」のそれであった。
昨今,日本の政治社会で強固に排除されてもいる「別姓使用」に対しては,異常なまでの反撥があり,また「LGBTQ(など)」を無条件にかつ異様に毛嫌いする風潮に対面させられている現在,岩井陽子の討究した西田哲学など京都学派に対する解釈「論」が,はたして「現代哲学論」の現実的な検討課題を,無理なく包摂できる「日本の哲学史」の立場として応用可能であるか,そして,今後に向けてその立場を継承・発展させうるための舵取りをまかせられるかどうか,まだ検討の余地があった。
d) 岩井陽子は,西田の提示した「天皇」も無意識として現われる「伝統」の象徴ともみることができ,それは「我々の意識の底に流れるダイナミックな動き」歴史に内在する力,絶対無,あるいは天皇ととらえことができる,とまで主張する。だが,すでによくみられるこの見解は,いまどき陳腐だという心証を回避できていない。
日本のメディア・マスコミ上に報道されている,それも「天皇・天皇制」の喧伝的な「国民洗脳」に相当する記事や放送の普遍的な浸透ぶりが,岩井陽子にはみえていないのか?
少なくとも一橋大学大学院の社会学研究科で学んだ院生だった人物として,やや不可解と受けとるほかない「皇室認識」がかいまみえた,と思わざるをえなかった。
〔記事に戻る→〕 このような,「伝統」の提示によって,「伝統」と「革新」との拮抗関係から漸進的な改良を試みる。これは直線的な進歩史観に対して,アンチテーゼであり,京都学派の提示した,マルクス主義などとは異なる時代の危機の克服のもう一つの方法であるとはいえないか。
補注)ところで,あえて割り切ったいい方をするが,京都学派が「直線的な進歩史観に対して,アンチテーゼであり,京都学派の提示した,マルクス主義などとは異なる時代の危機の克服のもう一つの方法である」とは,忌憚なくいって「お世辞にもそのような方途はありえなかった」。
つぎに岩井陽子のいうとおり,戦前期(戦時体制期)においてのみならば京都学派の哲学「論」は,「悪用された部分があるとはいえ,彼等の理論は,大東亜共栄圏思想の裏付けとなったといえるのではないか」という解釈は,いささかならず好意的に過ぎた。戦争の時代における学問のありように向けられる関心の方向付けとしては,かなり甘かったといわざるをえない。
〔記事に戻る→〕 このように,本稿は,京都学派の政治哲学が戦後日本に及ぼした影響,あるいは彼等の思想と戦後社会を動かした思想との連続性といった面を明らかにすることができた。ただ,戦前の京都学派の思想には確かに問題があった。悪用された部分があるとはいえ,彼らの理論は,大東亜共栄圏思想の裏付けとなったといえるのではないか。(引用終り)
「大東亜共栄圏思想の裏付けとなった」という京都学派の哲学流になる「その彼らの理論は」,「悪用された部分があるとはいえ」と擁護的な解釈をくわえるのであれば,その政治哲学面にまでおよぶ議論の深化を要する。
e) 大東亜「侵略思想」の手垢が何重にもこびり着いたその大東亜共栄論に関連させていうと,宮崎県宮崎市の平和台公園に残されている『八紘一宇柱』は,「大東亜」戦争の時代をもっとも具象的かつ代表的に象徴する塔であった。にもかかわらず,「今」ではその名称を『平和の塔』,もしくはその正面に彫られた「八紘一宇」の4文字から「八紘一宇の塔」とも呼ぶようになている。
その『平和の塔』がたどった敗戦後史はまた,奇妙な経緯をたどって『八紘一宇』に出戻りしていた。だいぶ昔になるが,大博打屋の元締めである人物がテレビのCMに登場しては「世界は一家,人類は皆兄弟」などと得意顔で視聴者に説教していた。だが,この文句は「大東亜は一家,アジアの国家・民族は皆兄弟」であり,大日本帝国が「家長」だという歴史的な含意があった。
その戦前・戦中版が実質的に反省されることもなく,敗戦後にまたもやその「世界は一家,人類は皆兄弟」などと身勝手なヘリクツをばらまいていたが,欧米の白人系が中心に構成されている国家とその人間たちは,前段に登場させた人物もまた「単なるイエロー・モンキー」だと差別する気持ちを心中には堅く抱いている。
それが,いわせる人にいわせると「白人系のヤンキー or ドンキー or モンキー」たちに固有である「有色人種たち」に対する「断ちがたい差別・偏見の心理」であった。話が多少ずれた。
f) ともかく,その八紘一宇の塔とあたかも同じ要領(思考の回路)をあてはめて,京都学派の戦前(戦争の時代)性が21世紀の「今」にも「大東亜共栄圏思想の裏付けとなったといえるのではないか(いいかえると「そうなりうるのではないか」)」などと解釈するのは,贔屓の引き倒しどころか,単なる戦前・戦時への郷愁にしかなりえない。
そうだとなれば,安倍晋三の「戦後レジームからの脱却」と同じ程度の発想が提示されていたといわざるをえない。
民主党政権が2009年9月16日に成立すると最初に首相になった鳩山由紀夫は,現在「東アジア共同体研究所理事長」の肩書きをもっているように,その東アジア共同体の実現に意欲を示していた。
ところが,鳩山由紀夫の東アジア地域における国際政治理念の発想は,「日本国内の獅子身中の虫」であった外務官僚たち(アメリカンスクールの彼ら)に寝首をかかれるようにして,みごとに裏切られ粉砕されていた。
前段のごとき21世における「東アジア共同体」という国際政治次元の理念に対して,戦時体制期における日本の八紘一宇「政治理念」は,どのように関連しているのか,この論点に関する討究は,岩井陽子の博士論文に登場していなかった。
ここで,そもそもの話をするとしたら,学位論文を担当・審査した側の教員たちの学問水準・範囲・資質に関してから,なにやら要検討の余地があったことになる。
以上の※-0の記述は,本日2023年10月4日になってから補足した記述である。つぎの※-1以下は,2年ほど前に公表していてその後未公開になっていた文章を,再起動したものである。むろん,若干の補正と追加もなされている。
※-1 前論-2021年10月の衆議院選挙に寄せて-
この項目では最初に,「いったいなにをいいたいのか,どのように解釈すれば(読みこめば)いいのか,よく理解できずに苦しんだ」体験をさせられた,『朝日新聞』2021年10月26日朝刊1面に掲載されていた「冒頭記事」をとりあげる。つまりは,同年の10月31日に控えた衆議院総選挙に関して予測・分析・解説などをした,その記事について抱いた疑問から論述したい。
a) 記事は 「自民,過半数確保の勢い 公示前は下回る可能性 立憲ほぼ横ばい 衆院選中盤情勢調査」との見出しをかかげていた。この表現に関しては,以下のように素朴な疑問を指摘してみたい。
解散前の2021年10月14日時点において,自民党の議席数が「275名」であった事実に照らして考えるに,定員が465名である衆議院の議席過半数は233名である。
したがって,「自民」党がそのように「過半数確保の勢い」(がある)と「ベクトル的な理解」として表現するのは,不適当・不適切ではないかと感じた。
なお,ここでいう「ベクトル」とは,その力が大きさをもつだけでなく,向きをももつ点を意味する。 すなわち,速度・加速度なども大きさと向きをもった量のことをベクトルというわけである。
「勢い」と表現したらそのベクトル性を端的に意味するに違いない。だから,いままで275名の衆議院議員を擁していた自民党が,2021年10月の選挙で過半数の233名を超えそうな「勢い」だ(!)と表現したのは,理解しにくい(しがたい?)形容になっていた。
つまり,直前の議員数であった「275名を超えるほどの」『勢い』だと情勢をとらえて表現するのであればまだしも,この275名よりも42名も少ない数字「233名」をもって「勢い」(がある)と表現については,疑問しか抱かなかった。
ということで,当該の記事が「公示前〔から〕は下回る可能性」があったとしても,そのように「自民,過半数の勢い」と書くのは,ともかくもずいぶん奇妙であった。
すでに,この種の疑問は本ブログ筆者だけでなく,ネット上にも指摘がみられたので,多分,以上の記述だけでは少し理解しづらいと感じた読者がいて当然と考え,ネット界においても本ブログ筆者と同じ反応が登場していた事実を申し添えておく。
以上はいってみれば,ごく常識的な把握をもってする話題であった。
b) たとえば,報道関係で元は相当の地位に居た人物が書いていると思われるブログ『くろねこの短語』は,2021年10月26日(火)に書いていた文章http://kuronekonotango.cocolog-nifty.com/blog/2021/10/post-a7192f.html のその題名を
「『自民,単独過半数飲の勢い』(朝日新聞)ってことは40議席も減らすってことなんだから,『勢い』なんてないだろう。それをいうなら,『自民,大幅議席減』じゃないのか!!」とつけて,つぎのように批判していた。
ブログ『くろねこの短語』のこうした批評を読んだとき,やはり本ブログ筆者も同じに感じていた人がほかにもいた事実を教えられた。
いまここで問題にしてみたが,『朝日新聞』2021年10月26日朝刊1面の冒頭記事が「衆議院総選挙」に関して事前に予想,分析した当該の記事は,読者に違和感を抱かせるほかない見出しを,あえて承知のうえで,つまりは意図的にそのようにヘンテコに表現していた。
c) その種のヘンテコ感は,前段で言及したブログ『くろねこの短語』も明確に指摘していたとおりであって,この『朝日新聞』のその記事に関してさらにいえば,もしかしたら,もともと自民党(政権)に投票しない人たちが,いまさらのように「それでは,最初からもう投票所に出向くのは,今回もやめようか」といった気分を,さらに強く抱かせるための〈誘導効果〉をもたらしたのではないか,という疑問がもたげてきた。
昔,歴代首相のなかでもきわだって低品質・悪材料の宰相であった森 喜朗が,第42回衆議院議員総選挙投票日(2000年6月25日)を目前に控えた時期,自民党にとって投票があまり期待できない「無党派層は投票日当日寝ていてくれればいいが」と放言し,世間のヒンシュクを買ったことがあった。
要は,『朝日新聞』2021年10月26日の朝刊1面冒頭記事は,この森 喜朗「発言」にも通じる含意をもった内容になっていた。
※-2「眞子さまから眞子さん」に呼び方が変わった事実にかかわってつぎの画像をみたい,これは2021年10月26日に2人が記者会見をしたさい,会見席に着く直前の画像であった
この「事実としての光景」についてとなるが,なにか発言をしていた人はいたか。筆者は当時,寡聞にして接しえなかった。
要は,記者会見する壇上に上がる順番に関していえば,皇族の場合,夫婦が並んで立つ時でも男性が半歩くらい前に位置をとり,女性がその分,控えめの態度を示しながら,うしろに立つ「位置関係」が通常のやり方(作法?)ではなかったか。
だが今回,「小室の姓となった眞子『さん』」とその配偶者となった「小室 圭」さんとがこのように,「女性(当時はまだ皇族でいまは平民)」⇒「男性(もともと平民)」という順番でもって,壇上に昇っていた。こうなると,なんらかの意味で一定の疑問が湧いてくる。そう感じてなにもおかしいことはなかった。
この「※-2の疑問点」はひとまず,問題提起として指摘しておくだけに留める。いずれにせよ,上にかかげた画像の光景に関していうと,よく「説明できない」か,あるいは「説明しにくい」光景が実際に起きていた。
※-3「〈記者有論〉皇室と今 メッセージに込めた思いは」『朝日新聞』2014年2月14日朝刊16面「オピニオン」-社会部・島 康彦など-
1) 最近,朝日新聞でも,変な・妙な皇室論を,解説記事というか,へたをすると単なる「天皇家ヨイショ記事」のような体裁で,それもずいぶん気味の悪くなるような〈文書〉を書く記者がいた。
昨〔2013〕年8月18日「〈日曜に想う〉やんごとなき遺産が輝く時」(朝日新聞特別編集委員・冨永 格(ただし))の一文がその実例であった。以下ではまず,この冨永が書いたその文章の最後部3分の1ばかりを引用しつつ,いちいち寸評をくわえていく。
--人はみな平等と習った昔,皇室や王室の存在は不可解だった。いま50年前の自分を納得させるには,「ずっと前からあるんだよ」とでも説くのだろうか。権力欲をぎらつかせ,好きに振る舞う独裁王朝も残る。対して,民主国家における「例外」は楽ではない。
補註)「民主国家における『例外』」とはなにを指しているのか? 天皇家一族のことか。ならば,日本国憲法はその体系内に,その〈例外〉をかかえこんでいることになる。例外なら臨時であり,とりあえずのものであり,その場かぎりのものでありそうである。「例外」でなくなれば,それでは「楽になれる」というわけか?
〔記事に戻る→〕 天皇も,あまたの国事行為や国際親善,宮中の祭祀(さいし)でお忙しい。「特別な家系」の存在理由は国それぞれだが,いまの皇室が体現し,内外に発するメッセージはなによりも平和だろう。両陛下は世代的にも,かの憲法とともに,戦後日本のシンボルといえる。
補註)ところで,いつ・どこで・どのように,日本の天皇は「内外に発するメッセージ」として〈平和〉を唱えてきたというのか。憲法の規定である,それも国事行為関係の規定(形式・内容)に照らしてみて,そのように主張するのは,つまり「戦後日本のシンボル=平和,天皇(?!)」という歴史認識(!?)において,わざわざそのように議論するのは,どだい奇妙な・珍奇な話法である。
「平和の国」の「日本の天皇」が,敗戦後からいままで「平和」を国内外に発信するという〈仕事〉は,はたして憲法や,これにもとづいてある宮内庁法の規定にそぐわしい行為たりうるのか。もっと,まともに突きつめて考えぬく余地がある。しっかり現実的に考えようではないか。(なお,以下につづく項目は,2013年時点のものであった)
イ) いまのイラクの国内混乱状態に向かい「天皇が平和」を呼びかけたら,まだまだ止まない国内テロ行為が終わらせられるとでもいうのか?
ロ) 隣国の世襲3代目のお坊っちゃま独裁者に対して,貴国の独裁政治は止めて,おたがい「平和にやろうよ」といったところで,いったいどうなる可能性がありえ,国交が回復できるみこみが出てきそうだといいうるのか?
逆に,日本帝国の「封建遺制:天皇制絶対反対」というこだまが返ってくるのが,オチか?
ハ) シリアの内戦状態について,この国の大統領に「内戦は止めて,平和にやりましょう」といったら,すぐにでも,あの悲惨な殺し合いを止めますという返事が,わが「平和の国の天皇」に対する答えとしてもらえる,そう請け合えるのか?
ニ) 冷戦末期の1983年,英国はソ連との核戦争を想定して「女王の演説」を用意した。ナチスへの抗戦を呼びかけた父ジョージ6世のスピーチは映画にもなったが,このほど公開された草稿は,政府高官が机上演習の一環で作文したもの。エリザベス女王(87歳)はあずかりしらぬ内容らしい。
〈戦争の狂気がいま一度,世界に広がろうとしています。勇敢なわが国は再び生き残る準備をしなければなりません……〉。むろん,これを読ませないのが政治や外交の責務である。浮沈を重ね,時代の荒波を乗り越えた「やんごとなき遺産」に,もはや争いは似合わない。その真価は,平和という薄あかりのなかで,たとえば朝の食卓で,静かに輝いてこそだと思う。
補註)さて,ここまでいえるのであれば,昭和20年8月以前,この国の天皇であった人物が,あの狂気の大東亜戦争の過程において,それも大日本帝国陸海軍を統帥する大元帥として,どのような発言および行動をしてきたか。あらためて,思いだしてみる必要もあるのではないか? それもまた,「やんごとなき遺産」の歴史・履歴として,非常に重要な,欠かせない蓄積・記録ではなかったか?
以上のように,ひたすら上っ面をなでまわしたような「冨永 格」の発言に関する疑問はつきない。ものごとの一側面・一部分しかみようとしない編集委員の発言には,一驚どころか,腰が抜けるかと思うほどの稚拙・未熟さを感じる。皇室向けの発言となると,そのように慎重にも慎重を期したものいいしかできなくなったのか?
歴史・現実・経済・政治・戦争・世界,このどれをとってみても,そのかけらごとにしか触れえていないような,しかも,すぐさま「歯が浮いてきそうな」軽い論説であった。ここには,最近における新聞社幹部の質的劣化現象をみいだすしかない。
2023年10月現在の話をするとしたら,朝日新聞社の言論機関としての劣化現象は最近,より顕著になっている。すでにだいぶ以前からベテラン記者の退社がめだっていたが,10年前に朝日新聞特別編集委員・冨永 格(ただし)が書いていた文章は,いまから読み返してみても,違和感しか湧いてこない。
つぎはこの※-3の見出しに出していた記者の話題に移る。
2)「(記者有論)皇室と今 メッセージに込めた思いは」『朝日新聞』2014年2月14日朝刊16面「オピニオン」-社会部・島 康彦-
この「皇室と今 メッセージに込めた思いは」は,こう語る。
--皇室・宮内庁を担当し,天皇,皇后両陛下のお出ましに同行取材をしても,直接,質問することはできない。だからこそ,ご本人が発したメッセージの意味をしっかりと受けとめなければ,と思う。
補註)以心伝心,アウンの呼吸,一を聞いて十をしる。こういうことが,天皇夫婦の言動に接するさいには,必須の基本姿勢になるということなのか?
〔記事に戻る→〕 天皇陛下は昨〔2013〕年12月,80歳の誕生日前の記者会見でこう述べた。「戦後,連合国軍の占領下にあった日本は,平和と民主主義を,守るべき大切なものとして,日本国憲法を作り,さまざまな改革をおこなって,今日の日本を築きました」
補註)その最たる改革(民主化〔ただし,もっとも肝心なところでは中途半端に終わっていた〕)が,旧大日本帝国憲法を改定し,新日本国憲法を制定したことである。
天皇家はその存亡が根本から問われた時代でもあったが,たまたま占領軍がソ連軍ではなくアメリカ軍であったことが「不幸中の幸い」の結論になっていた。皇族(王朝)をとり潰されることはなかったのである。
過去における人間社会の歴史を回顧すれば分かるように,あれだけの大戦争に敗北していたのに,よくも天皇一族が生き残れたな,と判断するのが正解である。
もっとも,連合国軍の主体であったアメリカ軍は,敗戦した日本を占領・統治する都合上,「天皇を国際政治的次元で大いに政治利用することに決めた」。アメリカ側では「この結論」に至るまで,いろいろな意見が交わされていたが……。
そのなかには,当時「天皇ヒロヒトを裁判にかけて × × にしろ!」という意見も,もちろんそのひとつとして,強力に提示されてもいた。
敗戦後におけるさまざまな改革は,日本から天皇・天皇制をなくさなかったことに焦点を合わせて,21世紀のいまにまで関連させて再考すべき歴史上の出来事であった。
〔記事に戻る→〕 その2カ月前,皇后さまも自身の誕生日前に出した文書回答で「憲法」に触れ,明治憲法の公布前に民間有志が起草した「五日市憲法草案」を紹介。基本的人権の尊重,言論の自由など現憲法につながる内容が記された「世界でも珍しい文化遺産」と評した。
補註)明治政府が採りいれる気などなかったどころか,これを目の仇のようにすべき対象でしかなかった「五日市憲法草案」を,いまごろにもなってだが,それも睦仁の孫の嫁になっていた女性が,古証文のようにもちだしては,これを盛んにヨリ現代的に〈ヨイショ〉したという『明治史から現在までの〈前後の関係:脈絡〉』は,かなり理解しにくいものであった。
天皇家の人びとの現在にとって,現憲法がどれほどすばらしい法律なのかに関していえば,実は,彼らの「皇族としての生き残り戦略」にとって,この憲法のあり方がまさしく,死活問題を意味してきた〈事実〉から,まず最初にしっかり理解しておく余地がある。
この事実に議論の出立点を据えねばならない。
天皇家にとっての憲法をどのように位置づけるか,それが,自族にとって最良・最善のものたりうるように日本社会を誘導するためであれば,明治時代,現在の天皇の祖先が排斥・弾圧し,抹殺し・無化する対象であった「▽△▽憲法案」の良さを賞揚することもいとわなかったわけである。
正直な理解として,そういっておかざるをえない。悪意だとか善意だとかいった次元の問題ではなく,どのように現実的な利害が「あったのか」「配慮されるべきだったのか」,あるいは,それが「全然なかったのか」から「無視しておいたよかった」といった条件などを,よくよく思案したうえでそういわれていたに過ぎないからである。
彼ら(平成天皇夫婦)の政治的な現実利害の観点にせよ,われわれ庶民の平々凡々たる生活的な価値観からにせよ,歴史を観る視座がどこに・どのように設営されるかによって,その「▽△▽憲法案」を評価する方法も,おのずと異なるほかない。
この歴史認識はあまりにも当然であり,理の必然でもある。その意味で「同じモノ」を観ても,感じるところの生活感覚的な受けとめ方に関していえば,「両者間」においては非常に大きな間隔(隔絶?)が生じている。
〔ここで記事に戻る→〕 陛下は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定めた明治憲法下で生まれ,物心つくころ,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とした現行憲法への「改憲」を目の当たりにした。
補註)現在の天皇(ここでは明仁)は,少年時代から自分は「天皇になる人間なのだ」という意識(いわゆる帝王になる気持・覚悟)を,強くもたされてきた人間である。つまり「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という旧憲法の時代精神にもどっぷりと,それもごく自然に漬かってきた人物である。
だからこそ,つぎのように強調しておく必要もあった。これはけっして意地悪く指摘することではなく,なるべく,彼の抱く自分精神史の真意(本当の思い)に近づき,これを理解するための努力が,われわれの側においても,意識的に傾注されねばならないことを強調している。
〔記事に戻る→〕 1989年,即位後初の記者会見で「終戦の翌年に学習院初等科を卒業した私〔明仁〕にとって,その年に憲法が公布されましたことから,私にとって憲法として意識されているものは日本国憲法ということになります」と語った。
お2人が会見や文書に込めた思いを周囲に語ることはないが,いま,ともに憲法に言及されたのは偶然だろうか。戦後70年を控え,十分な議論が尽くされぬまま現行憲法からの「改憲」の動きが加速しそうな状況と無関係とはいえないだろう。
補註)天皇は「自分の意思」を語ることができるのか? 語ってもいいのか? 個人的な意見・見解であっても,ふうつの人びとと同じように気軽に,政治的な発言をすることは許されていない。それが天皇の立場であったのではないか。
日本国・民統合の象徴である「人間の天皇」が,この国民の側を代弁して「おのれを語る」という事態は,日本国憲法について法哲学論的に考えても絶対的に自家撞着になる「天皇の姿」である。
〔記事に戻る→〕 なまじ「日本国・民統合の象徴」になったがために,かえって自由にモノをいう権利は,天皇には与えられていないはずである。しかし,彼に語れることがひとつだけある。それは「日本国憲法を守ります」という一事である。
それはそうである。自分たち一族の存在理由であり,かけがいのない法律的な根拠を,まさしくこの日本国憲法は提供してくれている。 もうひと方,最近,メッセージを発していると感じるのが,皇太子妃雅子さまだ。
〈悲しみも包みこむごと釜石の海は静かに水たたへたり〉。
今年の「歌会始」で雅子さまは,昨〔2013〕年11月に岩手県釜石市を訪れたさいの心境を詠んだ。津波となって人びとを襲った海が,いまはその悲しみを癒やすような穏やかさで目の前に広がる。自然への畏怖(いふ)と復興への願いを込めた歌だ。
補註)雅子がこのように和歌を詠めば,これが歌う内容がどこかでか,実現し,登場することを期待してよい,ということなのか? このような期待はあくまで,ひとつの象徴的な意味あいしか発揮できまい。他者がそれをどのように受けとるか,受けとれるかなどといったところで,現実面においては「具体的になにも因果の生じえないそれ」ではないのか。
〔記事に戻る→〕 このように考えを深めていくと,よけいに雅子という皇族の1人が,いったいなんのために・どういうわけで,皇太子の配偶者として生きているのか,その「日本国憲法的な意義」が,ますます分からなくなるばかりである。 雅子さまが長期療養に入って10年。愛子さまの誕生以降は,家族など身近なテーマの歌が続き,内向きだと評されることもあった。
補註)10年というとこれは「一昔もの期間」である。ふつうの家庭・所帯でこのような長期療養を要する家族が出れば,これはたいそうな負担となる。皇太子の妻の精神状態が「内向きだ外向きだといった次元」に収まりうるような「現実の話」は,庶民にとっては譬えがいいかどうか分からないけれども,なにか〈高嶺の花〉的な話題であるかのように聞こえてくる。
3) 以下は,引用の枠内からは出た記述となる。
--以上のように,次元のまったく異なるかのような話題となっていながら,そしてとても悠長であると思えるような,皇太子の妻が「内向き」だというたぐいのこの話題が以前,日本社会に向けてこれぞとばかり提供されてきた。
雅子は皇族の一員としては以前より「アウト・ロー」たる覚悟をもっていたようにもうかがえる。その人に「内向き」に映るものがあると外部から観察できたとしても,これをもって,とりたててなにか重大な問題が潜在しているとも思えない。どうぞお好きに,という印象であった。
ただし,皇族たちは国家予算によって全面的に生計を支えられて,自分たちの十分に余裕のある生活をしている。象徴天皇をかこんで,この一族たちがどのような生活を「していなければいけない」のか,その「規則も決まりもない」なかで,自家用である『宮中祭祀』や『皇室行政』という〈お仕事〉にもかかわっているというのであるから,はたでは,とうてい理解できない苦労もあるものと推測する。
だが,週刊誌的な関心の的にしかならない程度の彼らの生活実情であるならば,山折哲雄の発言ではないが,「皇太子殿下,ご退位なさいませ」『新潮45』2013年3月号といったごときの言上とあいなっていた。
隣国の3代目独裁者を悪しきざまに罵るのもいいが,自国の「このなんというべきか,相当にもちゃもちゃした皇室内諸問題」,いったい,これをどのようにとりあげ議論をより深めていけばよいのか?
いちおう確認しておくが,皇室関係に関して,まさか言論の自由が完全にないわけであるまい。
以上の筋道に沿った話題からは,いくらか外れてとなるが,つぎの引用もしておく。天皇家の一族が詠う「和歌」に関した話題に移っていた。
--『今年〔2014年〕の歌には「被災者に心を寄せていくという強い意思を感じる」と歌の専門家はいう。体調の波を少しずつ乗り越え,雅子さまの視点もまたご自身や家族といった身近な所から,被災地,国民へと広がっているのを感じる。その思いも受け止めていきたい』と。
補註)「国民へと広がっているのを感じる」「その思い」とは,いったいどういうものなのか? 分かったようで,実際は全然分かりにくい表現(独自の解釈)で語られていた。具体的な根拠がみつからない。この文句を単純に解釈すると,雅子はもっとご公務に励めとでも,いいたいらしいのかとも感じた。
しかし,そういう方向が実現していったら,この国のどこかにおいて,なにかが,どうにか「なっていく特定の可能性」が期待・展望できたというのか。たとえば,アベノミクスとは関係がありえたのか? まさか,なかったはずである。
日本の哲学者になかには「ある」と「なる」ということばの違いにこだわり,なんともむずかしい議論を披露してくれる者もいる。少し真似をして,こういってみたい。
いま「ある」皇室の人びとがどう「なる」かによって,この国のありようが,さらにどのようにかでも,変化しうる期待がもてるというのか?
どう「なる」にせよ,いま「ある」私たちにとって,「彼ら」の「ある」生きざまが,具体的にいかように,われわれの生活空間にまで重なる存在に「なる」未来が「ある」のか?
このようなことがらを考えれば考えるほど,頭のなかはよりいっそう錯綜・混乱してくる。
※-4 元宮内庁長官,羽毛田信吾の呑気なエッセイ
『日本経済新聞』2014年2月12日夕刊1面のコラム〈あすへの話題〉に,元宮内庁長官で現在「昭和館」館長の羽毛田信吾が「昭和館」が,つぎのように語っていた。
--ビルマ戦線の夫から妻への手紙。妻が送った我が子の写真に「回らない口で何か俺にいっている気がする」と喜び,残した家族のことをあれこれと気遣っている。展示ケースの中の茶色に変色した紙面から時を超えて濃(こま)やかな愛情が伝わってくる。
今,九段下の昭和館に勤務している。先の大戦中そして戦後,戦地に赴いた人達はもとより,銃後の国民も,戦争で肉親を失った人達をはじめ言い知れぬ悲しみと苦しみを味わった。
昭和館は,戦中,戦後に国民が経験した様々な労苦を後世に伝えることを目的とした施設である。展示資料などを通して多くの人に戦争の悲惨さと平和の尊さを実感してもらえればと願っている。
戦後の復興を象徴する先の東京オリンピックでさえ,今や,実体験は五十代以上の世代に限られる。敗戦直後の耐乏生活を知る人も少数派になりつつある。戦争の悲惨さや国民生活の苦しみの記憶が風化していくことが懸念される。かく言う私自身も戦争の記憶はなく,辛うじて戦後の配給や代用食の貧しい生活を知るに過ぎない。
昭和館には多数の小学生や中学生が見学に訪れる。子供達が防空壕(ごう)の模型をただ不思議な仕掛として眺め,手押しポンプによる水汲(く)み体験にも体力テスト感覚で挑戦しているのではないかと心配になる。彼ら「戦後を知らない子供達」に当時の労苦を実感として伝えることは容易でない。
しかし,子供達は,アンケートに対し,「展示を見て戦争は絶対してはいけないと思った」,「自分達の平和な暮らしが父母や祖父母の苦労の上に築かれたのだということが分かった」などと答えている。これらの回答を励みに,館の一層の充実を期している。
さてここからが,羽毛田信吾の発言に対する疑問。
昭和館というからには,昭和天皇に関する展示物もたくさんあるものと思って,当然である。しかし,以前,この館に見学にいったことがあるが,あまりにもあっさりした展示の内容でがっかりした。
天皇が前面にきちんと出てこない昭和戦前期の展示方針であり,そのせいか,たしかに戦前・戦中をとりあげているはずの「昭和館」であったにもかかわらず,大きな疑問を残していると感じた。
なかんずく,画竜点睛を欠いた「昭和の展示館」なのである。
そこに展示されている「昭和の苦労話」とは,確かにそのいちいちが昭和天皇と切っても切れない関係にある。しかし,この歴史的な問題にはかかわりをもちたくないかのように,昭和戦前期の一面歴史にだけ注目していればいい〈昭和館〉になっている。
昭和の生活一面史に関するだけのための,この程度である昭和館の存在意義は,はたしてどのように評価されるべきか? 「皇室の今」といわれていたが,「今の皇室」さえ,よく認識できていない現状のなかで,どうしたら「皇室の昔・今・未来」が回顧・眺望できるのか,ますます不明瞭になるほかない。
昭和館が展示の対象にしているこの戦前日本においては,大日本帝国「天皇裕仁の存在」は絶大であった。ところが,この存在の影が薄い資料館が,昭和館である。東京都江戸東京博物館があるが,こちらがあれば,昭和館は不要・無用の館に映る。おそらく,高級官僚の天下り先のひとつである。
最初にとりあげた話題に戻る。
「皇室の今」ということばに接していると,「永遠の今」という西田幾多郎の哲学用語を思いだした。「今の生活に汲々としている庶民」の立場・日常にとって,「皇室の今」が本当に関心事たりうるのか,大いに疑問である。
だから,その「今」というものが両者の生活空間にとってもつ現実の意味は,あらためてよく再考してみたい問題にならざるをえない。そう簡単には交叉する地点がみつけにくい問題群がみえている。
最後に一言。平成天皇(現在は上皇)夫婦は,つぎのような《戦争の記憶》を有する一国民に対座するさい,彼らがいつも繰りかえして使用していた,つまり『強調してきたせりふ』に即して解釈するとしたら,いったい「どのように」「その寄り添うしぐさ」ができていたことになるのか?
※-5 あの戦争で息子を奪われた母親の本当の気持ちは?
本日〔ここでは2014年2月18日〕の朝日新聞朝刊に掲載された投書のひとつを引用してみる。いま82歳にもなる女性(2023年10月に元気ならば多分,91歳)が,戦争で死んだ自分の兄の,71〔81〕年前の思い出である。
補註1)1943年9月に日本帝国は「絶対国防圏」を決めていた。つまり,第2次世界大戦(太平洋の戦線)において守勢に立たされた大日本帝国が,本土防衛上最低限を確保するために,戦争継続にとって必要不可欠である領土・地点を定め,国土防衛を命じた地点・地域を設定していた。
いいかえれば,この「絶対国防圏」の設定は,負け戦が決まったことを証する(判定しうる)出来事であった。この時期に戦争を止めていれば,この戦争のせいで死んでいった日本兵の数は,3分の1以下に減らせた。
補註2)この国家は,戦争による死者を弔う庶民の気持を,靖国神社によっていまも奪いつづけている。戦争は69〔78〕年も前に終わっていたが,この国家神道の皇室的な基本精神はいまも,靖国神社の神道的な宗旨を裏づける最重要の儀式として,〈英霊〉を祀りつづけているつもりなのである。
天皇家の家長は,それもとくに昭和天皇と平成天皇は靖国神社が自家のための「国家次元における戦死した兵士たちの慰霊施設」だと認識し,そのために自分たちが親拝してやる必要(意味)があるのだ,と「皇室神道」式の宗教観念のもとに確信している。
いってみれば,伊勢神宮と靖国神社は「生きる者」と「死んだ者」を国家神道式の宗教儀式を媒介に使い,帝国臣民たちを管理・統制するための道具の「対」として都合良く利用されてきた。
昭和天皇もそして息子の天皇も同じだが,だから,A級戦犯が合祀されてからは,いっさい靖国は参拝していない。仮に彼らが参拝にいったら,明治以来,敗戦の屈辱にも耐えて維持してきた「皇室神道」,この新しく創造された宗教的な基盤が,靖国神社のほうから一瞬にして気泡と化してしまうことになる。
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