ドイツ・ナチス期「戦時・ゴットル経済生活論」から敗戦後「平時・経営生活論」へと隠密なる解脱を図った「経営哲学論の構想」はひそかに「ゴットルの名」を消していた(12・完)
※-1 国家科学と経済科学と経営哲学
a) 日中戦争開始間もないころ訳出,刊行されたヘルマン・グロックナー『ナチスの哲学と経済』(白揚社,昭和12年10月)は,経済政策に関してこう主張した。
ここに説明された「政治的目的だ」という「国民の経済的満足」とは,小笠原英司『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』文眞堂,2004年のいった「経営生活」の含意と,いかほど異同がありえたか。抽象面で論理的に徹して考えるとき,どうしてもこの疑問が湧いてくる。だから,そのままフタをしておき済ますことはできない。
日本国家科学大系第8巻『経済学1』(実業之日本社,昭和17年12月)に収載された谷口吉彦「国家科学としての日本経済学」は,小笠原の畏敬する先達山本安次郎が戦時中に発言していたものと,基本的に同一の公式見解を記述していた。
小笠原「経営哲学理論」も(主著の『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』文眞堂,2004年での主唱のこと),世界経営学に昇格できる資質を備えていた。なぜなら,その立論の核心は「経営性の本質:人間生活」論であったからである。これならば,時空を超えてどこまでも通用しそうな,経営学の「思想と立場」を形而上学的に誇示できた。
谷口吉彦「国家科学としての日本経済学」は同時に,「政策と技術との関係は,恰かも理論と政策との関係と同じく,一を前提として他を後続せしめる。即ち政策は技術を媒介として実践となり,技術は政策の指定に従って実践に適用される。かくして実践→歴史→理論→政策→技術→実践といふ一連の実践的学問の体系が成立する」,と主張していた。註記3)
b) 山本安次郎「経営主体:公社企業」論は,「満洲国」を基盤とする「国家科学」,そしてその実践的学問の体系を経営学の立場で受けとめ,それなりに創造的に志向する哲学論にも依拠して提唱されていた。
しかしながら,その偉大だと評価されたはずの「満洲国における社会科学的な実験」は失敗し,これに賭ける期待を抱いていた山本の立場にとってみれば,いわばその意図のいかんはさておき,ともかく歴史的な結果としては成就せず,むしろ苦杯を舐めさせられるはめになっていた。
しかし,そうした特定の体験を経てきた山本独特の「経営学理論の創説」の軌跡,換言すれば,それが歴史の舞台で実際に遭遇させられた出来事「旧日帝の破綻」という出来事:歴史の歩みに関して,小笠原英司はいっさい触れなかった。
というよりは,自説が比重をかけて依拠したその山本学説が記録した「歴史的な蹉跌経験」など,完全にそっちのけにしたまま,その「山本流:経営行為的主体存在論」には,大いに利用に値する内実があったと解釈する立場を採っていた。
しかし,その経営行為的主体存在論は,否応なしに,それも大日本帝国の敗戦・壊滅,さらにはとくに属国「満州帝国」の崩壊・消失にともない,その理論構想の具現化を全面否定されていた。
その種の〈歴史の事実〉について小笠原は,自説を構想するに当たり,実際のところまったく無知(無関心?)であった。
それゆえだったということだが,いまとなってみるまでもなく当初は,山本安次郎の経営哲学に付和雷同的に共鳴した小笠原英司流「経営哲学論的な主唱」であったゆえ,自説の《要》を構成させるために重宝したはずのその山本理論に秘められていた「歴史的な特性」を,最初からまったく感知できていなかった。
そうしてだったがともかく,小笠原英司風に構築されていたらしい「経営哲学:経営生活」論は,他方で,ゴットルばりの経済構成体論も,全体的な構想のなかでは「不可欠な立論上の構成部分」として活用されていた。
c) 小笠原はその理論操作の部分に対する筆者の指摘(批判)を受けたあとは,自説の「全体的な立論構成」のもとで「その有機的関連性」にかかわって発生して当然であった問題点は棚上げしたまま,
つまり,そのゴットル経済科学論もさっさと陳列棚から回収しておく要領で,ある意味,無機的に消却しえていたゆえ,学問の作法としては誠実さに関して問題を残した「形跡」だけは,いまもなお明確な足跡として残している。
すなわち,自説の核心を構成していた重要な立論の「有機的な理論部品」を,誰に断わるわけでもなく,いつの間にか撤回していた経緯が生じていたものの,この事実を誰に断わることもなく静かに自分1人で始末していた。この事実はだから「学問の作法」として観るとき,残念ながら彼の学問にかかわる記録としてだが,永遠に消えることがない疑念となった。
戦時体制期にはやった「国家科学」=「ファシズムの本質」の立場は,つぎのごとき思考を基盤にもっていた。
個人主義を完全に否定する「全体主義の社会哲学」を政治思想的な背景にしていた。社会を,人間諸個人の関係としてではなく,個人なる存在概念を許さない「人種」「国家」〔いいかえれば「血統と国土」(Blut und Boden)〕による構成物としてみた。
資本主義と民主主義の両立が困難となった危機の時代に,その哲学により後者を否定しつつ,みずからの体制に準ずる資本主義をつくりあげようとしたのが,ファシズム運動の本質であった。註記4)
d) 前段の記述は,カール・ポラニー『大転換-市場社会の形成と崩壊-』〔原著,1975年〕「訳者あとがき」における論及を参照した。同書の「序文」を書いた社会学者ロバート・M・マッキーバーは,「現代が必要としているのは,人間生活の基本的な諸価値を現代自身の条件と欲求として再確認することである」といった。註記5)
だが,こうした歴史通貫的な,ただ抽象化一点ばりの主張と,戦時日本の皇国主義的「国家科学」とが,時代状況のなかで必然的に邂逅するなかで登場したのが,本稿が批判的にとりあげた山本安次郎を筆頭とする,平井泰太郎,村本福松らの「戦争経営学」論であった。
補注)その「戦時経営学」の最終版,ないしは,なれの果て的な著作が,敗戦も間近になった時期に公刊された,増地庸治郎編『戰時經営學』巖松堂書店 , 1945年2月であった。
出版物の制作・販売など,それも専門書となればなおさら不可能になった時期に出版されたこの増地庸治郎の編集になる,読んで字のごとき書物のなかには,敗戦後になって自説を微妙に変幻させていき,斯学界においては権威的な理論だと評定される寄稿をしていた藻利重隆のような経営学者もいた。
藻利の『経営学の基礎』森山書店,森山書店 , 1956年(初版)は,その戦時体制期における理論的な発想ないしは構想を生かして,経営二重構造論と指称された学説を提唱していた。しかし,この創説の秘訣は,実はナチスドイツ流の「経営生物学」(Betriebsbiologie) に淵源していたことをしれば,その権威性が砂上の楼閣であったにすぎなかった事実は,言及するまでもなく,いわば「お里がしれた話」となる。
e) 話題を本来の小笠原英司の経営哲学論に戻そう。
筆者は,「スモール イズ ビューティフル」主義を提唱したエルンスト・F・シューマッハーが『宴のあとの経済学』(ダイヤモンド社,昭和55年。原著,Good Work, 1979)が議論していた20世紀的な話題に通じる議論を,小笠原が発想しようとしていた点にも注意してみたい。
小笠原の場合,そのあたりの議論は「ひどく巨大化し,あまりに複雑になりすぎ,過度に資本集約的で,人間と自然にとって暴力的なものとなってしまった」,「資本主義や社会主義という体制を超えた現代産業社会の病弊」を解決するのに役だつような,「これまでの社会とちがうもう一つの社会を築くための」註記6)「経営哲学」論の必要性としてなされていた。
それゆえ,山本安次郎学説に密着しつつ「経営哲学理論」を構想した小笠原であっても,最近の日本における諸学問の動向,いいかえれば,「学問の有用性が強調されるあまり,大学は批判的知性の意義を顧みる余裕をうしなった」註記7)ことを憂う点では,筆者と考えを共有しうる経営学者だったといえなくはない。
しかし同時に,「歴史的な視点」および「体制関連面の問題意識」については,「自分の学問と社会との関係について,今一度考え直すことを迫られている」註記8)のが,小笠原の立場でもあった。だがまた,彼はこの点に関してはその後における理論営為の足跡をたどったかぎりでは,なにもその点を示す記録がみいだせなかった。
ある意味,気の毒であった面がなかったわけではない。筆者の彼に対する「問い」(学的批判のこと)は,本当のところ,まったく理解してもらえなかった。
ただし,周囲ではそれまで「彼我のやりとり」をかたわらで観察していた同学の士のなかからは,筆者に対して「小笠原英司先生はゴットル経済科学論をもちだして構成していたはずなのに,その理論部分を放棄しましたね」と指摘する発言を,某学会が開催されていた最中,それも彼が自著(主著『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』文眞堂,2004年)を題材にしたとりあげた発表の直後に,わざわざ筆者のところに来て語ってくれた人もいた。
ここで,シューマッハーの表現を再度参照するならば,「ますます世界の(資源を)枯渇させ,物質的満足にこだわりすぎて自然を荒廃させる生活様式にしがみつこうとするのか,それとも曲げることのできない普遍の法則に適合し,人間のより高い抱負を促進することのできる生活様式の向上を目ざして,英知によって制御された科学と技術の創造的な力を発揮しようとするのか」註記9)という問いに対して,いったい,どのように答えるのかという設題そのものは,まっとうであり,しごく正当でもあった。
さらに触れるならば,ポラニー『人間の経済』(1977年)の原編者は,社会のなかで占めるべき経済の位置を,「生産的資源を獲得し処分する人間と,欲求充足のための物的手段とのあいだの関係の典型的類型」と定義した。また,同書の訳者の1人玉野井芳郎は,「市場社会の経済を,本来の人間の経済へと回復させること,人間生活にふさわしい人間の経済へと回復させること,これこそ」が,「ポラニーの批判的主張にほかならない」と解説した。註記10)
いずれも,聞くかぎりではもっともな見解ばかりである。しかし,これらの見解がゴットル経済科学と「瓜二つの道理」であるかぎり,一抹の不安感を抱かせた。現代日本経済社会における諸情勢は,かつてにおいてもたしかそうだったことなのだが,その「しごく正当とみえる目標認識」を,いとも簡単に歪曲・蹂躙しかねない時代の雰囲気を充満させていた。
f) 西村汎子編,戦争・暴力と女性1『戦の中の女たち』(吉川弘文館,2004年)は,「刊行にあたって」の冒頭で,最近における世界と日本をかこむ政治情勢を,こう表現した。その後,20年がすでに経過しているが,基本情勢に関した分析としては,まだなにも変わっていない。
この国の経営学という学的領域では,かつて,たしか,こういう体験をしてきた。
佐野眞一『小泉純一郎-血脈の王朝-』(文藝春秋,2004年11月)は,最近日本の政治を,こう論評する。
論議を尽くすことを無視し,世俗受けするパフォーマンス政治のみこだわる小泉〔純一郎首相〕の「わかりやすい」言動は,衆議の上に煩瑣な手続きを要する民主主義のルールと,憲法で保障された表現の自由を生命線とする「戦後」体制を清算し,明らかに戦前への回帰を指向する大衆層の掘り起こしに成功している。註記13)
g) なぜか,歴史は繰りかえされようとしている。
本稿はすでに,80年近くも前に終わっていた第2次大戦期,つまり「戦時体制に対峙せざるをえなかった経営学者」の問題を,「現在の有事体制と経営学者」が対峙していたはずの「公害問題に対する研究者の姿勢」としてだたが,奥村 宏『会社はなぜ事件を繰り返すのか-検証・戦後会社史-』(NTT出版,2004年)の記述を借り,御用学者や無用学者ばかり盤踞する経済学界や経営学界,法学界の思想的・理論的な惨状を伝えてみた。
学究が,いとも簡単に時代の奔流に巻きこまれたり,その幻想に弄ばれたりすることは,過去にいくた記録されてきた。小笠原英司はもちろん,いまのところ,そのような範疇に入る経営学者ではないと思いたかった。
しかしながら,この記述全体をまとめあげていく途中では,今後もその範疇に彼が絶対に入らないでいられる,という保証がないことをどうしても観じざるをえなかった。とはいえ,筆者のこのような危惧の念を,故意に〈意外なもの〉と受けとめ,必死になって排除したがった反応ぶりは,異様な姿に映った。
「この道はいつか来た道」という文句は,ときおり聞くが,いまの日本はそのとおりの行路を,しかも対米服属国家体制路線のもとで歩まされるといったみっともないかっこうで,よろよろと進行中である。
すでに観光立国(インバウンドをアテにする経済構造)にも,一国経済のよりどころ1柱にしなければならなくなった国勢(国力・経済力水準)のなかで,すなわち「衰退途上国」などと自称もされている経済実態のなかで,アメリカの現代風帝国主義に対した舎弟的な位置から「戦争ができる国家体制」となった情勢の変質が,明瞭に具現しているのだから,
ゴットル流の経済科学論の21世紀版を,しかもこの学問思考がかつてはナチス経済論として重宝された事実を皆目気づかずに,再び,経営生活論として使おうと経営哲学論のなかに導き入れたのだから,迂闊どころか社会科学者としての文献渉猟の点に関して,いちじるしい欠損・手抜かりがあったと指摘されて当然である。
h)「歴史の教訓に学べ」とはよくいわれる。小笠原は,筆者が指摘・批判した,いわば〈肝心・要〉を構成する「自説の核心部分」に打ちこまれていた「重大な歴史科学的な論点」に気づかないまま,自分が汗水垂らしながらまとめた著作『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』2004年を公刊した。
ところが,小笠原はたちまち筆者からの猛批判を受けた。その結果,たいそうとまどったあげく,結果としてはひそかにそのゴットル経済科学論から構成される部分を,ほぼ完全に外す手順をとらざるをえなくなった。
しかも,誰にも断わることなく,そういった後始末をおこなっていた。こうした作業の仕方じたい,そもそも学問に従事する者であれば,最低限必要な公論化(学会:学会の空間領域における声明・説明)を不可欠に介させてなすべきであったことは,贅言を要しない。
社会科学者としての経営学者は,時代をみずから形成していく学問的な任務と無関係ではない。時代の流れに対してその理論的な営為が,どのように進展させられていくかによって,その真価もみきわめられる。ところが彼はその労苦を回避した,放擲したのである。
※-2「本稿全体」のための補 述
a) 中塚 明『歴史家の仕事-人はなぜ歴史を研究するのか-』(高文研,2000年7月)は,「15年戦争と日本の医学医療研究会」の発足に関連させて,医学界にかぎらない日本社会の課題を,こう表現している。
中塚は「現在と過去との誠実な対話こそ,われわれに未来に生きる道をさし示すことができるのです」とも,断わっていた。
日本経営学史の研究領域で「現在と過去との誠実な対話」がなされてきたとは,全然いえない。この点は,経営学者個々人の経歴に関してだけでなく,斯学界全体の様相としても明確に指摘されておく余地があった。
1985年5月8日,西ドイツ第6代大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー〔キリスト教民主同盟〕は,「過去に目を閉ざす者は,結局のところ現在にも盲目となる」という有名な,戦後ドイツの「過去の克服」の精神を伝えることばを発し,世界のメディアの注目を集めた。
2005年5月8日,第2次大戦でのドイツ降伏から60年を迎えるのを機に,日本の毎日新聞との単独会見に応じたワイツゼッカー元ドイツ大統領(この年で85歳)はさらに,こう語った。
★-1「歴史に区切りは付けられても,過去を記憶することに終わりはない」。
★-2「個人の人生と国の運命は分かちがたい。人は特定のことがらだけを記憶し,悪事を忘れたがるが,それは正しくない」。
ワイツゼッカー元大統領はくわえて, 極右政党の伸長など,ナチスの過去を消し去ろうとする動きに警告を発した。そして,周辺国との和解は「過去と向きあうことなしにはありえない」として「(過去から)学ぶ力が重要」と述べた。
最近,ドイツの州議会で勢力を伸ばしている極右政党が,ナチスの過去をうやむやにし,ドイツの戦争被害だけを強調している点について元大統領は,「皮相な大衆迎合主義だ。極右は実は過去に全く関心がない。極右の動きを常に深刻にとらえ,立ち向かわなければならない」と批判した。註記15)
2005年は,アゥシュヴィッツ強制収容所が解放されて60年であった。ドイツのシュレーダー首相は,2005年1月25日,記念演説をおこない,こう述べた。
「かつて国家権力によって,自由と正義と人間の尊厳が踏みにじられたことを忘れるならば,自由も正義も人間の尊厳もありえない」。
社会科学を研究する経営学者が留意・警戒したいのは,自身がいつのまにか,「国家権力の加担者に成り上がって〔成り下がって?〕しまう事態,しかも,このことに気づかないでいる状況である。註記15)
b) 秋元律郎『近代日本と社会学-戦前・戦後の思考と経験-』(学文社,2004年8月)は,日本の社会科学に必要な要件だとする,こういう視角を指摘した。
昨今において日本の社会科学をかこむ研究環境は,学問・理論であるかぎり最低限意識しておくべき「体制批判的な分析視点」を希薄化させたか,ないりは完全に喪失させた状況にある。
いまこそ,国家だとか階級だとか体制だとか,あるいは伝統だとか歴史だとか文化だとかを,あらためて真正面よりとりあげ考察しないことには,国家権力の恣意性やその基本的な専横性を批判・除去・矯正するための議論をすることすら,おぼつかなくなった。
ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア『禅と戦争-禅仏教は戦争に協力したか-』(光人社,2001年5月)は,日本の社会科学の問題性を,こう批判する。
その意味で,小笠原英司『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』2004年11月の「意図それじたい」は,よく理解できる方途に向かおうとしていた。しかし,同書のその意図がよければということだけをもって,学問・理論の営為や目標が順調に進展したり,円滑に達成される保証が確保できるわけではない。
21世紀の現段階において,社会科学としての経営学,それも日本におけるこの学問・理論は,どのような世界政治外交的情勢のなかに位置し,またどのような国際経済社会的環境に囲まれ,存在・展開してきているのか。
そうした諸点への全体的な配慮,総合的な分析,くわえて関連する具体的な論点の議論・批判をほとんど欠落させた小笠原英司の思考方法,つまり「経営学という専門学域」においてただ抽象論的に沈潜しすぎため,かえって時代の動向やその精神状況に疎くなった「人間・社会哲学」の志向性になっていた。つまり,方向舵が制御不能の船舶に似ていた。いうなれば,どこへいくのか不安な船舶であった,とでも形容しておく。
c) 秋元律郎『知識社会学と現代-K・マンハイム研究-〔新装版〕』(早稲田大学出版部,2002年4月)は,戦前にハンガリーからドイツへ,ドイツからイギリスへと,2度の亡命を体験した知識社会学者カール・マンハイム〔1893-1947〕の「自由と合理主義の思想」を解読する著作であった。秋元は,こう指摘していた。
筆者が小笠原英司『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』を一読して,まず最初に感じたのは,
「経験的科学である経営学」における「哲学理論の理念的な構築」であるかぎり,回避することのできなかった,「人間・社会的な経営哲学論」に発する「形而上学一辺倒の抽象性」の問題性であった。
さらには,「現実に対する批判的意識のもちかた」としてまさしく,現・存在的論な「歴史認識を欠如させた理論認識」に起因する「緊張感を欠いた」問題性であった。
澤井 淳『カール・マンハイム-時代を診断する亡命者-』(東信堂,2004年4月)は,最近の日本における政治的動向を考慮するための,重要な示唆を与える記述をおこなっている。
小笠原英司『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』の議論・考察は,現状においてこの国をかこむ政治経済的情勢・産業社会的趨勢・文化伝統的要因を,概括的に歴史認識するとか総合的に分析配慮するとかしたうえ公表された著作ではない。
小笠原の『同書』はなかんずく,経営学という専門領域の議論に局限された著作であった。むろん,いずれの専門科学もその領域に研究を集中することは自然である。
だが問題は,小笠原のように,哲学をはじめそのほかの専門科学の圏域に手を広げるのであれば,研究者1人1人の能力や,時間そのものにおける制約・限界のなかで,どのような研究展開を試みるか,もう一度みずから意識的に考えぬかねばならなかったことに残されていた。
秋元律郎『市民社会と社会学的思考の系譜』(御茶の水書房,1997年9月)は,戦時期ナチス体制に同調していったドイツ社会学を,こう批判する。
「ナチズム下の社会学は一方的に選択された社会学であった」。
「ナチズムに同調したのは,差別的人種論,民族の神話的『全体性』の理論,主意主義的観念論をとおした社会の有機体構造理論,ゲマインシャフトによる統合と綜合の称揚,反資本主義・反大衆・反民主主義・反主知主義・反ゲゼルシャフトの理念につらぬかれた社会学であった」。
「それが,『反社会学的な認識プログラムにおいて突出した機能をはたした』ということである。いうまでもなくそれが,強力な政治的権力にささえられたとき,もはや客観的な科学の発展は望めないだけではなく,人間性は無視され,思い上がったイデオロギーの押しつけだけが残されることにある。この事実を,同じファシズムを経験したわれわれもまた自己認識の基盤として,きびしい歴史的緊張感のものち受けとめておかねばならない」。註記20)
d) 戦時体制期における山本安次郎経営学説の特性は,叙上のような〈ナチズム下の社会学〉と同質・同型の〈日本全体国家主義下の経営学〉にこそ,みいだせたのである。このことはここまで縷々解説・批判してきたので,さらには以下のように若干付言するにとどめておく。
戦時下に発想され生成した山本理論の構造は,「一方的に選択された経営学であった」。その一番の特徴は,「国家の立場」の理念に貫かれるところに存した。
だが,戦後における山本の立場は,「強力な政治的権力にささえられたとき,……客観的な科学の発展は望めない」という状況に対面させられ,「思い上がったイデオロギーの押しつけだけが残されること」も許されなくなった。
したがって,彼がその後,つまり敗戦後に時代が移ってからとなれば,維持することのできた「理論的展開の中身:実質」は,ともかく,戦争の時代の「国家主義の立場」を,当面は基本面から排除した「経営行為的主体存在論」のみとなった。いいかえれば,その形骸・残滓しか残せていなかった。
近年日本は,ますますアメリカの覇権主義的政策に加担するようになり,2003年3月にアメリカが開始した対イラク戦争に,はじめて自衛隊(軍隊)を派遣するようになった。
日中戦争⇒太平洋戦争をおこなって,内外に多くの被害者と犠牲者を出した日本が,あれよあれよという間に,再び戦争への道を歩んでいるかのようである。
いったいわれわれは20世紀の歴史からなにを学んだのだろうか? シベリアをはじめソ連各地で戦後「抑留」されて斃れていった人々は,このような事態をどうみているだろうか? 註記21)
イラク特別措置法による日本の自衛隊派遣は,「シベリア出兵」(1918年8月2日~1922年10月25日)を思いおこさせた。その派遣期間は2003年12月から2008年12月までで, 派遣地は クウェートなど,延べ人数は約3500人であった。主な業務内容は人道復興関連物資等の輸送であった。もっとも,1910年代からのそれと21世紀のそれとを比較したら,顕著な差異があった。
21世紀初頭のイラクへの自衛隊(日本軍)派兵は,アメリカ軍事経済的帝国主義への露骨な手助けであった。これに比べて,20世紀の第1四半世紀における旧日本軍のシベリア派兵は,日本帝国の支配圏じたいを拡大しようとしていた。
e) イラクへの日本の自衛隊(軍隊)の派遣・占領参加は,イラクに対する日本の侵略であると同時に,日本政府が自国内においては,戦争に批判的な国民を潜在的な「敵」とみなし,これに対する「作戦(オペレーション)」を企てるという過程でもあった。その事実は,2005年3月に明るみに出た「情報戦」に関する陸上自衛隊の報告書からも露呈した。
「イラク人道復興支援活動の教訓-インフォメーション・オペレーション」(陸上自衛隊研究本部作成)という報告書をめぐる衆議院有事特別委員会での質疑(同年3月31日)においては,情報作戦の「ターゲティング(標的)リスト」として,イラク現地の「サマワ住民」「テロ勢力」(「テロ勢力」との『懇談』〔!?〕という活動も記載されている)などと並んで,「報道機関」「日本国民」が挙げられていることが問題となった。
陸上自衛隊研究本部の総合研究部長は,2005年1月29日のNHK番組でも「日本国民の支持獲得は,まさに情報戦であり,実施中のオペレーション」,「世論,民意の獲得と誘導が必要になる」と述べており,イラク占領参加を強行する過程で,自衛隊が日本国民に対しても「作戦」(オペレーション)とを仕かける,という意識を強くもちはじめていた。
現在自衛隊が日本国民を対象に展開している「オペレーション」としては,「反戦的市民運動の監視等の活動」が予想されるのと並んで,一見ソフトな装いでおこなわれる自衛隊宣伝,「広報活動」も重要と思われた。
2005年4月からTBSで木曜日夜9時台に放映された連続ドラマ「夢で会いましょう」(貴島誠一郎プロデューサー,矢田亜希子・長塚京三ほか出演)は,内容的には新味のないドラマ,適齢期の娘と父親の心の揺れを描いた一見「小津〔安二郎〕風」のもので,さほど話題になることもなく消えていくものだろうが,ゴールデンアワーの連続ドラマに初めて,自衛隊員の家庭が堂々と登場した事例として注目に値した。
ヒロインの父親が海上自衛隊の潜水艦乗務を経て,現在は防衛庁の「広報室長」を努める人物,というかなり意味深長な設定になっていたこのドラマには,防衛庁・海上自衛隊が「協力」として名を連ねていた。
そのようにして自衛隊は,お茶の間に闖入し,ドラマというかたちをつうじて毎週繰りかえし,「自衛隊員とその家族」を隣人として敬い,受容せよというメッセージが視聴者に届けられることになっていた。註記22)
f) 藤原 肇『小泉純一郎と日本の病理』(光文社,2005年10月)は,当時の時点なりに,こういう危惧を披露していた。
最近日本の風潮では,反戦より愛国思想(ナショナリズム)が重視され,靖国問題が日本の外交を危うくしている。
こうした愛国のはげしい情念は「血と土」にむすびつき,それをヒトラーは「民族的国家」と好んで呼んで,「優者が治める原理だ」と規定した。これは,日本の戦前の思想である「八紘一宇」と同根であり,いまのアメリカが推進する超自由主義(ultra-liberalism)とも共通のものである。註記23)
筆者が本稿で批判したのは,小笠原英司がまず,
戦時体制期における日本経営学の理論展開を吟味すれば,たいした労力も要せずに判明する程度の,それに固有の問題性に気づくはずであった作業に,どうしたわけか無縁だったことである。
つぎに,戦争中にもてはやされた学説・教義の,21世紀的な二番煎じにしかならなかった「自説の立脚点」の問題性に全然気づかず,自身の経営哲学「研究方法論」を営為したことである。
以上の議論を通して最終的になされるべき指摘は,要は社会科学者として自身が所属する学域においてとなれば当然,必要最低限は要求されていたはずの,つまり,先行して存在していた「数多くの関連した文献」の渉猟に関しては,顕著な不足があった事実である。
あるいは,もしかすると,そうした探索努力の必要性に事前に気づかず,したがって,そのために必要な発想すらが湧かなかったためか,書物の制作以前において,つまりその「準備段階」における手抜かりがあったように観察する。
より簡単にいってのけると,問題意識に関して視野狭量までが感じられ,とくに関連する文献の探求が,無意識的にだが限定されていたせいか,その貧弱な一覧しか獲得できていなかった。
g) 本稿,途中の記述で一度参照したことがあったが,安井琢磨『経済学の周辺』木鐸社,1979年は,ゴットル経済科学論の戦時的特性のことをめぐっては,
「ゴットルの吐いた嘔吐をついばむ鴉どもが続出して虚痴(こけ)の一つ覚えのように構成体という言葉を繰り返し」,「『欲求と調達との持続的調和』などということを勿体らしく唱えた一時期があった」註記24)
ときびしく批判していた。
要は小笠原英司の「経営哲学」論は,そうしたゴットルのナチス的な戦時理論性に気づくことすらなく,ゴットルの「経済生活論」有用性にいまさらのように啓発されたかのごときに,経営学の理論構想をまとめていたのだから,当然のこと,その出立点からして学問の展開にとって必須だった踏み台を踏み外していた。
最後にもう一度,安井『経済学の周辺』1979年に,つぎのようにいわしめておきたい。
小笠原英司の経営哲学「論」は幸いにも,そのゴットル経済科学論の陥穽からは,ひとまず逃れるための「事後の手当」をほどこしえていたものの,しょせん,その手順は公示しなかった(他者には教えない・明記しない)それになっていた。この手はずが,いかように解釈されるべきかについて,ここではウンヌンしない。
とはいえ,小笠原『経営哲学研究序説-経営学的経営哲学の構想-』文眞堂,2004年のなかにあっては,ゴットル経済科学論が本質論・方法論を基本で不可欠に,つまり,有機的に構成する「重要な部分」に位置づけられていた。この事実は,いつまでもそのまま記述されたかたちで,同書のなかにはそっくり残りつづける。同書がいまさら,この地上から突如,全冊消え去ることはありえない。
いずれにせよ,小笠原がかつてとりこんでいた,そのゴットル的なる「理論上,不可欠とみなし,位置づけ,関係づけた構成要因」はその後,実質否定されたことになった。それも,周辺には気づかれたくなかったかのように,静音的に措置されていた。つまり,その措置の介在は断わることがなかった。この事実がなにを意味するかについて,ここではあえて触れないでおく。
戦時にかかわる問題としていえば,その種になる「転向的な変更」が,しばしばというか,多数発生してもいた現象であった。しかし,小笠原英司の場合は,敗戦後に,それも半世紀以上も経過した時点で,ゴットル経済科学論を自著2004年のなかで「活用したがゆえ」の,「そのまた事後における措置」になっていたのだから,これはまことに稀少なその一事例であった。
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