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平野貞夫が触れていた昭和天皇による憲法逸脱の言動

  ※-1 平野貞夫『昭和天皇の「極秘指令」』講談社,2004年

 a) この平野貞夫の本は,敗戦後は象徴天皇になっていたはずの昭和天皇裕仁が,日本国憲法に定めた規定に明確に抵触する脱線発言をしていた点,しかもそれが日本という国家体制のありようにいちじるしく影響を与えていた事実を指摘していた。

 その種の昭和天皇みずからが犯していた言動は,例の「天皇メッセージ」1947年9月にすでに発露されていたが,こちら( ↓ )の事実は,本日における記述とはあえて直接関連づけずに置いておく。ここではただ,日本国憲法が1946年(昭和21年)11月3日に公布されていた事実のみ確認する。

沖縄県をアメリカに献上した裕仁天皇

 b) ところで,本ブログ筆者は先日の2024年3月22日,ネット放送の番組『デモクラシータイムス』が「〈戦闘機輸出・公明 / 政倫審・裏金 / 陸自幹部集団で靖国参拝〉平野貞夫 × 前川喜平 × 佐高 信【3ジジ生放談】」という題名をかかげて放送していたなかで,平野貞夫が「24分24秒」あたりから,こういう発言をしていたことを聴き,あらためてビックリさせられた。

 とはいえ,本ブログ筆者は,平野貞夫が書いたその本『昭和天皇の「極秘指令」』2004年を,だいぶ以前であったが,購入して読んでいた。そこで,この本でなかで平野がすでに指摘していた「昭和天皇の〈憲法違反に相当する言動〉」は,どこに記述されていたか確認したところ,末尾(254頁以下)においてその論述がなされていた。

 上記の箇所以外にも関連する記述がないわけではないが,その末尾部分を読んだだけでも,昭和天皇の言動が記録していた「憲法から脱輪した行為」は,誰もが容易に理解しうるものであった。

 前段の【3ジジ生放談】のなかで,御年88歳になる平野貞夫は,こう語っていた。なお,高齢ゆえ滑舌がよろしくない箇所もあったので, “語りの流れ” としては,なるべく通常の文体で文字に起こしたつもりである。また,あえて意訳的な補正をくわえ,発言を分かりやすくする工夫もくわえた文章にしたつもりである。

3ジジの氏名は下部に記載あり

 以下につづく話は,1976年5月時点に関した内容である。 

 ロッキード事件が発生したさい,前尾繁三郎議長(第58代衆議院議長のこと)のもと,両院裁定をもってロッキード事件の問題を徹底的にとりあつかうことにし,ひとまず事態を収拾させた。 

 裏で,核不拡散条約をどうしてもこの国会会期中に承認してほしいという昭和天皇からの話が,前尾議長あてに伝達されていた。そのために,首相の三木武夫が解散したがっていたところを,前尾さんが昭和天皇のいうことを聞かねばならないと釘を刺した。

 昭和天皇の立場としては,外国の元首に会うと日本の核不拡散条約をめぐる態度で,しばしばなにかと問われる機会が多く,困っていたらしい。 

『デモクラシータイムス』平野貞夫発言

 以上,より正確に聴きたいという人は,前記の【ジジ放談】の該当する時間帯を,ぜひともじっくり視聴してほしいところと希望する。当該の放送時間は2分24秒付近からであった。

 また,ここまでの話題についてはまえもって,筆者が所有する平野貞夫の『昭和天皇の「極秘指令」』講談社,2004年の〈見返し〉なかに保存されていた,つぎの「朝日新聞のスクラップ」を,画像資料にして紹介しておきたい。

『朝日新聞』2020年8月5日朝刊
最後の段落末尾に注目

 c) 敗戦後は,昭和天皇の立場にとって禁忌であったはずの「戦争中の軍人意識」「大元帥風の言動」が,ときたま頭をもたげることがあった。たとえば「内奏問題で増原防衛長官が辞任」という出来事は,その一番分かりやすい実例であった。

 それは「増原内奏問題」と名づけられたが,1973年5月,当時の防衛庁長官であった増原惠吉が,昭和天皇との会話内容を公開したことで起きた政治問題であった。

 増原防衛庁長官は,天皇への非公式な国政報告である「内奏」について口外したことの責任を取って辞任せざるをえなくなった。しかし,一方の天皇自身は,この問題についてはとくに,なにも問われることがなかった。

 増原長官は「当面の防衛問題」について天皇に内奏したさい,天皇から「国の守りは大事なので,旧軍の悪いことは真似せず,よいところを取り入れてしっかりやってほしい」と “激励” されたと記者会見で披露。その翌日,政治問題化を懸念した田中角栄首相が事実上,更迭した。

 つまり,増原惠吉は憲法に規定されている天皇の地位に関してだが,けっして,口外したりして日本社会のなかにしらしめてはいけない事実を,ついウッカリしての言動であったじせよ,実は自身が舞い上がってしまったために,それを世間にバラすことになる発言をしてしまった。

 d) 昭和天皇の「はりぼて」発言

 つぎに引用するのは,「〈論点〉『拝謁記』から象徴天皇制考える」『毎日新聞』2019年8月28日朝刊,https://mainichi.jp/articles/20190828/ddm/004/070/032000c からとなる。

 敗戦後にGHQが日本に与えてくれた憲法が,昭和天皇自身の脳細胞のなかに定着するまでには,相当の年月を要した事実に関した解説記事となる。

 --初代宮内庁長官が終戦後,昭和天皇とのやり取りを詳細に記したいわゆる「拝謁記」には,新憲法で天皇の政治関与が制限されるなか,新たな「象徴天皇」像を模索していた様子が生々しく記録されていた。政治とのあるべきかかわり方を探る道は昭和から平成,令和へとどのように続いてきたのだろうか。

 ▲-1「政治的発言,影響研究を」吉田 裕・一橋大特任教授

 「象徴天皇」という概念は非常にあいまいだ。そこに権威主義的なものを付与しようとする動きと,より限定的,形式的・儀礼的に解釈しようという動き,この二つの力のせめぎあいが日本国憲法の最初からあった。

 今回確認された「拝謁記」をみるまでは,私は昭和天皇がもう少し象徴天皇としての地位を受け入れようとしていたと思っていた。しかし天皇は明治憲法下での意識,君主としての自意識が変わっていなかった。憲法がめざす象徴天皇に適応できていない。

 たとえば,憲法を変えるべきだという意見を吉田 茂首相に伝えようとした。それは明らかに政治的な行為だ。天皇が政治的権能を有しないとする日本国憲法とは矛盾する。

 「拝謁記」からは象徴の枠から逸脱しようとする天皇を初代宮内庁長官,田島道治がいさめていたことがわかる。彼の強い責任感が伝わってくる。

 田島はもともと昭和天皇の退位論者だから,改革をやるつもりで乗りこんだのだろう。君主としての意識が抜けきれない昭和天皇が象徴天皇になっていくうえで,田島の果たした役割は大きい。

 その責任感は田島個人だけのものではない可能性がある。田島は外相や首相を歴任した芦田 均との関係が深い。芦田は侍従など古いタイプの側近を事実上更迭して,民間人である田島のような新しいタイプを送りこんだ。

 芦田はまた,明治憲法下でおこなわれていた,担当閣僚らが天皇に政務を報告する「内奏」にも消極的だった。象徴天皇制をゼロから作っていくうえで,芦田と田島が問題意識を共有していたようにもみえる。

 補注)前段で話題にした「内奏問題で増原防衛長官が辞任」という出来事では,増原惠吉だけが問題となり,昭和天皇自身は別格あつかいで,問題にすらならなかったというありようは,深く考えるまでもなく,「天皇という禁忌(この人への非難・批判は厳禁)」の介在を教えている。

 改憲だけでなく,戦争をめぐる反省を表明することにこだわる天皇を吉田の意をくんだ田島がとどめて,結局見送られた。

 反省を明らかにできなかったことは,昭和天皇個人にとっては不幸なことだった。亡くなるまで,あるいは亡くなってからも戦争責任の問題がくすぶりつづけたからだ。その清算を明仁天皇(現上皇)が担うことにもなった。

 補注)昭和天皇は「自分の戦責問題」を能動的に意識することが,いっさいできない人物であった。その問題については消極的な姿勢しかもてず,ただ逃げまわってきたというほかない人生を過ごしてきた。したがって,この種になる「彼が残した行為の記録」は,マッカーサーのせいにするわけにはいくまい。

〔記事に戻る→〕 一方で田島が退任したのち,天皇が政治にかかわる君主としての意識をぬぐい去っていたとは考えにくい。たとえば1973年5月,防衛庁長官が,昭和天皇が「防衛の問題は難しいが,国を守ることは大切」などと話したことを明らかにした。

 長官は「天皇の政治利用」と批判され辞任に追いこまれたが,昭和天皇はこの一件について「もうはりぼてにでもならなければ」と話していたことが,入江相政侍従長の日記で明らかになっている。

 このように田島のあとも,昭和天皇は政治的発言をしていた。ほかにどんな発言があったのか,またそれが政治にどう影響したのか,しなかったのかなどについては,今後の研究が待たれる。

 権威主義的ではない,田島たちが志向した象徴天皇は平成の時代に固まっていった。上皇は天災の被災者を見舞うために被災地に出向き,また国内外での戦没者慰霊を続けてきたが,そうした行動が国民の天皇に対する親しみの感情を広げてきたのだろう。

 補注)最近,2024年1月1日に発生した能登半島地震の被災地は,聞くところによると,輪島市で大火災を起こした地域の後始末が,3月下旬になってもいまだにろくに着手されておらず,住民たちが生活上最低限必要とするインフラ,とくに上下水道の復旧が全然進捗していないために,たいそう不便な生活を強いられている,と報告されている。

 そのなかで,令和の天皇夫婦が平成天皇の範にしたがった行為のつもりだったのか,先日〔3月23日〕「両陛下 能登半島地震被災地の輪島市と珠洲市のお見舞い終え帰京」という報道がなされていた(『TBS NEWS DIG』https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1070692 参照)。

 被災地の現状に照らして思うに,当地における被災状況からの復旧するための作業がまったく不調であるなか,彼ら夫婦が現地を訪問して慰問したところで,それこそ「現実に見舞いになった」のかどうかさえ疑問を残した。

 岸田文雄政権もそうであるが,とくに石川県の知事馳 浩は「日本の政治家,教育者,プロレスラー,アマチュアレスリング選手」だと紹介される人物だという割には,〈異次元の鈍感力〉しか記録できていない,それこそ「できそこない」だと人事考課を記録しておいたほうがよい政治屋であった。

 ともかく,あの森 喜朗に引き立てられて県知事にもなれた小物であって,「非常時向きの県政指導」を的確に展開する能力を,当初から備えていなかった点が,いまとなっては明らかになっている。

〔記事に戻る→〕 その国民の間には,今日の天皇に対しては政治にかかわらない,中立しているというイメージがある。ただ2016年,上皇は国民へのメッセージで,事実上皇室典範を変えることを求めた。政治性を相当帯びた行為だった。

 さらに皇位が継承された平成への代替わりでは,さまざまな儀式で戦前の形式が踏襲された。今回の代替わりでも,政教分離の原則を定めた日本国憲法下で明治憲法体制の慣習が残っていることを確認することになるだろう。

 平成の時代に固まった象徴天皇制が,今後も続くとは限らない。権威主義的な天皇を求める動きは根強いし,天皇個人の意思にかかわらず,天皇を政治利用しようとする動きは常にある。我々はそういう意識のもとで,天皇制のあり方に注視していく必要がある。【聞き手・栗原俊雄】

 ▲-2「『反省』削除,政権の意思」保阪正康・ノンフィクション作家

 昭和天皇が戦争への反省を含む「お言葉」を,当時の吉田 茂首相に反対されて断念した。

 世間的には大ニュースかもしれないが,実は以前からしられていた話だ。そのうえで,なぜ昭和天皇がこうした発言をしたかったのかを読み解くと,象徴天皇と政治との関係など,あらためて論じるべき点がみえてくる。

 今回,NHKが「発見」した「拝謁記」を記した初代宮内庁長官,田島道治については,仏文学者の加藤恭子氏がすでに詳細な研究をしている。加藤氏は,田島が昭和天皇の意を受けて書き,吉田に拒否された戦争への反省を盛り込んだ「お言葉」も公表している。「拝謁記」が初めて表に出た意義は大きいが,内容すべてを新発見として扱うのは誤りだ。

 補注)なお,加藤恭子のその本は,アマゾン通販で紹介する。


 この「反省」を含め「拝謁記」にも記された昭和天皇の発言をどう評価すべきか。一つ一つを切り取って「帝国主義者」〔あるいは〕「平和主義者」などと評しても意味はない。戦後の歩み総体のなかで理解せねばならない。

 昭和天皇は,初めて近代的な帝王学を学んだ天皇である。その要諦は,大日本帝国憲法下の天皇は,立憲君主として,主権者であり,とくに軍の統帥権をもつ大元帥であるというものだ。

 昭和天皇はこの原則にもとづき,たとえば1944年に初の特攻作戦の戦果を報告されたさい,「そのようにまでせねばならなかったか,しかしよくやった」と述べた。いわば,前半が〔立憲君主としての〕主権者,後半が大元帥の発言といえる。

 戦後,新憲法で天皇は国民統合の象徴となった。もちろん昭和天皇本人もそれを分かっていたが,染みついた立憲君主としての姿勢は一朝一夕に変わらない。つまり,戦前の大元帥の立場のまま責任を感じていたからこそ,「お言葉」に「反省」を入れたがったといえよう。

 「拝謁記」にあるとおり,昭和天皇は,その後も踏みこんだ政治的発言をしている。これらも「反省」同様,象徴天皇とはなにかを模索しつつも,立憲君主の思考から離れられていなかったからと思われる。象徴天皇の立場を明確に体得した発言を表だってするのは,晩年である。

 昭和天皇の戦争責任についての発言といえば,1975年の記者会見での「そういう言葉のアヤについては,私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので,よくわかりませんから,そういう問題についてはお答えができかねます」が有名だ。

 みずからの戦争責任に無自覚だったなどと批判されがちだが,象徴天皇として,あの戦争についてどう語るべきか定まっていなかったからこその言葉と理解すべきだろう。

 補注)この保阪正康の昭和天皇「解釈論」は甘い。確かに,1975年時点においての昭和天皇は「象徴天皇として,あの戦争についてどう語るべきか定まっていなかった」といってもよい。というのは,その彼の認識水準は確かに事実そのものであったからである。

 しかし問題は,敗戦後30年経った時点になっていても,まだ,なお,戦争の時代に自分が大元帥の立場,つまり,旧日帝の陸海軍を統べる国家最高指導者の地位に君臨していた,という事実に対する認識が不全であったところに淀んでいた。

 補注)マッカーサーの回想録によれば,1945年9月27日,昭和天皇から出向いたかたちでアメリカ大使館にマッカーサーに合った昭和天皇はこう描かれていたが,専門家の解釈にしたがえば,これはマックの「作り話」だったという裁定になるのが必定。とてもカッコマンであったマックのいいぶんはそのまま鵜呑みにしたら,歴史の改竄に加担することになる。

 補注)現在求めやすいのは,津島一夫訳『マッカーサー回顧録』中公文庫(版),2014年である。

 天皇の話はこうだった。

 「私は,戦争を遂行するにあたって日本国民が政治,軍事両面でおこなったすべての決定と行動に対して,責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に,私自身を委ねるためにここに来ました」

 「大きな感動が私をゆさぶった。死をともなう責任,それも私のしるかぎり,明らかに天皇に帰すべきでない責任を,進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は,すぐ前にいる天皇が,1人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」

皇室ヨイショのために存在する一部の識者が常用する「皇室・天皇,万歳・弥栄」以上にものすごい褒め殺し的とも感じられるほどの,いいかえると,いろを失わせるほどに裕仁をもちあげた文句を,マックはキザっぽく吐いていた。

〔記事に戻る→〕 これが在位60年の記者会見では,「この60年の間に,一番つらいことはなんといっても第2次大戦の関係のことであります」と,涙をみせた。国民の思いをまさしく象徴する存在として,人間天皇の姿をみせた。

 また,田島の残した記録にのみ,昭和天皇の「反省」が出ている点も注目すべきだ。それまでの天皇側近,宮内府(現宮内庁)長官らは,宮内官僚出身者が占めてきた。長く天皇のそばにいた彼らは,発言がどんな影響を及ぼすかを熟知しており,戦前から,天皇の発言をたしなめたり,記録しなかったりしてきた。

 ところが,田島は元々銀行家で,天皇と接する機会がなかった。だからこそ,昭和天皇が戦争を深く反省していると驚き,本人の意思を尊重して「お言葉」の原稿まで書いた。このナイーブさが「拝謁記」にも表われている。他方,田島と対照的に,天皇退位につながりかねない発言を抑えたい吉田は,みずからの意思を昭和天皇の意思に優先させた。

 この点は,現在の天皇と宮内庁や政権との関係を考えるさいの参考にもなる。私〔保阪正康〕は,いまの上皇陛下が,憲法の平和主義や国民主権にのっとった発言や慰霊の旅で,象徴天皇の役割を果たされたことを強く肯定している。

 だが,もし今後,政権が象徴天皇の言行を妨げたり,逆に,好戦的な,象徴天皇にふさわしくない人物が即位したりしたらどうなるか。70年近く前の記録が残した課題は,いまも解決していないのである。【聞き手・鈴木英生】

 ▲-3 『拝謁記』とは

 初代宮内庁長官の田島道治(1885~1968年)が1949年から5年近い昭和天皇との対話を記録した書類。NHKが遺族から提供された。

 再軍備支持,反米軍基地運動への批判的見解など政治的発言を多く含む。1952年の独立回復式典で,戦争への「反省」に言及しようとしたことも分かる。田島は「お言葉」の原稿に「反省」の語は避けつつ悔恨を示す文言を入れたが,吉田 茂首相の反対で削った。

 ■人物略歴■
 「よしだ・ゆたか」 1954年生まれ,一橋大大学院社会学研究科博士課程単位取得退学,同大教授などを経て現職。専門は日本近代軍事史,日本近現代政治史。東京大空襲・戦災資料センターの館長も務める。著書に『日本軍兵士』など。

 ■人物略歴
 「ほさか・まさやす」 1939年生まれ,同志社大卒,日本近代史を題材に約4000人から聞きとりを続け,個人誌「昭和史講座」などで2004年に菊池 寛賞。著書に『昭和天皇』『明仁天皇と裕仁天皇』『昭和天皇実録 その表と裏』など多数。

人物紹介

 以上,吉田 裕と保阪正康の「昭和天皇・観」は,この2人のあいだにある「社会科学的な立場」をめぐる質的な相違はあれ,基本的には裕仁に対するきびしい言及になっていた。

 昭和天皇も結局はただの1人の人間であった。ただし,自分の立場・利害にさとかった点で関していうと,抜きん出ていた知覚がなかったわけではなく,その点がまた,彼の言動においては問題含みとなる諸点を「歴史の事実」として残してきた。

 前段に出ていたマッカーサーの昭和天皇「観」は,のちにアメリカ大統領選に出馬しようとする意欲を秘めていた立場から,そして,当面する自分の課題となっていた「日本占領・統治をうまく仕上げて」いかねばならなかったGHQの最高司令官のその立場から,裕仁の言動など自分流に好き勝手に修飾していたことは,推理をそれほど働かすことなく感得できる。

 その修飾ぶり⇒盛り具合に関していえば,まさか昭和天皇側からのちに訂正を申しこまれる余地などありうるはずもなく,「当時における彼ら2人を囲んでいた国際政治的な力関係」を考慮すれば,そのように理解しておくほうが,よほど歴史の現実に即した理解になる。


 ※-2 平野貞夫(ひらの・さだお,1935年12月1日生まれ-)は,日本の政治家。参議院議員(2期),参議院財政金融委員長などを務めた

 以下の記述はひとまず,ウィキペディアに依拠してみた。平野貞夫の「経歴紹介」を読めばすぐに気づく点は,この経歴があってこそ平野は,『昭和天皇の「極秘指令」』も描けたと想像したり推測することが可能である。

 a) 高知県土佐清水市出身,父は医師。1958年,法政大学法学部法律学科卒業,1960年,法政大学大学院社会科学研究科政治学専攻修士課程修了。衆議院事務局に入局し,園田 直のもとで副議長秘書,前尾繁三郎のもとで議長秘書を務めたのち,委員部総務課長,委員部長を経て退職。

 1992年7月26日投開票の第16回参議院議員通常選挙に高知県選挙区から無所属(自由民主党,公明党推薦,民社党支援)で立候補し,初当選。国会議員選挙ではそれまでに例のない与党自民党と野党公明党(当時)・民社党(当時)支援の相乗り候補として注目され,小沢一郎と市川雄一によるいわゆる「一・一ライン」の存在が広くしられる契機となる。

 その後,自民党に入党し,改革フォーラム21の旗揚げに参加。1993年6月22日,小沢一郎に同調するかたちで自民党を離党し,翌日新生党結成に参加。以後も一貫して小沢と行動をともにし,国会職員出身で国会の実務や運営に通じていることから小沢に重用され,「小沢の知恵袋」と称される。

 1994年12月の新進党結党を経て1998年1月,自由党結成に参加。同年7月の第18回参議院議員通常選挙では比例区から自由党公認で立候補し2期目当選。2000年1月より東日本国際大学講師,2003年9月より東日本国際大学客員教授を務めた。

 2003年9月26日の自由党解散(民由合併)に伴い民主党に合流。2004年7月の第20回参議院議員通常選挙には出馬せず,国会議員生活から勇退し,公職政治家から退いた。

 2010年6月には政治団体「日本一新の会」(代表・平野貞夫,顧問・戸田邦司)を結成。2014年,第47回衆議院議員総選挙に生活の党公認で比例東北ブロックに立候補するも落選。その後は旧国民民主党高知県連顧問を務めた。

 b)「現在の活動」はつぎのとおりである。

 有限会社土佐南学会代表取締役。
 国会議員勇退直後から言論活動を始める。
 著書出版,雑誌寄稿,テレビ番組出演,講演などをおこなっている。
 YouTube 番組であるデモクラシータイムスの「3ジジ放談」に佐高信らとともに出演している。

 自他ともに認めるメモ魔で,衆議院事務局時代,参議院議員時代に書き残した膨大なメモをもとに,引退後は評論活動を展開,多数の著書を刊行している。

 引退後,著書,テレビ出演などを通じて,公明党・創価学会批判を展開。著書によれば,平野は創価学会の政界進出時から,小沢が自民党幹事長時代に主導した自公民路線にいたるまで,指南役を務めた経験から公明党立党の精神に立ち返らせるためだとしている。

 これらの批判に対して,2005年春,当時公明党代表神崎武法は議員会館で平野に会ったさい,「最近うちを強く批判しているようだが・・・」と頭から足まで睥睨しながら述べたとされる。その後,神崎は平野を名誉毀損で民事提訴している。

 2010年1月18日,フォーラム神保町と現代深層研究会主催の緊急シンポジウム「『新撰組』化する警察&検察&官僚がニッポンを滅ぼす!」に,青木 理,魚住 昭,大谷昭宏,岡田基志,木村三浩,郷原信郎,佐藤 優,鈴木宗男,田原総一朗,宮崎 学らとともに参加した。

 1955年以降,東大卒の国会議員が1人も逮捕されていないことをあげ,検察は東大卒の国会議員を逮捕しない恣意性があると批判している。ただし,1998年2月に東京地検特捜部は東大卒の衆議院議員であった新井将敬を証券取引法違反容疑で国会に対して逮捕許諾請求をしたことがある。

 註記) 1998年2月19日に衆議院議院運営委員会で全会一致で新井将敬に対する逮捕許諾決議が可決され,衆議院本会議で逮捕許諾決議される直前に新井将敬が死亡したため,逮捕はされなかった。

 古田武彦の支持者であり,友人である。選択的夫婦別姓制度導入に賛成。(以上ウィキペディア参照)

 なお,平野貞夫が公刊した著作は,共著も入れて34冊もある。

 c) 最後に触れるが平野貞夫は,安倍晋三という『問題だらけだった「世襲3代目の政治屋」』をめぐっては,つぎのようにその政治的な犯罪性を問うてきた。

 「安倍晋三総理を内乱予備罪で告発するも『具体的な犯罪事実が判然としないことから返戻します』」と最高検から返される!~11.16安倍「壊憲」阻止!市民との対話集会 2018.11.16」『IWJ』2019年1月8日,https://iwj.co.jp/wj/open/archives/435812

安倍晋三「個人および政権」の犯罪性

 安倍晋三が首相であったがためにこの国が大々的に破壊されてきた事実は,まともな経済学者であれば「全員が一致して認める」ところであった。

 前段の『IWJ』の記事は,その発行の時点を2019年1月と記していたが,このときはまだ安倍晋三の第2次政権の時期にあったゆえ,検察もこの出来そこないの「世襲3代目の政治屋」に対しては,それなりに「忖度の精神」をこの官庁の立場からおおいに発揮していたことになる。

 検察庁は必ずしも「正義の味方」ではない事実は,対・安倍晋三の捜査姿勢から読みとれる。一般庶民の目線には,強い者同士があたかも「つるむ姿」に映る点に即していえば,安倍晋三も検察も同類。

 安倍晋三の為政はともかく,この国の政治経済を「衰退途上国」にまでズリ落とすいった大失政を〈実現させた〉。しかも,アベノミクスだとかアベノポリティックスだとか,不遜にも自称した政治経済政策をたずさえて,この国を大破壊してきた。

 その安倍晋三がもたらした「現状のごときこの国の惨状」は,内乱にも相当した重大な経緯の累積から生じさせたそれであったゆえ,彼がまさにこの国家じたいをそもそも溶融させる張本人であった。そのように形容するほかない,下手クソ千万のアホノミクスであった。

 最近,いくらか日本に向けて秋波を送ってきた北朝鮮に関していえば,あの国のなかでは窃盗をしただけで死刑に処されるというほど,まことに恐ろしい国家の体制が仕組まれている。

 また最近の日本はどうか? コンビニ強盗を犯してだが,できれば刑務所送りになって余生を暮らしたいと希望するほど,悲惨な生活を余儀なくされている人びとが大勢いる。

 北朝鮮と日本とをじかに対応させての比較は,大胆が過ぎるが,経済大国であった記憶が,そろそろ賞味期限になったどころか,いまではすっかり「衰退途上国」化したこの国であるために,現状における人びとの生活環境は,夢も希望もなにももてなくなっている。

 なかんずく「日出ずる国」がいまでは,ただの「零落した国」になった。

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 以下は,本日の標題に即して関連する文献をアマゾン通販を借りて紹介する何冊か。


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