本土「主権回復の日」がオキナワ「屈辱の日」
※-1 まったくタチが悪かった岸 信介の外孫「安倍晋三」による明仁天皇夫妻「イジメ」を,いま一度,明確に想起するためにも「在日米軍基地」だらけの沖縄問題を再考する
本稿は昨日,2023年11月12日の記述中で触れた安倍晋三の第2次政権時にこの首相:「世襲3代目の政治屋」のろくでもなかった自民党の総理大臣が,平成天皇夫婦をいじめてきた事実に言及してもいた。
そこで本日は,その事実に関連してさらに在日米軍基地の島となっている「沖縄」問題を,あらためて議論する「旧稿」(2013年4月8日)の記述を,ここに取りだし再掲することにした。もちろん,本日の記述なりに補正・追論をくわえて復活させている
■ 本土「主権回復の日」がオキナワ「屈辱の日」 ■
2013年4月28日に記念式典を開催し,天皇夫婦も出席させるといって,琉球人の感情を逆撫でする安倍晋三の政治感覚がまずもって問題であった。
この「対米属国でありつづける日本」がいまなお足蹴にしつづける「自国のこの沖縄県」は,1945年3月26日にその主な戦闘が沖縄本島で始まり,その組織的な戦闘が4月2日から開始してから6月23日に終了する「沖縄戦」を体験させられた。沖縄県民の4人に1人がこの戦地とされた自国において命を落とした。
※-2「沖縄戦の記憶と濃い残影」
1945〔昭和20〕年3月10日の東京下町大空襲から20日ほど経った1945年4月1日,「米軍が沖縄本島に上陸作戦を開始した」。この沖縄上陸作戦は,6月23日に日本軍が全滅し,戦闘が終了するまで,この島に地獄図を描かせてきた。
なぜ,昭和天皇は戦争をより早く終結させえなかったのか。
沖縄での戦争は,軍人・軍属の死者約12万人,一般県民の死者約17万人を出した。当時の沖縄県の人口は昭和15〔1940〕年で57万4,579人であったから,〔またいえば〕沖縄県民〔同県在住者〕の「ほぼ3~4人に1人」が「戦死した(させられた)」ことになる。
このころの昭和天皇は《太平洋戦争》の全体的な戦局をよく理解できなくなっていた。戦艦大和の沖縄突入作戦,その無謀・無駄な「片道切符」作戦も,この昭和天皇の圧力によって敢行されていた。
註記)山田 朗『昭和天皇の軍事思想と戦略』校倉書房,2002年,314-318頁参照。
昭和天皇から平成天皇の時代に受けつがれている「皇室の課題」は,沖縄県・琉球人を順(まつろ)わぬ土地・人びとから日本国に従順な民に造りかえることであった。
昭和天皇は「皇統の連綿性:皇室の安泰」を戦後にも維持しようするがために,昭和20年4月~6月の沖縄戦において戦術的に,この沖縄を捨て石にする大東亜戦争を指揮した。
つぎにかかげる画像は戦艦大和の最期である。
結局,戦局を挽回するどころか,その大局になにも変化はなく,敗北の時期を引きのばしただけであった。戦艦大和の沖縄突入作戦も無意味な失敗に終わったとすれば,敗戦後,米軍占領下に残された沖縄県人の「対天皇感情」によいものがあるわけがない。
昔,歌手の安室奈美恵がある機会に君が代を歌わなかったことが問題にされたが,この出来事に関連して,ネットの書きこみにはつぎのような指摘が交換されていた。その一例でしかないが,紹介しておく。投稿者の氏名は割愛し,年月日と意見のみ抜き出して紹介する。なお,20とは2020年。
※-3「いまだに主権が回復されていないのに,なんの式典か」
1) 安倍晋三-平成天皇夫婦-沖縄県選出国会議員
2013年3月13日の新聞報道は「『主権回復』式典,安倍首相が主導 4月28日開催を閣議決定」といった,沖縄県民の神経を逆撫でする自民党〔プラス公明党〕政府の意向を伝えていた。
註記)『朝日新聞』2013年3月13日朝刊,http://digital.asahi.com/articles/TKY201303120723.html 。この記事を以下に参照しながら記述する。
菅 義偉官房長官は〔2013年〕3月12日の記者会見で,その事情をこう説明した。
「安倍晋三首相が式典開催にこだわった」こと,すなわち「サンフランシスコ平和条約が発効して日本が主権回復した4月28日に,政府主催の記念式典を開くこと」は,「日本が占領下から脱却して主権を回復し,国際社会に復帰した。日本の戦後を象徴する主権回復の日だ」からだと説明されたのでである。式典は国会近くの憲政記念館で開催し,天皇夫婦も出席する予定になったという。
2012年12月下旬,自民党が政権党に復帰すると早速,このように敗戦後の1952〔昭和27〕4月28日,「日本が主権」を「回復」した「日」の記念式典をやりたいと,それも安倍首相のじきじきの主導で開催を決めていた。
こうなれば「沖縄や奄美,小笠原は条約発効で日本から切り離され,米国統治下に置かれ,沖縄では『屈辱の日』と呼ばれている」からには,先述のごとく,皇太子時代から「沖縄慰問の旅」をこなしてきたつもり平成天皇夫婦による「沖縄慰問の旅」が,その効果をいかほど上げえていたかはともかく,この夫婦による〈皇室流の沖縄対策〉が大きく毀損されることは必至である。
【参考記事】-NHKから-
沖縄出身の赤嶺政賢(共産党国家議員)は,2013年3月12日の衆院予算委員会で「なんで沖縄県民が主権回復の日だと受け入れなければいけないのか」と反発し,公明党の遠山清彦氏も「式典には沖縄県民から強い反発が出ている」と指摘していた。また,自民党沖縄県連は3月11日,石破 茂幹事長に「沖縄の気持に十分配慮してほしい」と要望したという。
同年3月下旬には,こういう報道もあった。
「沖縄選出議員の反発続出 自民『主権回復の日』で説明会,普天間移設に波及懸念」は,「自民党は3月25日,政府が4月28日に主催する『主権回復の日』の式典の趣旨を所属国会議員に説明するため,党本部で全議員懇談会を開いた。推進議員連盟会長の野田 毅氏は『なぜ主権を失ったのか,日本人自身が考える時期があっていい』と意義を強調した。沖縄県選出議員からは『理屈を超えた感情もある』などと執行部の説明不足を指摘する声が続出した」。
註記)『日本経済新聞』2013年3月26日朝刊。
2)「琉球処分」や「沖縄の復帰」など
安倍首相は3月12日の国会答弁で,「まずは主権を回復して,沖縄や奄美,小笠原について日本に返還されるよう米国と交渉することだった」と説明し,さらに「(沖縄の)忸怩たる思いをわれわれも共有しなければいけない。先人の心情に思いをいたし,沖縄の基地負担の軽減にとり組む」と語った。くわえて「政権は毎年4月28日に式典を開催するかどうかについては今後,検討するとしている」ともいっていた。
補註)以上の記述に引照した『朝日新聞』のこの記事は,これと同じ対象を取材していても,『日本経済新聞』の報道になると,見出しは「東京裁判『勝者の断罪』首相,衆院予算委で答弁」と付けられていた。これら語感には顕著な違いがある。財界支援新聞社の論調には,それなりに特性がある。
この安倍のいいぶん:「主権を回復してから」「交渉することだった」ということを聞かされた方は,沖縄県人とその関係者でなくとも怒って当然である。今年(当時)は2013年〔4月〕であったが,1952年4月から早,61年もの時間が経っていた。
日本の敗戦後,沖縄本島と近隣の島嶼(とうしょ)については,安倍の祖父岸 信介が首相であった時期(1957〔昭和〕年2月25日~1960〔昭和35〕年7月19日)からいままで,誰がどのように,その返還交渉をしてきたのか?
やはり義理の祖父佐藤栄作が首相であった時期-1964〔昭和39〕年11月9日~1972〔昭和47〕年7月7日-,1972〔昭和47〕年5月15日に「沖縄返還」(沖縄=琉球諸島及び大東諸島の施政権)が,アメリカ合衆国から日本に返還された。日本政府はこれを「琉球処分」(1872〔明治5〕年から1879〔明治12〕年,旧来琉球諸島の施政権を握っていた中山王府を廃し,沖縄県を置いた日本の圧政)と呼ばれる歴史に関連させて,「沖縄の復帰」と呼んでいる。
この沖縄が太平洋戦争の結果,アメリカに占領され,「軍政」下に置かれた。1952〔昭和27〕4月28日に「日本が主権」を「回復」してもなお,この沖縄だけは依然,アメリカ軍の管理下に置かれてきた。アメリカは,沖縄に琉球政府を創設させ,潜在的な日本の主権は認めながらも軍政下に置きつづけた。1972〔昭和47〕年5月15日に返還された「沖縄」は,米軍基地に埋まったままであって,沖縄にとっての「敗戦」の終結はいまだなされていないも同然である。
※-4「沖縄県民の怒り」
1)「『日本』主権回復の日」が「『沖縄』屈辱の日」
そこへ,2012〔平成24〕年12月26日,政権に返り咲いた安倍晋三自民党政権が,「サンフランシスコ平和条約が発効して日本が主権回復した4月28日に,政府主催の記念式典を開く」というのであるから,沖縄県民の気持たるや,まさに憤懣やるかたないと表現以外にみつからない。
『琉球新報』2013年3月13日「社説」は「『主権回復』式典 過重負担押し付け祝宴か」http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-203867-storytopic-11.html と憤る題名を付けて,こう語っていた。
政府は,1952年のサンフランシスコ講和条約発効の節目である4月28日を「主権回復の日」とし,式典を開催すると閣議決定した。安倍晋三首相は「日本の独立を認識する節目の日だ」と意義を強調するが,沖縄からすれば式典開催に強い違和感を覚える。
沖縄,奄美など南西諸島,小笠原諸島が日本から切り離され,米軍による異民族支配が始まったこの日を,沖縄は「屈辱の日」として語り継いできた。政府がそうした歴史を顧みず「主権回復」をことほぐのは,県民を愚弄するような話だ。
米軍は条約発効後,沖縄の住民が暮らしていた土地の強制接収を始め,基地拡大を加速した。〔19〕53年4月,真和志村(当時)の安謝,天久,銘苅に土地収用令を発令し,その後も伊江,読谷,小禄,宜野湾の各村に武装兵を動員し「銃剣とブルドーザー」で住民を追い出し,家屋をつぎつぎとなぎ倒した。
27年間の過酷な米軍統治を経て,沖縄の施政権は〔19〕72年に日本に返還された。だが,県民が望んだ「核抜き本土並み」という米軍削減は進まず,いまでも沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中している。
補注1) 2013年3月から4月にかけて〔のころの話であったが〕,これら米軍基地のうち,嘉手納基地以南についてのみであるが,アメリカが10年以上も年月をかけて,日本に「返してやる(!)〔かもしれない(?)〕」という日米交渉がおこなわれている。
補注2)しかも,前段のように記述したのは,本日記述しているこの文章からは「10年も以前のこと」であった。それでもいまごろになってもまだ,ほとんど「進展がなかったかのような語り方」が繰り返されている。
だから,沖縄県民が怒り心頭に発する「状態」を何十年も持続させられてきている。こうした沖縄県の米軍基地をめぐる国際政治の状況(「米日安保関連法下の両国間「上下・服属関係」)は,とうてい耐えられないほど辛いものである。
新聞報道にくわしく出ているが,まるで他国の領土を日本がいただけるかのように錯覚させかねない体裁までとって,「遅々とした沖縄米軍基地の返還交渉」が,それも「嘉手納基地以南」だけを「20 x x 年またはその後」に実現するかもしれない,といった具合におこなわれてきた。
とはいっても,アメリカ側の本心は,返還する気などまったくないゆえ,ホンの少しずつ,しかもたっぷり時間をかけて:10年単位で「返還していく(=というよりはなるべく返還しない)」方針である。
そのように10年単位をもってその返還交渉をしているなかで,単に沖縄県にある米軍基地だけの問題ではないかたちとなってだが,日本国防衛省自衛隊3軍じたいが徐々に,在日米軍基地「全体」のなかに同じ国の軍隊編制「同士」であるかのように合体化させられてきている。
〔記事に戻る→〕 日米両政府は,県知事や県議会,県内41市町村の全首長や議会が反対する普天間飛行場の辺野古移設に固執する。米海兵隊MV22オスプレイは傍若無人に,沖縄や日本本土の空を飛び交う。日米地位協定で特権的地位を保障された米軍は日本国内で基地の自由使用をほしいままにする。主権は「回復」どころか,脅かされたままだ。
安倍首相は沖縄の反発を受け,「わが国の施政権の外に置かれた苦難の歴史を忘れてはならない」と述べた。7日に式典開催を表明したさいは,沖縄にまったく言及しなかった。首相自身も「苦難の歴史」を失念していたのではないか。
首相は「主権を失っていた7年間の占領期間があったことをしらない若い人が増えている。日本の独立を認識する節目の日だ」と主張する。それをいうなら,沖縄がいまも基地過重負担にあえいでいることをしらない,しろうとしない国民が増えていることこそ問題だ。
繰り返すが,沖縄を政治的質草にして独立を果たし,戦後68年間も在日米軍基地の大半を沖縄に押し付けながら,「主権回復」を祝うなど,理不尽極まりない。「4・28」の教訓になにを学ぶか,根本的な問い直しが先決だ。
2) 沖縄の気持
沖縄県の別の地方紙『沖縄タイムス』http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-03-14_46499 は,2013年3月14日「社説」が「[主権回復式典]屈辱の日になぜ政府が」を論題にして,こう問いかけていた。
『朝日新聞』2013年4月2日朝刊がこう報じていた。
抗議集会は野党第1党の『社民・護憲ネット』が他の野党会派に呼びかけ,開催で一致した。実行委員会を設け,昨秋に米新型輸送機オスプレイの沖縄配備に反対する県民大会をおこなった宜野湾海浜公園で開催する予定だ」
「1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し,日本は連合国による占領から独立したが,沖縄は米国の統治下に入った。このため沖縄では,4月28日は『屈辱の日』とも呼ばれている」
さらに『朝日新聞』2013年4月6日朝刊は,沖縄米軍基地返還問題の進捗をめぐり何面も充てて詳細な報道をしていたが,そのなかで右側にかかげた表「沖縄の米軍基地をめぐる主な出来事(肩書は当時)」を組みこんだ記事で,こう書いていた。
記事の見出しは「 返還,裏切りの歴史 時期・条件,たびたび変更 嘉手納以南,日米合意」となっていた。
--沖縄に集中する在日米軍基地の返還への取り組みは1995年の米兵による少女暴行事件がきっかけだ。県民の怒りが広がり,日米両政府は沖縄の負担軽減をかかげ「沖縄に関する特別行動委員会」(SACO)を設置。翌1996年に住宅密集地の普天間飛行場(宜野湾市)の返還で合意した。
合意発表の記者会見で,当時の橋本龍太郎首相は「5~7年ぐらいに全面返還される」と強調した。「沖縄のみなさんに普天間の(返還)目標だけは示してほしいといわれていた。お応えできた」と胸を張った。
1996年のSACO最終報告では11基地の返還への道筋を示した。ただ,普天間については「十分な代替施設が完成し,運用可能になった後」と条件がつき,代替施設を沖縄本島の東海岸沖に建設するとした。残りの基地の大半も,普天間同様に基地内施設の県内移設が条件に。「県内移設」は地元の反対で難航し,これまでに返還されたのは読谷補助飛行場など5基地〔だけである〕。
普天間移設は,米側が世界的に進める米軍再編で再び,動き出す。日米両政府は2006年に在日米軍再編について合意したさい,沖縄の米軍基地返還の行程を定めた「ロードマップ」を発表。2007年3月までに詳細な計画を作成するとし,当時の小泉純一郎首相は「ここに示された具体案を着実に実施していく」と語った。
普天間飛行場については,移設先の名護市辺野古にV字形の滑走路を建設する計画を決め,「2014年までの完成が目標」と移設時期の目標を設定した。だが,これにも,在沖海兵隊のグアム移転が前提条件とされた。
2009年の政権交代で民主党から鳩山由紀夫首相が就任すると,普天間移設で「最低でも県外」を追求。しかし,移設先はみつからず,「学ぶにつけ,沖縄の米軍全体が連携し抑止力を維持できているとの思いに至った」と断念。期待を裏切られた沖縄では県内移設への反対論が膨れあがり,「2014年までの完成」は不可能となった。
今回の計画で再び,「2022年度またはその後」と目標時期を再設定したものの,これも関連施設の辺野古への移設が条件となっており,実現は見通せない。(引用終わり)
前段で記述した点であるが,米軍の普天間飛行場が辺野古へ移設する工事は,現在(ここではいま,2023年のこと)あと何年かかるかすらこの予定がみこせない状況にある。ところが,いまから10年半前の時点ですでにそのように報道されていた。
しかも,普天間飛行場については,移設先の名護市辺野古にV字形の滑走路を建設する計画が決められており,「2014年までの完成が目標」だなどと「移設時期の目標を設定した」が,とんでもない。いったいいつごろになったらその移設が可能になるのか,全然見通しが立っていない。
辺野古沖・沿岸の埋め立て工事は,海底深部が「マヨネーズ状」だと判明してもいるからには,そのV字形の滑走路がはたして計画どおりに完成するかどうかに関していえば,そのさきの見通しなどが確定的に決めることすら不可能な状況にある。
3)「屈辱の日」の翌日が「昭和天皇の誕生日」-「沖縄」をアメリカに売った「天皇メッセージ」(1947年9月)-
沖縄県民は「4月28日の屈辱」に堪える1日を過ごしても,その翌日にはさらに,4月29日「天皇裕仁の誕生日」である「昭和の日」という名の「国民の休日」を過ごすことになる。この日になると,いつも思いださざるをえないのが,例の「沖縄メッセージ」(1947年9月)である。
沖縄の米軍基地が返還される以前に「沖縄県民」の心中には堪えがたい「本土側の裏切りの歴史」,それもアメリカという国家にひれ伏しながら,その脚でオキナワを踏みつけして,あと何年が経つと80年近くにもなる「本土による琉球無視の歴史,そのいままでの行跡」が記録されていた。
要するに,明治維新直後の「第1の琉球処分」も,戦時体制期の昭和20年4月から6月の沖縄戦後の「第2の琉球処分」も,そして戦後平和期の昭和47年5月15日の「第3の沖縄返還」もすべてが,沖縄を踏みつけにする日本本土(ヤマトンチユ)側の身勝手,利害一辺倒であった。
註記)「第1・第2(・第3)」の「琉球処分」という表現は,林 博史『沖縄戦が問うもの』大月書店,2010年,215頁を参考にした。
※-5 無粋・無情・無残な日本の政治風景
1) 総理大臣 安倍晋三
安倍晋三首相は,4月28日を「主権回復の日」とし,式典を開催すると閣議決定していたけれども,沖縄県民にとってこの「1952年4月28日」は怨念のこもった “屈辱の日” である。
しかも,4月29日:昭和「天皇誕生日」の前日に沖縄県を除く日本本土が「主権を回復した」のであって,沖縄県は今日までつづく苦難への新しい幕開けにしかならなかったのが,まさしくこの「4月29日の前日の」4月28日である。
そもそも「対米従属下に置かれている日本国」が,この4月28日を主権を回復した日だとみなして祝う気持・心情が不可解であって,ここまで無神経にも,自分たちの置かれてきた立ち位置を客対視できない日本国政府・自民党首脳のオメデタさ加減は,救いようがないほどである。
くわえて,沖縄県民の「4月29日」に対する複雑な感情を忖度できないような政治家であれば,沖縄県の在日米軍基地の問題はおそらく,未来永劫に解決不可能とさえ思われる。
安倍晋三という「世襲3代目の政治屋」に関しては,こういう指摘がなされていた。
2012年12月26日,CSIS(米戦略国際問題研究所)立会いのもと,安倍晋三氏は野田佳彦前首相から政権を禅譲されたわけだが,神州の泉〔←これは,引用してみたブログの名称〕は最近の記事で,この過程において,安倍晋三氏は政権を獲得するにあたってCSISから2つの課題を果たすべく条件を突きつけられていると書いた。しかし,考えてみると,その課題は実はもう一つあった。それが消費税増税法案の始動なのである。
つまり,安倍政権が米国に約束したアジェンダは次の3つ,すなわち,a) TPP参加,b) 言論統制国家樹立,c) 消費税増税法案の実施である。安倍総理は地方や国民の意思を無視して,米国政府と結託した多国籍企業に日本のすべてを売り渡す米国主導の外道条約 “TPP環太平洋連携協定” の批准に向けて大奔走しているが,この姿勢に彼が日本という国家と国民を守る意思が皆無であることは,もはや疑いようのない事実となった。
つまり,安倍首相が所信表明演説で言挙げした “強い日本” とか, “共助・公助の国” とか, “力強い日本経済を立て直す” とか, “海外の成長を日本にとりこむ” とか, “攻めの農業” とか, “ルールを「待つ」のではなく「創る」国でありたい” など,これらはすべて国民を欺くイリュージョン(幻影)である。とくに “ルールを「待つ」のではなく「創る」国でありたい” などは,TPPの毒素条項であるISDSやラチェット規定が適用される事実を鑑みれば,まるで逆のことをいっているわけであり,犯罪的な表明である。
補注・付記)なお,上述中に登場していた『神州の泉』という名称のブログの出所を確認し,その典拠をあらためて明示しようとしたが,該当する記述がネット上を検索しても出てこなかった。ただ,つぎの事情は判明したので,こちらのみ紹介してその代わりにしておきたい。「著名なブログ【神州の泉】の運営者であった高橋博彦」は2015年「1月26日に亡くなられました。享年62歳」
2) 元防衛大臣・自民党幹事長 石破 茂
2012年12月下旬に発足した第2次安倍内閣時に自民党幹事長になった,過去には防衛庁長官も含めて3度,防衛大臣に就いたことのある石破 茂(2002年9月~2004年9月;防衛庁長官,2007年9月~2008年8月;防衛大臣)は,
「我が国には海兵隊がない。海兵隊の役割は第1に自国民救出だ。世界で危難に遭遇した時,国民の命を守る。第2の役割は島嶼だ。日本には離島がたくさんあるが,なぜ(海兵隊が)ないか。それは米国がやってくれるから。それでいいのか。日本で出来ることは日本でする。その観点でいかに普天間基地移設問題を解決するかが政権の課題だ」と,福岡市の講演で主張した。
【参考画像】 -石破 茂の似顔絵-
だが,この発言をアメリカ国防総省側がいかほど認める可能性があるか問えば,おそらくゼロに近い。ただし,日本国防衛省自衛隊が独自に海兵隊を創設できたあかつきには,米軍の指揮下に入る補完の部隊であるならば,アメリカ側は受け入れる余地があるかもしれない。
このたぐいの日本政府や自民党側の要人による発想は,アメリカにとってみれば用心すべき「属国日本国」側の「能動的・積極的・意欲的」な姿勢を意味していたゆえ,できれば日本側から発信されることなどないように,事前に手当(つまり抑圧し封殺)しておくべき対象であった。
米軍の海兵隊が独自に沖縄なり周辺に待機した態勢で配備される現状において,アメリカという国家にとっての世界軍事戦略の構想が具体的に展開されているのに,ここに日本国防衛省自衛隊が独立した海兵隊を創設して米軍の代わりに,日本国西南諸島を「防衛するのだ」という自衛の発想は,「対米従属関係」下にある日本国軍隊の意欲表示になりうるものの,アメリカ側にとっては「出過ぎた真似」とみなされるに違いない。
もっとも,2023年になった時点では,米軍の指揮下に従順になりうる日本国自衛隊3軍が「米日安保関連法」をもって,期待されるというよりはすでにそうした米日服属関係的な日米軍事同盟が実質確立している。
3) 平成天皇夫婦(2023年時点では息子に譲位していたが)
日米軍事同盟関係の現実における様相がそのようになにやかや進展してきたなかで,平成天皇夫婦(ここでは10年前の話題だが)が出てきて「沖縄県民を慰撫する構図」というものが,20世紀から21世紀を経てきた琉球史にとって,いかなる含意を有するかは贅言する余地もあるまい。
天皇の象徴的な役目が「沖縄慰撫」に求められるとしたら,これほど損な役回りをしている〈玉〉もいないことになる。平成天皇の父:昭和天皇との因縁がとても深い沖縄県の敗戦史以後の事情があった。沖縄独立論が叫ばれるゆえんも理解できる。平成天皇夫婦が当時(2013年のこと),もしも,正式に4月28日の式典に出席を要請されることなったら,彼らなりに苦悩を強いられ,苦衷の判断を下さねばなるまい。
補注)その式典に平成天皇夫婦は出席していた。その場で安倍晋三らが音頭をとるかたちで「万歳三唱」を,しかもこの天皇夫婦に向けるかたちで,それも式辞にはなかったし,だから予定されてもいなかったにもかかわらず「敢行」した。
とくに明仁天皇(当時)は表情にこそ全然,自分の気持ちを反応させる応答ぶりを出してはいなかったものの,おそらく,非常に深い怒りを安倍晋三に対して抱いたはずである。この推測はこの記述を全体的に読んでもらえば納得がいく点である。
そのときの画像があるので,上に『文春オンライン』から借りて紹介しておく。このとき平成天皇(当時)は実際には,はらわたが煮えくり返る思いをさせられていたはずである。しかし,ただちにその反応を表情に出すことができない立場にあった。
※-6 付 論-本日〔2013年4月8日〕のニュースから-
1)『共同通信』2013年4月8日報道から。--その見出しは「『安保改定遅れに影響』米に伝達 砂川事件判決で日本政府」。
1960年の日米安保条約改定に絡み,米軍旧立川基地の拡張計画をめぐる「砂川事件」で米軍駐留を違憲とした1959年3月の東京地裁判決(伊達判決)が改定手続の遅れに影響したとの見解を,日本側が在日米大使館に伝えていたことが〔2013年〕4月7日,機密指定を解除された米公文書で分かった。
〔当時〕日本政府が伊達判決を強く意識し,社会党などの追及が強まりかねないと懸念していたことがうかがわれる。公文書は1959年8月3日付でマッカーサー駐日米大使(当時,以下同)が米国務長官に宛てた公電。布川玲子・元山梨学院大教授(法哲学)が今〔2013〕年1月,米国立公文書館に開示請求して入手した。
註記)以上『共同通信』2013年4月8日, http://www.47news.jp/CN/201304/CN2013040701001577.html 午前2時配信記事。
2)『日本経済新聞』2013年4月8日朝刊の報道から。その見出しは「『砂川事件』の違憲判決『60年安保 改定遅れに影響』 日本側,米に見解伝達 米公文書で明らかに」
1960年の日米安保条約改定に絡み,米軍旧立川基地の拡張計画をめぐる「砂川事件」で米軍駐留を違憲とした1959年3月の東京地裁判決(伊達判決)が改定手続の遅れに影響したとの見解を,日本側が在日米大使館に伝えていたことが〔2013年〕4月7日,機密指定を解除された米公文書で分かった。
公文書は1959年8月3日付でマッカーサー駐日米大使(当時,以下同)が米国務長官に宛てた公電。布川玲子・元山梨学院大教授(法哲学)が今〔2013〕年1月,米国立公文書館に開示請求して入手した。
補注)この 2)で引用した記事の文章は 1)と同文であったが,あえて紹介してみた。布川玲子のその本は,日米政治関係史に重要な貢献をおこなった貴重な好著である。
公電によると,改定日米安保条約批准案の国会提出時期について「外務省と自民党の情報源」が在日米大使館側に「(1959年)12月開会の通常国会まで遅らせる決定をしたのは,最高裁が砂川事件の判決を当初予定されていた晩夏ないし初秋までに出せないことが影響した」と示唆。「事件は延期の決定的要因ではないが,係争中であれば社会主義者らに論点をあげつらう機会を与えかねない」と述べていた。
今回公開された公電では,砂川事件の上告審で裁判長を務めた田中耕太郎最高裁長官が1959年夏,面会したレンハート駐日米公使に「(最高裁の)評議では実質的な全員一致を生み出し,世論を揺さぶりかねない少数意見を回避するやり方で評議が進むことを願っている」と語っていたことも明らかになった。
註記)以上『日本経済新聞』2013年4月8日朝刊「社会」2面。
日本の裁判所は実質,アメリカに従属した官庁組織でもあることを実証されている。ここでは,そのことを考えるための参考文献に,新藤宗幸『司法官僚-裁判所の権力者たち-』(岩波書店,2009年)を挙げておく。新藤の本書が説明するのは,国内問題である日本の「裁判所の組織秩序:内部統制」の構造と機能である。ところが,その上にはさらに,アメリカがどっかりと居すわっている。
敗戦後における日米間の従属関係を実現・維持させてきた日米安保体制という名の「国際政治的な上下関係」は,日本が「上目遣いに」アメリカのご機嫌ばかりうかがってきた『日本政府の対米従属』の《履歴》を蓄積させてきた。すでに古層になったともいえそうなその種の事実は,司法面においても存在していたのであり,しかも売国・国辱的に発揮されていた史実が,今回の米国立公文書史料によって,またもや暴露されたことになる。
21世紀になっても確実につづいている,日本政府側のアメリカに対する「このようなへっぴり腰」では,沖縄は永久にアメリカ軍のものになりかねない。沖縄県にあっては独自に,琉球独立運動が必要なのか?
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