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「大手」新聞社と「財界・政界」御用達新聞社の世論調査とは,なぜ大きく政権支持率に大きな差が出るのか(前編)

 ※-0 冒頭での断わり

 本日の「本稿(前編)と(後編)」の標題になる記述は,2022年9月19日にいったん公表した文章のものであるが,本日分の記述は,新たに書き下ろした段落のみから構成されており,2年前の段落は明日以降につづけて再公表する手順にした。

 本稿前編じたいはいままで,その間,未公開のあつかいでお蔵入りしていた。当時からほぼ2年が経った今日,あらためて復活,再掲することにしたが,この中身に関しては,その時間の経過による違和感はない(陳腐化は生じていなかった)ことを確認したうえで,ここに再録することにした。また,本日は原文そのままではなく,必要に応じて補正や追論もくわえられている。

 最近は,大手紙を複数購読していなくとも,ネット上に各紙が毎月実施して発表する各新聞社の世論調査は,その新聞社を購読する契約をしていなくとも,つまり有料記事であっても,その調査の概要には接して読むことができる。とくに世論調査の結果を統計図表で表現したものの現物は,だいたい無料で接しうる。

 そこからの話となるが,各新聞社による世論調査の結果が,かなりの「差」を示すのは,当然のなりゆきみたいに理解されている。とはいえ,その差に関して発生していた「各紙間の世論調査〈結果の異同〉」については,ひとまず,いちおうは各新聞社なりの特徴(立場・イデオロギー)の正直な反映として理解することができる。

 統計学の調査手法(統計調査法)を適用してとなるが,世論調査は,これを各新聞社が実施する場合,設問方法の設計段階から,いってみればそれぞれに個性を創りだしている。それでは,この個性はいったいどのような方針を介して形成されているかというと,政治社会思想的な次元の問題としており慎重に「客観的に分析・評価しておく」余地があった。

 そこで,この記述は2年前の2022年9月時点に実施された「大手」新聞各社の世論調査に関してとなるが,要は,本ブログ筆者が現在購読する『毎日新聞』と『日本経済新聞』に報告されたそれぞれの,その9月世論調査を比較をしながら議論していくこととする。

 この『毎日新聞』と『日本経済新聞』とのあいだには,なぜそれほどまで政権支持率に大きな差が生まれるのか,という事実が注目されるべき論点になる。なお,以下から終わりまでの記述は本日,2024年9月15日時点のものであったので,念のため。

 繰り返しての断わりになる。本日の記述「前編」は実は,世論調査の問題にまはとりあげるに至っておらず,本日に書き下ろすことになった「原発の問題」を,別途さきに挿入する構成になった。

 全部の記述を1回分で公開すると,いつものことだがだいぶ長文になるので,今回は2回に分割した。そのために「世論調査の論点」は,当初の予定からはずれて,明日以降の記述にする構成に変更した。
 

 ※-1『毎日新聞』はまだまともに政権批判の立場(第4の権力的な見地)を,なんとか維持しているようには映る。だが『日本経済新聞』は,原発推進の立場をいつもブツブツつぶやくように,あたかも社是であったかのように報道する点からも察知できるが,まさしく「日本財界新聞」と呼ばれるべき経済新聞を発行している。

 『日本経済新聞』は,意識的と無意識的とを問わずいつも,原子力村の一員である自社の立ち位置から,原発に関連する記事の報道体制を貫いている。

 たとえば,つぎに紹介するのは,2024年9月8日朝刊1面の記事として報道された「再生可能エネルギー」関連の解説記事であったが,実をいってこの内容は,きわめて巧妙にいうよりは,ひたすらこざかしくも「原発の再稼働のみならず新増設まで唱えたい願望」を,それも全世界のエネルギー需給関係にまで牽強付会させたい気持ちを抑えきれないかのような調子で唱えていた。

原発教「信者」である法人として日本経済新聞社のいいぶんとしてだが
ここで「持ち腐れ」という表現を使用するのは

 日本の原発で未稼働なところが多い事実も
多分踏まえているつもりと推理する

 この記事冒頭「前文」に相当する段落は,これは絶妙だという以前に,ずいぶん馬鹿正直に「原発,万歳!」路線を「日経的な立場」から率直に告白していた。

 見出しは「再エネ,米欧持ち腐れ  原発480基分の電源未稼働 送電網に資金届かず」とかかげられ,本文の最初がこう記述されている。

 「世界が再生可能エネルギーへの投資を加速するなか,送電網不足が深刻になってきた。送電網に接続できず,運転を開始できない「持ち腐れ」の太陽光・風力発電は米欧だけで推計『原発約480基分』に相当する。脱炭素の壁になりかねない」

原発480基分の電源未稼働

 この文章は二重の意味で詐術的な修辞を駆使していた。送電網不足という現実問題と「原発約480基分」という文句とのつなげ方は,最初から確信犯的に誤導を狙い,期待したものでしかなかった。

 現在,この地球上では実際に稼働している原発は,世界各国すべてを足した総数で437基だと,一般財団法人日本原子力文化財団がとりまとめ,公表していた。その統計は,2020年1月1日現在における数値になるが,当時,世界の31の国(もちろん日本も含む)と地域でその437基の原子力発電所が実際に運転されており,さらには,39の国と地域で59基が建設中であり,82基が計画中となっている,ということであった。

 さて,上段に紹介した日経の記事は,送電網の不足で稼働させえない再生可能エネルギー領域におけるエネルギーの余剰が,米欧だけで電源未稼働分として「原発480基分」もあるのだと指摘していた。

 だが,そのいかにも大げさな修辞は明らかに,特定の底意あっての工夫になっていた。この修辞の標的は《グリーンウオッシュ》であった。また,日本のその関連事情には一言もふれていない点は,これはこれでやや不思議というか微妙的に珍妙だと観じられた。

 さて,そのグリーンウオッシュとは「環境配慮をしているように装いごまかすこと,上辺だけの欺瞞的な環境訴求」を表わすことばであった。つまり,安価な ”漆喰・上辺を取り繕う" という意味の,英語「ホワイトウォッシング」とグリーンとを合わせた造語なのであった。

 また,上辺だけで環境に取り組んでいる企業などをグリーンウォッシュ企業などと呼ぶ場合もあるというから,原発といった「炭酸ガス:CO2 」そのものは,原子炉内部で「核燃料に使って焚く分」工程にあっては,確かに原発事態はそれほど炭酸ガスは出さないし,地球温暖化に一見関係が薄い装置・機械であるかのように解釈できなくはない。

 ところが,いままでさんざんに「虚偽の解説」を重ねてきた前段のごとき日経記事は,本当のところ,原発とこの関連施設じたいが大いに炭酸ガスを排出させる装置・機械そのものであった事実や,あるいはまた,水を高温にまで暖め沸騰させたりあるいは加圧したりもして,電力生産のためにタービンをまわすためには,

 その原子炉内では,燃料〔の〕最高温度が約1475℃まで上昇するが,通常運転時の制限である主要な熱的制限値 1495℃」だとされている事実などに,十分に関心が向けられていなかった(もっとも,以上の説明内容じたいをまさかしらなかったとはいわせないが)。

 ところが,原子炉がいったん事故を起こしてしまい,制御が効かなくなると,例の作業「止めて,冷やして,閉じこめる」という基本作業が不可能になってしまう場合が,非常・緊急事態として発生する。この事態に対するとき,止める作業がなんとかできて,また閉じこめる作業もできたとしても,冷やせないままだと,そのあとは,もう一巻の終わり。

 その過程で,炉心融解にかかる時間は一般的には2時間程度といわれている。しかし,原子力基盤機構〔の関係者〕は,事故前に30分で起きるとしていた。しかもそのシュミレーションを動画でまとめられ公開されている。事実,そのとおりのことが東電福島第1原発事故では起きた。冷却水がなくなると最初の30分が大事故になるかどうかの分かれ目であった。

 註記)この段落は,「炉心溶融は30分で起こる」,http://www7b.biglobe.ne.jp/~atomiccafe/merutodaunn.pdf 参照。

 実際,日本でも2011年3月11日午後2時46分に発生した超巨大地震「東日本大震災」時における激震と同時に,その直後に発生した大津波によって,東電福島第1原発では,3基もの原子炉が溶融事故を発生させた。

 この福島第1原発の事故では1,3,4号機が水素爆発を起こしたため,大量の放射性物質が大気中に拡散し,さらには3号機は核爆発だったのではないかとの疑惑まで残された。この核爆発であったどうかについては,東電の関係者たちに訊ねたところで,答えるわけがない「きわどい問題」であった。

『朝日新聞』から借りた

 アメリカは,1979年3月28日に発生したスリーマイル島原発事故を,相当に深刻に受けとめており,その後における原発の新設に水が差されたがごとき状況が長らくつづいた。

 旧ソ連邦で,1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原発事故は,現在のウクライナの一部地域が完全に,人間の住めない廃地になった。もちろん,東電福島第1原発事故の周辺地域でも,同じ結末になった場所は出ている。

『しんぶん赤旗』2011年5月7日から
桃色の地域内では帰還困難地域が残った

 再生可能エネルギーは,原発という発電方式とは真逆の装置・機械である基本性格を有するのに対して,原発は原爆の兄弟分であったがゆえ,この兄弟,多少の仕組は異なってはいるものの,実際に事故を起こしたとなると,その結果がもたらす「災害」は「原発災害」だとみなせる。それはもうたいそう悲惨ななりゆきが現象することになる。それ相応により深刻かつより重大な事故が発生する。

 だいたいが,原子力という核燃料=《悪魔の火》を焚いて,たとえていうと,ただヤカンのなかの水を沸騰させたり,あるいはさらに高圧にした状態で,当該原発の装置である管の中を循環させて発電用のタービンをまわして電気を発生させている装置・機械としての原発である。

沸騰水型原子炉図解

 それゆえ,いざ事故が発生したりしてとくに「本体の原子炉」(圧力容器⇒格納容器⇒?まで)が溶融しはじめたら,それこそ数時間経ったあとからは,原発関連の施設全体まで破壊されることになる。

 そんなこんなで危険がいっぱいである原発(原子炉)が事故など起こしたとなれば,それはもう悲惨どころか,地球環境の大破壊がまた始まる。チェルノブイリ原発事故,東電福島第1原発事故はそのまがうことなき証左2例であったが,もうこの手の原発事故は絶対に起こしてはならない。というかどうしても起こせない,起こすわけにはいかない。

 それでいていま,世界中では送電網の建設・整備が追いつかず,そのために,再生可能エネルギーとして発電された電力が「原発480基分(もの未稼働)」相当のエネルギーとなって,有効に活用できていないと表現されていた。

 だが,このさいなにゆえに,「原発(ここでは通常,100万㎾時)1基」が「計算の単位:尺度」(つまり物差し的な基準?)にあてがわれ使用されねばならないのか,まことに不可解であった。というよりもそこには「特定の作意」がこめられていたことしか解釈できない。

 なにゆえ,LNGを焚く火力発電所での「発電機1基=100万㎾時」のほうでもいいはずだから,あえて「単位」の尺度(このことじたい実は「?」なのだが)に使い,「火力発電480基分」と表現しないのか?

 もっとも,こちらは炭酸ガスを出すからだ・・・・というリクツになりそうであるが,前段ですでに言及したように,原発のほうは「炭酸ガスを原子炉じたいからは発生させないけれども」,直に地球の環境を盛んに温めてきた事実に触れていないのは,均衡がとれていない話法。

 ともかく,盛んに「原発何基分」だという物差し的な表現(その発想)が使われているけれども,そもそもそうしたことばの使い方が奇妙なのであって,初めから無理を承知での比較を強行していた。

 だいたいがチグハグであり,もともと妥当性すらもてなかった,つまり,物差しとしての共通性を発揮しうる『尺度性』を,根本の原理的思考からして欠いた「原発何基分」という用法を盛んに使いたがってきたのは,ずいぶんケッタイな,つまり非科学的な姿勢であった。

 たとえば,ここにある「樽のなかに入れてある酢の量は,醤油の180リッター分だ」と表現しようとするに似ている。とはいっても,「酢のほうも180リッターであるに過ぎない」のだから,このような比較をいちいちしたところで,なんの意味のない表現のからまわりにしかならない。むだで不要な表現をもちだして,なんの意味があったというのか。

 補注)ここまで来て思いだしたが,9月27日に実施される自民党総裁戦では最有力候補と目される小泉進次郎の話法が参考になる。もっともこちらの「世襲3代目の政治屋」君は繰り出した言語の意味が,同義反復的でありながらトコトン不明瞭であった。

 要は,「原発は大いに必要だ」というプロパガンダのために,ともかく,なにがなんでも原発何基分がどうだこうだという表現を採っていた。もっとも,再生可能エネルギーの普及を,土台から妨害してきた最大の電力生産方式がほかならぬ原発なのだから,そういった種類の修辞をもちだしたところじたいが,お門違いであって。こうなると笑うに笑えないほど,その用法の暗愚性には恥じ入る。

 結局は,「まやかしの説法」というか,「はぐらかしための口舌」というか,「めくらましを狙った小細工」であって,単なるオタメゴカシみたいな「原発万歳!」のための東大的話法が,まかり通らねばならないかの様子だけならば,鮮明に浮き上がっていた。

 なかんずく「原発何基分」という修辞は完全に『印象操作』であった。そのように説明する以外,実質面に関しての合理性の意味が汲みとれない。だから,まともな説明になっているわけすらありえなかった。

 前段で引用してみたがもう一度繰り返すが,

 「送電網に接続できず,運転を開始できない『持ち腐れ』の太陽光・風力発電は米欧だけで推計『原発約480基分』に相当する」

 という記事は,なぜ,ここに原発の発電量総計が480基分という分量で区切るかたちで登場させられたのか,という疑問を沸騰させていた。再生可能エネルギーがその分,本来的に利用できていたら,そもそもその480基という原発の数など,もともともちだすゆえんなどありえないし,どだい無縁のそれでしかなかった。

 そもそもの話,世界中の原発をいま仮に2倍にまで増やしたら,大事故を発生させる原因が,確率論的に増大していく事情のほうを恐怖することに,もっと神経を費やさねばならなくなる。

 畑村洋太郎という元東大教授は,「失敗学」という独自の構想を提唱し,「失敗をしたこと」で,そして「その原因分析してくこと」で,失敗が回避できると主張した。そして,この失敗学は「原発の失敗問題」に応用できるとまで,得意になって立論していた。だが,この失敗学は,最初から大失敗したも同然の論理的帰結に逢着するほかないことに,当人が気づかなかった点にこそ原初的な蹉跌が隠されていた。
 
 旧ソ連邦で起きたチェルノブイリ原発事故(1986年4月)と,この日本で起きた東電福島第1原発事故(2011年3月)との顛末を思いだしてみればよいのである。この程度の原発大事故がこの地球上のどこかで,さらにもう一度発生するとしたら,それこそ世界中の人びとはどう感じるか,どう思うか?

 こんどこそ,原発はもうこりごりだということにならないか? 

 チェルノブイリ原発事故は,放射性物質をヨーロッパ地域にも相当な範囲にまで,しかも深刻な汚染をもたらした。東電福島第1原発事故は不幸中の幸いで,放射性物質の,おそらく3分2以上は太平洋上に流れた。ヨーロッパに多い内陸型ではない海岸型の原発ばかりである日本の場合は,その点,実際に起こしていた「原発災害」が過少に評価されている。

チェルノブイリ原発の立地場所
チェルノブイリ原発事故汚染図

 戦争での原爆(核兵器)の使用も,産業や生活のために稼働させる原発もいざ事故を発生させたとなるや,トンデモなく深刻で重大な現象が目前で繰り広げられる。この地球上で核戦争が本当に始まったときは,どうなるか?

 戦争用の原爆使用ではなく,電力生産のための原発の大事故が,仮にも出三度目として本当に起きたら(絶対に起きないと100%確信できる人はいるわけがない),その国内のその地域と周辺の人びとの生活は終焉を強いられるといった,いままでの人類史において新しい災害形態の害悪も,3例目の発生となる。

 (以上,2024年9月15日に書いた追論である)
 (以下から,2024年9月19日の記述を再掲する予定であったが)
 (本日はひとまずここまでの記述としておきたい)
 (本稿は「前編」となり,「後編」は明日9月16日以降に記述する)
 (「後編」はできしだいここに( ↓ )にそのリンク先住所を指示する)
    ⇒ https://note.com/brainy_turntable/n/n5e86c8dc4a12

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