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明治維新後,海外への侵略戦争に熱心になった大日本帝国が詰まって敗戦した事情,兵士の士気(morale)の問題

 今日,2023年7月7日からちょうど86年前の1937年「7月7日」,旧大日本帝国は日中戦争を開始した。さきの1931年9月18日に起こしていた「満洲事変」から,本格的な戦時体制へと戦争事態を進展させ,泥沼の戦争状態にはまりこむ侵略戦争になった。

1937年7月・8月,日中戦争の経過など
日中戦争が開始された現場


 ※-1「7月7日」はなんの日

 国土交通省は1996年度に,7月7日を「川の日」と定めていた。この7月7日を「川の日」とした理由は,以下のとおりである。

 地方公共団体,川に関するNPOなどに幅広く「川の日を」契機とした河川に関する諸活動の推進を呼びかけ,河川と国民とのかかわりとその歴史,河川のもつ魅力などについて広く,国民の理解と関心を深めるような各種行事,活動を実施する。

 企業関連に尋ねてみると,飲料のカルピスが1919年7月7日に,販売を開始されていたとの由。この時のカルピスは,現在の薬用養命酒のような下膨れのビンで,ミロのヴィーナスが描かれた紙箱の包装だったという。すでに100年以上も飲用されているが,日本が独自に開発した製品といえる。

 ところで,「7月7日」そのものの説明は,どのようになされているか。「七夕(たなばた)」と呼ばれる日であるが,ここではつぎのように記述してみたい。

 明治以来,天皇家(天皇・天皇制)の価値観が押しつけらることで,つまり「歴史の創作作業」によって歪められた面をもつ「五節句・五節供」は,以下のもの,その月日であった。

 人日(じんじつ)(1月7日)-人の日という名称だが,七草粥が有名-
 上巳(じょうし)(3月3日)-ひな祭り-
 端午(たんご)(5月5日)-男の子の成長を祈る-
 七夕(しちせき)(7月7日)-星祭りとも称される-
 重陽(ちょうよう)(9月9日)-不老長寿を願う-

 なお,1月7日を除いて同じ奇数が重なる日であり,1月1日の元旦は別格とされ,その代わりとして1月7日が節句に取り入れられている。

 とくに,旧大日本帝国軍が七夕に引っかけて日中戦争を起こしたなどとは思われないが,たまたま覚えやすいこの7月7日に,日本は中国相手に侵略戦争を始めていた。
 

 ※-2『日本経済新聞』2023年7月7日朝刊1面「春秋」

 七夕である本日,『日本経済新聞』朝刊1面のコラム「春秋」は,つぎのように語っていた。

 私事で恐縮だが,俳句が趣味の母のノートに,「七夕やくつろぐ夕べ盧溝橋」と記されていた。駄句で,才能ナシ,の類いだろうか。でも,「七夕」と「盧溝橋」の取り合わせが,妙に気になる。どんな情景を吟じたのか。尋ねてみると,遠い日の記憶を語ってくれた。

 ▼ 1937年の春。彼女は父親の転勤で千葉から東京に引っこし,小学校に入学した。その年の七夕のこと。卒園した千葉の幼稚園の優しい先生が短冊や飾りつけを東京の自宅に郵送してくれた。うれしかった。玄関前の笹竹に願いごとを書いてくくりつけた。その何日かあと。ラジオから「ロコウキョウ」という言葉が流れた。

 ▼ 日中戦争の発端となった銃声は,86年前の7月7日の深夜に鳴りひびいた。宣戦布告なき「事件」は泥沼化し,多くの人命が失われた。歴史は繰り返すのか。ロシアのウクライナ侵攻と,日中戦争の類似性を指摘する学者もいる。大日本帝国の傀儡(かいらい)政権である満州国とロシアが併合したクリミアは似ている。そんな見立てだ。

 ▼ 人びとの願いが,成就しますように。東京都港区の増上寺で今日,七夕の催しが営まれる。昨日,お寺を訪ねると,色とりどりの短冊に,こんな祈りがいくつもあった。「明るい平和な未来を」「戦争が終わり,皆が笑顔で幸せに」。外国人訪日客の一団もペンを走らせていた。星に願いを,の思いは共通なのだろう。(引用終わり)

 「ロシアのウクライナ侵攻」と「日中戦争との類似性」はないとはいえないにしても,この点にはやや強引な解釈になっている。歴史の舞台状況が「似ている」からといっても,地政学的にあるいは民族問題のからむ戦乱として類似させうるか疑問が,大きく残る。

 コラムを書くために文章を書くためだはといえ,無理くり日中戦争と「プーチンのロシア」によるウクライナ侵略戦争を同じ土俵の上に載せられるか,首をひねたりくなった。気安い比較論になっていた。ともかく,今日のコラム春秋の文章の比較論は,コジツケ感がないとはいえない。

 ※-3「日中戦争における日本軍兵士の士気」はどうあったのか,これを考察するのが本日の記述の眼目である

 戦争などやる気の出ない庶民を軍隊に駆りだし,遂行していた泥沼の戦争過程のなかで,「天皇陛下万歳などとはいわないで死んだ多くの兵士たち」がいた。

  藤井忠俊『在郷軍人会-良兵良民から赤紙・玉砕へ-』2009年という著作があった。

 1) 日中戦争(支那事変)に動員された兵士たちのこと

 藤井忠俊『在郷軍人会-良兵良民から赤紙・玉砕へ-』(岩波書店,2009年11月)は,いままではどちらかいうと手記や自叙伝のなかに記録されてきた日中戦争〔日本側の呼称では「支那事変」〕に動員・派遣された将兵たちの〈本当の気持〉に関する論及がある。

 日中戦争は,当初「北支事変」と呼ばれたあとすぐに「支那事変」と呼ばれなおされた。これは正規の戦争ではないという意味がこめられていた。ところが,日中戦争が1937〔昭和12〕年7月に始まるや,同年中の後期に動員される兵士は93万人にも達した。現役兵33万6千人に対して,開戦後の召集兵は59万4千人であった。

 召集兵は,充員召集であれ赤紙召集であれ在郷軍人たちである。いざ動員になると補充兵として召集された兵,さらに予備役・後備役も召集されて,開戦のため召集された者の比率ははるかに現役よりも多くなる。

 日中戦争の場合,1937年7月以降に召集された者は,現役在営中の兵たちの2倍近くであった。その年の7~8月中の召集は,当時3千から4千人規模の村ほとんどから30人以上の召集兵を出したゆえ,町村内の人びとにいかに衝撃を与える騒ぎになったかが分かる(藤井『在郷軍人会』282頁)。

 2) 召集兵は弱兵であった

 ところが,その召集兵は一般論でいうと軍事作戦およびその統制においてきわめて有用だとはとらえられていなかった。彼らはみな生活者であって,妻子のある者も多い。彼らが妻子との別れのとき,たとえ天皇陛下のためでも死なない暗黙の了解と誓いがあった

 表立ってはそういう態度は非国民だといわれかねない時代と環境であっただけに,いまの視点からはかえって生活者の立場に即して理解する必要がある。

 ともかく,昔から召集兵は強兵ではないというのは軍隊指揮者たちの常識である。日中戦争はそれを現実にみせていた。彼らを集めた特設軍団は戦闘の主力として使えるのか,未入営補充兵〔徴兵時に現役兵にならなかった軍隊未経験者〕を,どのように訓練して戦争に間に合わせるか。

 上部は作戦の当事者から現場の指揮官に至るまで,当惑が渦巻いていた。ましてや動員された本人たちの困惑はいうまでもない(283頁)。

 以上の藤井の話から少し横道に入る。

 先日のテレビ番組で,太平洋戦争から生きて帰ったアメリカ兵たちが,死んだ日本兵からえた〈日章旗〉の寄せ書きには,そのすべてにといっていいくらい「武運長久」の4文字が,それも中心の位置あるいはめだつところに大きめの文字で書かれていた。

日章旗寄せ書き,これには大勢が寄せ書きしている
昭和19〔1944〕年8月という日付が別紙メモとして
左上に置かれている
 
日章旗に武運長久という文句だけが墨筆されている
左側に氏名のある3人が神社参りをして
武運長久の祈願をおこない
出征する兵士「金子八郎」にもたせてたものと思われる
金子も多分,神社に同道していたとも推察される
最初の日章旗・寄せ書きと同類だが
これは日の丸の赤を主軸・中心にし
このまわりに記名している
これは自分自身で神社に出向き
宮司などに書いてもらったものに思える

 基本的にはきっと,日章旗を用意したときまず最初にこの4文字を書きこみ,そしてつづいて近所や知り合いの人たちからの寄せ書きを,たくさんもらう形式が多かったものと思われる。問題はこの「武運長久」のもつ深遠なる意味である。

 3) 露営の歌:1937 年8月

 武運長久の本当の意味を, “勝って来るぞと勇ましく” という出だしの文句で始める「露営の歌」(作詞藪内喜一郎,作曲古関裕而,1937〔昭和12〕年8月)を手がかりに考えてみたい。

 この歌は,日中戦争の開始後すぐに作詩・作曲され,制作・発売されたレコードである。発売6ヶ月で60万枚を突破する,レコード界始まって以来の売上を記録した。

 一番 勝つて來るぞと勇ましく
     誓つて故郷(くに)を出たからは
    手柄立てずに死なれうか
     進軍喇叭(らつぱ)聽く度に
    瞼(まぶた)に浮かぶ旗の波

 二番 土も草木も火と燃える
     果て無き曠野(くわうや)踏み分けて
    進む日の丸鐵兜(てつかぶと)
     馬の鬣(たてがみ)撫(な)で乍(なが)ら
    明日の生命(いのち)を誰(たれ)か知る

 三番 彈丸(たま)もタンクも銃劍も
     暫(しば)し露營の草枕
    夢に出て來た父上に
     死んで還れと勵(はげ)まされ
    覺めて睨(にら)むは敵の空

 四番 思へば今日の戰鬪(たたかい)に
     朱(あけ)に染まつてにつこりと
    笑つて死んだ戰友が
     天皇陛下萬歳と
    殘した聲(こゑ)が忘らりよか

 五番 戰爭(いくさ)爲(す)る身は豫(かね)てから
     捨てる覺悟で居るものを
    鳴いて呉れるな草の蟲
     東洋平和の爲ならば
    何の命が惜しからう

 YouYube でも視聴できるが,何人もの,それも懐かしの歌手がこの軍歌を歌っている。この歌の基底に流れているのは,軍人勅諭の「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ」という一句に表わされていた「日本帝国軍人に要求された愛国精神そのもの」である。

 ともかく帝国軍人として「死ぬことを覚悟せよ」と,なんどもなんども,執拗に繰りかえしている。1

 番「死」→2番「誰が知る」「明日の生命」→3番「死」→4番「死」→5番「捨てる」「何の命」というふうに,「死」を合理化し,当然視し,要は覚悟せよという歌なのである。

 「国家のための〈死〉」をそのように強く迫ってやまない歌詞であった。

 軍人が「手柄」をたてるときは,相手の敵を殺すことを意味する。自分とて逆に,敵に殺られるかもしれない。だから,自分の「あすの生命」など気にするなといい,健気にも父も〔靖国神社に〕「死んで還れ」ともいう。

 また,戦場で血を流して倒れた戦友が「にっこり笑って死んだ」のは,日本軍人として「かねてから捨てる覚悟でゐるもの」であるから,当然である。「なんの命が惜し」いものか,そう必死に強がって歌っている軍歌である。

 4) 日章旗に書かれた武運長久の文字

 しかし,いまの時代からいえば「露営の歌」の歌詞は全部,タテマエだけの嘘っぱちであった。あらためて「武運長久」の意味を考えよう。その字義は「武人としての命運が長く続くことであり,出征した兵士がいつまでも無事でいること」である。そうだとすれば「露営の歌」に表現され意味されている「死」に反する含意が,この武運長久の4文字には力強く,しっかりとこめられている。
 

 ※-4 日中戦争の戦いに動員されたお父さん・お兄さん・おじさんたち

 1) やる気のない特設師団の兵士たち

 日中戦争が始まると在郷郡人がつぎつぎと大量に召集される。この召集では「補充兵」と「予備役・後備役」という2種類があるが,在郷軍人会は当然,後者の現役を終えた者たちで構成されている。だが,この戦争は補充兵役も召集がかかったために,この入営経験のない補充兵への対策が,陸軍の動員当局にとって問題となった。

 前項の 2) のように,1937年7月下旬から8月にかけておこなわれた充員召集・臨時召集は,全国の町村を揺るがした。最初の動員に続いて,戦闘が始まるとさらに補充のための動員がおこなわれるようになった。

 それとは別に新たに師団を編制しなければならなくなった。そのために,予・後備役を主体にした師団編制がおこなわれ,中国の戦場に送られた。当時,特設師団と呼ばれた後備師団がいくつも編制された(283-284頁)。

 ところが,この特設師団の戦力に不安がもたれていた。中国に派遣されたこの師団に関しては,兵士や一部の幹部が「戦意を失っている事実」が嘆息される始末であった。

 戦闘員としての士気に欠け,実戦のなかでその弱点・欠陥が出ていた。指揮官は「急造の特設師団の兵の士気について」苦渋を嘗めさせられていた(285頁)。

 東京,埼玉,千葉,神奈川,山梨の各県の新聞は郷土部隊の奮戦を連日伝えたが,訓練なしでいきなり最前線に投入されると苦戦の連続であったようである(285頁)。

 出征直前,第101連隊の軍装検査を視察した参謀本部作戦課の井本熊男大尉は『年寄りの集まり,皆一家の大黒柱で,これでは・・・と思った(『作戦日誌で綴る支那事変』芙蓉書房,1978年)と回想していた」(286頁)。

 2) さらに兵力が不足していった中国戦線

 泥沼の日中戦争であった。当初投入された主力部隊が苦戦し,損害も多大であって,兵力を急速に消耗していった。作戦指導部の予想をはるかに越えていた。その補充は出身県ではまかないきれず,他県から召集されるに至った。

 そのために予・後備役兵だけで新設された特設師団も生まれた。ほかの第一線で前進を始めた師団では,失われた兵を補充するため第一補充兵・予備役兵・後備役兵がつぎつぎと召集され,前線に投入されていった。そのなかからも少なからぬ戦死傷者が出はじめていた(286頁)。

 1937年も8月に入ると,在郷軍人会は未入営補充兵の軍事教育を最重要の事業にすることになった。以後,ことあるごとに在郷軍人会は未入営補充兵の教育が急務であり,第1義であると指示を重ねることになった。

 12月に南京の陥落をみたものの,中国が降服するわけもなく,戦争は終わりのない長期戦の様相を呈するに至った(287頁,286頁,288頁)。
 

 ※-5 戦場における軍紀の緩み,帰還兵のわびしさ

 1) 歴史研究家の研究不足を隠した記述部分

 日中戦争における軍紀の関係で応召兵を語れば,徴発・強姦の多発については既婚者を含む世慣れて手際のよい応召兵に多かったという〈感想〉がある。南京虐殺事件に限定しても,南京攻撃に参加した日本兵に応召兵が多かったからだと〈説をなす人〉もいる。

 これは検証不可能であるが,応召兵たちがことに苛酷であった上海から南京への作戦行動ですさんだ心理になっていたことは〈推測できる〉。といっても,そこに〈因果関係があるわけではない〉(289頁)。

 藤井は以上のように,南京虐殺事件に至る日中戦争初年の出来事に関しては,自身の研究において学術的な根拠が十分に与えられていないかのように慎重ないいまわし,および限定づけを逐一付加する記述をしている。それも,日本兵の乱暴狼藉ぶりを因果関係の〈果〉の側面から語るだけで,けっして〈因〉の側面との突き合わせ作業まで手を付けていない。

 その種の因果関係を赤裸々に告白する旧日本軍人たちの手記・自叙伝はいくらでも公表・刊行されているからには,これら文献を数十冊単位で藤井が研究者として読みこなせば〔そうしているはず?〕,前段のように〈感想〉だとか,〈説をなす人もいる〉だとか,〈検証不可能〉だとか〈推測できる〉だとかいって済ますのは,日本近現代史・民衆史研究者の立場における「自分の研究不足」(追究の不足!)をあえて正直に暴露するものといえる。

 --本ブログ筆者の本棚から関連の書物を,適当に抜きだしてみる。

 ☆ 神吉晴夫編『三光-日本人の中国における戦争犯罪の告白-』光文社,1957年。

 ☆ 中国帰還者連絡会編『私たちは中国でなにをしたか』三一書房,1987年。

 ☆ 桑島節郎『華北戦記-中国にあったほんとうの戦争-』朝日新聞社,1997年。 

 ☆ 新井利男・藤原 彰編『侵略の証言-中国における日本人戦犯自筆供述書-』岩波書店,1999年。

 ☆ 東 史郎『東史郎日記』熊本出版文化会館,2001年。

 ☆ 星 徹『私たちが中国でしたこと-中国帰還者連絡会の人びと-』緑風出版,2002年。

 ☆ 井上俊夫『初めて人を殺す-老日本兵の戦争論-』岩波書店,2005年。

 ☆ 笠原十九司・吉田 裕編『現代歴史学と南京事件』柏書房,2006年。

 ☆ 笠原十九司『「百人斬り競争」と南京事件-史実の解明から歴史対話へ-』岩波書店,2008年。
 
 ☆ 波多野澄雄・中村元哉編『日中戦争はなぜ起きたのか』中央公論新社,2018年。

関連文献

 なかでも,笠原十九司の「百人斬り競争」と南京事件-史実の解明から歴史対話へ-』2008年は,虚実とりまぜられた「百人斬り競争」問題を徹底的に調査・検証している。日中戦争に関しては歴史学の研究書のみならず,この戦争に参加させられた日本の庶民たちも無数の自著を公表している。

 しかし,歴史研究家が,自身の当該論点に深くかかわるこれら文献を直接活用しているようにみえない藤井『在郷軍人会』は,日中戦争時代の論題をかかげながらも,日本側の在郷軍人会に関する国内問題に閉塞した論及しかなしえていない。

 それでも在郷軍人会の研究が十全になしうるならば,格別に注文を付けようとは思わないけれども,肝心な記述部分については明らかに究明不足を実感させられる。この点は,近現代史・民衆史を研究する論者の立場として要検討である。

 要は,在郷軍人会の問題は,日本国内の民衆史として論理完結的に歴史研究をなしうる研究対象であるのか,という素朴な疑念を提示しておく。

 藤井忠俊はすでに,自著に『兵たちの戦争-手紙・日記・体験記を読み解く-』(朝日新聞社,2000年)をもっている。いったいどのような読み解きかたをすると,前述のように「疑わしきは触れず」的な解釈論を前提とする学術的な記述に留められるのか,なお不可解さを残している。

 2) 藤井『在郷軍人会』のみえにくい「後ろ向きの,自民族をかばうような歴史観」

 藤井『在郷軍人会』の本文に戻ろう。

 藤井『兵たちの戦争』は,戦場における徴発に問題を解く鍵を求めえたと述べている(289 頁)。

 要は,兵站軽視・補給無視を基本戦術にもしていた旧日本軍は,そもそも上層部の意識においてその「徴発」問題を軍紀違反になしえなかった事実に触れている(290頁)。

 火野葦平『麦と兵隊』(改造社,昭和13年)も「軍の検閲でも」「略奪行為はむしろほほえましいエピソードとして描かれ」,「軍紀の厳密なはずの軍が」「違反事項と考えていないことがわかる」(290頁)。

 結局「軍の検閲は徴発行為を許していたのか,あるいは基準がきわめて甘いことがわかる」。日本軍における軍紀のきびしさは「命令に関することを第1の基準においており,徴発や風紀にはかなり甘かったことがわかる」。

 「時にはその奨励ともいえる態度が内部的には風紀にかかわり,外部,とくに戦地住民に対しては悪い印象を与えている」。「しかも,徴発は日本兵の戦地での強姦に結びつくことが多い」(290-291 頁)などと,藤井は語っている。

 しかし,この程度の旧日本軍に関する認識は,中国戦線に限らなかった現実問題であって,格別,『在郷軍人会』という著作における固有の論点として語らせるまでもない史実であった。ともかく,日中戦争から帰還した兵士は「シベリア出兵の時の帰還兵の扱いも同じで」「きわめて冷たい出迎えであった」。「銃後の戦意昂揚に水を差すような実戦談をされては困るからである」という(291頁)。

 本ブログの筆者は,前段においてこう指摘した。藤井の論述は,日中戦争に派遣された日本兵の現地における乱暴狼藉ぶりをなるべく後景に退けて控えめにとらえておきたいらしく,その実態に関する認識に充てた修辞は前段のように,〈感想〉だとか〈説をなす人もいる〉だとか〈検証不可能〉だとか〈推測できる〉だとかなどを用いていて,あたかも過小に評価したいかのような歴史観を感じさせる。

 3) 厭戦気分

 藤井は司法省が発行する『思想月報』(第58号,昭和14年)に捕捉された日本兵たちの厭戦気分を紹介している。そこには,日本にいる家族を心配し,自分の命が惜しいことを思い,莫迦な目をみている自分たち兵隊の立場が嘆かれている。

 日中戦争のために召集されたのは,天皇のためとはいえうれしくもなく,戦線は本当に生き地獄のようである。兵隊ほど馬鹿なものはこの世にない。召集兵に突撃を銘じる将校は木陰に身を隠す者もいる。なかでも「銃後に残した妻子の貞操と健康状態である」(292頁)。

 こういうことであった。

 日中戦争が進行していくなかで,中国における「戦場の実態が赤裸々に語られるマイナスが当局者の心配事にもなってきた。悲観的になりそうな国民を一層激励し,非国策的言動は取締りと感化によって防止するという指導が行われるようになった」。

 「戦争が長期化するにつれて,軍指導者がもっとも気にかけたのは,戦場における兵たちの軍紀の乱れであった。帰還兵だけがしっていて,国民がしらないことである。これについては,戦後初めてみることのできた軍の機密文書で,戦地での軍紀違反が少なくなかったことがしられる。そして,報告書には現役兵にくらべて応召兵の違反が多いとの記述も観られる」(293頁)。

 1941〔昭和16〕年1月,有名な一句:「生きて虜囚の辱を受けず,死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と命じた『戦陣訓』が将兵に配られ,「皇軍意識」が高唱された。

 藤井はこの『戦陣訓』が「戦争末期の玉砕をもたらし,あまりに多くの兵たちを報われない死に追いやったのだ」と判断している(293-294頁参照)。この藤井の解説は,すなわち『戦陣訓』そのものが戦争末期の玉砕戦術をもたらしたといっている。

 しかしながら,旧日本軍における従来の兵事思想のなかにもともと求められるべき玉砕戦法の発生原因を追わない藤井は,将兵に配付された『戦陣訓』に直接的に玉砕思想の原因を求めている。これは短見と評されかねない解釈・論法である。

 ノモンハン戦争(1939〔昭和14〕年5月~8月)で敵の捕虜となり生還した将兵,それもとくに連隊長位に対して採った日本軍内部の態度は,どうであったか。自決を強要され,それにしたがった。

 4) 御身大事は誰でも同じ

 「天皇陛下バンザイ」は建前として教育された日本兵が,戦場で「かあちゃん!」といって死んだとき,現役兵のそれは「実の母」,召集兵のそれは「妻」を呼んだものと思われる。

 「戦地から家への手紙を見ても,独身者は母への思いを綴るものが多く,妻帯者は妻宛が多い」。とくに「召集兵には望郷の思いがきわめて強かった。戦況を書くよりも残された家族の身を案ずる文面に思いがこもっている」(294頁)。

 「日本軍の兵士は平均2年以上戦地に止ま」ることになった(295頁)。

 日中戦争における戦線は依然「点と線」しか確保できなかった。日本軍にとってまさしく「泥沼の戦争」であった。

 日本帝国は日中戦争を急に開始することになったとき,国力=経済力・生産力,いいかえれば,20世紀において総力戦となった戦争を遂行するための「軍事力としての国家的体力:耐久力」を始めから用意できていなかった。

 その戦争=「支那事変」が突発したさい,日本側は「中国なんか2カ月くらいで撃破する」と豪語した将軍もいた。けれども,奥深い国土を有するその国を相手にした戦争は,ただただ泥沼化の一途をたどるほかなかった。

 つぎは有名な話であるが,あらためて紹介しておく。

  「支那の奥地が広いと申すなら,太平洋はもっと広いではないか!」

 太平洋(大東亜)戦争を約3ヵ月後に控えた時期であった。1941年9月5日,杉山 元・陸軍参謀総長は昭和天皇に報告をしたさい,のちに有名になる会話を交わしていた。

 昭和天皇は,もしも「日米に事起こらば,陸軍としてはどれくらいの期間に片づける確信があるか」と聞かれて,杉山はこう答えた。「南洋方面だけは3カ月で片付けるつもりであります」と。
 
 補注)ここで「片付ける」とは,もちろん日本が対米戦に勝つという意味であったが,米日間における国力・生産力の大きな格差をしる者にとっては,暴論であった。

 海軍の山本五十六将軍は,日本は緒戦においては有利・優勢に作戦を展開できるが,1年単位以上の期間をかけて戦争が継続していったら,日本に勝ち目はないと分析・理解していた。

 山本は,こういっていた。「それは是非やれといわれれば,初め半年や1年の間はずいぶん暴れてご覧に入れる。然しながら,2年3年となればまったく確信はもてぬ。三国条約ができたのはいたしかたないが,かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」と。

〔杉山に戻る→〕 だが,昭和天皇の追及はきびしかった。「なんじは支那事変当時の陸相であるが,当時『事変は1カ月くらいで片付く』と申したことを記憶している。しかるに,4カ年の長きにわたっていまだに片付かぬではないか」と,指摘した。

 杉山参謀総長が「支那は奥地が開けていて,予定どおり作戦できませんでした」と弁解すると,天皇は声を張り上げてこう叱責した。「支那の奥地が広いと申すなら,太平洋はもっと広いではないか!」と。

海はひろいなおおきいな

 

 ※-6 日中戦争における中国内陸部への日本軍による空襲

 1) 重慶への空襲・日本への空襲

 日本軍は 1938〔昭和〕年12月2日,中支那方面軍に対して「敵の戦略中枢に航空攻撃をおこなう」指示を出した。その爆撃作戦は主に1939年から1941年の春から秋におこなわれ,投下した爆弾は1940年には4333トンに達した。

 爆撃目標は「戦略施設」とされたが,中国重慶の気候は霧がちで曇天の日が多く,目視での精密爆撃はむずかしかったために目標施設以外に被害が発生する可能性を回避できず,のちには完全な絨毯爆撃となった。

 中国側の資料では死者は計11,800人,家屋の損壊は17,600棟である。中国側においては防空壕の不足や,換気装置の不備による避難者の大量死などの事故もあり,多くの犠牲者が発生した。市内の実に8割が損害を受けたといわれている。

 蒋 介石は,重慶爆撃により戦争遂行能力の限界を感じて,爆撃の悲惨さを非人道的な無差別爆撃として強調,宣伝することにより,大国アメリカを介入させるための政治的な駆け引きに利用した。重慶爆撃の非人道行為としての側面が大きく扱われる原因も,ここにあるとされる。

 戦後,日中戦争において,中国内陸都市に対する戦略爆撃を実行した側として,日本軍の責任が東京裁判で弾劾された。

 そのほかにも,非人道的行為をおこなった当事者「日本」を非難する活動に材料として利用され,また,重慶爆撃と同じく戦時国際法で明確に禁止されている非戦闘員への無差別攻撃である東京や広島・長崎への爆撃が,重慶爆撃への報復であるとして正当化され,同じく非戦闘員を無差別に攻撃した,東京大空襲をはじめとした日本全土への無差別爆撃や原爆投下に対する非難を,相対化させる状況を与える要素となってしまった。

 註記)以上,フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』重慶爆撃を参照。

 ここまで論述がすすむと,1945年3月10日が東京下町大空襲の〈記念日〉であったことを,新たに想いだすことにならざるをえない。もっとも,その3月10日は,日本陸軍の記念日であったが。

 要するに,因果がめぐりめぐって一般庶民の戦争惨禍を,悪循環的に生んでいる。ベトナム戦争・イラク戦争でも一般庶民が,これらの戦争にくわわった国々の将兵とともに,数多く殺され傷ついている。

 藤井に関連する記述を聞こう。

 「日本軍が外征軍として中国大陸で一応軍事的勝利を収めている段階では,いま中国の市民が日本軍航空機の空爆にさらされているのとは逆に,中国からの空爆は考えられなかった」(297頁)。

 ところが,1945年という敗戦の年になるまでには,日本側がそうした「空爆の恐怖」に日夜脅えなければならない戦況に変化したのである。

 「空襲被害に対して国家賠償を求める裁判」が2008年に大阪地裁において起されていた。この裁判は,2007年に東京地裁において起こされた東京大空襲をめぐる訴訟につづくものである。日本国に住む市民としてのわれわれは,この歴史動向をどのように受けとめればよいのか?

 1945年3月10日東京下町大空襲は戦争が市民に与えた被害の一例にしか過ぎない。とはいえ,21世紀にいまにあっても,この出来事=悲惨・残酷を惹起させた戦争というものをあらためて沈思黙考する必要がある。

 2) 日中戦争の歴史的意味

 日清戦争は約1年間,日露戦争が約1年半であったのに対して,日中間の戦争は,満洲事変から1945年の日本の敗戦まで14年間,戦争が全面化した 1937年からでも8年間に及んでいる。日本近代における,もっとも長期間の戦争であった。

 日中戦争は,戦争の全期間をつうじて,ほぼ100万の兵力を常時中国に送っていた。その期間が長きにわたり,動員した兵力が大きかったために,私たちの周囲の従軍体験者をみても,その多くが中国戦場の経験者たちである。

 補注)現在進行中である「ロシアの侵略によって発生したウクライナの戦争」は,すでに1年と5ヵ月ほど経過している。いまの段階では正確に,両国における犠牲者(兵士のみならず一般市民)の数は把握しきれていない。

 ロシアは臨時軍事作戦だと称しながら,国力総体を挙げた戦闘行為に近い戦い方をしており,他方のウクライナはアメリカやNATOからの軍事援助によって,しぶとくロシアと戦っている。しかしともかく,戦いが長くなればなるほど,犠牲者はさらに増えるばかりである。

〔記事本文に戻る→〕 戦費の額も莫大であった。日露戦争が軍事費が20億円未満であったのに対して,1937年から1941年の対米開戦までの「支那事変費」だけで280億円,それ以後は「大東亜戦争」として一括されている軍事費が2220億円と,桁違いの額に達している。

 したがって,戦争が国内経済や国民生活に及ぼした影響も,かつてないほどの大きさであった。戦争への総動員体制によって,国民の消費生活はぎりぎりまで押しさげられた。食料・衣料をはじめとする日常生活の必需物資のすべてが不足し,戦争がすべての国民に直接おおいかぶさった。かつてない出来事であった。

 註記)藤原 彰『昭和の歴史 第5巻 日中全面戦争』小学館,1982年,12-13頁。

 そして,あの大戦争における〈最後の決定的な詰め〉として,日本の国民たちなどに向けて鉄槌のように下された戦争の手段が「日本全国への絨毯爆撃-一般庶民皆殺し空襲作戦」であり,広島・長崎への,人類の存在じたいを否定するがごとき原爆投下であった。

 こうした顛末を呼びこんだ日本帝国の最高責任者が,1975〔昭和50〕年秋,外遊から帰国したとき設定された記者会見で答えた文句が,以下のものであった。

 記者の質問 --『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが,このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。・・・また,陛下はいわゆる戦争責任について,どのようにお考えになっておられますかおうかがいいたします」。

 昭和天皇の返答 --「そういう言葉のアヤについては,私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから,そういう問題についてはお答えが出来かねます」。

 この返答のなかには,昭和天皇がだいぶうろたえた様子をうかがわせていたが,「エー,アー,ウー」などという苦しそうな発声がたくさん入っていた。

戦争という実態はコトバの綾

 そうか,3月10日東京下町大空襲も,あの不幸な戦争において「コトバの綾」みたいに起きた〈ソウイウ出来事〉だったのか。悲しい答えであった。本ブログ筆者は,その空襲の被災者をもつ家族の一員として,〈我慢ならぬ発言〉を聞かされた。

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