明治期帝国主義時代からの家制度・家族主義観にもとづく同姓使用強制の問題(その4・完)
※ー0 明治期帝国主義時代からの「家制度・家族主義観にもとづく同姓使用強制という問題の本質」がそもそも分からぬ政治屋たちの甲論乙駁が,初めから右往左往するだけの議論しかできなかったのは,しごく当たりまえのなりゆきであった。
「本稿(4・完)」はいくらか,いままでの論及の反復となる議論も含んだかたちで記述するが,本稿の記述全体において基本面を構成している問題意識を,さきにあらためて再確認しておきたい。こういうことであった。
なお「本稿(4・完)」以前の各稿は,以下のリンク先住所である。
※-1 「本稿(4・完)」のための前言
「本稿」は,元は2015年11月5日の記述を補訂・更新した段落や記述のなかで,政治家の亀井静香(79歳,当時)が別姓に〈反対する理由〉として挙げていた点に触れていた。亀井は,同姓は「家族の一体感作る」という考え方にも言及していた。
しかし,21世紀のいまどき,別姓だと,日本社会における家族的秩序が崩壊するかのように妄想する〈現代風の家族「今昔感」〉には,ただ唖然とするほかない。
その噴飯モノである時代感覚は,古代的な骨董品にも映るだけでなく,その程度の化石的な思考=価値観にもとづく家・家族観であっても,本気で信じられる者がいた事実は,とてもコッケイであると同時に,その浅慮さに関しては,また別様にだが妙に感心せざるをえなかった。
亀井の発言もまさしくその実例であったが,現代日本社会における「家・家族問題の実際動向」が,いったいどのような現実に向かっているか,まったく理解・把握できていないまま,ただ漠然とした社会認識としてそのような見解を披露していた。
亀井静香は「夫婦別姓に反対する立場は,いまも変わらない。仕事などで立場上使っていた名前まで,結婚で変える必要はないと思う。だが夫婦や親子の関係にまで別姓を入れるのは間違いだ」と主張する。
仮にでもそうだとしたら,別姓を採用している世界中の国々はみなそれぞれに「間違い」である家・家族の制度を敷いていることになる。冗談にも本気にもつかないごときそのような発想は,通常の感覚・理性に即していえば理解不能であった。日本だけはそうではない事実はそっちのけにして,わがニッポンの美俗・慣習だといいたかのように,強説していた。
だが結局は,そのような断定がはたしてまともな関連の諸事実の認識を,必要かつ十分に踏まえて出されていたのかと問われたら,その視野の狭さだけが際立つほかなかったのである。
しかしながら亀井の場合は,どうしてそこまでいえたのか,終始きちんと説明できていなかった。ただ「そうなると思う」という程度でしかない「個人的な価値観の表明」を,ともかくなにがなんでも,自分の意見だけを前面に強引に押し出し,語っていたに過ぎない。
本日〔ここでは2015年11月6日〕の『朝日新聞』朝刊「朝日川柳(日暮麦人選)」の冒頭にえらばれていたのが,つぎの一句(☆)であった。
この川柳は,3月に成立した区条例にもとづき東京都渋谷区が同年11月5日,同性のカップルを結婚に相当する「パートナーシップ」と認める証明書の交付(全国初となる自治体独自のとり組みで,交付第1号)を開始した社会事情を観ながら作られていたものだという。
☆「夫婦別姓 夫婦同性」(兵庫県 河村基史)。
--要は人間自身の価値観は多種多様に認めよといういいぶんであった。
なおここでは『毎日新聞』2021年6月23日に別姓問題に関する記事「最高裁,夫婦別姓認めず 同姓規定に『合憲』判断 15年に続き」https://mainichi.jp/articles/20210623/k00/00m/040/168000c が出ていて,そのなかに添えられていたつぎの図表3点にまで挙げておきたい。
つぎに紹介する『毎日新聞』2023年1月26日の記事がなにをいわんとしているか,あえて触れなくとも理解できると思う。
次項※-2の記述は,2015年11月の時点にまで戻っての議論となっていたので,ここで不必要だったかもしれないが,あらためて断わりを入れておくことにした。
※-2「選択的夫婦別姓を前向きに」(『日本経済新聞』2015年11月6日朝刊「社説」)
夫婦別姓を認めない民法の規定は,憲法に反するのか。最高裁大法廷がこのほど弁論を開き,年内にも初の憲法判断を示す見通しとなった。
この規定をめぐっては,約20年前に見直す機運が高まったが,実現せず,司法の場にもちこまれた経緯がある。本来ならば,社会全体で考えるべき課題だ。裁判で関心が高まっているいまだからこそ,1人ひとりが関心を深め,改革に向けた議論につなげたい。
焦点となっているのは,民法750条の「夫婦は婚姻の際に夫または妻の氏を称する」という規定である。現状では,女性が姓を変えるケースがほとんどである。東京都などの男女5人が「両性の平等を定めた憲法に反する」などとして2011年,国家賠償を求める裁判を起こした。
法務省の法制審議会は1996年,希望すれば夫婦ともにこれまでの姓を名乗れる「選択的夫婦別姓制度」を導入するよう答申した。だが「家族の絆を壊す」などの異論が強く,実現していない。2012年の内閣府の調査でも,改正について国民の意見は割れている。
補注)「家族の絆」とは,21世紀の現段階において,いったい,なにを意味するのか? 現在もなお増えつづけている「経済的に苦しい家庭・家族・世帯」においてとなれば,もともとこの国にあったかさえあやしい『その「家族の絆」』が,簡単に崩壊しやすい生活状況に置かれてきた。
「本稿(1)」でも言及したように,安倍晋三の第2次政権時,非正規労働者層がいよいよ4割の水準まで到達した以後,36~37%であるその比率:水準が大きく変化する予兆は,どこにもみつからない。この指摘は高齢者層が非正規雇用で労働市場のなかに特定の割合で占めている事情があっても,そのように指摘しておく必要が基本論点としてあった。
「現在日本の労働社会」のなかでは,「人びとが配偶者をえて,子どもを儲け手育てていく」という,思えば,平凡だがまずまずは「平均的に幸せな人生行路」を思い描くことじたいが,以前にくらべてとてもむずかしくなっている。
なかでも,小さい子どもが3人以上もいる夫婦・家庭・世帯は,よほど家計に余裕があるのではないかとか,あるいは,子育てに関しても近縁者たちの助力が運良くうまく確保できているなどといわれたりする。
非正規労働者層にあっては,その種の人生行路を実際に,できれば順調に成立させ運行させていくために,必要要件となるはずの「経済的収入」が,生活保護水準よりも低い人びがいくらでもいるのだから,日本経済の実相のなかには〈滅相もない貧困層〉が実在する。
要するに,「雇用形態に関わらず,平均的に男性は女性より年収が高い傾向にあった。ということでここでは,以上の話題から必然的に導出される話題に移り,少し説明しておきたい。
いわゆる「シングルマザー世帯(子供1人ないし2人を養育している想定しておく)」が,これでは,必然的というよりは確定的にであったが,平均的にそうなるとかならないとかいう前に,完全に困窮した生活水準に留めおかれている事実が,手にとるように伝わってくる。
彼女の世帯(2人から3人として)が,狭いアパートの1室を借りて,保育所・幼稚園や小学校・中学校に子供(たち)が通っている生活実態にあるとしたら,1月(166万円÷12)=13万8333円で生活できるか? できるわけがない。
話題が多少ずれる。今年(2024年)8月8日16時43分ごろ, 大分県東方の日向灘を震源地とした,それも「南海トラフ超巨大地震」になんらかの関係がありそうだと観察された「 最大震度 6弱,マグニチュード 7.1 」の地震が,宮崎から東南東30km付近・深さ30kmを震源地に発生した。
ところが,この地震の直接にか間接にかは不詳であったが,特定の地域でスーパーが小売りされている米にかぎってだが,米売り場の棚から一斉に消えた。ところが,地域によってはその現象は起きておらず,業務用の需給関係でも起きていなかった現象である。
小売り関係の米穀とりあつかい業者が,9月になってから本格的に出まわる新米の販売価格を大幅に上げるために,なんらかの悪さ(需給操作・抑制)をしたことが濃厚に疑われる。これに対して農林水産省側の官僚たちは,そのうち新米が出まわる時期になるので,品不足はないと説明するだけで,肝心の関連する事情を説明しない。ズルイというか情けない彼ら・彼女らであった。
その後ともかく,この9月の初旬になってからそろそろ出まわってきた「一般消費者用のお米」の値段がなぜか,ものによって5㎏で倍,たとえば一袋1500円であった品種の値段が一気に倍の3000円にまで上昇していた。これは昨日(9月5日)に接しえたニュースだったが,ひどいほどに大幅な値上げが一気になされている。
以上のお米の値段値上げの話題で,なにがいいたかったといえば,家族(たとえば子ども2人がいる)がシングルマザー世帯の場合,月収の金額「13万8333円で生活できるか?」と問うた点の「現実的な含意」をよく考えねばならないからであった。
シングルマザー世帯のうち3分の1は子どもたちが欠食を強いられている実情のなかで,5㎏で1500円で買えた(本ブログ筆者も月に2回くらいはいつも買いにいくスーバーでも)そのお米が倍の値段になっていたのだから,これはもうたまらない。大企業でいい水準の給料をもらっている人たちには,とうてい理解できないその実情に対面されている低所得者層には,非常につらい値上げが最近ではつぎつぎと押し寄せてきている。
そんな困窮した生活実態にあるシングルマザー世帯に「家族の絆」? 霞を食って生きているわけでもあるまいに……。そりゃ多分,彼女たち家族にもその絆がなんらかのかたちでないとは限らず,ありうるかもしれないが,それ(家族観)とこれ(食い扶持確保)とは,ひとまず別問題である。
「腹が減っては戦はできぬ」ではないが,「ろくにメシも食えない」で家族の絆もなにもへったくれもない。3食しっかり摂れてから「家の精神」だとか「家族の絆」だとかを,それも休み休みいえなどとまでいいたくもなる。
要は,前段に話題に想定してみた「現実に存在するシングルマザー世帯」は,生きていくこと,すなわち「最低限食うことすら事欠く状況」に追いこまれている。彼女らの家庭・世帯は生活保護を受ける権利があるのだから,正々堂々と受給すればよいのである。関連する要点の説明は,こうなっていた。
シングルマザー世帯が,1月,13万8333円の月額収入でもって,「家賃」プラス「生活費(衣食住)」プラス「教育費」プラス「ときに医療費発生」ときたら,これほとんど無理・ムリ・むりだらけの生活実態になっていた。彼女らの世帯で欠食児童が出ているのは,理の必然であった。
だから,ところで
オイ,裏金議員……,
オイ,防衛費(軍事費)を2倍に決めた岸田文雄,
なにかいうことはないか?
それでいて,9月27日に予定されている自民党総裁選「?」は,茶番以前で,猿芝居以下の,なんといっても,国民・有権者を愚弄しきった手前勝手な演目でもって,いちおうは格好をつけているつもりだが,しょせん,猿山の動物園的な秩序からも,はるかに劣る連中が党内選挙だと……。
オイ,オマエたち,すでに御用済みも同然であって,ゴミ箱にいったん捨てられていたに等しい,しかもいいかげんに見飽きが,それにくわえて,あれこれについてのデタラメだらけに関してならば,絶対に間違いなどなかった「文鮮明と韓 鶴子」という(統一教会:現「世界平和統一家庭連合」の「教祖様つがい」が,そもそも,北朝鮮とも密通していた歴史的な事実もしらないでいたのか?
それでいて,上着にブルーリボンバッチをつねに着用して動きまわっている国会議員としての自分たち姿は,この統一教会様のご助力もあって,選挙に当選できていた国会議員たちがけっこうな人数いた事実を思うとき,それでも当事者たちはいまだにほっかむりして知らん顔でいる。
かといって,彼ら・彼女らに対してそれらの出来事が恥ずかしくないのかと問うたところで,いまだに本当に反省しているのかさえ不確かな自民党議員がほとんであったゆえ,とにかく最高度に恥ずかしくなるような体たらく連中ばかり……。
とくに,あのバーベキュー萩生田光一はいまだに反省の色すらまともにみせていない。つまるところ,9月27日に予定されている自民党総裁選はまるで窃盗団あるいは詐欺集団内で頭領を選ぶ選挙にしか映らない。しかも,その総裁選に立候補している者たちの顔ぶれを一覧すると,もうとてもではないが,完全に見飽きた顔ばかりで,清新さなどひとかけらもない。
なかんずく「亡国,滅国,恥国,没国などからどの文字を選ぶにしても,なんといっても「世襲議員栄えて,民を滅す」といったごとき「日本政治の低品質ぶり」は,いまや掬いようのない終局地点にまで到達したかのような様相になった。
ここで話を本論に戻す。
つまりは,いまの時代における「家族の絆」という用語は,すばらしく幻想的な過去を郷愁したつもりの表現なのであった。もっとも,その「過去」として想定しているらしい「日本社会像」が具体的に,いまの時代にどのような内実をもちうるのか,初めから不明解・不確実であった。
別言すれば,どこの・どなたの主張であったかはさておき,盛んに標榜されていた「『美しい国へ』の妄想」に,無理やりむすびつけられていたのがその「家族の絆」という「虚説の理想」であった。この種の理想範型が最初からつつがなく登場させうる条件など,いまの日本社会のなかに求めうるわけからして,なにもなかった。
いずれにせよ,いまの日本社会のなかでは,なかなか入手できない「家族社会次元の獲得目標」であった「その絆」というものを,「青い鳥」であるかのように,つまり夢のなかにでも追えるつもりだった者たちは,個人・主観的に観ていくらかは幸せでありえたのかもしれない。
それゆえ「家族の絆」なるもののその実体についていえば,そう簡単に口に出して「ああだ,こうだ」と議論できそうな〈対象〉には,なりえないものであった。そもそも,この種の断わりを事前に明確に入れておいたほうが無難な論点がこの「家族の絆」であっった。
千差万別というか万差各様であるはずの,個々の家庭・世帯における「家の姿や家族の絆」について,国家の側が「こうしろ,ああもっていて,しかるべきだ」などと口出しするほうが,初めからどうかしていた。
ここでの話題は明治民法的な材料であったから,こうも類推して述べてみるのもいいのである。
つまり,明治天皇みたく第2夫人以下をたくさん蓄妾した「家の姿:家族の見本」を例示された庶民までが,この睦仁の真似はとうていできないにせよ,女房を2人(以上)をかこうことによって「家族円満で子宝にも恵まれる生活」がよりよく成就できるというのであれば,これに越したことはないと結論づけることが可能にでもなるのか?
参考にまでつぎの画像資料をここに入れておく。
最近は,人生の黄昏時期に近づいた人びとを形容する用語として「下流老人」という字句まで登場しているが,平均的にはすっかり貧乏人の存在が絶対的に比率を増やしてきた「失われた10年」〔 現在はその × 4周期目?〕のなれの果てを,われわれ自身が直視してこの国の実体を再考しないといけない。
日本政府の担当すべき社会政策・福祉の実際は,実質,覆いがたいほどに貧困であった。かつては,経済大国と称賛された日本であったが,高齢社会の比重をさらに高まっていくなかで,その種の下流老人の立場にとってみればますます,非常に生きづらい社会になってきた。
まさか,この下流老人を「家族の絆」で救え,国家側の負担を軽減してしろ,ということではあるまい。この発想は,トンデモもない程度にまで「社会政策に関する国家側の哲学貧困」を赤裸々に表現していた。
最近は毎年の盛夏(猛暑)の時期になると,自宅の冷房をろくに使用できないずに(電気代が最近は相当値上がりした),孤独死する高齢者が増えている。昨年に関した統計だが,1ヵ月以上放置されてしまい,そのあとで発見された「孤独死の人びと」だけでも4千人を超えていた。そうした死に方を強いられる事例は当然,高齢者に偏っていた。
ところが,以前の安倍晋三政権が考えていたことも,そして菅 義偉が首相であった時期に考えていたことも,さらに岸田文雄もまた,皆,同じであった。なにがというと,つぎのように説明できる。
公助は期待するな,せいぜい共助せよ,しか基本はあくまで自助だといったふうに,なんのために存在しているのか理解できなかった自民党政権(というか,それに,コバンザメの「平和と福祉の党」だと自称した公明党との野合政権)が,いまとなっては「欲しがりません勝つまでは」という大東亜戦争中の標語よりも,ある意味ではもっと悪質・低劣な国家社会政策の立場を堂々と表白してきた。
もっとも,安倍晋三はできもしないことを1人で勝手に想像妊娠していたゆえ,そのメデタサはけっこう高度なものにまで飛翔しえていた。とはいえ,そのトンデモ性の程度たるや,トンチンカンの世界にまで完全に解脱しきっていたから,他人には理解の域を脱していた。
〔ここまでで,だいぶ間が空いてしまったたが,ここで「※-1」の日経「社説」本文に戻る ↓ 〕
家族の絆はもちろん大切だ。だが,保つ方法は法律だけではないだろう。世界的にみれば,法律で同姓を義務付けている国は例外的だ。政府は閣議決定した答弁書のなかで「わが国のほかには承知していない」とした。
補注)「本稿(1)」でも若干触れたが,日本政府は現状の戸籍制度や家族関係の民法を,世界のなかでは唯一無二のとてもすばらしい,住民〔国民・人民〕管理のための法制度だと確信してきた。それゆえ「わが国のほかには承知していない」といった口調での発言も,平然となされていた事実に注目したい。
〔記事に戻る→〕 別姓を求める声はさまざまだ。自分の姓に強い愛着をもつ人もいれば,少子化のなか実家の姓を残したい,という人もいる。さらに,仕事に支障が生じるという声が少なくない。「女性の活躍」が大きなテーマになっているだけに,見逃せない論点だ。
選択的夫婦別姓制度は,別姓を強制するものではない。あくまで希望する人には認めようというものだ。不自由な思いをしている人がいるなら,その悩みを受け止める。異質だといって排除しない。そんな多様性を認める発想こそ,成熟した社会に必要ではないか。(日経「社説」引用はここでお終いとなる)
--この社説が論じていた別姓の問題性にかぎっていえば,なにもむずかしいことは,言及していなかった。選択的夫婦別姓制度のなにがいけないかと問えば,「反対論者」が強説していたその根拠は,たとえば「家族の絆」〔が消えてなくなる〕ウンヌンくらいしかなかった。
もっとも,同姓であれば「家族の絆」が必らず良好でたりえ,逆に「別姓であれば「それ」が当然,不良になると観念できる2分割論的な思考じたいが,あまりにも恣意的な論法でしかなかったし,かつまた一方的・片面的な思考でもあった。
別姓の制度では「家族の絆」は醸成できないという命題について批判する以前に,どだい,この命題を立てたことじたいがたいそうあやしかった。混ぜっかえしていうが,同姓である「家族の絆」などなくても,その「絆そのものがよく備わっている家族」は,世界中の国々においてそれなりに存在していないわけではない。
とはいっても,その〈絆〉の源泉(支柱・基盤)は本来,経済力であったり,あるいは時に,その家・家族の歴史的な蓄積や名声であったりもする。要はいちがいには定義できない「家族の絆」の内容・中身を,「同姓」維持のための理由づけにもちこむ手順そのものからして,見当違いの意見・解釈であった。
ともかく,その「家族の絆」は,異常なまで過大評価を最初から無条件に背負わされていた。さらにまた,それが有効に機能していてこそ,日本の家というものが,家族制度としてはどうだこうだといわれつつ,なんといってもニッポンなりにすばらしいものがあるのだ,素敵でありうるのだといったがごときリクツになっていた。これらのリクツはどう受けとってみても,高度に工夫(詐称?)されたコジツケの観念でなければ,もとより成立不可能な「高邁」な話題であった。
付論)ところで,三土修平という氏名の経済学者がいた。天皇問題についても深淵から本質を突いて解明した本を公刊している。彼の本のなかにはつぎのごとき図解が提示されていた。これをみただけでなにゆえ,とくに「家の絆」が日本・日本人には必要であるかについて,その秘密というかリクツそのもの(カラクリ)が,ただちに理解できる(氷解する)はずである。
まあ,ともかくその絆がないことにはこの国はもたない,いつ崩壊するか分からないといった危機感でも強く抱いているのか(?)とまで,心配してあげる余地が(?)生まれている。
そのように理解してみたらいい対象が,ここまでの記述・議論を介して「家と家族制度」に関してであったが,特筆大書的にその重要性を強調したがっていた「旧民法精神の忠実な順守たちの精神構造」からは観てとれた。
※-3「『旧姓で仕事,貫きたいが』夫婦別姓,最高裁弁論」(『朝日新聞』2015年11月5日朝刊37面「社会」)
法律上の結婚をする女性の9割以上が改姓する根拠となっている「夫婦同姓」。女性だけに課せられている離婚後6カ月の「再婚禁止期間」。ともに明治時代から続く民法の規定は,憲法に違反していると,最高裁の15人の裁判官に思いが届けられた。初の憲法判断が年内にも示される。
補注)すでに出ていたが再記しておく。【夫婦同姓】750条は「夫婦は,婚姻の際に定めるところに従い,夫または妻の氏を称する」と規定。しかし,約9割5分は男性側の氏に女性側が合わせて入籍している。
補注)引用中の記事にはつぎの表が添えられていた。
〔記事に戻る→〕 「名前は,私にとってはどうしても譲れない。命そのものなんです」。夫婦同姓の強制は違憲と訴えた訴訟で原告団長を務める塚本協子さん(80歳)は,弁論後の記者会見で力をこめた。
旧姓を名乗るため,当初は事実婚。子どもが生まれるたびに結婚と離婚を繰りかえし,夫の戸籍に入れた。最終的には法律婚にしたが,「愛し合う2人に,別姓での結婚も認めてほしい。私は,塚本協子で生きて,塚本協子で死にたい」。
厚生労働省によると,昨〔2014〕年に結婚した夫婦の約96%が,夫の姓を名乗る。夫婦別姓を選べる制度の導入について,2012年の内閣府の世論調査では,賛成が35.5%,反対が36.4%と拮抗しているが,50代以下では賛成が多数を占め,20代では47%にのぼる。
夫婦別姓の反対論としては「家族の一体感がなくなる」がある。だが,原告の吉井美奈子さんは「家族のつながりや大切さは,姓とは関係がない」といい切る。研究者として旧姓を使う吉井さんにとって,戸籍名との両立は,仕事上大きな障害になってきた。
海外にいくため,申請してパスポートに旧姓を併記しているが,航空券には戸籍名が必要で,渡航先で混乱。給与や社会保障などの手続のたびに事務の担当者に負担をかけているようで,心苦しさも感じている。
「名前か仕事か,名前か結婚か,どちらかあきらめなければいけないのか。女性の活躍を望むなら,制度を変えていくべきだ」。
1)親権や税金優遇,事実婚で不利益
婚姻届を出さない「事実婚」を選んだ場合,どんな不都合があるのか。
まず,子どもをもった場合は,夫婦で共同して親権をもてない。また,民法の規定では,事実婚では配偶者となれないため,おたがいに法定相続人にもなれない。配偶者控除など,法律婚の夫婦にある税金の優遇も受けられない。生命保険の受取人や,住宅ローンの連帯保証人なども,保険会社や金融機関によっては認められないことがある。
訴訟を傍聴しようと,最高裁を訪れた横浜市の事実婚の男性(34歳)は妻と生命保険の約款を読みくらべ,おたがいを受取人にできる会社を選んだ。だが,法律婚の場合には必要のない書類を求められたという。「違憲判決が出て,別姓婚が認められたら婚姻届を出したい」と期待する。
立命館大学の二宮周平教授(家族法)は「事実婚の人たちは,婚姻の自由を奪われている。個人の意思を無視して,姓を変えるのを強制する民法の規定は,改正が必要だ」と指摘する。
補注)日本に住んでいる外国人でも定住権をもっている人たちは,国籍が違うということで夫婦が別姓であっても,たとえば自宅を建設するに当たり住宅ローンを組むさい,以上に言及されたごとき困難とは完全に無縁である。
ところが,日本国籍人だと無縁ではなく,そのさい当面させられるいくつもの嫌らしい現実問題が突如発生する(?)
さて,事実婚が実際に多く浸透しているフランスにおける「婚姻事情」においては,それなりに特有の背景があるらしく,ネット上の関連する記述を探して読むと,実におもしろい。日本側において,関連する民法の条文がひどく時代錯誤である事実も,逆にだが,それはもう嫌というほど教えてくれる。
しかしそれにしても,日本の戸籍制度は,そうしたフランスの婚姻:事実婚に関する事情とはかけ離れた,国家による国民に対する管理体制を感じさせる。よりによって最近は,マイナンバー制度が開始されていた。
2)「再婚に壁,子は無戸籍に」
この日は,「離婚後6カ月間」の再婚禁止期間を定めた民法の規定について,憲法違反だと訴えた訴訟の弁論も最高裁大法廷であった。原告の岡山県内に住む30代の女性は出廷せず,作花知志(さっか・ともし)弁護士が代わりに「女性の人権を制約する規定で違憲だ」などと訴えた。
女性は元夫の暴力が原因で別居後,離婚に元夫が応じず訴訟が長期化した。離婚成立直前に現夫との子を妊娠。だが再婚禁止規定があったため,すぐには現夫と再婚できなかった。
出産した子については戸籍上,元夫の子になることを恐れて出生届を出せず,一時無戸籍の状態になった。
作花弁護士は弁論後の記者会見で「明治時代に作られた規定。21世紀にふさわしい新しい判例を出してほしい」と期待を込めた。
女性は朝日新聞の取材に「法律によって,弱者や被害者の立場にある人たちがつらい思いをしている例が多いのではないか。このような問題がいまの法律にはあることを,多くの方々にしってほしい」とのメッセージを文書で寄せた。
--なお,本ブログの記述は,「本稿(1)」で言及していた点であるが,日本の戸籍制度に内有されている『明治的性格』と「21世紀におけるあり方」との深い溝に注目してみた。
明治帝政時代における民法の規定を,20世紀後半の時期においても「国民にありがたく遵守させてきた〈国家意識の旧態依然性〉」が問題であった。人間社会の円滑な生活・営為のための助けとして生かされるべき法制が,そうではなく,いまもなおその逆作用を果たしている。
※-4「〈ニュースQ3〉首相が発表した『希望出生率 1.8』,希望って何?」(『朝日新聞』2015年11月6日朝刊37面「社会」)
安倍晋三首相(当時)が発表した政策「新3本の矢」のなかに,「希望出生率 1.8」という耳慣れない言葉が出てきた。10月29日の「1億総活躍国民会議」で具体策の議論が始まったが,そもそもこの「希望」ってなに〔であったのか〕?
【参考記事】-『日刊ゲンダイ』から-
1)30代の女性「金持ちの話」
「お金がある人の話でしょ」。埼玉県の30代の女性は,「希望出生率 1.8」と聞いてそう思った。母親に1人娘の子育てを手伝ってもらい,フルタイムで働く。2人目が欲しいと考えたこともあったが,共働きでも収入が増えない現状にあきらめた。「保育所に入るのも大変,教育費も高い。2人目は無理ですよ」。
少子化を示す指標には「合計特殊出生率」がある。1人の女性が生涯に産むとみこ込まれる子どもの数で,2.07 が人口を維持できる水準とされる。日本は1975年に2を下回り,長期低落傾向に。2014年は 1.42だった。1.8 は約30年前の水準である。
補注)2023年までの出生率はこう推移してきた。
ただ,出生率の数値目標を設けることへの反発は根強い。「産めよ殖やせよ」という戦前の人口政策への警戒感や,妊娠や出産は個人の選択で国が強制すべきではない,などの理由からだ。内閣府の少子化対策の担当者は「首相がめざすといった以上はめざさないといけない」と戸惑う。
2)国民の希望,かなえばの値
こうしたなかで出てきたのが,「希望出生率」という考え方で,名付け親は増田寛也元総務相が座長を務める「日本創成会議」とされる。昨〔2014〕年5月に公表した「ストップ少子化・地方元気戦略」で提唱された。「国民の希望がかなった場合の出生率」と定義し,約 1.8 と算出した。。
数値を挙げたことについて,事務局は「強制はいけないが,希望を妨げる要因をとり除くことは必要だ。『国の』ではなく,民間の提言として『国民の希望』と付けた」と説明する。
新しい指標は昨〔2014〕年に閣議決定された「まち・ひと・しごと創生長期ビジョン」にもとりこまれ,「若い世代の希望が実現すると,出生率は 1.8 程度に向上する」と紹介された。
さらに,地方創生法が成立し,地方自治体も「人口ビジョン」と「総合戦略」を作ることが努力義務となった。これを受け,富山・山梨の各県など,希望出生率を独自に算出する自治体も出てきた。ある市の担当者は「早く戦略を作れば交付金という『アメ』がついてくるから」と明かす。
3)長時間労働「解消策が先」
一方,東京大学大学院の金井利之教授(自治体行政学)は,「『地方創生』という政策課題に転換したのは,地方に責任転嫁しただけ」と批判する。「希望」を付けても「子育ての負担を前提としない曖昧な『希望』には根拠がない」と指摘する。
都道府県別の出生率は,大都市圏の方が低い傾向が続いてきたので,「仮に人口を増やすという政策を国全体として立てるなら,本来の処方箋は大都市圏の少子化対策のはず」と話す。
「希望」という概念がくわわったとしても,子育て支援の必要性は変わらない。育児情報誌「miku」の編集長,高祖常子さんは「産むことをゴールにしないでほしい」と注文をつける。「長時間労働の問題を解消しないと,子どもが欲しい人の希望すらかなわない。子育ての負担を減らす対策を打ち出すべきだ」。
--戦争中〔敗戦前,明治帝政時代からの日本帝国主義・侵略戦争路線における話としての人的資源の生産目標〕は,20歳になったら男子は兵役に就くので,この兵士になれる人間製造=再生産のために,帝国の「夫婦はしっかり子作りをしろ,つまりそのための健全なるセックス活動に2人はしっかり励め」ということが,国家綱領みたいに下達されていた。
だが,21世紀の現在,「日本国内における男女間性事情」はどうなっているか? すぐに思い浮かぶのが〈セックスレス〉の問題である。こうした男女間関係の問題はあくまで「私的事情(プライバシー)としての生活空間」におけるものであった。それだけに,いくらファシストの故・安倍晋三君であったにしても,じかに口出しできるような〈社会政策的な関連問題〉ではなかった。
ここでさらにあえていうとしたら,安倍晋三君夫婦に固有だった私的事情をいえば,彼ら夫婦は子どもを儲けていなかった。だからといって,彼らのどちらかにその原因があるのか・ないのかといったふうな,3流週刊誌的な追求を,ここでしておく必要はない。彼ら夫婦には,それなりの事情なり原因なり意図なりがあって,そういった結果(人生の過程)になっていたに過ぎず,他人がとやかくいう筋合いの話題になりえなかった。
子どもを儲ける・儲けないは,当事者夫婦の勝手であり,他者が指図できるような問題ではなかった。大昔からそうであったが,時代によっては為政者が口だしした。だが,大日本帝国は1945年の敗戦をはさんで人口の動態はどうなっていたか?
結局,出生率を自然なかたち・方向でもって上昇させるための手だては,そのための社会経済環境を慎重に準備し,徐々におだやかにととのえていくほかない。それからである,所期する目標を「期待するのは」。だから戦争中の標語「産めよ殖やせよ」は,もともとが矛盾せざるをえなかった。
また「家族の絆」というものも,政府が口出しして創造できるような性質のものではない。同姓だ,別姓だといって現在,最高裁で個人が国家を相手に争っている様子じたいが,実は, “不思議の国:ジャポン” を端的に表わしている。まずもって,そのことに気づく必要がある。
現状における日本社会のなかで,夫婦間で別姓だったら「いったいなにが問題となるのか」,同姓であれば「なにも問題がない」とまでいいきれるのか。この種の問題は,ごく相対的にしか判断できないものであるし,あるいはときに,それじたい無関係に考えたほうがいいかもしれないのである。
だから,目くじらをたてて「同姓がいい」とか「別姓が好ましい」とかいったところで,つまるところ,詮ない議論になる可能性が強い。結局,そのあとには,思想・イデオロギーがいいあらそう場面しか残らない。基本点というか大前提をいえば,夫婦が同姓でも別姓でも,人間の生活そのものにとっては,なんら支障はないはずである。
ところが,日本の現状ではそれならば「別姓でもいいですよ」とはなっていない。これに対して,自民党内の保守・極右・反動の頭で凝り固まった国会議員が依怙地になって「選択的夫婦別姓にさえ猛反対してきた」。
「本稿(1)」でも触れたごとく,隣国の韓国では,植民地時代に日本が導入した戸籍制度を抜本的に変更していた。それは「戸籍法に代替する法律の制定」であるが,戸主制廃止にともない,戸籍法に代替する法律として「家族関係登録等に関する法律」が制定(2007年4月27日),法律第8435号として公布(2007年5月17日)され,西暦2008年1月1日付施行されていた。
しかし,日本政府は住民基本台帳法を前面に出してはいるものの,その奥に戸籍制度を隠しもつかのように使いつづけており,この戸籍制度を残置させつづけている。この制度を根本から改革する企図は,この国では考えられていないらしく,その意味では『先進国的な後進意識(封建遺制)』の残存性が,いまもなお問題のままである。
日本は経済的に弱化してしまった国力だけでなく,法制面で国民たちがいきにくい社会をわざわざいつまで経っても変えようとしない頑迷政権のために,社会制度面でも要らぬお世話になる旧態依然の基本姿勢が依然まかりとおる国家体制に,いまだに留め置かれている。
同姓だいや別姓だといった議論がいきかっているうちに,しかし,マイナンバー制度によって国民総背番号制が完成しだしていた。「過去帳的な戸籍制度」を,国家情報管理体制のなかにいつまでも都合よいかたちで内蔵させておき,これからも保存・管理してきながら,なにかのときは利用するつもりである国家側の意向(悪だくみ)は,けっしてなくならない。
国民の側からすると,民主的な国家情報管理体制ではなく,国家支配体制側にとってのみ都合のよい監視・指導体制が確立されていく様子を,指をくわえて観ているだけではいけない。
だが,これからもこの国は,ジョージ・オーウェル『1984』的な国民監視管理体制がより深化されていくほかなく,そして,きわめて従順でおとなしい国民たちの,その生活している土台まで管理統制しやすい方途の構築を狙っている。
---------【参考文献の紹介:アマゾン通販】---------