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社会科学方法論-高島善哉の学問(7)


 「本稿:社会科学方法論-高島善哉の学問」は,2023年6月15日に公表し,その後,本日の「本稿(7)」まで間が空いていた。この「本稿(7)」の初出は2014年11月20日であり,2020年2月27日に更新されており,本日さらに改訂しながら書きあらためることになった。

 「本稿(7)」はつぎの要点をかかげておきたい。

  要点:1 高島善哉の社会科学論における風土の概念

  要点:2 現代の社会科学方法論は,高島善哉を超えられないのか?

 「本稿(7)」は前項においてとくに記述の対象となった, 「風土に関する八つのノート」に関する高島善哉の一連の議論を,さらににとりあげ検討する。
 

 ※-1「風土に関する八つのノート」1966年〔その2〕
      -第2のノート:3つの風土理論と第4の試み-

 高島善哉『現代日本の考察-民族・風土・階級-』(竹内書店,1966年)に関して,本ブログの筆者がとくに注目した「論点=風土」は,同書の「9.風土に関する八つのノート」(236-291頁)であった。

 もちろん,その章以外においても高島善哉が〈風土〉の概念についてなんどか関説する点は,前回の「本稿(6)」で言及してみた。

 この「本稿(7)」はくわえて,高島善哉が「本論に据えていた〈風土の問題〉」を,さらにどのように議論していたか,くわしく論及してみたい。

 1)「風土に関する八つのノート」-第2のノート:3つの風土理論と第4の試み

 「プロレタリアートは祖国をもたない」 風土理論は階級と民族を結びつけるための理論でなければならない。これは《高島善哉の根本思想》である(243頁)。

 ローザ・ルクセンブルクがとりあげられていた。高島善哉はこうかたっていた。

 歴史と社会の場における「行為主体である階級」の役割にのみ目を奪われて,この階級主体のうちに内容されている〈ナショナルなもの〉の意義づけを怠るならば,この階級主体はやはり警戒すべき抽象をあえてしたことになる。

 「真に主体的な立場」は,いわゆる主観主義と客観主義の統一であることは,ルカーチやローザ・ルクセンブルグ,トロツキーなどが示した教訓から汲みとられるはずである(244頁)。

 本ブログの筆者は,ここまでの議論で早くも高島善哉には疑問を呈しておきたくなった。まだ高島の引用が始まったばかりの段落ではあるが,以下にしばらく,そのための批判的な分析をおこなっておきたい。

 前段の記述にあった「〈真に〉主体的な立場」という口吻に観てとれる《規範的な修辞》は,すでになんどか指摘してきた高島流の「〈正しき〉☆ ☆」「〈正しい〉◇ ◇」という語法と同類であった。これについては最初に,社会科学者が使用する「表現・修辞・形容」としては慎重であらねばならないと,重ねて批判しておく。

 高島の場合,すでになんどが摘出してきたように「正しく認識しなければならない」「正しい見方(観方)」「正しき理論」「正しき階級観」「正しき軌道」というごとき形容の字句が,当然の用法であるかのようにたびたび用いられていた。これは,高島による「社会科学論」の議論展開,いいかえれば《彼の学問的な価値観》が表出させた基本的な語句・用法である。

 社会科学の学問の見地,理論の立場にとって〈価値判断〉の問題そのものは不可避であるからには,むしろそれへの「対処の態度」,このあり方がより重要となる。

 1962年発刊の著作であったが,編者代表井吸卓一『現代のイデオロギー 第5巻 現代日本の思想と運動 その1』(三一書房)は「思考方法というものは,どのように抽象化されてもつねのその背後に一定の価値意識を前提するのであって,これと切りはなしてはその機能そのものも形骸化される」(同書,9頁)と警告していた。

 2)「正しい」「真の」という表現の問題性

 ここでは,「社会科学方法論-高島善哉の学問(4)」(2023年6月13日)における議論も思い出し,当該の論点をあえて蒸しかえしてみる。

 「正しい」とか「真の」とかいった「修辞⇒用法」は,科学方法論としてはまずもって要注意であった。学問研究にたずさわる者は,そもそも,誰もが「正しい」「真の」思想や立場,正確にいえば「より正しい・より真に近い」現実理解に到達するための本質論・方法論を樹立・確保したいと希望するし,そのための努力も絶えずしているつもりである。

 だが,始めからその「正しい思想にもとづく本質理解」や「真の立場に裏づけられた方法」が与えられている者は,誰1人としているわけではない。にもかかわらず,この「正しい」とか「真の」いう表現を常用しているうちに,いつのまにか,自分自身だけは「正しい・真の思想」の見地に立ち,「正しい・真の立場」の方法を使い,「正しい・真の方向」に接近をしていると,出立点にいながらも思いこみがちである。

 本ブログの筆者は,こう考えている。社会科学の研究に従事する人間は,そのような「正しさ」「真の」という修辞にまつわる用法に慣れすぎてはいけない。この「正しい」「真の」という〈ことばの意味〉のなかには,間違いなく危険が潜んでおり,陥穽が待ちかまえている。

 いいかえれば,その「真の」「正しさ:目標」に向かって学問が努力する途上において,この「真の」「正しさ」にことじたいにこだわり過ぎる仕儀とあいなれば,かえって,その「より真の」「より正しい」方途に向かおうとする努力じたいが,必然的に自己目的化しまい,学問論の入口で早くも自縄自縛になりかねない。

 3) なぜ,高島善哉「社会科学」論には「正しい」という修辞が登場していたのか

  a)「正しい」という修辞は,本当にいつも「正しい」それでありうるのか? 高島はいずれにせよ,とりわけ「正しい(正しき)」という修辞をしばしば好んで使用してきた。高島がいいたかったその真意は多分,こうではなかったか?

 学問の展開においては「現実の世界に向かってより精緻に肉薄し徹底的に分析できる思考の枠組を提供しなければならず,そのために必要な思想および立場を確立しておくための,恒常的な精進が不可欠である」。

 そのさい,付随的にであったとしても,高島善哉の価値観の背景を示唆するかのごときに,重要な修辞として「正しい」〔ときに「真の」〕という文句が,頻繁に使用されてきた。

 上岡 修は,視力をなくした高島善哉の助手を務めてきた人物である。2010年に『高島善哉 研究者への軌跡-孤独ではあるが孤立ではない-』(新評論)を上梓している。本書は高島の人生を素描した好著である。

 高島の指導教授であった福田徳三が「高島はマルクス・ボーイだ。あれじゃ困る」とレッテルを貼って」いた(同書,119頁)。とはいえ,この事実「高島=マルキスト」は肯定的に認められる点であった。
 
 ここであえて断わっておくが,高島善哉の若き時代にあっては,社会科学者がマルクスに学ぶことは〈常識的な流行〉に属することがらであった。したがって,福田徳三のように高島を「マルクス・ボーイだから困る」と非難したかのような発言を聞いたからといって,とくに大正時代後期・昭和初期における日本の諸学界がどのような実態にあったかについて正確に理解する努力を怠るわけにはいかない。

 補注)ここではつぎの引用をして補足する。

 当時は知識人・学生のなかでマルクス・ボーイと呼ばれた左翼の台頭があり,論壇哲学を非実践的なものとして十派一絡げに裁断する傾向があった……。西田の晦渋な文体のせいもあり,西田哲学の実践的な意義をきちんと評価できるだけの読解力をもっていなかった。

 とはいえ,例外として梯 明秀のように西田哲学からマルクス『資本論』を解釈して,経済哲学を構築しようとしたマルクスボーイもいた。戦前の唯物論研究会の機関誌『唯物論研究』で西田哲学を賛美する論稿を載せたのは梯 明秀だけであった。

 私〔上岡 修〕は戦後1971年に立命館大学大学院文学研究科哲学専攻で,梯 明秀先生のゼミを受けたが,彼〔梯〕はマルクスの1844年の『経済学・哲学草稿』の論稿を西田先生にみせたということを繰りかえし自慢していた。

 実際,西田幾多郎は個人の人格の意義を軽視する当時の左翼や共産党には反発していたようであるが,マルクスの実践的唯物論には親近感を抱いていたようである。

 「夜更けまで又マルクスを論じたり,マルクスゆえにいねがてにする(ねむられない)」

 この西田の歌は,当時の西田邸には,三木 清や戸坂 潤をはじめとして左派的な傾向をもった研究者や学生が訪ねてきていたことを伺わせる。
 註記)http://www46.atpages.jp/mzprometheus/philosophia/3434  この出所は現在(2023年6月21日),ネット上には不明であるので,つぎの関連する論稿を紹介しておく。参照に値すると判断した頁からは,その一部分の段落を画像資料で紹介しておく

 上岡 修「高島善哉の『経済社会学』への旅立ち-学問的世界の形成過程を探る-」『成城大學經濟研究』第159巻,2003年1月。

高島善哉の学問観,その背景

 『高島善哉著作集 第1巻 初期経済学論集』(こぶし書房,1998年)に収録された高島の助手論文「生態的経済学止揚の方法」は,最後部に「5 マルクシズム経済理論の客観性」を置いていた。この助手論文は「それまでの自分の経済学に対する見方を『清算』し,新たな学問的立場の確定に歩みだした」「高島にとって転換点をなしていた」と位置づけられている(上岡 修『高島善哉 研究者への軌跡-孤独ではあるが孤立ではない』新評論,2010年,123頁)。

  b)「上岡 修の解説」 上岡 修は,渡辺雅男編『シンポジウム 高島善哉-その学問的世界-』(こぶし書房,2000年)に「高島善哉の政治活動への関わり-新たに確認された資料と党との関係について-」という論稿を寄せていた。このなかでこう解説していた。

 高島は「マルクス主義の思想と科学」へと「思想的な転換」を遂げていった。彼は「それ以後,この道から離れようと思ったことは一度もなかったし,ひそかに(あの戦争の最中でも)動揺を感じたことも一度もなかった」と述懐したことがあった。昭和初年(1926年)は,高島善哉の精神史において決定的な時期でもあった(189頁)。

 1904年7月13日に生まれ1990年1月10日に没した高島にとって,1989年11月10日に始まった「ベルリンの壁崩壊(Mauerfall)」以後,この地球上に起きた数々の事象を観察し,さらに学問においてとりあげ議論することは叶わぬことであった。主要な社会主義国家の実質的な崩壊,ならびに残された社会主義国家の形式的かつ実際的な変身は,高島がその後も元気に生きて活躍していれば,これまた格好の研究対象たりえたはずである。

 しかしながら,「マルクスの思想と科学」について絶対的な信念を「正しく」抱いてきた高島が,社会主義体制の崩壊現象を目の当たりにしたとしたら,いったいどのような反応を示したか。このことは想像してみるだけでも興味深い。

 1989~1990年を境に社会科学者たちのうち多くが,「マルキストである思想と科学」の圏域から,あたかも人目を避けるかのようにして,密やかに辞去した。なかには,そのせいで学究であることさえ辞めた学者もいた。

 本ブログ筆者の専門である経営学の分野でも,あれよあれよという間にマルクス主義経営学(経営経済学)の立場を撤回し,雲隠れした,少なからぬ数の一群がいた。あるいは,その思想と立場を韜晦させながらも突如,研究課題と接近方法を変更したマル経経営学者たちも,多人数いた。

 それこそ,マルクスでなければ一日たりとて過ごせなかった経営学者の一群・集団が,あっという間に雲散霧消したのである。まさしく蜘蛛の子を散らしたごとき様相が,われわれの目前で現象したのである。思うに,摩訶不思議な学界の現象が起きていた。

 その「当時の現象」はあたかも,敗戦時までの国家全体主義:戦時強圧体制であった世の中が一変し,あっという間に,人民共和国風の「民主主義の平和・非戦思想」が充満していき,社会主義一辺倒の世界観が開けた世相が勢いをえたときに似ていた。

 基本的には,20世紀末における「マルクス主義思想と理論に発生した転向的な現象」は,敗戦直後に発生していた「国家全体主義の瓦解現象」に相似形の姿容--具体的なその中身は質的にはまったく逆方向であったが--をさらしていたとみてよい。「マルクス主義者たちの逃亡・隠遁・晦渋・転向など」が頻発したのである。

 われわれはいま2014〔2020⇒2023〕年の時点まで到達してきたが,前段の経営学研究者としてのマルキスト集団は,ごく少数の人士をのぞいていえば,すっかり「お隠れになった」状況を呈している。ましてや,自分はまだマル経的な経営研究をおこなっていると,おおやけにかつおだやかに宣言できる経営学者は,多分数名しかいない。まさに聞きしに勝る体たらくぶりが「これをみよ!」といわんばかりに展示された。

 さてここでまた補注的に付論する。小宮隆太郎「現代資本主義の展開-マルクス主義への懐疑と批判-」(『エコノミスト』第48巻第48号,昭和45〔1970〕年11月10日)は,こういう批判を披瀝していた。

小宮隆太郎,1928-2022年

 マルクス主義者たちは,ブルジョア経済学は非歴史的・超歴史的であり,ある時代の経済的諸関係が古今を通じ,未来永久につづくと錯覚していると批判するが,今日そのような批判はマルクス主義にもっともよくあてはまるのではなかろうか。

 つまり,マルクス主義者たちのなかには,19世紀末や1930年代の特殊な歴史的状況がほとんどそのまま現代にもあてはまると考えている人が少なくないようである。マルクス経済学者たちのアカデミックな研究も古い時期に集中しており,現代の経済を学問的に研究する人はきわめて少ない(33頁中・下段)。     

 ※-2「風土に関する八つのノート」1966年〔その3〕     -第2のノート:3つの風土理論と第4の試み(続き)-

 1) マルクス「疎外解放」理論

 話を本論のほうに引きもどしたい。高島善哉『現代日本の考察-民族・風土・階級-』竹内書店,1966年「9.風土に関する八つのノート」の議論は,「-第2のノート:3つの風土理論と第4の試み-」において,つぎのように論及していた。

 ナショナルなものの理論化の必要性がほとんど,まったくといいほど忘却されていた。それは,単にナショナルなものへの関心というよりは,階級主体に内包されているナショナルなものへの関心である。これを階級の理論のなかへ組みいれる努力が必要である。

 そのさい,プロレタリアートによるプロレタリアートの民族的自己疎外の解放,つまり民族解放の思想,つまり「マルクスの思想が,社会科学的に正しい展開をみなかったことが問題なのである」。「現代の風土理論はここにひとつの重要な問題をみるべきである」(244頁,245頁)。 

 社会主義体制の消滅を象徴する「ベルリンの壁崩壊」(1989年11月10日)以後,もはや34年もの時間・歴史が経過してきた。マルクス主義はその間,核心の主張でもあったはずの「変革理論に対する思想的な役割」を,ひとまず停止・終了させざるをえなくなっていた。

 世界史の進展は,そうした〈いまの時点での状態〉にまで至ったのであるから,前段のような「高島善哉流の民族解放思想」は「現実への適応力」をみいだすことができない。歴史の現実に不適合な,無理を来した議論に変転した。

 前段の記述でも批判的に検討をくわえたように,高島が一生をかけて推進させてきた「マルクスの思想〔の研究〕が,社会科学的に正しい展開〔の実現〕をみなかったこと〔それじたい〕が問題なので」はない。

 「問題」はむしろ,「社会主義体制の諸国家が」「マルクスの思想」どおりに,すなわち「社会科学的に正しい展開をみ」る意図など,当初より現実的にもちあわせていなかったという1点に集中する。

 その世界発展史的な事実の推展は,いまもなお社会主義としての国家体制を標榜しているはずの諸国家が,エンゲルスやマルクスが想像し,レーニンやスターリンが実現させてみたはずの社会主義=共産主義思想にもとづく国家像とは,まったく似ても似つかぬ姿容を現わしている顛末からも理解できる。

 マルクス主義思想の社会科学的実験に注目するならば,資本主義体制にある諸国家のなかに導入されてきた「社会〔主義的な〕諸政策の現実的効果」のほうが価値が高かったと,ひとまず評価されてよいのである。

 それゆえ「現代の風土理論」が「ひとつの重要な問題をみるべき」対象がなんであるべきなのかも,あらためて再考される余地がすでに生じていたはずである。というのも,風土の理論は「体制-階級-民族」という社会科学的な問題構成の枠組にとらわれない,地球環境論的な発想までも要求していたからである。

 現実の動きが理論どおりに展開しないことは,とくに社会科学研究に従事する人間にとっては常識でもある。理論が「正しいか,それとも,その逆か」は,現実の推移が判断する。現実を理論が変革することは可能であるが,理論どおりに現実を改革していけるかどうかは,理論そのものの役割であるとはいえない。

 だから政治経済学という用語「学問の名称」があった。それにもかかわらず,マルクスの思想と科学を盲信した日本のマルクス〔似非?〕主義研究者たちは,マルクスの主張が絵に描けたかのように実現すると信仰していたし,その信心に近い学問観⇔社会科学観を絶対視していた。

 結局,学問・科学の名のもとに「信仰する思想」を昂揚させたその瞬間から,もう思想・理論をまっとうに展開させることは,とうてい不可能になっていたわけである。

 2) 黒人問題における歴史・社会と自然・人種

 高島善哉は,階級と民族の結びつく論点をアメリカの黒人問題にみいだし,こう論じていた。

 「歴史的・社会的なもの」と「自然的・人種的なもの」との無慈悲な結合が,これほど階級的な露骨さをもって,大規模におこなわれた事例はいまだかつて存在しなかった。だから,いまや歴史と社会に対する自然と人種に根を下ろしているという意味で,たやすく片づけることのできない根の深い問題がある。それが風土の意味するものである(246-247頁)。

 アメリカの黒人問題も,高島『現代日本の考察-民族・風土・階級-』1966年が公刊されてから早半世紀近くも経っている関係でいえば,高島の分析視点には収容しきれないほど新しい研究成果が公表されてきている。ちなみに1960年代の時期,日本社会を一番騒がせていた自国内「外国人問題」といえば,もっぱら「在日韓国・朝鮮人」の問題であった。

 前段の記述を借りていえば,明治以来の日本社会において中国人・朝鮮人に対して,「歴史的・社会的なもの」と「自然的人種的なもの」との無慈悲な結合が,「階級即民族」にもとづいた露骨な差別をもってこれほど大規模におこなわれた事例は,かつて存在しなかったと論断されてもなんら不思議はない。

 マルクス主義的理解によった民族問題の基盤に控える「人種問題」に対する高島の観点は,経済・社会問題,いいかえれば「体制と階級と民族」に関する実際的な問題としては,日本国内における足下の問題よりも,アメリカの黒人差別問題のほうをより重要視していた。ここでもまた,高島の視点は西欧の問題に向けられていた。

 敗戦後の日本国内にあっては,アメリカ国内に類似する同質の問題ともいえるが,大日本帝国がかつて植民地にしていた隣国〔独立後の国家の名称でいえば,大韓民国ならびに朝鮮民主主義人民共和国,中華民国〕からの「移住者とその子孫」が大勢居住していた。

 もっとも高島は,これらの異民族としての社会集団が,日本国の「体制と階級と民族」の具体的な論点を提供していたという〈歴史的な関連事情〉に気づくことすらなかった。したがって,自身の理論構成のなかに,この「自国的な研究対象」たりうる「相手」は,当初から登場させえていなかった。

 3) 中ソ問題にも風土理論のヒントが

 高島善哉はこういっていた。マルクス=レーニン主義の旗のもとに戦いながら,人びとのあいだに解釈の違いが生まれるのは」「マルクス=レーニン主義に対する理解の深さによるものであって,その人びとがドイツ人であるか,ロシア人である,中国人であるかということはさしあたりなんの関係もない」(247頁)。

 とはいっても,思想や理論をただひとつのドグマとして扱っているのでは,思想や理論は「特定の血縁に生きる大衆である民族〔あるいは国民〕」をとらえることはできない。中ソ論争ははしなくも,この事実を私たちに教えていたのではないか。高島が風土と名づけるものがそれであって,ここから現代の風土理論は貴重なヒントをえることができる(248頁)。

 風土は,自然的・地理的なものと受けとられやすいけれども,そのような超歴史的なものではなく,もっと歴史的なものとの連関を考えねばならない。ここで風土と歴史的伝統とは同じではない。地理学者のなかでは歴史的景観(=風土の意)という観方もなされ,そして,文化人類学者のなかには風土を〈自然的な風土〉から完全に切りはなして〈歴史的な風土〉の類型に片づける者もいる。

 高島は,風土を人間の歴史における自然と社会の交わりとし,哲学的に理解する試みを著わした和辻哲郎『風土』(岩波書店,昭和10年)も踏まえて《第4の試み》と称する試みを提案する。それが『風土の社会科学的な理論》であった(248-249頁)。

 高島が単著(1966年)をもって,そのような論旨を鮮明に打ちだしてからもう半世紀近く(以上)が経過した。だが,このような和辻『風土』流の風土認識は時代遅れの感を否めない。社会科学論としての「風土の概念」を扱うとなれば,自然・人文・社会・経済に関した各地理学の研究動向のみならず,政治学・社会学・経済学・経営学との学際的な交流を重ねた学的作業を介してでなければならない。
 

 ※-3「風土に関する八つのノート」1966年〔その4〕       -第3のノート:自然と社会・歴史の結び目として-

 1) 風土理論の構想と和辻哲郎『風土』

 この「第3のノート」は,まず「18・19世紀の地理的唯物論の再検討」に始まり,つぎに「思想を欠くハンチントンの実証的捉え方」,さらに「歴史の圧力による風土理論の新展開」「風土は単に交互作用の場ではない」「なんのために風土理論が求められるのか」という諸項目が論及されている。

 高島善哉が強調するのは「風土概念における主体的要因と客体的要因を,ナショナルなものによって結びつけようとしたそのヴィジョン」である。ここに「いわゆる地理的唯物論の脱皮の過程を認知」し,「歴史の圧力は,風土理論の展開過程に拭うことのできない足跡を残した」ことである。「国民のエナジーをもうひとつ深めていけば,そこから国民の生産力という思想に達する」(253頁,254頁)。

 「ナショナルなものとは一方では自然的なもの(自然環境や人種など)を,そして他方では歴史的,社会的なもの(言語,経済,政治,芸術,宗教など)をその構造的契機とするところの人間集団の独自の存在様式だとい」える。「この人間集団の独自の存在様式を解明するために必要だと考えられるのが,とりもなおさず私のいわゆる風土理論なのである」(255頁)。

 このように風土理論を構想する高島は再度,和辻哲郎『風土』を挙げて考察していた。そして,この書物に含まれている「死せる者」と「生けるもの」をとふるい分けることから始めなければならない(255頁),と強調するのであった。

 2) 酒井直樹『日本思想という問題』1997年

 この酒井の著作(岩波書店刊)のⅢ「西洋への回帰 / 東洋への回帰-和辻哲郎の人間学と天皇制-」(79-142頁)を一読すると,高島善哉が和辻哲郎に共感した事由を理解するとともに,両者の関係性のなかに伏在する学問的な危険性にも気づくことになる。

 和辻『風土』が言及したように,ひとが帰属する全体性は,歴史的・政治的・社会学的因子によって限定されるだけでなく,気候的・地理的・民俗学的因子によっても限定される。和辻流の風土解釈においては人間存在の空間性の分析から地理・文化的意義だけをとりだす無理があった。

 しかも,そこでは人間の行為・人間の身体・主体的物質性に主眼が置かれていただけに,その解釈は風土的な意味での空間性に一気に飛躍する。そのため議論としては思いきった省略を不可避としていた(110頁)。

 和辻はそれでも,マルクスの基本的人間把握にもとづいて倫理学を構築しようとした。かつその一方では,自身の心理学の中心課題である「人間」に「主体的存在」という最初の規定を与え,それ以後の探究が進む道筋を実践哲学として特徴づけた。マルクスの「人間の社会的存在が人間の意識を規定する」という見解が,和辻倫理学においては「人間」の二重構造に結びつけられていた(89頁,98頁)。

 和辻「倫理学」風を基調としていた『風土』昭和10年に高島善哉が共感したのは,問題意識として基底でつながるような「風土の概念」をみいだしたためであった。和辻は「存在論」的な「哲学の思考」を風土にくわえて議論した。

 ところが和辻の考察は,社会科学の本質・方法に関する議論に疎遠な地点にあるせいで,感性的・常識的な言及しかできていない。ただし,高島のほうでは,和辻の「倫理学」〔『倫理學 上巻・中巻・下巻』岩波書店,昭和12年・昭和17年・昭和24年→『倫理学(改版)上巻・下巻』岩波書店, 昭和40年〕について格別の関心を示すところがなかった。

 戦争の時代,一橋の教員としての高島も苦労させられた「国民皆兵の思想」,換言すれば,高島が密かに真正面より抵抗したはずの「国民国家」を「死の共同体として規定」する「国民共同体と死の関係」は,和辻倫理学においてはなにも議論しえていなかった。つまり,その「思想=関係の洞察」を論点にとりあげえないのが,まさしく和辻倫理学の特性であった(酒井直樹『日本思想という問題-翻訳と主体-』岩波書店,1997年,120-121頁参照)。

 和辻は,民族や文化が歴史的に変様することについての洞察はあっても,国民・民族・文化などの考えかたそのものが歴史的に創造されたのではないかという点になると,彼の考察は無数の論理的飛躍を含むほかなかった。日本文化・日本語・日本人などという概念はせいぜい2世紀あまりの歴史をもつに過ぎないのに,これがあたかもいまから13世紀もの昔まで通用すると独断している(135-136頁参照)。

 和辻の論法は,天皇を国民全体性の表現者と認めると同時に,古代以来永続してきた国民共同体の存在を独断的に信ずることと等しい。この独断は,あらゆる経験的事実にもとづく異議申し立てを超越し,いわば中空に浮いた制度的規定を欠いた霊のごときものであった(136頁)。

 高島ほどの論者が,和辻「倫理学」における,哲学的にはむしろ弛緩した論理の構築,いいかえれば,和辻に特有の独断にもとづく〈解釈学〉的な処理によって扮装された〈形式的風土類型学の軽薄さ〉を批判することなしに,ただそのうちの風土「論」のみ注目していた。

 その問題点は「風土に関するノート」の議論とはいえ,考察の方位づけにおいて軽率であったというそしりを避けえない。

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